Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (206)
閑話 一日神殿長 後編
工房の見学をしていると、絵本をくれた子供達が紙の枚数を数えたり、手の空いた者に次の作業の指示を出したりしているのがわかった。
「何故、あの二人の子供が指示を出しているのだ?」
「片方は側仕えで、片方は商人見習いだが、二人ともローゼマインが育てた腹心だ。ローゼマインからの指示を直接受け、工房を動かし、その報告をする立場にある。二人とも同じ年頃の子供に比べると、負担が大きいためか、ローゼマインを目指しているためか、成長が著しい。ローゼマインには人を育てる才能があるのかもしれぬな」
私に対しては馬鹿にするようなことしか言わないフェルディナンドが、工房の子供を褒め、彼らを育てたローゼマインを褒める。じりじりと胸の奥が焼けるような感じがした。
「5の鐘だ。部屋に戻るぞ。皆、良い働きぶりだ。これからも励むように」
「恐れ入ります」
フェルディナンドの言葉に工房にいた者が、誇らしげな笑みを浮かべて、その場にざっと跪いた。
絵本を抱えて、私は神殿長の部屋へと戻る。普段ならば、5の鐘の後は午後の勉強が終わった自由時間だ。今日も部屋に戻って、自由時間になるのかと思いきや、フランがテーブルの上に木札を数枚積み上げた。
「何だ、これは?」
「秋の収穫祭に赴くうえで覚えておかなければならない祝福の言葉です。注意事項の数々は実際に赴くことのないヴィルフリート様には必要ございませんが、祝福の言葉は魔術を使う上でも役立ちますので、どうぞ」
木札に書かれた祝福の言葉にざっと目を通したランプレヒトが、目を丸くして木札を指差した。
「……まさかローゼマインはこれを覚えているのか?」
「当然です。ローゼマイン様は神殿長ですから」
フランは表情一つ動かさず、本当に当たり前だという顔で頷いた。
「貴族間で一度良くない評価が下されると、それがずっとついて回ることはご存知でしょう? 領主の養女となったローゼマイン様に失敗は許されません。一年間は儀式の度に新しい祝福の言葉を覚えなければなりませんから、大変ですが、とても努力しておいでです」
神殿長が祝福を行う儀式の数を、フランは指を折りながら数え上げていく。ローゼマインが神殿長となったのは、夏の盛りなので、まだ季節一つ分しか経験していないと言う。
それでも、星結びの儀式、成人式、洗礼式をこなし、次は収穫祭へと向かうことになっているそうだ。神殿長がやるべきことは信じられないくらい多い。
「私は読めないから無理だ」
祝福の言葉が書かれた木札を見て、私は頭を振った。ローゼマインは憶えなければならないものかもしれないが、私が憶えなければならないものではない。
私が木札をフランへ返すと、フランはそれをすっと受け取って、ランプレヒトに差し出した。
「では、ランプレヒト様に読んでいただき、復唱して覚えてください。覚えたら夕食にいたします」
「なっ!?」
「真剣になれば、覚えられるものですよ。……神官長、お茶をお入れいたします。お疲れでしょう」
そう言ったフランはさっさと厨房の方へと向かう。私の要求を聞こうとしないフランに腹を立て、私は背中に向かって叫んだ。
「私は嫌だ! こんなものは憶えないぞ!」
ダンと床を踏みしめて怒鳴ると、フランが少し困ったように眉を寄せて振り返った。徹底的に言いこめようと口を開いた瞬間、フェルディナンドがわざとらしいほど大きな溜息を洩らす。
「ハァ……。フラン、ヴィルフリートは夕食が必要ないらしい。6の鐘が鳴っても憶えられていない場合は、先に夕食を取りなさい。神の恵みを回す時間に間に合わなくなるからな」
「かしこまりました」
……フェルディナンドめ、余計なことを!
ギリギリと奥歯を噛みしめて睨んでも、フェルディナンドは冷たい半眼で見返すだけで、全く私を恐れようとしない。
……これだから、シセイジは嫌いなのだ!
