Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (116)
子供用聖典の準備
周囲の評判はともかく、赤ちゃん向けの白黒絵本のページだけはできあがった。それに満足しながら、秋の気配が強まってきた大通りをルッツと二人で手を繋いで帰宅する。
「
膠
作りは冬支度の後になるから、先に子供向けの聖典作りに戻りたいと思うんだけど」
「また木版画にするのか? 紙の方が簡単そうじゃねぇ? マインでもできるんだし」
読書の秋のうちに本を作りたいと思いながら、わたしがルッツにそう言うと、ルッツは軽く首を傾げた。
ルッツの言う通り、厚紙を切って原版を作るのはそれほど難しくはなかった。わたしにもできるのだから、それほど力は必要ないのである。
「うん。本文に関しても、カッターで切り取って文字を書くようにすれば、鏡文字にする必要はないもんね。文字の数が少ない絵本だったら、これでも大丈夫だと思うよ。……カッターをもう少し注文しなきゃいけないけどね」
特注になるので、デザインカッターは少々お値段が高くなってしまうのだが、木版画をしようと思っても彫刻刀のような道具を揃えなければならない点では同じだ。
「初期投資にお金がかかるのは当然だから、仕方ないよね」
「……マインが前に言っていた通りだな。新しいことをしようと思ったら、金がかかるって。そのために貯めておいた金なんだから、いいんじゃねぇ?」
いずれは基本文字の活字を作って活版印刷に移りたいと思っているが、印刷に使おうと思ったら、かなりたくさんの活字がいる。活字を作るためには細かい細工が必要になるし、金属で活字を作ろうと思ったら、今以上にお金がかかるので、もう少し後のことになるだろう。
「ハァ……。グーテンベルクさんにはまだまだ届かないなぁ」
「誰だよ、それ?」
「わたしにとって神にも等しい所業を成し遂げた偉人だよ。わたしの目標。……今はできるところから改良していくしかないけどね。ルッツは何か改良して欲しいところある?」
「印刷する時に紙を押さえておくような道具って何かないか? ちょっと気を抜いたら、紙がすぐにずれるし、指はインクで汚れるし、インクはなかなか落ちねぇし、結構困る」
ルッツは貴族を相手にする商人の見習いだ。身嗜みに気を付けていなければならないのに、職人と同じように手を汚しているのは非常にまずい。
灰色神官に任せてしまうという手段もあるが、ルッツ自身が「マインが考えた物はオレが作る」ということにこだわっている。そうなると、なるべく汚さない方法を考えるしかない。
「うーん、『ガリ版』印刷の枠だけでも先に作れば、かなりマシになると思う」
「ガリバン? 何だ、それ?」
「えーと、版に穴を開けて、インクを塗って印刷するのを『孔版』印刷って言うんだけど、『ガリ版』印刷はその一種ね。『ガリ版』印刷では木枠や網で紙を押さえるから、それがあると手は汚れにくくなると思う。えーと、こんな感じ」
わたしは書字板を取り出して、その場に立ち止まると図を描き始める。ぎょっとしたルッツに「ちょ、マイン! せめて、端に寄れ」と引っ張られて、通りの端に移動した。
鉄筆を動かしながら、わたしはルッツに説明する。
「紙が置ける大きさの木の台にこんな感じで開け閉めできる木の枠が付いてるの。木枠と台は蝶番で留められてて、木枠には網の枠がはまってるんだよ。印刷の時は、この台に紙を置いて、版紙を置いて、枠を下ろして固定した後、網の上からインクを付けるの」
「へぇ。木と網でできるなら、何とかなるか?」
原紙とやすりを除けば、それほど複雑な作りではないので、一番簡単な物ならば多分ルッツにも作れると思う。自作に自信がないのは網のついた枠くらいだ。
「ルッツ、簀を作る時にお願いした細工師さんって、今、仕事を注文しても大丈夫かな? 植物紙工房の大きい簀作りは終わった?」
「……それは旦那様かマルクさんに聞かないとわからねぇな」
「寄って聞いてみる?」
ちょうど見えてきたギルベルタ商会を指差し、わたしとルッツは中に入っていった。
仕事がほとんど終わりかけのようで、一部では片付けも始まっている。流れるような動きではあるが、慌ただしさを感じる店内でマルクを発見した。
「マルクさん」
「あぁ、マインとルッツではないですか。御用でしたら、奥の部屋で伺います」
店の方で話をするのは邪魔だと言うことで、マルクに奥の部屋へと通される。奥の部屋ではベンノが帳簿か何かを確認していた。
