Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (152)
神官長の話と帰宅
今日は神官長のお説教と久し振りの帰宅という天国と地獄を一度に味わえる日だ。父とトゥーリが迎えに来てくれる夕方が楽しみで仕方がない半面、乗り越えなければならない神官長のお説教について考えただけで、胃にずずんとくる。
「マイン、来なさい」
「はひ……」
フランとダームエルと一緒に神官長の部屋へ行くと、手紙にあった通り、わたしはすぐさま説教部屋となっている隠し部屋へと連行された。
わたしはいつも通りに長椅子に座らされる。そして、神官長は机に置かれていた木札を取り出し、小さな台の上にインクを置いて、ペンを手に持って、足を組むと尋問体勢でわたしを見据えた。
「別に叱るつもりで呼んだのではない。聞きたいことと言いたいことがあると言ったはずだ。まず、君が作ろうとしている印刷機について詳しく聞かせてもらいたい」
見学中のマイン工房では質問できなかったことを一覧表にまとめてあるようで、印刷機で刷れる本の量やスピードについて次々と質問される。けれど、わたしはどの質問にも明確な答えなど返せなかった。
「印刷機は一つもできておりませんし、文字ばかりの本を作るにはもっとたくさんの金属活字が必要になります。それに、今は紙もインクも工房で作らなければ印刷ができません。たった一台の印刷機ができたところで、一体どれだけの速さでどれだけの量が刷れるようになるかは、やってみなければわかりません」
「なるほど」
そう言いながら、神官長は手元の板に視線を落とした。
「では、歴史が変わるという点について聞きたい。印刷を始めれば、今まで人の手で写していた本はどうなる? 写本を生業にしている者は、君の世界ではどうなった?」
「趣味ならばともかく生業として、と考えると、機械化の波に押されて、だんだん廃れていきました。そうですね、百年から二百年くらいかけてゆっくりと。さすがに十年や二十年の話にはなりません」
神官長はカリカリと板に書き込みながら、眉を寄せる。
「国民全員が勉強していると言っていた君の世界では、全員が文字を読み、本が読めて当然だったのだろうが、最初からそうではなかったはずだ。識字率が上がり、本が普及することで、社会的に何がどう変わった?」
「色々変わりましたよ。けれど、その影響は国によっても違うし、社会情勢によっても違います。世界が違えば、全く参考にならないと思います」
「例えばどのように変わった?」
神官長の言葉にわたしは麗乃時代の歴史を思い浮かべる。色々あるけれど、前提となる知識がない神官長に通じるかどうかがわからない。
「民衆が情報を共有し、知識を得ることで、支配層を打ち倒し、民衆による政治が始まった例もございます。逆に、自分達に有利な情報を印刷した紙をばらまき、民衆の意識を恣意的にまとめて、扇動した指導者もいます。民衆が文字を知ることで、情報伝達の手段がそれまでと大きく変わることはわかっても、何がどう変わるかなんて、それを誰がどのように利用するかなんて、わかりません」
「利用の仕方によるのだろうが、影響が大きすぎてどうなるかわからないのか。厄介な……」
神官長はそう呟きながらも、板に次々と書き込んでいく。
「わたくしが知る世界と違って、ここは魔力を持つ貴族がいなければ、生活が成り立たない世界でしょう? 識字率が上がり、本が普及したとしても、民衆の動きを同じようには語れませんよ。むしろ、貴族が民衆のためにどれだけ頑張っているのか、本にして広く知らしめても良いんじゃないですか? 貴族や神官が真面目にお仕事していなければ、逆効果ですけれど」
「どういうことだ?」
神官長が不可解そうにわたしを見た。わたしは軽く肩を竦めた。
「下町の人達って、意外と貴族が何をしているのか、知らないんです。農村では祈念式が行われて、目の前で聖杯に魔力が満たされ、それが自分達の生活に直結します。だから、神への信仰も深いし、下町と違って、普通に神へ祈りを捧げていたように思えました」
「下町の信仰心など考えたこともなかったな。……君の意見はなかなか興味深い。我々とは視点が違う」
身分の違いはもちろん、わたしの中には麗乃の記憶がまだ色濃く残っている。この世界の人とは違う意見が出るのが神官長には面白いらしい。
「ふむ。……では、私なりに今の状況を考えた上で命じる。しばらく印刷はしないように」
「え? どうしてですか?」
「民衆は君の言うように、どう転ぶかわからないし、魔力によって統率することは可能だと考えられる。しかし、貴族の反発が大きいことだけは確実なようだ」