おばあ様がよく言っていた言葉を心の内で叫んで、ほんの少しだけ溜飲を下げる。
どうせ、祈りの言葉など、憶えなかったところで、夕食が本当に抜かれるわけがない。今まで字を覚えなくても、勉学の時間を抜け出しても、そのようなひどい扱いを受けたことはなかった。フェルディナンドが退室するまで待てば良いだけだ。
6の鐘が鳴った。食事の時間だから、とフェルディナンドが退室していく。
フェルディナンドを見送っていたフランの方をちらりと見てみると、フェルディナンドが退室すると同時に動き始めるのが見えた。
……やはりだ。フェルディナンドの言葉より、私の方が大事に決まっている。
フン、と鼻を鳴らして、私は食事の支度が終わるのを待っていた。ランプレヒトも「ここの食事は騎士寮よりおいしいですから」と食事を楽しみにしているようだ。
「お待たせいたしました、ランプレヒト様。お食事の準備が整いました。ブリギッテ様は後で良いとおっしゃられましたので、ダームエル様とご一緒していただいてよろしいですか?」
「あぁ、ダームエルと一緒なのは構わぬが……」
ランプレヒトが焦ったような顔で私とフランの間で視線を行き来させる。
「ヴィルフリート様のことはブリギッテ様が代わりに見ていてくださいますから、ご心配には及びません。召し上がれないヴィルフリート様がお気の毒ですので、護衛のための別室に食事を準備させていただきました」
私はランプレヒトの視線とフランの言葉に、何とも言えない衝撃を覚えていた。フランはフェルディナンドの言葉通り、本当に私に食事を与えないつもりらしい。
「フラン、其方、そのようなことをしてもよいと思っているのか!?」
「食事の準備は、祝福の言葉を憶えてからです、とお伝えしたはずですが? フェルディナンド様からもそう命じられております」
平然とした顔でフランはそう言った。城の側仕えならば、顔色を変えて私に従うのに、フランは、全く私の言うことを聞こうとしない。
「其方、私とフェルディナンド、どちらが偉いと思っている!?」
「フェルディナンド様に決まっているではございませんか」
「ぬっ!? 私は領主の正当なる息子だぞ! シセイジと一緒にするな!」
城ではシセイジであるフェルディナンドより、私の方が偉いと言われているのだ。そんなことも知らないとは、と思いながら、私が叫んだ。
今度こそはわかったか、と思ったら、フランはすっと目を細めて、それでも、意見を翻さなかった。
「いいえ、今の貴方はローゼマイン様の代わりの神殿長です。領主の息子ではなく、ローゼマイン様と同様に扱うよう、決して領主の息子として甘やかさぬよう、ローゼマイン様からの厳命を受けております」
「甘やか……す?」
思わぬ言葉に私は目を見張った。昼食時にローゼマインから言われた言葉が脳裏に蘇る。「私は別に甘やかされてなどないぞ」「では、わたくしの側仕えが甘やかさなくても特に問題ありませんね」「もちろんだ」そう言った。
「……私が食事を取りたいと言うのが、甘えなのか?」
「与えられた課題からも、罰からも、身分を振りかざして逃れようとする行動が甘えでございます。それが当たり前に通るのでしたら、ローゼマイン様と違って、ずいぶんと今まで甘やかされてきたのですね」
フランはにべもなくそう言うと、ランプレヒトに向き直った。
「お食事をなさってください。ここの食事は孤児院に運ばなければならないので、あまり時間が遅くなると困るのです」
「……私は……」
「一度ヴィルフリート様を他の者に委ねた方が良いでしょう。ヴィルフリート様にとって日常である貴方がいると、どうしても甘えが出ますから」
おっとりとした笑みを浮かべているが、有無を言わせぬ雰囲気でフランはランプレヒトを別室へと連れて行ってしまった。
私は見知ったものがいない空間に置き去りにされて途方に暮れる。
「ヴィルフリート様、わたくしがお読みしましょうか? こちらの側仕えは皆主思いで優しいですが、決して甘くはございません。ヴィルフリート様には驚きでしょう」
女騎士が木札を持って、私の隣に立った。確か、ローゼマインの洗礼式から護衛騎士に任命された女騎士だ。この者ならば、貴族としての目で神殿を教えてくれるだろう。
「ここの側仕えはローゼマインにも厳しいのか?」
「はい。領主の娘として、神殿長として、ローゼマイン様が間違ったことをしないように接しております。お仕え初めの頃、わたくしもローゼマイン様の負担が大きすぎる、とフランに苦言を呈しました。ですが、それは差し出口だ、と諭されました」