「ベンノさん、明日マルクさんをお借りしていいですか? 簀桁を作ってくれた細工師さんに注文したい物があるので、工房へ一緒に行って欲しいんです。植物紙工房の依頼って終わってますか?」
簀桁作りでお世話になった細工師は、ベンノの紙漉きの工房ができたことで、大きな簀桁も作ることになったと聞いている。さて、今は手が空いているだろうか。
「注文した分は一応全て納品されたはずだ。今度は何を作るんだ?」
「網を張った枠です」
わたしの答えにベンノが不可解そうに首を捻った。
「は? 網だと? 一体何に使うんだ?」
「インクを使う時に、ルッツの手を汚さないために使うんです」
「全くわからんな」
そう言いながらベンノは説明を求めてルッツに視線を向けた。ルッツは先程説明したにも関わらず、わからないと言うようにゆっくりと首を振った。
「まぁ、いい。マルクには伝えておく。時間はどうだ?」
「……わたし、フェシュピールの練習に来るように、とロジーナに言われてるから、午前中は神殿に行きたいんですけど、午後からで大丈夫ですか?」
「午後の方がこちらの都合は良い。では、明日」
次の日の午後、昼食を終えたわたしとルッツはギルベルタ商会に行き、マルクも一緒に職人通りの細工師の工房へと向かった。
「こんにちは」
「……またお前らか」
眉間にくっきりと皺を刻みこんだ、ものすごく嫌そうな顔の細工師に出迎えられた。客相手にその顔はないだろう、と思ってしまうくらいの嫌そうな顔だ。
「まさか、また
簀
か? やっと終わったのに、納期が厳しい仕事は勘弁してくれ」
よほど工房向けの大きめの
簀
を作るのが大変だったようだ。げんなりとした表情の細工師と穏やかな笑顔のマルクを見比べながら、わたしは手を左右に振る。
「あの、違います。今回お願いしたいのは木枠です」
「木枠? それは木工工房に頼め」
散れ、と言わんばかりに手を動かしながら、細工師が視線を扉に向ける。
「いえ、ただの枠じゃなくて、こういう感じで木枠に
紗
……えーと、絹糸を網状に張ってほしいんですけど、できますか? 目はそれほど細かくなくても良いんです。紙がずれたりよれたりしないように押さえるために必要なので」
わたしは石板を取り出して、作ってほしい網の枠の図を描く。細工師はきつく目を細めて、しばらく図を睨んでいたが、仕方なさそうな息を吐いた。
「……できなくはない。面倒だが」
「お願いしちゃっていいですか?」
「手間はかかるが、金払いは良いからな。
簀
以外の仕事なら、いいだろう」
「よろしくお願いします」
網を張った枠を作ってもらうことにした。できあがったら、ギルベルタ商会に届けてもらう契約で、マルクがサインする。
「マルクさん、あと、もう一箇所。鍛冶工房に寄っていいですか? この間のカッターを追加注文したいんです。あと、ローラーについて相談したいです」
厚紙で版を作るつもりなら、デザインカッターは複数必要になる。文字を切り抜くわたしとルッツの分、それから、ヴィルマの分は準備しておきたい。
それから、均一にインクを塗るなら、やはりローラーが欲しい。しかし、わたしが知っているのは、ゴムローラーとスポンジローラーだ。代用できそうな物があるだろうか。なければ布を巻いておけばいいと思うけれど、使い心地はどうだろう。
「マイン、あの小さな刃物は一体何に使うものですか?」
「紙を切るのに使うんです。細かい切れ目を入れるにはナイフでは大きすぎるものですから」
「なるほど」
鍛冶工房に注文に行って、デザインカッターを2つ追加注文する。ヨハンがいい笑顔で引き受けてくれた。自分の技術を余すところなく使える注文で非常に楽しいらしい。
「それから、ローラーが欲しいんだけど……」
「どういうものだ?」
わたしは図を描いて見せて、用途の説明をする。ゴムやスポンジについては説明しても首を傾げられるだけだ。
「筒状の物で、転がすことによってインクを付けるのか。また変わった物を注文してきたな」
「こういう取っ手が付いてて、転がしてもガタガタしない筒状の物が欲しいの。表面に布を巻き付けたら、インクはつくと思うから、素材に関しては任せます」
ちょっと弾力があって、インクが付着する素材があればいいけれど、なければないで何とかなるはずだ。
「……わかった。それだけなら、別に難しくない。できたら、またギルベルタ商会に持っていけばいいんだな? 任せておいてくれ」
