Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (202)
新しい課題と冬支度の手配
ハッセの町長に手紙を書き、使者に渡した。半日もかからないのだから、明後日、わたしが小神殿に向かうまでには届いているだろう。手紙を読んで、状況を把握して、おとなしくしてくれれば良いけれど、一体どうなることだか。
「放置しておいて大丈夫なのですか?」
「今は放置するしかあるまい。排斥するだけならば、力任せに簡単にできるが、大事なのは、その後だ」
町長を放置すると決めた神官長はそう言った。
貴族としての権力を使えば、町長のような小物を捕えるのも、首を物理的に飛ばすのも、簡単だ。けれど、その後のハッセの町を考えると、町長を飛ばすだけでは不十分になる。
「悪いことをする小物は排斥した方が良いのではないのですか?」
「ローゼマイン、悪いこととは何だ?」
「だから、孤児を売ったり、前神殿長や文官に『袖の下』……えーと、金品を渡したり……」
わたしが指折り数えていると、神官長は意外そうに眉を片方だけ上げた。
「それは、別に悪いことではないだろう?」
「え?」
思ってもみなかった言葉にわたしは目を瞬いた。お互いに不思議そうな顔になって、首を傾げ合う。
「孤児の面倒を見る代わりに、孤児の所有権を持つのだ。売るか否かは町長が決めることだ。そして、貴族に金品を贈って、融通を利かせてもらおうとするのは当たり前のことだろう? ベンノとて、私と初めて会う時には贈り物を持ってきたではないか。心証を良くしようとするのは、当然だ」
孤児の所有権は面倒を見ている者にあり、賄賂を渡すのは当然のことで、悪いことの範疇には入らないらしい。
「あれ?……では、町長のやらかした、悪いことは何ですか?」
「貴族である私の命令に従わなかったことと、許しもなく立ち上がろうとして我々の決定に異議を唱えたことに決まっている」
たとえ、町長が多少の不正をしていても、孤児を売り飛ばしていても、それが町の利益となっていた場合、町の者にとっては良い町長である。孤児を売った金を我がものとしても文句は言われない。むしろ、その金で町を潤わせることができるのならば、ハッセの者は町長を支持する。
今は数百、冬の館に集う農村の者を入れると千人程がいるハッセの領民と数人の孤児ならば、守られるべき対象は領民のはずなのに、孤児を守って町長を力技で退ければ、わたし達が憎まれる対象となる、と神官長は涼しい顔で言った。
思ってもみなかった言葉に、わたしの心臓が嫌な音を立てる。売られかけた孤児を救うことが悪いことだとは思ってもみなかった。
「えーと、つまり、ハッセの人にとっては、わたし達が悪なのですか?」
「今の時点ではそうだろう。貴族に売り飛ばすはずだった孤児を勝手にさらって行き、手を出せない小神殿に入れて、税を納める領民ではなく、数人の孤児だけを大事にしているのだからな」
神官長は平然とした顔で続ける。「全てを自費で賄っていた青色巫女見習い時代と違って、君は領主の娘である今の君は領民の税金で生きている。孤児と納税者、どちらを大事にしなければならないか、わからないか?」と。
新しく印刷業を始めるのだから、他の仕事に就いていない者が必要で、孤児院はとても都合が良かった。だから、各地に孤児院を立てて、印刷業を発展させていくことを考えたし、領主からも許可が出たはずだ。
「領主の許可が出たのは、今まで税金を納めていなかった者から税金が取れると判断されたからだ。ただの慈悲だけではない」
首筋がひやりとした。自分の能天気さと視野の狭さを突きつけられて、自分の中の常識がまた一つ突き崩されて、泣きたくなる。
「……悪事に対する認識がここまで違うとは思わなかった。あの小物は君の良い教材となるだろう。町長に対する反対派を作り、育て、町長を孤立させなさい」
「……はい?」
「町長を取り除いても、ハッセの町が順調に動くような後釜を作っておけと言っているのだ。こちらに賛同する従順な駒を育ててから、町長を排除すれば、全ては丸く収まる。やってみなさい」
