Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (168)
閑話 マインの葬式
オレはルッツ。今は春の盛りだから、もうじき8歳になる。
帰り道で変な男にマインとトゥーリが襲われて、コリンナ様の夫であるオットーさんの家に逃げ込んだばかりだ。
「オットー、ルッツ、何があった!? 守秘義務を考慮して、話せる範囲で話せ!」
旦那様が階段を駆け上がってきて、そう言った。オットーさんが目を尖らせて、旦那様を睨む。
「ベンノ、大きな声を出すな。レナーテが起きる」
「あぁ、悪い、悪い。ルッツ、オットーは無視していいから話せ」
トゥーリが迎えに来て、皆で帰る途中、余所の貴族を捜索中のオットーさんと会い、話をしている途中で、襲われたこと。相手はマインを狙っていたようだけれど、「どっちだ!?」と言っていたことから考えても、マインのことをよく知らない相手だと思ったこと。ダームエル様が襲撃者の足止めをし、マインとギュンターおじさんは神官長に報告するために神殿へと向かったこと。そして、すでにダームエル様によって騎士団が呼ばれたことを説明する。
「そういえば、マインちゃんも助けを呼んでいたみたいだった」
オットーさんがポツリと呟くと、全員の視線がオットーさんに集中した。マインが助けを呼んでいたなんて、ギュンターおじさんの背中を追いかけて走っていたオレは全く気付かなかった。
「首から下げていたお守りに血判を押していたんだ。まずい状況になったら、誰かが助けてくれるらしいよ」
「早すぎる! くそっ!」
何だ、それ? と思ったオレと違い、旦那様には心当たりがあったのか、舌打ちしながら身を翻して、店へと戻っていこうとする。
「旦那様、一体何が……」
「最大級の守秘義務だ!」
誰に対してかわからないが、悪態を吐きながら旦那様が階段を駆け下りていく。一体何が起こっているのか、わからなくて、オレはぐっと唇を噛んだ。こんなにも危険なことが起こっているのに、マインのためにできることが何もない。オレがどんなに努力しても乗り越えられない壁がある。
「ほら、ベンノの怒鳴り声にレナーテが泣き出した。怖い伯父さんだねぇ。よしよし」
レナーテ様の泣き声にコリンナ様が動き出し、トゥーリの強張っていた表情が動き始めた。カミルの話をし、マインと一緒に作ったガラガラを持ってくるはずだったのに、と小さく呟く。
オットーさんによるレナーテ様の自慢話が始まり、トゥーリはカミルの自慢話で対抗する。正直、オレはどっちの話も聞き飽きている。
「トゥーリ、これから神殿に向かうことになった。おいで」
しばらくしてトゥーリを迎えに来たギュンターおじさんの左腕にはものすごい火傷のような傷があった。赤黒くなっているその傷にトゥーリの顔が青ざめる。
「父さん、この傷、どうしたの!? マインは!?」
「神殿にいる。行くぞ」
娘相手には常に笑顔のギュンターおじさんが、トゥーリに対しても全く笑顔を見せずに低い声を出した。おじさんの後ろには、カミルを抱えたエーファおばさんの姿もある。家族がそろって神殿に呼ばれるなんて、マインに何かあったに違いない。
「ギュンターおじさん! オレ……」
「後で説明に来る。待っていてくれ」
いくらマインと家族のように親しくても、家族ではないオレは神殿には行くことはできず、店で待機しているしかない。
「……オレは店か、二階の旦那様の家にいるから」
「店か、二階の部屋だな? わかった」
不安がるトゥーリについていただけで、オレだけならばコリンナ様の家にいる必要はない。じっとしていても不安でイライラするだけなら、仕事の一つでも片付けた方が合理的だ。
ギュンターおじさん達と一緒に、コリンナ様の部屋を出て、店へと向かおうとした時に、ギュンターおじさんがくるりと振り向き、レナーテ様を抱いてあやしているオットーさんを睨んだ。
「オットー、お前も急いで門へ戻れ。俺は騎士からの命令で神殿に行ったと士長に伝えろ」
「はっ!」
オレが店に戻ると、旦那様とマルクさんは印刷工房について真剣な顔で話し合っていた。それをちらりと見た後、オレはマイン工房の収支計算を始める。まだギルには完全に任せられないので、見直しは必要なのだ。
「そんなの、工房のヤツにやらせればいいだろう? 間違えて損をしてもそいつが悪いんだ」