鍛冶工房を出たところで、マルクと分かれてわたしとルッツは家に帰る。
「残る問題は絵だよねぇ。厚紙を切って、版を作って刷ったら、影絵のような感じになると思うの。デザインカッターのお陰で少しは細い線も残せるけど、ヴィルマに絵の描き方を工夫してもらうしかないかな」
「何か手本になるものがあれば、かなりやりやすいとは思うぜ? オレ、マインの説明だけ聞いてもよくわからねぇからさ」
わたしは、なるほど、と頷いた。確かに見たことがない物をいくら説明されてもすぐには理解できないだろう。
「ん~、だったら、参考になるかどうかはわからないけど、わたしが作ってみようか?」
「え? マインが? 大丈夫か?」
顔を引きつらせたルッツが不安そうにわたしを見る。デフォルメした絵を一度描いただけなのに、一体どれだけわたしの絵に関する評価は低いのだろうか。これでも、美術の成績はだいたい4だったのに。
「ヴィルマの絵を元に描くから大丈夫だよ。失礼な」
最後まで心配そうにわたしを見ていたルッツと井戸の広場で分かれて家に帰ったわたしは、早速ヴィルマの木版画を参考にして、女神の輪郭を描き、影絵のように煤鉛筆で黒白に分けてみた。シンプルだけど、木版画よりは見やすい気がする。
「結構いいんじゃない?」
ただ、これはやはり日本人としての感性が残るわたしの目で見ての感想なので、ここで受け入れられるかどうかはわからない。繊細で写実的な絵を称賛するここでは、影絵っぽいものはシンプルすぎて拒否される可能性もある。
次の朝、わたしはヴィルマに見せられるように、微妙だった版画と自分が描いた影絵をバッグに入れた。ヴィルマに渡せるようにデザインカッターと煤鉛筆も準備してある。
「おはよう、ルッツ。絵はこんな感じにすれば、どう?」
迎えに来たルッツに、昨日描いた影絵のような女神様を見せてみた。不安そうだったルッツは軽く目を見開いて、まじまじと絵を見た後、ホッとしたように息を吐いた。
「これなら、まぁ、いいんじゃねぇ? 木版画よりは見やすいと思う」
「よかった。これで何とかならないか、ヴィルマに相談してみる」
午後からわたしは微妙だった木版画と自分が描いた影絵、それから、デザインカッターと厚紙を持って孤児院へと向かった。ヴィルマに会いに行く時はロジーナがお伴だ。
「マイン様、ようこそいらっしゃいました」
食堂のテーブルにわたしは木版画の絵を置いてヴィルマにそっと差し出した。ヴィルマはそれを手にとって、困惑したように眉を寄せる。
「マイン様、これは……?」
「ヴィルマの絵はとても繊細で、板を彫らなければならない木版画になると、こんな感じになってしまうのです。これでは、せっかくのヴィルマの絵の良さが失われてしまうでしょう? ですから、別の方法で作れないかと思い、考えてみました」
わたしはそう言いながら、影絵の方を差し出した。本職に見せるのは少し躊躇ってしまうが、見せなければ先に進まない。
「板を彫るよりは手軽にできると思います。ただ、芸術の中でも絵を得意とするヴィルマの意見を伺いたくて……」
ヴィルマはわたしの影絵を見て、小さく息を呑んで、目を見開いた。
「……こちらはマイン様が?」
「はい。ヴィルマの絵を参考にして、白と黒だけで紙を切って作るならこんな感じになるという見本で作ってみたのですけれど、どうかしら? 今までの絵とはずいぶん変わると思うのだけれど、その、雰囲気はわかるかしら?」
ダメかな? と思いながらヴィルマに尋ねると、ヴィルマはふるりと頭を振って、嬉しそうに茶色の瞳を輝かせた。
「初めて見ました。この方法で作ってみたいと存じます。私が新しい手法でどこまでできるか挑戦してみたいのです」
「では、ヴィルマにこのカッターと煤鉛筆を贈ります。以前に渡した紙で色々試してみてくださいな。こちらは本番用の厚紙ですわ。一枚目ができたら刷って、また様子を見てみましょう」
目を輝かせて影絵に魅入るヴィルマに、わたしは持ってきた道具を下賜して、使う時の注意点を述べた。ヴィルマのことだ。きっとすぐにわたしよりずっと素敵な絵を描いてくれるだろう。
ヴィルマが新しい手法に試行錯誤している間、わたしは厚紙に字を書いて、版紙を作っていた。
一度作ったせいか、仕上がりが速かったヨハンがデザインカッターとローラーを届けてくれると、今度はルッツと二人で、書いた文字を丁寧に切り抜いていく。ちまちまとした細かい作業だが、これを印刷すれば本になるのだと思えば、頑張れる。