どうせ、処分すると決まっているのだから、存分に利用すればよい、と事もなげに神官長がとんでもない課題を課した。
人を陥れるという課題を出されて、奥歯がカチカチと小さく鳴る。本のために暴走して、結果的に周囲に迷惑をまき散らすことはあったけれど、こうして意図的に誰かを陥れるために行動したことは今までない。人を陥れるなんて、してはならないことだ、と教えられて育ってきたのだ。
……怖い。
わたしが小さく首を振って尻込みすると、神官長は我儘を言う子供を宥めるように軽くわたしの頭を叩く。
「ローゼマイン、君がしっかりしなければ、小神殿の孤児達は森に出かけることもできない。そうすれば、工房での仕事ができないくせに、ご飯だけは一人前に食べる邪魔者になるだろう。ハッセの町だけではなく、孤児院の中でも疎まれる対象となるぞ。勝手にさらってきて、その上で疎まれるような環境を作るのは君の本意ではないだろう?」
「……人を陥れる方法なんて存じません」
わたしの精一杯の抵抗に、神官長はその場に膝をつき、わたしと視線を合わせると、ぞっとするほど甘い笑みを浮かべた。
「初めてだからな。やり方は教えよう」
綺麗な笑顔にたっぷりと含まれた毒が自分の中に流れ込んでくるのを感じて、わたしはぐっと奥歯を噛みしめた。
その夜はよく眠れず、寝不足に加えて、気が重いまま、わたしは城に向かうことになった。
冬の衣装を仕立てるための採寸と注文は早く済ませなければならないようで、昨日はリヒャルダから一日の間に三回もオルドナンツが飛んできたのだ。あまりにも急かされて、辟易した神官長によって、わたしは強制的に連行されることになったのである。
神官長の毒気に当てられて、あまり気分が良くないので休息が欲しいけれど、許してもらえなかった。鬼畜神官長め。
仕方がないので、城に行くついでに、フーゴを返してもらおうと思う。約束の期限は過ぎているから、問題ないはずだ。
「ギル、今日はお城に行ってきます。フーゴを返してもらう、とルッツに伝えてくださいね」
「かしこまりました。今日中に一冊は仕上げておきますから、元気出してください」
「ありがとう、ギル。ギルはそのまま真っ直ぐに育ってね」
素直で無邪気な笑顔に心底癒される。どこぞの誰かの毒々しい笑顔の後には尚更だ。ウチの側仕えは皆可愛い。
「ローゼマイン、どうした? 顔色が良くない」
「自分が人を陥れなければならないことを考えたら、眠れなかったのです」
誰のせいだよ、と思いながら、神官長を睨むと、神官長は驚いたように目を瞬いた。「そんなことでは、領主の娘として生きていけないぞ」と。
神官長にとっては初級者向きの課題だったのかもしれないが、わたしにとっては難題すぎる。神官長の言うままに課題を達成して、町長を陥れることに成功した暁には不眠症になりそうだ。
「弱すぎるな、君は」
「……存じております」
肉体的にも、精神的にも、自分が脆弱なことはわかっている。わたしがコクリと頷くと、軽く溜息を吐き、神官長が何かを考えるように眉を寄せた。
「……今、考えても仕方がないな。ひとまず出発しよう」
レッサーバスで城に行き、出迎えてくれるノルベルトに生温かい目で見られるのにも慣れてきた。
神官長は「料理人の件を領主に伝えてこよう。君は忙しいだろうから」と胡散臭いほど爽やかな笑顔でそう言って、バサリとマントを翻すと颯爽と去って行った。絶対にリヒャルダから逃げたかっただけだと思う。
「ローゼマイン姫様、お帰りなさいませ。針子はすでに準備済みですよ」
出迎えてくれたリヒャルダに急かされて、針子を待たせてある応接室へと向かった。たくさんの温かそうな布が巻かれて積み上げられていて、毛皮も種類豊富にたくさん揃えられている。
こうして生地から選んで仕立てるのは初めてだ。わくわくする気分が確かにあるのに、気分がちっとも浮き上がってこない。
「ヴィルフリート坊ちゃまもローゼマイン姫様も今年の冬が初めてのお披露目ですからね。どのような衣装を揃えるのか、よく考えなければなりません」
リヒャルダは今まで男の服ばかりを揃えてきたので、とても張り切っているらしい。お母様や養母様と一緒に、すでに何点かの冬服は注文済みだと言う。