レオンがオレの手元を覗き込んで、肩を竦めた。マイン工房に関して、オレが手を出しすぎるとレオンは言う。他の工房や店を相手にしているレオンから見ると、マイン工房は贔屓されすぎらしい。
「マイン工房孤児院支店の立ち上げと経営は、次に新しい印刷工房を作る時の練習だから、オレが手を抜くわけにはいかないんだ」
「次の工房? お前、そんな仕事をするのか?」
レオンが驚いたように目を見張った。オレは大きく頷く。
「工房を立ち上げる旦那様の仕事を手伝えるようにならないと、役に立たないから余所の街に連れて行ってもらえないんだよ。マインの工房なら、オレが多少失敗しても許してもらえるから、練習しろって言われてる。贔屓じゃないんだ」
「ふーん、練習台か……」
書類仕事をほぼ終え、旦那様の承認をもらっていた時のことだった。突然、窓の向こうから光の塊が入ってきた。壁も窓も関係なく突き抜けてきて、部屋の中を回り始める。
「な、何だ!?」
目を剥く旦那様とマルクさんとオレの頭上で、光の塊はぐるぐると回りながら、光の粉となり、降り注ぎ始めた。オレ達の上から降ってくる光は不思議とレオンを避けていく。
小さくなった光はゆっくりと消えていき、何事もなかったかのような静寂が戻ってきた。
「……何だったんだ?」
「俺だけ避けていきましたよ、あれ」
一時は確実に光の粉が乗っていた手のひらを見ても、今は自分の中に溶け込んだような感じで、光の粉は全く残っていない。
どうしてレオンだけには粉がかからなかったのか、一体あれは何だったのか、と首を傾げているうちに、ギュンターおじさん達が店へと戻ってきた。
「待たせた、ルッツ」
全員が泣き腫らしたような目で暗い表情をしている。神殿に迎えに行ったものだとばかり思っていたが、マインの姿が一緒にないことに胸がざわりと動いた。聞いてしまったら後戻りできないような気がして、「マインは?」と聞きかけた口を閉ざす。
何か別の話を、と焦って視線を巡らせると、あれほどひどい火傷を負っていたはずのおじさんの腕が元通りになっているのが目についた。
「おじさん、腕の傷……」
「マインの最後の祝福だ。光の粉が降ってきたら治っていた」
ぎりっと奥歯を噛みしめるようなおじさんの悔しそうな声と「マインの最後」という言葉にオレはトゥーリやエーファおばさんを見た。嫌な予感に体が震えて、喉がひくりと動く。「最後ってどういうことだよ?」とオレが声にするより早く、マルクさんがポンと手を打った。
「では、先程の光の粉もマインの祝福だったのではないでしょうか?」
「……ここにも、来たのか?」
驚いたようにギュンターおじさんが軽く目を見張った。オレは軽く頷きながら、光の粉が飛び込んできたこと、レオンを避けるようにして三人に降り注いだことを報告する。
「マインにとって大事な者のところへ飛んでいったようだな。俺の傷が治るくらいだ。かなり強い祝福だぞ」
悲しげにギュンターおじさんが笑う。その諦めたような笑みを見て、オレは悟った。全てはオレの手が届かない場所で、すでに終わってしまったのだと。
「……マインはどうしたんだ? なんでいないんだよ?」
「マインはいなくなったの。貴族にとられて、もういないの」
トゥーリがほたほたと涙を落とす中、旦那様はぐっと眉を寄せて、目を細めた。
「ギュンターさん、一つ聞きたい。マイン工房はこのまま存続するのか?」
「旦那様、マインがいなくなったって時に何を!?」
「黙れ! 大事なことだ。死んでしまったならば、ウチの店が買い取って存続させなければならないし、貴族に取り込まれたならば、別の対処が必要になる」
旦那様の言葉がよく理解できなくて、オレは首を傾げたけれど、ギュンターおじさんにはわかったらしい。
「……ベンノさん、貴方は知っているのか?」
「詳しくは知らないが、オットーがお守りに血判を押したと言った。ならば、マインが本当に死んでいなかった場合、どうなるのかはわかる。アウブ・エーレンフェストに取り込まれたのだろう。……新しい工房長の名前は何になるんだ?」
ギュンターおじさんが怖い目で旦那様を睨む。
「上級貴族の娘、ローゼマイン。それが新しい名前だ。マインは死んだ。そういうことになる」
「そういうことって……」
絶句するオレの頭をギュンターおじさんは、まるでマインに対してするように軽く撫でる。
