Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (175)
洗礼式の準備
そんなこんなで貴族街での生活が始まったわけだが、下町の生活と全く違う。少し慣れるまで、壁一つ隔てるだけでここまで違うのか、と目を見張ることの連続だった。
一番大きな違いはトイレだ。おまるにして、お外にポイではない。なんとお部屋にトイレがあった。
ただし、水洗トイレではない。深い穴が開いた落下式便所だ。底の方には何やらねばねばしたものがうごめいていて、初めての時は悲鳴を上げてしまった。ねばねばが排泄物を分解してくれるそうだが、すぐには慣れない。気持ち悪いんだよ。
正直、あのねばねばが上がってきそうで、まだ夜中のトイレが怖い。誰かついてきて、と言っても変には思われない幼女でよかった。必ず側仕えがついて回るお嬢様でよかった。
そして、念願のお風呂もある。わたしの場合、まだうまく背中に手が届かなくて、今まではトゥーリと洗いっこしていたので、女性に手伝ってもらって入るお風呂には特に抵抗はない。
高いのだろうとわかる香りの強い石鹸を惜しげもなく使われ、ちょっと恐縮してしまうが、マッサージ付きで極楽気分だ。
でも、石鹸で髪を洗われると、乾いた後バシバシガビガビした感じになってしまう。櫛通りが悪くなり、艶がなくなってきた。
「お母様、お願いがあります」
「あら、何かしら?」
「ギルベルタ商会を呼んでいただきたいのです。リンシャンがないと髪が傷んでしまって……」
下級貴族が使うような商人を呼ぶなんて、と最初は良い顔をしなかったお母様だったが、髪の艶がなくなったことを訴えると、ギルベルタ商会を呼んでくれることになった。
ルッツも来るかな? と指定した日をワクワクしながら待っていたら、木箱に商品を詰めて、ベンノとマルクがやってきた。二人とも仕事向きのキリッとした顔付きで、部屋に入ってくる。
残念ながら、ルッツの姿はない。まだ初めての上級貴族の家に連れて来ることはできないようだ。
……会いたかったのにな。
長々とした挨拶を終えると、お母様が商品を見せるように促した。
「ギルベルタ商会のベンノと言ったかしら? 娘が愛用していたという商品を見せてちょうだい」
「こちらでございます、奥様」
ベンノとマルクが持ち込んだ木箱から、わたしが欲しいと言ったリンシャン、ちょっと豪華だけれど、この家でなら普段使いになりそうな髪飾り、新しい紙で羊皮紙より安価で購入しやすい植物紙を取り出していく。
「ローゼマイン様のご愛用なさっていたのは、こちらのリンシャンです。季節に合わせた新しい香りもございます。ぜひ、お手に取ってご確認ください」
商魂たくましいベンノは工房でスクラブを変えて、四種類のリンシャンを作らせていた。今までトゥーリの手作りリンシャンを使っていたわたしは、ちょっと珍しい物を見る気分で、匂いを嗅いでみる。
ほとんど匂いのしない物やハーブの匂いのする物、甘い匂い、さっぱりした匂いと四種類があった。わたしが気に入ったのは、この季節になると採れる甘い匂いのするコーヴェとフェリジーネの皮を粉末状のスクラブにしたリンシャンだ。
「お母様、わたくし、今回はこのリンシャンをいただきたいです」
「まぁ、良い香りね。わたくしも使ってみようかしら?」
リンシャンとお勉強用に植物紙を買ってもらうことが決定した後、わたしは押し花の透かしが入った紙をお母様にお勧めしてみた。
「お母様、この紙を招待状に使うと素敵だと思いませんか? 花がついていて、とても綺麗」
「あら、本当ね。花が入っているなんて珍しいわ」
どうなっているのかしら、とお母様は興味深そうに紙を手にした。
「こちらは作られたばかりの新作でございます。春の花が華やかで、いただいた方の心に残る招待状となるでしょう」
「でも、すでに購入者がいるでしょう? わたくしが後を追うのは、ね」
ギルベルタ商会は主に下級貴族が使っている店だ。上級貴族であるお母様が下級貴族の真似をするのは美しくないらしい。流行に乗る側ではなく、流行を作る側でなければならないのだそうだ。何それ、面倒くさい。
「いいえ、これはローゼマイン様のために本日初めて店から出した物で、目にしたお客様は他にいらっしゃいません」
「そう。では、いただきましょう」
お母様の後ろからこっそりベンノに向ってぐっと親指を立ててみせると、ベンノがニヤリと笑い、マルクが笑うのを堪えてさりげなく後ろを向いた。
……いけない、いけない。お嬢様しなくっちゃ。