「夏の寸法で一応作らせてはいるのですけれど、子供は成長が早いですから採寸はきちんとしておいたほうがよろしいと思いますよ」
わたし、なかなか大きくならないんだけどね。
魔力を体に満たしておかなければならないから成長しにくいだろう、というのが神官長の見立てだ。最近は魔力を使う機会も増えているし、ご飯もたっぷり食べているので、少しは成長していると信じたい。
採寸した結果としては、少し成長していた。同じ年頃の子に比べると、ほんの少しだけれど。
「姫様はどのような衣装にいたしますか? ヴィルフリート坊ちゃまの衣装がこちらですので、それに合わせた衣装にいたしましょう」
ヴィルフリートの衣装のデザインについて書かれた木札を見せられ、リヒャルダがお揃いの生地と色を勧めてくる。小さい兄妹がお揃いの服を着ているのを見るのは微笑ましいと思うけれど、自分が着るとなると微妙な気分だ。
「こちらとこちら、姫様のお好みはどちらですか?」
しかし、リヒャルダの中では生地と色を揃えることは決定しているようだ。あとはデザインの決定だけ。それも、すでに候補が絞られている。
わたしの場合、服にこだわりはそれほどないので、周囲が機嫌良く仕えてくれて、恥をかかない服ならば、別に構わないのだけれど。
「では、こちらでお願いいたします」
お披露目の衣装が決定したので、終わりかと思えば、冬の普段着に下着に靴など一式注文を終えるまで開放してもらえなかった。
せっかくなので、神殿で過ごすための服や敷物なども合わせて注文しておいた。去年の冬支度では服を揃えるのが大変だったので、大助かりだ。
「リヒャルダ、わたくし、養父様に料理人の件でお話があるのですけれど……」
「姫様の連れて来られた料理人は、今や城では人気が高いですよ。誰もがレシピを知りたがっているけれど、ジルヴェスター様が許可を出さないと伺っております」
どうやら、城で確実に人気を伸ばしているらしい。さすがフーゴだ。
わたしは少し誇らしい気持ちになりながら、「皆でおいしい物を食べた方が良いでしょうに」と文句を言うリヒャルダに小さく笑う。
「養父様もお金を出してレシピを購入しておりますからね。簡単には教えられないと思いますよ。冬の社交界で貴族達を驚かせるのだそうです」
「わたくしもジルヴェスター様の昼食に一度お招き頂きましたけれど、驚きましたもの。これは冬が楽しみですわね」
……その料理人、連れて帰るんだ。ごめんね。
心の中でリヒャルダに謝りながら、わたしは領主との面会時間を取ってもらえるようにお願いする。
「突然は難しいと思われますよ」
「フェルディナンド様がすでにお願いしてくださっているはずなのです。養父様に伺ってみてください」
「かしこまりました、姫様。少々お時間がかかります。こちらを読みながら、お待ち下さいませ」
リヒャルダが一冊の本を取り出して、わたしの前に置いてくれた。ぱぁっと顔が輝いていくのが自分でもわかる。重かった気分が一度奥へと押しやられ、本を読める喜びに満たされていく。
「ありがとう、リヒャルダ」
「いい子で待っていてくださいませ」
わたしはリヒャルダに笑顔で答えると、早速本を手に取って読み始めた。
神官長が揃えてくれていた魔術の本で、魔石の色と神の関係について書かれた本だった。神の貴色と関係して、使いやすい魔術が違うそうだ。水の女神とその眷属に関係する魔術に使われるのは、緑が一番魔力効率は良いというようなことが載っていた。
わたしはすでに聖典で神の名前も、眷属の名前も、それぞれが何を司っているのかも知っているので、それほど混乱はなく、読めたけれど、全ての神とその眷属に関する話が一度に出てくるので、この本だけで教えられれば頭が混乱するかもしれない。
そして、この本は本来大人向けなのだろう、言い回しも難しく、文章が長くてわかりにくかった。そして、全く同じ文章を書写するためか、文章自体が古くて読みにくい。芸術的な絵が載っているが、内容とあまり関係がないので、意味がないような気もする。
……これが貴族にとって必修の内容だとすれば、わたしが作っている眷属の絵本って、かなり需要があると思う。