そして、ヴィルマの絵ができるより先に、細工師に頼んでいた網の枠ができてきた。そこで、ルッツの家に行き、ラルフとジークに頼んで、ガリ版印刷の木の台と網がはめられる枠を作ってもらうことにした。
「一体どういうのがいるんだ?」
「こういうの! ルッツの手を汚さないように必要なの。お願い、お兄ちゃん達」
わたしは紙に設計図を描き、細かくサイズを描き入れたものを、二人にバーンと突きつけた。
設計図は仕事柄よく見ているようで、ジークとラルフはそれに目を通すとすぐさま作り始める。軽い打ち合わせと共に、板や釘を取り出してきた。
「こんなもんか?」
「すごい、お兄ちゃん達! ピッタリだね」
さすが木工職人見習い。ずれがない。あっという間に網が綺麗にはめられる木枠ができあがった。
わたしが褒めると、ラルフがフンと鼻を鳴らして「ルッツが商人らしくなるように、オレだって職人らしくなってるからな」とルッツをからかうように見る。
「じゃあ、次はこっちの台を作ってくれよ、職人」
むすぅっと頬を膨らませたルッツの言葉に、二人は肩を竦めて軽く笑いながら、作業を再開した。
「あ~、これじゃあ、合わないや。ルッツ、あっちの板を持ってこい」
「これは丁寧に磨いておけよ。お前が使うんだろ? 変なささくれが残っていると怪我するからな」
「二人とも人使い荒いって、ったく」
相変わらずルッツは使われているけれど、一時のようなピリピリとした雰囲気は消えていたことに、少し安堵の息を吐く。
「ジークお兄ちゃん、木枠に網を固定できるように、これも付けて」
ジークに頼んで木枠にトンボも取りつけてもらう。トンボは木枠に網を固定するための部品だ。金属製で涙滴型をしていて、枠にネジ止めして回転させることで網の着脱をする。額縁などの裏板を留めるための部品と言えば、わかりやすいだろうか。
そして、木枠と台を蝶番で留める。台の上には5ミリくらいの厚みの板を設置してもらい、印刷時に紙の位置を合わせられるようにしてもらう。
予想以上に短時間で印刷するための台が仕上がった。
「あ、ありがとう、兄貴達。その、助かった」
改めて家族にお礼を言うのは恥ずかしいのか、ちょっと照れたようにルッツがそっぽ向く。言われたお兄ちゃん達も困ったような顔をして、視線を逸らした。
「これぐらい、大したことねぇし」
「そうそう。ただの小遣い稼ぎだからな」
わたしだったらトゥーリにハグして、最大限感謝を身体で示すが、この兄弟にとってはこれが精一杯なのだろう。全く会話がない状態からはずいぶん進歩したと思う。
わたしが生温かく見守っていると、視線に気付いた三人が、うっ、と小さく息を呑んだ。
「マイン、あんまりこっち見るな!」
そんなところで声が揃う辺り、兄弟だなぁ、とわたしは更に生温かい目になってしまう。
「ルッツ、マインを送って来い!」
「そうだ。オレはこっちを片付ける!」
「行くぞ、マイン!」
やたらと息の合った兄弟の連携で、わたしはすぐさまルッツの家から連れ出されてしまった。心温まる兄弟のやり取りをもっと見ていたかったのに残念だ。
「マイン、にやけてないで考えろ。これで全部揃ったか? あとはヴィルマの絵だけだよな?」
ルッツが強引に話題を変えてくる。よほど兄弟間のやり取りについては、蒸し返されたくないらしい。
わたしは本を作る上で必要な物を色々と思い浮かべてみる。紙はできた。インクもできた。文章の版紙もできた。ローラーもできた。印刷のための台もできた。これで、ヴィルマの絵が完成すれば、本の中身は仕上がる。
「ねぇ、ルッツ。余裕があるなら、表紙にするための紙を作ってよ。押し花を間に挟んだ紙を表紙にしたいの」
「あぁ、あれか。綺麗だもんな。じゃあ、明日はあいつら連れて森へ行ってくる」
全ての準備が整って、ヴィルマの絵を待つだけの状態になり、午後は図書室でどっぷり読書に浸れるようになった。
昼食を終えて、さぁ、今日も読むぞと意気込んだ時、ヴィルマの絵ができたと孤児院の子供からギルが伝言を受け取って、部屋に入ってきた。
「マイン様、版紙ができたってさ。頼みもあるから、マイン様に版紙を取りに来てほしい、ってチビ達が言ってるんだけど」
ギルの言葉にわたしはパァッと目の前が明るくなっていくのを感じた。版紙ができたということは、印刷に取りかかれるということだ。
「ギル、昼食の後は印刷の準備をして欲しいと工房に伝えてくださる? ロジーナ、孤児院へ行きましょう」