「俺達家族を守るために、マインは上級貴族の娘となった。上級貴族の娘を守るためだったという建前を作ることで、俺達もマインの命も守られたんだ。その代わり、俺達は家族として接することを契約魔術で禁じられた。お前達もマインと深くかかわりすぎている。処分されないように気を付けた方が良い」
「忠告、感謝する」
旦那様は軽く礼を述べた後、溜息と共に肩を落とした。
「それにしても、あと二年ほどは猶予があると思っていたが、ずいぶんと急だったな」
「旦那様、マインがいなくなったんだぞ!?」
上級貴族に取り込まれ、家族として会えなくなったのに何てことを言うんだ、とオレはカチンときて思わず叫んだ。
しかし、返ってきたのは冷たい視線だった。
「あのな、ルッツ。アレは死んだわけじゃない。ローゼマインとしてこれから生きていくことになるんだ。平民から上級貴族の娘になったところで、アレの本質がそう簡単に変わると思うか? 権力を持った分、暴走を始めたら余計に怖いだろうが!」
今でもマインは暴走気味なのに、上級貴族の権力付きで暴走されると止められる者がいなくなる。
「しかも、名前が変わっただけならば、ローゼマインはそのまま引き続きイタリアンレストランの共同出資者だ。下級貴族からやっと中級貴族との取引が増えてきたギルベルタ商会がいきなり上級貴族の御用達で、共同事業主になるんだぞ。おろおろめそめそしている暇があったら、働け! マインだろうが、ローゼマインだろうが、あいつが望むのは何だ!?」
死んでも治らなかった本好きが、上級貴族のローゼマインになったところで、治るわけがない。望む物は一つだけに決まっている。
「本です!」
「その通りだ。相手の立場や接し方が変わっても、俺達がやることはただ一つ、商売だ。領主のお墨付きももらっている以上、俺達ギルベルタ商会はローゼマインと嫌でも接することになる」
ピクリとマインの家族の顔が動いた。
「貴方達では上級貴族に会えなくても、言葉を交わせなくても、俺達は商売としてローゼマインと話ができる。書類のやり取りがある。その中に手紙を潜ませるくらいは容易いことだ。それを想定したうえでルッツとマインはすでに契約魔術を交わしている。最低限の連絡なら取れる」
面と向かって家族と呼べなくても、手紙を書くことまで禁止されたわけではないだろう。契約魔術にも抜け道はあるんだ、と旦那様は唇を歪める。
「ルッツ、わたしが手紙を書いたら届けてくれる?」
「任せとけ」
トゥーリの言葉にオレは大きく頷いた。まだマインのためにできることはある。少なくとも死んでいないのだから、まだ大丈夫だ。
店を出て帰途に就く。ここから先では、マインは死んでしまったことになる。帰るとすぐにマインの葬式を行わなければならない。
「ルッツ、マインは入ってきた余所の貴族に殺されたんだ。そう家族には説明してくれ。こちらもすぐに準備を始める」
ギュンターおじさんは眉間に皺を深く刻んだ顔で、虚空を睨む。余所の貴族が入ってきたせいでマインは貴族になるしかなかった。そう考えると、おじさんの説明は嘘ではない。
「わかった」
家に帰ると、親にマインの葬式があることを報告して、掻き込むように夕飯を終わらせた。先に食事を終えた両親が黒い布を腕に巻いてバタバタと駆けだしていき、オレはラルフに黒い布を腕に巻いてもらう。これは葬儀に関係していることを示すものだ。
「……なんで、マインは死んだんだ? 最近は元気だっただろう?」
「貴族に殺されたって、ギュンターおじさんには聞いたけど、現場を見ていないから、オレも詳しくは知らない」
井戸の広場には同じように黒の布を腕に巻いて結んだ近所の人達が集まってくる。本来ならば、墓地に向って運べるように、板の上に遺体が乗せられるはずだが、遺体のないマインはそれができない。
皆の前にあるのは、遺体ではなく小さな木箱だ。中に入っているのはマインの服が一着と普段身に着けていた簪が一本、それだけ。
「遺体がないって、どういうことだい?」
集まった近所の者達は普通ではない葬式に目を見張る。ギュンターおじさんは苦しそうに顔を歪めて、俯いた。
「マインは……余所から入ってきた貴族に襲われ、殺され、遺体を奪われたんだ」
「……それは、災難だったな」
貴族に奪われたものは返ってこない。この近隣の者は、ギュンターおじさんが子煩悩で、虚弱なマインを溺愛していたことを知っている。遺体さえ手元に返ってこないことがどれほど辛いかなんて、聞かなくてもわかる。貴族が関連するのだから、それ以上の質問など誰にもできるものではなかった。