神官長の話によると、写本ができる者は安定した高収入を得ることができる。そして、実家がそれほど裕福ではない金のない貴族院の生徒や神官や巫女は、写本で生活費を稼いでいることが多いらしい。文字ばかりの本が一気に印刷されるようになれば、その辺りの下級貴族の恨みを買うことになるに違いない、と神官長は言った。
「……それって、既得権益が貴族ってことですよね?」
相手の権力が今までの既得権益とは比べ物にならない。これは怖い。わたしがふるりと身震いすると、神官長がゆっくりと溜息を吐いた。
「今まで君が印刷していたのは、子供向けの絵本で、しかも、紙を使って刷っているので、それほど大量には生産できないと言っていただろう? ならば、写本をしている貴族や神官への影響は、印刷を禁止するほどのことでもないと考えていた。だが、印刷機を使えばどうなる?」
わたしが金属活字を準備しようと思ったのは、一字一字カッターで彫っていくのが大変だったからだ。字ばかりの本を少しでも楽に作れるようになれば良いと思ったからだ。それは、麗乃の世界でも起こった、写字生の仕事を奪う行為に他ならない。
「しばらくは印刷しないようにって……いつまで、ですか?」
せっかく印刷機ができても、印刷できないのは辛い。いつまで我慢すれば良いのか、と神官長に尋ねると、神官長はスッと金色の目を細めた。
「君がカルステッドの養女になるまで、だ」
「え?」
「平民が貴族の分を荒らせば、一気に潰される。しかし、君がこの地の上級貴族として、領主の許可を得た領地の事業として印刷を始めれば、そう簡単に潰されはしない」
たった一人の平民相手ならば、簡単に潰されるだろう。しかし、上級貴族の養女という身分となり、領主の許可を得て行う国家事業のような形で始めれば、小遣い稼ぎをする下級貴族に潰せるようなものではなくなる。むしろ、印刷事業に下級貴族を取り込め、と言う。
突然大きな話になったことに、わたしは思わずコクリと唾を飲み込んだ。
領地で一気に印刷業を始めれば、誰にも潰しようがないだろう。でも、印刷機ができあがった状況で、あと二年以上もわたしに印刷が待てる? マインとして生き始めてから、まだ二年半。それと同じくらいの長さを、子供向けの絵本以外の本を作らずに我慢できる?
ぐるぐると回る思考を読みとったように、神官長が目を細めて、わたしを真っ直ぐに見据え、わずかに口の端を上げた。
「どうだ、マイン。今すぐカルステッドの養女にならないか?」
ほんの一瞬、ぐらりと心の秤が動いた。
だが、それは本当に一瞬のことで、わたしはすぐに頭を振った。
「なりません。やっと、やっと、帰れるのに……」
「カルステッドでは不満か?」
「まさか。カルステッド様はとても素敵な方だと思います。どっしりと構えていらっしゃって、頼りがいもありますし、地位も高いですし、養父として考えるならこれ以上はないと思っております」
それでも、家族といたい。長くて十歳までだと期限を切られているのに、これ以上短くなるのは嫌だ。
「家族と離れていると、家族が恋しくても仕方がないか。……家に帰って、家族にたっぷりと甘えてから、考えると良い。違う答えが出るかもしれぬ」
フッと笑った神官長の顔が勝ち誇っているように見えた。わたしが本を我慢できなくて、十歳になるのを待てずに養女になると言い出すだろうと予想している顔だ。
わたしは膝の上に置いていた手をぎゅっと握って、神官長を真っ直ぐに見返した。
「違う答えなんて出ません。許された時間ギリギリまで家族といたいんです。……優先順位の一番に本を置いていた結果、自分がどれだけの親不孝をしたか、わたくしに突きつけてくださったのは、神官長ですよ」
魔術具で五感に訴えるほどの過去を突きつけることで、失ったら戻らない家族の存在が、強くわたしの心に刻みこまれたのだ。
わたしの言葉に神官長は、軽く息を吐いた。
「それだけの固い決意があるなら仕方がない。あと二年ほどは、子供向けの本を細々と作る程度に留めよ」
「……はい」
「マイン、迎えに来たぞ」
「神官長のお話は終わったの?」
神官長との話を終えて部屋に戻ると、一階のホールには父とトゥーリがすでに迎えに来てくれていた。
「父さん、トゥーリ!」
神官長と話をしていた時のもやもやぐるぐるしていた気持ちが、パパッと飛んでいく。わたしはフランとダームエルを扉のところに置き去りにするように駆けだして、父に飛びついた。
「うりゃ!」