「こちらはローゼマイン様からご愛用いただいている髪飾りです」
「可愛らしいとは思うのですけれど、髪飾りはもう少し良い糸を使って華やかにしていただきたいわ」
今日付けている髪飾りより豪華だが、品質がお気に召さないらしい。
充分だと思うけど、と心の中で思いながら、ベンノを見ると、獲物を見つけた狩人のように目を輝かせていた。
「最高級の糸を使って作るのでしたら、特別注文という形で色や素材の指定もいただいた方が、よりご満足いただける仕上がりになります。どのような色の花にいたしましょうか? 花の形も数種類ございまして、お好みの花をどのように組み合わせるかで印象も変わってまいります」
「……そうねぇ」
お母様がいくつかの髪飾りの中から、この形でこれくらいの大きさで、これとこれを組み合わせて、色は、糸は……と注文を出し、ベンノはそれを書き留めていく。
後日、仕上がった物を持ってくると約束して、ベンノ達は帰っていった。
新しいリンシャンを使って、わたしの髪に艶が戻り、お母様の髪も艶々になったことで、ギルベルタ商会は上級貴族のお得意さんゲットに成功したのである。
「本当に艶が出て綺麗になったわ。これを下級貴族が独占していたなんて……」
「リンシャンが売りに出されるようになってから、まだ一年ほどしかたっていませんし、石鹸に比べるとお値段が高いので、なかなか売れないと聞きました。美容にお金をかけられる上級貴族向きの商品かもしれませんね。領主様の奥様にお勧めしたら喜んでくださるでしょうか?」
「えぇ、きっと」
お茶の時間の話題は、最近美容に関するものが多い。リンシャンや髪飾りは上級貴族の間で目にすることもなかったようで、お母様はこれから流行させるのだ、と息巻いている。
これまで、ギルベルタ商会から考えると横道に逸れたお仕事ばかり頼んでいたわたしとしては、本業でお手伝いできて嬉しい限りだ。「ベンノさーん、本業のお仕事が増えたよ。よかったね」と心の中で呼びかけておいた。
「お待たせいたしました、奥様、お嬢様。本日は、お茶の葉を混ぜ込んだクッキーでございます」
エラがなるべく音を立てないように、そっとお皿をわたしとお母様の前に置いた。ふんわりと甘い匂いが漂い、お母様の目が柔らかく細められる。
「今日は一体どのような味かしら?」
エラの作るお菓子は予想通り、お母様に大好評だった。中央から砂糖は入ってきているけれど、まだお菓子のレシピはそれほど出回っていないらしい。これまでのお茶の時にカトルカール、クレープ、クッキーを出してみたけれど、どれも評価が高い。
研究しまくって、数種類のカトルカールを作れるイルゼには敵わないけれど、エラもカトルカールを作ることはできる。もう独占契約をした期間も過ぎたので、カトルカールのレシピを公表しても問題ないはずだ。
「お菓子のレシピを我が家の料理人にも教えてほしいものだわ」
エラはまだ家人の信用を得ていないので、今はわたしの専属料理人として小さな厨房でお茶の時のお菓子だけを作っていたけれど、やっとお母様の信用を得たらしい。エラの顔に笑みが広がっていく。
「厨房への立ち入りを許していただけるようになれば、エラが知らないお料理のレシピとお菓子のレシピを交換いたしますよ。わたくし、エラにはもっと色々なレシピを知ってほしいのです」
「では、料理長と相談した後、許可を出しましょう」
料理長が呼ばれ、話をした結果、数日後からは大きな厨房に立ち入ることが許され、レシピ交換が行われることになった。
お母様としては、わたしが領主の養女となって生活の場を変える前に、お茶会に必要なお菓子のレシピを手に入れたいらしい。お菓子でも流行を作るつもりなのだろう。上流貴族の奥様というのはとても大変そうだ。
「これはお茶の香りがして、とてもおいしいわね」
「えぇ、このクッキーはフェルディナンド様も好んでいらっしゃるのです」
神殿にいる時以外は「フェルディナンド様」と呼ぶように、とお母様に言われたので、呼び方を変更した。正直、長くて呼びにくい。
ちなみに、「養女になった後は叔父様ですか?」と神官長に聞いたら、無言で頭をぐりぐりされた。叔父様呼びは駄目らしい。
「フェルディナンド様が?……そう」
神官長の日常におけるちょっとした情報はお母様にとって、とても楽しい話題のようで、最も食いつきが良い。ドキドキしていたお母様との関係がそれなりにうまくやっていけるのは、神官長のおかげだ。