「やっと元気になってきたところだったのにねぇ……」
木箱を見つめながら、近所の皆がマインの洗礼式の時の様子やカミルのお披露目の時の様子を思い出しては口々に述べ始めた。
死者の国の扉が開くのは、闇の神と光の女神が出会う夜明けだと言われている。無事に朝日が昇る時、夫婦神の導きで死者の国へと迎え入れられるのだ。故人が無事に死者の国に迎え入れられるまで、故人の思い出を語りながら夜を明かす。
けれど、近所との付き合いがほとんどなかったマインについては語れることも少ない。
「……ルッツはマインと仲が良かったんだろ? 何か話しておくれよ」
オレはマインと過ごした二年半を思い出す。門まで歩けなかったマイン。本が欲しくても、紙もインクもなくて、草の繊維を編んだり、粘土板を作ったり……。やっと紙が作れても、すぐには本が作れなかった。
「マインは何かやったら、すぐに倒れるんだ。でも、自分が欲しいの物のためにすごく頑張ってた。最初は井戸まで行くにも息を切らせていたマインが、森に行けるようになったんだから」
「そういえば、土をいじったり、木を削ったり、変なことをしていたよな」
「ルッツと一緒に鍋で木を茹でていなかったか?」
「……紙を作っていたんだよ」
一緒に森へ行ったことがあるフェイ達が思い出したように次々と森でのマインの様子を語った。それにつられたように、ウチの家族がぽつぽつと言葉を零す。
「マインの考える料理はうまかったな」
「マインはギュンターの門の仕事を手伝いながら、字や計算を覚えて、ウチのルッツに教えていたんだ。頭は良かったよ」
「へぇ、それは知らなかったな」
洗礼式を終えて、オレが商人見習いになって、マインは神殿の巫女見習いになった。神殿の巫女見習いというのは外聞が悪いので、わざわざ口にはしない。だから、洗礼式の後のマインを知っている者は、本当に少ない。
マインは孤児院に工房を作って、インクを作って、本を作ったんだ。ヨハンのパトロンになって金属活字を手にしたし、ハイディの色インクの研究を応援して、インゴと試行錯誤しながら印刷機を作り上げていこうとしていたんだぜ。マインはすごいんだ。
……そう言いたかったけれど、言えなかった。本作りに関しては、一体どこまで話してよいのか、わからない。
「マインは虚弱で発育も遅くて、いつ死んでしまうのって心配で仕方がなかった子だったわ。自分でやるってイヤイヤを言い出したのも、トゥーリは2歳か3歳だったのに、マインは5歳になる頃で……」
トゥーリばかり元気でずるい、外に行けるなんてずるい、と泣いてばかりいたのだ、とエーファおばさんがポツリと零す。健康に産んであげられなかったことを責められて、母親としておばさんも辛かったらしい。
それは、多分、前のマインの話だ。オレのマインは「ずるい」とは泣かない。何とか体力を付けようと奮闘していた。空回りすることも多かったけれど、本を読むためだけに全力を注ぎ込んでいた。
「ずるいって泣かなくなった後もイヤイヤはずっと続いていて、今度は怒りんぼになったの。もうこんな体はイヤ! って叫びながら、部屋の掃除をしては熱を出し、妙な踊りを踊っては倒れて、これは体にいいと言って食べてはお腹を壊して……」
そう言ってエーファおばさんは小さく笑う。そっちはオレの知っているマインだ。うん、マインの奇行が目に浮かぶ。
「わけのわからないことが理由でいきなり泣いたり、怒ったりするイヤイヤがおさまる頃には、ルッツと森に行けるようになってきたのよ。普通の子と同じように、とは望めなくても、外に出かけたり、お祭りに参加したりできるようになってきていたのに、こんな風にいなくなるなんて……」
その後、マインの家族は涙を流していて、何も言葉にできないようだった。けれど、やっと元気になってきていた娘を余所の貴族に殺されて、遺体もないのでは仕方がないだろう、と周囲は囁き合う。
焚火の光の中、ギュンターおじさんは涙を流しながら無言で板を削り、マインのための墓碑を作っていた。
交代で仮眠を取りながら夜を明かす。2の鐘が鳴り響くころには、奥さん方がパンとお茶を配り出した。葬式が終わるまで、肉の類は口にしてはならないからだ。
簡素な朝食を終えると、近所の皆で軽い板を担いで、神殿へと向かう。死亡したという届出をして、埋葬に必要なメダルをもらわなくてはならない。