冬の商売の成功に確信を抱きながら、わたしは本を読み進めていく。リヒャルダが軽く肩を叩いて、わたしを呼んだ。
「ローゼマイン姫様、5の鐘のお茶の時間ならば面会できるようです」
「助かったわ、リヒャルダ」
リヒャルダがもぎとってくれた面会時間まで、わたしは本を読んで過ごした。養父様との面会よりも本を読んでいたいと思ったのは秘密である。
5の鐘が鳴って、わたしは領主が執務をしている本館の表へと移動する。本館へと移動していると、護衛に捕まったらしいヴィルフリートがこちらへと連れて来られている姿が目に入った。
「ローゼマイン、こちらに来ていたのか?」
「ヴィルフリート兄様、ごきげんよう」
「どこへ行くのだ?」
「……どこかしら? 行く先は存じませんの」
わたしばかりが領主と話をするのがずるいと言っていたヴィルフリートに、「領主とお茶をする」とは言えない。
「本館の二階にある休憩室ですわ、ヴィルフリート坊ちゃま」
「……なんで、ローゼマインばかりが父上と」
ぐっと唇を噛みしめたヴィルフリートが憎悪の籠った目でわたしを睨んだ。
「ずるい! バカ! ローゼマインなんか嫌いだ!」
「バカはヴィルフリート兄様です。本が読める環境で本を読まずに逃げ回り、周りに迷惑ばかりかけて、何がずるいのですか? さっさと基本文字くらい覚えてください。こちらは勉強ができる時間を今か今かと待っているのです。兄様が文字を覚えて、勉強時間が増えていたら、フェルディナンド様から無茶な課題など出されなかったのですよ!」
最後は完全に八つ当たりだ。
まさか言い返されると思っていなかったのか、ヴィルフリートは深緑の目を丸くしてわたしを見た。ヴィルフリートの護衛についているランプレヒト兄様もぎょっとしたように目を見開いている。
普段なら聞き流しただろうが、新しい課題に心が荒んでいる今のわたしは、言われた分以上に言い返さなければ気が済まないくらいイライラしている。これ以上、突っかかってこないでほしい。
勉強から逃げ出して好き勝手しているヴィルフリートの姿は、自分のやりたいことだけをしていればよかったマインの頃を思い出させて、それだけでも苛立ちを感じさせるのだ。
「な、な……生意気だぞ!」
「領主の子として、為すべき勉強もせずに逃げることばかりを考えている卑怯者はどなたです? わたくしに生意気なことなど言わせないくらい立派な行動を心掛ければよろしいでしょう」
特に今はどんどん雁字搦めになっていく今の自分の立場を嫌悪したくなっているのに、同じ領主の子という立場で好き勝手しているヴィルフリートを見ていると張り倒したくなる。わたしの課題をお前もやれよ、と怒鳴りつけたい。
「ローゼマイン様! 抑えてください!」
ダームエルに肩を揺さぶられて、ハッとした。苛立ちのあまり、ヴィルフリートを軽く威圧してしまったようだ。この場はさっさと退散しよう。これ以上、ヴィルフリートと顔を合わせているのはお互いのために良くない。
「わたくしは課題が山積みで忙しいので、失礼いたします」
身を翻して、本館の休憩室へと向かうまでは良かったが、領主の館は無駄に広い。わたしには自室から執務室が遠すぎる。寝不足もあって、途中で息切れしてきた。
足の進みが遅くなってきたわたしを見て、コルネリウス兄様が顔を曇らせた。
「リヒャルダ、ローゼマイン様の顔色が良くないように見えるが……」
護衛騎士として領主の館にいる間はきちんとわたしを様付で呼ぶが、心配する表情は兄のものだ。
リヒャルダがわたしを覗き込んだ後、抱き上げて歩き始めた。まずい。頭がくらくらする。
「姫様、面会前に倒れないようにお気を付け下さいませ」
「ごめんなさい。……もういっそ館の中で一人用のレッサーバスを動かせればよいのですけれど」
「領主様に提案してみましょう」
休憩室へと到着した時には、すでに5の鐘が鳴った後で、養父様は神官長と側近の方々と共にお茶を飲んでいた。
「遅かったな、ローゼマイン」
「自室からここまでが遠すぎて、姫様は館の中で倒れかけたのです。館の中で騎獣に乗る許可を頂けませんか?」
リヒャルダがそう言うと、養父様は軽く眉を上げた。
「羽が邪魔だろう?」