父に飛びつくと、予想していたようにわたしを抱き上げてくれる。高く抱き上げて、ぐるりと振り回すように一回転した後、下ろしてくれた。その後は父の大きな手で頭をわしわしと掻き回すように撫でまわされて、髪がぐちゃぐちゃになるまでがお約束だ。
「マインったら、また髪がくしゃくしゃ」
父とわたしの再会を見ていたトゥーリが笑いながら、わたしの簪を外して、髪を手櫛で整えてくれる。トゥーリが外した簪を握って、わたしはトゥーリに髪を整えてもらう感触を懐かしく感じていた。
「すぐに着替えてくるから待っててね」
わたしは上機嫌で二階へと上がり、デリアに手伝ってもらって着替えていく。青の巫女服を脱ぎ、貴族のお嬢様のようなひらひらとした袖の上着を脱ぎ、久し振りにギルベルタ商会の見習い服に袖を通した。ちょっと小さくなっている気がする。
神殿に籠ることになった時には、雪が降り始める前で、コートがなければどうしようもない寒さだったのに、祈念式も終わった今はぶ厚いコートが必要なくなっていた。
「……ねぇ、マイン様。家族というのはそれほど良いものですの?」
ボタンを留めながら、不思議そうにデリアが首を傾げた。
「あたしが一生懸命にお仕えしても、マイン様はいなくなりますもの。あたし達といるより、家族といた方がよろしいのでしょう?」
「ここでの冬の生活が嫌だったわけではないわ。皆、よく仕えてくれたし、わたしも快適な生活を送れたもの。でも、わたくしはやっぱり寂しかったから、帰りたいし、家族といたいのです」
デリアが一生懸命に仕えてくれたことは知っているけれど、それでもわたしは家に帰りたい。家族のところへと帰りたいと思う。
「ごめんなさいね、デリア」
「別に、マイン様が謝ることではありませんわ。……ただ、本当にわからなくて。家族とは何ですの?」
家族の元に帰りたがる主を批判するような口調ではなく、不思議そうに目を瞬いて、デリアが問いかける。孤児院育ちで、親の顔も定かではなく、共に育ったはずの孤児達を避けるデリアには、家族に近い関係の者もいない。
「うーん、人によって違うと思うけれど、わたくしにとっては、居場所かしら?」
「居場所、ですか?」
「えぇ、一番安心できる場所です」
デリアは羨ましそうに階段の方へと視線を向けた。
「……それは確かに良いものですわね」
着替えを終えると、わたしは家に持ち帰る荷物へと手を伸ばす。その様子を見ていたロジーナが「マイン様、余裕が足りませんよ。落ち着いて、もう少し優雅に振る舞ってくださいませ」と注意を飛ばした。
「冬の間にフェシュピールも上達しましたし、立ち居振る舞いも改善されました。マイン様は環境に左右されやすいですから、帰宅なさっても忘れないようにお気を付け下さいませ」
「……はい」
ロジーナは、まるで神官長のように家に帰ってからも気をつけることを懇々と注意し始めた。一覧表に書いておいてほしい量だ。とても覚えられる気がしない。もう会えなくなるような別れでもないのに、大袈裟すぎる。
「ロジーナ、明日にはまた来るのですから、続きは明日でもよろしくて?」
「そうですわね。……マイン様は明日も来られるのですもの」
ロジーナはハッとしたように口元を押さえた。そして、少し寂しそうな笑みを浮かべて、ふわりと笑う。
「もうこちらには来られないような気がしてしまいましたの。家に帰ると言ったクリスティーネ様は、もう姿を見ることがございませんでしたから」
神殿に置いて行かれた悲しみが浮き彫りになったようなロジーナの表情に、わたしは前の主が残した傷跡が予想外に深いことを知った。
「ロジーナ、わたくしは明日も参りますわ」
「えぇ、お待ちしております」
家に持って帰る物は多くない。豪華な服も靴も必要ない。生活用品も家にある。来た時に持っていたトートバッグを持って帰るだけだ。
わたしがバッグを持って階下へと降りると、デリアとロジーナもあとに続いて降りてくる。見送ってくれるらしい。
「父さん、トゥーリ、お待たせ」
一階には、側仕えが全員揃っていた。
ギルは呼ばれて慌てて工房から戻ってきたような恰好で、フランはこれから一緒に家まで送ってくれるようで、外出できるように着替えている。
「じゃあ、帰るか。皆さん、長い間、マインがお世話になりました」
「マイン様の世話をするのは当然です。オレ達はマイン様の側仕えだからな」
父の言葉にギルがニカッと笑う。
丁寧な口調と今までの口調が混ざったギルの言葉に小さく笑いながら、わたしは皆を見回した。
「では、留守を頼みます」
「お早いお帰りをお待ちしております」
側仕え達は一斉に胸の前で手を交差させて跪いた。