神殿の門番に死亡の届け出の話をして、礼拝室に入れてもらう。街の人間が死んだ時は、灰色神官が対応するのが常であるのに、今回は神官長が出てきた。
「7歳の夏生まれでマインという名前だな? 了解した」
しばらく礼拝室で待っていると、神官長は白くて平べったいメダルを持って戻ってきて、ギュンターおじさんに渡した。マインが洗礼式の時に血判を押して、登録したメダルだ。これは埋葬の許可証でもあり、金をかけて墓石や墓碑を準備できない貧乏人にとっては墓石代わりに使うことになる。
神殿でメダルをもらったら、街の外にある墓地へと向かう。近所のおじさん達が担ぐ板には木箱しか乗っていなくて軽いので、皆の足は自然と早くなった。そして、マインに関する思い出が少ないので、どうしても口数は少ない。
墓地の中でも入り口から最も遠い一角に木箱を埋める。それほど大きくもない木箱なので、埋めるのも早い。
ギュンターおじさんは削っていた墓碑とするための板にメダルをぐっと押し付けた。すると、板にメダルがピタリとくっついて離れなくなる。周囲の墓と同じように、この板を墓標として土に深く差し込んで立てておくのだ。
金持ちの墓碑には色々と言葉が彫り込まれているが、この辺りの貧乏人の墓碑は字が読める人が少ないから、言葉が彫り込まれていることはほとんどない。削った木の形やくっつけたメダルの位置で確認するくらいだが、マインの墓碑には「愛する娘」と刻まれていた。
街の外にある墓地への埋葬が済めば、葬式は終了になる。死んだのが一家の主であれば、遺産相続についての話し合いやこれから先の一家を支える跡継ぎの決意表明のようなものがあるけれど、洗礼式を終えたばかりのマインに関しては、そんなものもない。
葬式の次の日には、周囲の人々は元の生活へと戻っていく。オレも普段通りの生活へと戻った。
家を出て、階段を駆け下り、井戸の広場を通って、また階段を駆け上がる。コンコンと扉を叩くと、トゥーリが不思議そうな顔でオレを見た。
「おはよう、ルッツ。何かあったの?」
「何かって……あ!」
ローゼマインとなってしまったマインとは、もう一緒に神殿に行くことがない。あちらこちらとフラフラしながら歩くマインを見張る必要がない。マインの体調を気にして歩くことも、一緒に何かを作ることも、寂しいと甘えてくることも、困って泣きついてくることも、何もないのだ。
「……マイン、本当にいないんだな」
ローゼマインとなってしまっても、マインはまだいると思っていた。だが、上級貴族の娘として生きていかなければならないローゼマインはもうマインじゃない。オレが知っている、ずっと一緒にやってきたマインじゃない。
マインがいなくなったことを本当の意味で知った。ぶるりと体が震えて、葬式の時には出てこなかった涙が一気に溢れてくる。
オレが落ち着くまでトゥーリはマインを慰めている時のようにゆっくりと頭を撫でてくれた。
「ルッツはまだお仕事でマインと話ができるんでしょ?」
「……話ができても、もうマインじゃない」
「そうだね。でも、マインは話ができなくてもいいから、顔だけでも見たいって、最後まで言ってたよ」
トゥーリはポツリポツリとマインとの最後のやりとりを教えてくれた。家族とは名乗れなくても、元気な姿だけでも見たい。そう望んでいたマインなら、商売に関することだけでもオレと話がしたいと言うのだろう。
「ねぇ、ルッツ。今日はわたしをギルベルタ商会へ連れて行って」
「トゥーリ?」
「マインとの最後の約束を果たしたいの」
そう言って、一度寝室に引っ込んだトゥーリの手にはマインがいつも使っていたバッグがあった。レナーテ様のためにマインと一緒に作っていたガラガラとマインが使っていた書字板を入れている。
「コリンナ様の工房に入って、一流の針子になって、わたしが服を作ってあげるって約束したの。わたしはわたしの方法で会いに行くよ。ルッツもマインと色んな約束したんでしょ?」
トゥーリの言葉にオレはマインと話をした色々なことを思い出した。マインと一緒に本を作って売ると約束した。マインが考えた物はオレが作ると約束した。
「……オレ、泣いてる場合じゃなかったな」
マインが一日中本を読んで過ごせるくらい、たくさんの本を作ってやらなければならない。
ぐっと涙を拭いて、オレは荷物を持つと、トゥーリと一緒に重たい玄関の扉を開けた。