「他の方は館の中で騎獣に乗ろうと思えば羽が邪魔ですけれど、姫様の騎獣には羽がございませんし、大きさも自由に変えられます」
リヒャルダの言葉に、養父様が目を輝かせた。
「ちょっと見せてみろ。私は見たことがないぞ。面白かったら、許可してやる」
「わかりました。館の中で乗るなら、一人用だから、これくらいの大きさで……」
わたしは魔石を取り出して、一人乗りのレッサーバスを作り出した。わたしの一人サイズに小さくなると完全に子供のおもちゃだ。乗り込んで、人が歩くくらいのスピードで部屋の中を動いてみる。
「それが騎獣か!? 何だ、それは!? わはははははは! 面白い! さすがローゼマイン。我々には全く思いつかないことをしてくれる」
レッサーバスを見て、ジルヴェスターは腹を抱えて笑い始めた。
「面白いので、採用する。ローゼマインはそれで館の移動を行うと良い」
「ちょっと、待て。ジルヴェスター!」
「何だ、フェルディナンド? 常に側仕えや護衛に抱き上げられて移動するよりはまだ良いだろう?」
領主のお墨付きをもらえば、怖い物なしだ。わたしは館での移動手段を得て、ホッと息を吐く。
席を勧められ、お茶が準備されると、養父様がちらりとわたしを見た。
「それで、用件は何だ?」
「すでにフェルディナンド様からお話があったと思われますけれど、料理人のフーゴを引き取って帰ります」
わたしがそう言うと、養父様はぐっと眉を寄せて、神官長を見た。
「……フェルディナンド、聞いてないぞ」
「え? フェルディナンド様は一体何の話をしていたのですか?」
「料理人のことより緊急の話があったのだ」
神官長はこめかみを叩きながら、「どうせ期限は終わっているのだ。連れて帰ることに何の問題もないだろう」と言いながら、わたしとジルヴェスターを見た。
わたしは何の問題もないけれど、ジルヴェスターはそうではないようだ。
「嫌だ。せっかく料理の味が安定してきたのだ。もう少し延長してくれ」
「嫌です。これ以上はできません。イタリアンレストランが開店できなくなってしまいます」
むぅっとわたしとジルヴェスターが睨み合っていると、神官長が「料理人を呼んで来い」と言った。本人に選ばせればよいだろう、と簡単に言ってくれるが、一介の料理人が領主の命令に逆らえるはずがない。
連れて来られたフーゴは土気色の顔をしていた。本来、料理人は平民の下働きで、貴族の部屋に連れて来られることなどない。わたしがエラに直接レシピを教えるのをフランが嫌がっていたように、平民の下働きは地階から出ることは滅多にないのだ。
「大儀であった」
「恐れ入ります」
跪いたフーゴに言葉がかけられる。俯いているフーゴの表情は見えない。
「其方、このまま宮廷料理人となる気はないか? このまま城で雇いたいと言えばどうする?」
「……それは……」
嬉々として受けるのではなく、フーゴが躊躇いを見せた瞬間、わたしは拒否だと受け取った。
「養父様、フーゴはギルベルタ商会から借り受けているだけですので、一度は必ず返さなければなりません。その上で、お誘いするのは、養父様の自由だと思います。できれば、後任を育てる時間は欲しいと思いますけれど、この場で引き抜くのはお止めくださいませ」
わたしがそう言うと、領主らしい顔を崩さぬまま、ジルヴェスターは軽く肩を竦めた。
「ふむ、残念だ。また食事処に食べに行くとしよう」
「心よりお待ちしております」
フーゴを連れて馬車で帰ることにしたわたしは、フーゴと一緒に挨拶して領主の前から退出する。
部屋を出た瞬間、フーゴが小さく息を吐いた。
「ローゼマイン様、助かりました。結婚したい相手がいるので、このまま宮廷料理人になるのは少し困るところだったのです」
去年の星祭りではタウの実を持って駆けだしていたけれど、とうとう恋人ができたらしい。それは、早く下町に帰りたいだろう。貴族街と下町では基本的に連絡手段がないので、遠距離恋愛よりずっと大変なことになる。
「では、結婚したら貴族街に移るのかしら?」
「……彼女次第ですが、できれば」
来年の星祭りを終えたら、宮廷料理人になるのもいいかもしれない、とフーゴはにやけた顔で呟いた。