ダームエルは護衛のため、家まで一緒に行かなければならない。そして、フランは今までウチまで来たことがないダームエルの帰りの道案内をするために同行している。工房での仕事を終えたルッツも工房前で合流して一緒に家に帰ることになった。
神殿の門を出て、すっかり雪もなくなっている石畳を懐かしい気持ちで歩く。街を自分の足で歩くのも久し振りだ。
今日はルッツとトゥーリと手を繋いで歩いていた。神殿にいると、こんな風に誰かと手を繋いで歩くことはない。両方の手が温かくて嬉しくなった。
父はダームエルやフランと身の回りの危険や街の警備について話をしながら、わたし達の後ろをついてくる。
「マインのスピードで歩くのも久し振りだな」
「ねぇ、マイン。神殿にいるうちに、歩くの、遅くなってない?」
「うそっ!? 遅くなってる!?」
神殿で移動する時は、フランもダームエルもわたしを急かそうとしない。急ぐ時は抱き上げられて運搬される。誰も急かさないのでマイペースに歩いているが、遅くなっている可能性はある。
「前はどれくらいだった? これくらい?」
わたしが頑張って足を動かそうとすると、ルッツが笑いながら首を振った。
「止めとけ、マイン。頑張るようなことじゃない。久し振りなんだから、ゆっくり帰ればいいだろう?」
周りを見回しながらポテポテと歩いていくと、ギルベルタ商会が見えた。わたしは神官長からしばらく印刷をするな、と言われたことを思い出す。
「明日はベンノさんにお話に行かなきゃダメかも……」
「何かあったのか?」
「印刷はしばらくするな、って言われちゃったから、そのお話」
わたしが肩を竦めると、トゥーリが軽く目を見張ってわたしを見た。
「えー? なんで? マインがすごく欲しくて頑張ってた物でしょ?」
「貴族の事情」
「……そっか。残念だったね」
トゥーリが空いている方の手でわたしの頭を撫でて慰めてくれる。わたしは軽く目を閉じて、その感触を味わいながら小さく笑った。
「絶対にしちゃダメって言われたわけじゃないの。二年と少しの辛抱だから、平気だよ」
こうして悲しかったり、寂しかったりする時に、寄り添ってくれる家族とは離れられないよね、と自分の選択が間違っていないことを改めて感じる。
「では、明日2の鐘が鳴ったら、迎えに来る。それまで、出歩かぬように」
井戸の広場に着くと、ダームエルが厳しい顔でそう言った。護衛が来るまでわたしが外出禁止なのは、神殿でも帰宅できても変わらないようだ。
「かしこまりました、ダームエル様。フランも往復するのは大変だけれど、よろしくね」
「はい。今夜はご家族にゆっくりと甘えてください。明日、またこちらにお帰りになるのをお待ちしております」
フランが胸の前で手を交差させる。
「ありがとう、フラン、ダームエル様。では、また明日」
井戸の広場でダームエルとフランが踵を返して去っていった。
そして、ルッツと手を振って別れた後は、5階までの階段をふぅふぅ言いながら上がっていく。
「ほら、マイン。頑張れ、もうちょっとだ」
父とトゥーリの応援を受けなければ、家に帰れないなんて、本当に冬の間に体力が落ちたかもしれない。ただでさえないのに、これ以上減ったら困る。
「ただいま、母さん」
久し振りの我が家の扉を開けた。食事の支度をしている匂いが扉を開けた瞬間、飛び込んでくる。階段を上がってくる声に気付いていたようで、配膳を始めていた。久し振りの母の手料理の匂いにわたしの顔が笑み崩れる。
「おかえり、マイン」
大きなお腹を抱えた母が、コトリとお皿を置いて顔を上げた。母の笑顔に、嬉しいと懐かしいと幸せで胸がいっぱいになって、寂しかった心が埋まっていく。
「久し振りにお外を歩いたから、お腹ぺこぺこ」
「荷物を置いて、準備を手伝ってちょうだい」
「はぁい」
トートバッグを置いて手を洗うと、わたしはトゥーリと一緒に配膳を始める。自分で働くのも久し振りで、ちょっと楽しい。
「母さん、いつ生まれるの?」
破れそうなくらい大きくなっているお腹を見て、わたしが尋ねると母は愛しそうにお腹を撫でた。
「もういつ生まれてもおかしくないのよ。マインが帰ってくるのを待っていたのかもしれないわね」
クスクスと笑いながら、母がそう言った。本当に待っていてくれたのなら嬉しい。わたしも母のお腹を撫でながら「お姉ちゃん、帰って来たよ」と声をかけてみる。まるで返事をするように手の平を蹴られた。
「わっ! 蹴られた。返事したみたい」
わたしの声に家族が笑った。
母の手料理を食べて、トゥーリとふざけっこしながら湯浴みして、寝返りを打ったらトゥーリとぶつかるような狭いベッドで、家族揃って眠る。
明け方、母が陣痛に呻き始めた。