二日に一度は神官長が様子を見に来てくれるせいか、お母様は常にご機嫌だ。わたしはご機嫌なお母様しか知らないけれど、騎士見習いをしている11歳の三男のコルネリウス兄様がそう言っていた。コルネリウス兄様は若葉のような明るい緑の髪に黒い瞳の、背が伸び始めたけれど幼さが残っている少年である。
ここに来て初めて知ったこと。神官長って、貴族女性のアイドルだった。
顔良し、血筋良しで、領主代理も文官も騎士も、とどんな仕事もこなせる上に、芸達者。しかも、神官で決まった相手はこれから先もできない。確かに、遠くから見て騒ぐなら、これ以上はないと思う。
神官長が来た時のお母様は完全にアイドルのディナーショーに来ているファンのような顔をしている。神官長の前では真面目な顔でわたしの教育方針や進み具合を話しているけれど、神官長が帰った後の「ここが素敵だった」話が長い。しかも、同じような褒め言葉がループする。
今まではその聞き役を務めていたコルネリウス兄様は、嬉々としてその役割をわたしに回してくれた。「やはり、女同士の方がフェルディナンド様の魅力はよくわかるだろう」だって。いや、よくわからないですけど。
確かに、神官長は万能人で、何をやらせても凄い人で、とてもお世話になっているけれど、結構きつい物言いするし、容赦なくて怖いところがある。わたしから見た神官長は、お母様のようにきゃあきゃあと騒げるような対象ではないのだ。
わたしが小さくそう言ったら、「まぁ、ローゼマイン。腹芸の一つもできない、敵を排除することもできないような優しいだけの男は駄目よ」とお母様に諭された。貴族社会、怖い。
もちろん、お勉強は毎日させられている。今は専ら洗礼式に集まる親戚についてのお勉強だ。お父様が領主の従兄なので、親戚関係は上流貴族ばかりで、長ったらしい名前を覚えるのに苦労している。
「伯爵や子爵の名前を覚えるのが大変なのです。何か簡単な覚え方はございませんか?」
神官長が様子を見に来てくれた時に愚痴を言ってみると、神官長は軽く肩を竦めた。
「さもありなん。君には馴染みがないからな。だが、覚えておかなければ、あとで困るのは君だ」
そう言って神官長は領地内の地図を広げると、わたしの親戚の所有する領地とそこで有名なものなどを祈念式で行った順番に指先でたどりながら教えてくれる。春先に行ったばかりなので、記憶に新しくわかりやすい。即座に横でメモをしながら、話を聞いた。
「領地持ちの親戚はまだ記憶しやすいけれど、城で勤める文官や武官は役職名も似ていてわかりにくいですね」
「ふむ。ならば、少しやる気が出るように褒美をつけるか……」
神官長はニヤリと笑って、わたしを見た。
「洗礼式までにこれを全て覚えて、無事に洗礼式を乗り切れば、君が神殿長になった暁には図書室と貴重本が収められた書棚の鍵の管理を任せよう」
「それって……」
図書室の鍵を持っていれば、好きに図書室へと入れるということではないだろうか。そして、今までは神殿長が管理していたため、見ることさえできなかった貴重本を読めるということではないだろうか。
「その通りだ。私の許可なく自由に図書室へ入れるし、貴重本を読むことができるようになる」
「やります! 死んでも憶えます!」
自由に入れる図書室で新しい本を読むためなら、行儀作法もお勉強もお母様の神官長語りも苦ではない。果然やる気が湧いてきた。
真剣に役職名と名前を睨み、暗記に没頭し始めたわたしは、お母様と神官長の会話を全く聞いていなかった。
「神殿長の職務をご褒美に見せかけるなんて、相変わらずフェルディナンド様は人を使うのがお上手ですわね」
「あれが扱いやすいだけだ」
そして、お勉強は順調に進み、根を詰めすぎて、ぶっ倒れた後、洗礼式の衣装の仮縫いも行われた。わたしが屋敷に来る前から、お母様が張り切って注文していたらしいが、持ち込まれた衣装は何故か四着あった。洗礼式の衣装なんて一つで十分だと思う。
「あの時はローゼマインの容貌も何もわからなかったから、念のために頼んでおいたのです。どの衣装が気に入って?」
多分、ここでどれでもいいです、と言うのはお嬢様失格だ。わたしは大きな姿見の前で着替えさせられ、お母様の顔色を見ながら、少し悩む。
どの衣装も色は白で、季節の貴色である青とわたしの瞳の色である金色が刺繍に使われているので、どれを着ても似たような感じに見える。
正直、この外見ならどれでも似合う。麗乃時代と違って、隠さなければならない欠点らしい欠点なんて特にないのだ。強いて欠点を挙げるならば、中身だが、それは大きな猫を被って隠すしかない。