「マイン様、落ち着いてくださいませ。孤児院にまだ神の恵みが届いておりませんわ」
「……そうでしたね」
孤児院との昼食時間に差があることを思い出して、わたしはすとんと椅子に座り直した。
ギルが小さく笑いながら、「チビ達が工房にやってきたら、オレが教えに来るから、マイン様は祈りの文句でも覚えて待ってればいいさ」と言って、わたしに神官長から出された課題のことを思い出させる。
そわそわしながら、わたしはギルに言われた通りに祈りの文句の暗記に努めた。これは秋に騎士団からの要請があった時に使われる文句で、いつ要請があるかわからないので、今から完璧に覚えておくように、と言われたものだ。
……あ、儀式用の衣装もどうなってるか、進行状態を聞きに行かないと。
子供達の食事が終わったという知らせを受けて、わたしはロジーナと一緒に足取り軽く孤児院へ向かった。
孤児院に入ったばかりの食堂で、ヴィルマはいつもの穏やかな笑顔ではなく、少しばかり緊張した面持ちで待っていた。テーブルにはA5サイズの紙が置かれている。
「見せて頂いてもよろしくて?」
「はい、どうぞご覧ください」
丁寧に切られた版紙は繊細なヴィルマの絵の特徴を残しながらも、シンプルに線が整理されていた。
「まぁ!」
ロジーナが軽く目を見張って、感嘆の声を上げる。
闇の神が光の女神と出会った場面で、切り抜きの多い方が闇の神、白を多く残してはいるけれど、髪の影や衣装の皺が見事に表現されているのが光の女神だ。すぐにでもインクを入れて、完成形を見たくなった。
「……素敵! すぐに印刷してみましょう。ギルには準備してもらうように言ってありますから」
ロジーナに版紙をもってもらって、わたしは即座に工房へ行こうと立ち上がった。
「あ、あのっ、マイン様!」
「どうかしたの、ヴィルマ?」
重大決心をしたような表情でヴィルマがわたしを見つめる。何度か小さく唇を動かした後、胸元で指先が白くなるほど力を入れて指を組み合わせ、震える声で問いかけた。
「わ、私も工房にご一緒させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「わたくしは構わないけれど、大丈夫ですの?」
ヴィルマは男性が苦手で、孤児院から出たくなくて、工房にも顔を出すことはないと聞いていた。子供達の様子は気になるけれど、怖くて足が竦むのだ、と。
「殿方は苦手なのは変わっておりませんけれど……印刷すればどんな風になるのか、気になって、気になって、何も手につかないのです。木版画では思ったような結果にはなりませんでしたし、これも新しい手法ですから、どんな結果になるかわからなくて」
木版画の仕上がりがわたしにとっては微妙だったけれど、ヴィルマにとってはかなり不本意な結果だったらしい。細密に黒で質感を出すわけではなく、紙を切って、影絵のようにシンプルな絵を作りだすのは、ヴィルマにとって初めてのことで、結果が気になるのは非常によくわかる。
だが、ヴィルマの心の方は大丈夫なのだろうか。工房に行けば嫌でも灰色神官達がいて、顔を合わせることになる。成人男性が怖いと言っていたヴィルマに耐えられるのだろうか。
「マイン様と一緒なら心強いのですけれど……」
ヴィルマが躊躇いながらも、そう言った瞬間、わたしの中でヴィルマを心配する気持ちが吹っ飛んだ。代わりに、使命感がぶわっと湧き上がってくる。
「わたくし、絶対ヴィルマには殿方を近付けませんわ。一緒に参りましょう」
「マイン様、本来は側仕えが主に殿方を近付けないようにするのですけれど?」
ロジーナの呆れたような声が割り込んできたけれど、そんなことはどうでもいい。ヴィルマがほんのちょっとでも孤児院の女子棟から出る気になったということが大事で、わたしが頼りにされているということが一番重要なのだ。
片手で胸元を押さえている不安そうな笑みを見せるヴィルマの手を軽く引くようにして、わたしは食堂の奥の階段を下りて、裏口からマイン工房へと向かう。
……ヴィルマはわたしが守るんだ! 頼りになるところ、見せなくっちゃ!
張り切った瞬間、わたしは階段で足を踏み外し、ヴィルマに抱き上げられて事なきを得た。
「大丈夫でございますか、マイン様!?」
「え、えぇ」
「……マイン様、張り切るのは結構ですけれど、落着きを失ってはなりませんよ」
ニッコリと笑ったロジーナのお小言が、さくっと胸に刺さった。