わたしはそれほどごてごてした衣装は必要ないと思っているが、普段着せられている服や飾りから考えると、お母様は飾り立てるのがお好きらしい。とりあえず、お母様の好みを考えて、衣装を指差してみた。
「こちらか、そちらで悩んでいます」
「あら、ローゼマインも?」
あ、正解だったみたい。お母様は、どちらも似合うから困るわ、と真剣に悩み始めた。針子さん達はわたしが指差した衣装に着替えさせ、サイズを合わせていく。洗礼式を受ける子供のおよそ平均的なサイズで作ってくれた仮縫いの衣装だが、わたしにはちょっと大きい。一年留年しているのに。
「どうだ、決まったか?」
悩んでいると、お父様がやってきた。最終的に決まった衣装の確認をするのだそうだ。
「あら、カルステッド様。遅いですわよ。ほら、いかがです? とても可愛らしく仕上がったでしょう?」
「あぁ、よく似合っている」
「ですが、こちらとそちらで悩んでいるのです」
スカート部分のひだや胸元のデザインを比べては、ものすごく細かいところで良し悪しを付けているお母様を見て、お父様は肩を竦めた。
「細かい違いを延々と説明されてもよくわからんな。両方とも注文すればよいのではないか? 当日の気分で選べばよいし、子供は衣装を汚すことも考えられるだろう」
「そうしましょう」
お母様は嬉々として針子達に指示を出し始めた。その様子を横目で見ながら、わたしはお父様のマントをつかんで、くいっと引っ張ると、小さな声で話しかける。
「お父様、わたくしは衣装を汚すつもりもありませんし、二つも必要ないです。お金がもったいないですよ」
「エルヴィーラの長い説明と、後から何度も、やはりあちらの方が、と聞かされる苦行から逃れられると思えば、衣装の一つくらい安いものだ」
衣装を二つ買うのは、お父様なりの先行投資だったらしい。心と家庭の平穏が金で買えるうちは良いのだそうだ。悟りきっている目が気になる。何があったの、お父様?
洗礼式の前日には、騎士寮で生活している長男のエックハルト兄様と次男のランプレヒト兄様が戻ってくると連絡があった。
わたしはコルネリウス兄様に手を引かれて、出迎えに向かう。コルネリウス兄様は11歳の騎士見習いで、家から通っているため、朝食と夕食の時には顔を合わせている。けれど、普段は騎士寮で生活している兄様方と顔を合わせるのは初めてだ。
「初めてお会いするので、少し緊張いたします」
「……兄上達に会ったことはあるだろう? 私は話を聞いたことがあるぞ」
なんと二人の兄様は騎士として、トロンベ討伐の時も同行していたらしい。騎士団は皆が同じような全身を覆う鎧と顔を完全に隠せる兜を被っていたので、わたしの方には覚えがないけれど、兄様方はわたしを知っているそうだ。
「あぁ、もう着いたようだな」
わたしを急かして倒れさせたことがあるコルネリウス兄様は、側仕えにわたしを抱き上げさせると、早足で玄関へと向かった。
「兄上、おかえりなさい」
「コルネリウス、今戻った」
長男のエックハルト兄様は18歳で濃い緑の髪に青の瞳だ。お父様とよく似た顔立ちで、体つきも大柄でがっちりしている。
「おかえりなさいませ、エックハルト兄様」
「あぁ、ただいま戻った。……ローゼマイン」
少し体を屈めて、視線を合わせようとしてくれるエックハルト兄様と違って、次男のランプレヒト兄様はぐいっとわたしを抱き上げて視線を合わせる。
「本当にあの時の巫女見習いだ。巫女見習いが妹だったとは思わなかった。……ローゼマイン、お前、ヴィルフリート様より小さくて軽いな」
「ランプレヒト兄上、ローゼマインが驚いている」
コルネリウス兄様が注意を促したけれど、ランプレヒト兄様はニッと笑っただけだ。
「あぁ、本当だ。目が真ん丸になっている」
まだ成長期なのだろうか、16歳のランプレヒト兄様はお父様譲りの赤茶の髪に明るい茶色の瞳だ。エックハルト兄様に比べると頭一つ分くらい背が低いけれど、大人の平均くらいの身長はある。肉付きもお父様やエックハルト兄様に比べると薄く見えるが、抱き上げられるとかっちりとしているのがよくわかる。
「ただいま、ローゼマイン」
「おかえりなさいませ、ランプレヒト兄様」
「私は領主様の息子であるヴィルフリート様の護衛騎士を任されている。ローゼマインが養女となって、城に上がってからも顔を合わせることになる。よろしく」
明日はいよいよ洗礼式。
領主夫妻とヴィルフリートも招待されているらしく、また新しい家族との顔合わせである。