ブリギッテが木札を手に苦い笑みを浮かべた。護衛騎士が「負担が大きい」と口を挟みたくなる状況なのならば、本当にローゼマインの生活は大変なのだろう。
「ローゼマインはこれより多くのことを覚えるのか?」
「はい。こちらの祝福の言葉に加えて、儀式の進行、注意事項、祝福を与える対象やその人数までまとめられた木札がテーブルに積み上がっておりました。……当日は立派に役目を果たされましたよ」
ローゼマインを取り巻く環境と自分の環境の違いに愕然とした。まさか、本当に自分がそれほどまでに甘やかされているなど思わなかった。
「……読んでくれ」
「かしこまりました」
女騎士に木札を読んでもらい、復唱して暗記する。
食事を終えて戻ってきたランプレヒトが目を丸くして、私を見ていた。
「大変努力されましたね。素晴らしいです」
初めて笑顔を見せたフランによって、一人分の食事がテーブルに準備される。私が祝福の言葉を何とか憶えたのは、7の鐘が鳴る寸前だった。
一人だけ遅れた夕食なのに、温かそうな湯気が立っている。おいしく食べられるように、料理人が待っていてくれたらしい。
……なるほど。優しいけれど、甘くないというのは、こういうことか。
温かい食事を食べながら、私はそっと溜息を吐く。
無性に城へと帰りたくなった。父上と母上に報告したかった。今日は祝福の言葉を憶えたのだ、と自慢して、よくやった、と褒められたかった。
「……一人の食事は少し詰まらないな」
「ローゼマイン様もそうおっしゃられています」
「そうか。ここではローゼマインも一人で食事を取るのか」
食事を終えると湯浴みをして、側仕えから本日の仕事の報告を受ける。
そのようなことは初めてだった。私の側仕えは、常に私に付いているか、私を探しているかのどちらかだからだ。私がいない場で、別の仕事をしているということがない。
報告が終わると、ようやく就寝だ。ぐったりした。こんなに疲れたことはない。頭を使って疲れるなんて初めてだ。
普段よりも早い時間だが、私の意識はすっと落ちた。
「ヴィルフリート様、朝でございます」
そんな声と共に、天幕がざっと開けられた。明るい光が入ってきて、私はきつく目を閉ざす。
「まだ眠い」
「起床時間です」
「しつこいぞ。まだ寝ると言っている!」
私が布団を頭まで引き上げて中に潜り込むと、べりっと力づくで布団を引き剥がされた。このような乱暴な起こし方をするのは誰だ、と思って目を開けると、そこには見慣れた顔とは全く違う顔があった。
軽く目を細めたフランが私の体を無理やり起こして、寝台から引き摺り下ろす。
「私は起床時間だと申し上げました。着替えて朝食を取ってください。これでもギリギリの時間までお待ちしたのです」
神殿の朝は早かった。そして、誰かに叩き起こされるという経験も初めてだ。
フランに着替えさせられ、朝食を並べられる。普段ならまだ寝ている時間なので、少しぼんやりする頭で朝食を取った。
「朝食を終えたら、フェシュピールの練習ですわ」
ローゼマインの楽師がそう言ってフェシュピールを持ってきた。おそらくローゼマインが使っているのだろう、子供用のフェシュピールを見て、私は顔をしかめる。
「私はフェシュピールが苦手だ。好かぬ」
「ならば、尚更練習しなければ上達いたしませんね。音楽は貴族の嗜みです」
「そのくらい知っている」
楽器が貴族の嗜みだということは知っていた。だが、フェシュピールが得意な者ばかりではないし、そのうち自分に合う楽器を探せばよい、と横笛の得意なカルステッドが言っていた。
私がそう言うと、楽師はこてりと首を傾げた。
「カルステッド様とは祈念式でご一緒したことがございますが、フェシュピールが横笛に比べて得意ではないだけで、弾けないわけではございませんよ? フェシュピールで音階や歌、曲を覚えておくことは基本で、その上で、ご自分に合った楽器を探すのです。他の楽器を探すことは、フェシュピールの練習をしなくて良い理由にはなりません」
「な、なんだと?」
そのようなこと、カルステッドも私の楽師も言っていなかった。
「それに、ヴィルフリート様は洗礼式を終えたのですから、ローゼマイン様と同じように、この冬にはお披露目がありますよね?」
「それが何だ?」
「その時、子供達が演奏する催しがあると神官長より伺ったことがございます。フェシュピールの練習もしないようでは、周り全員ができるのにヴィルフリート様だけができなくて恥をかくのではないでしょうか?」
自分一人だけできない、という楽師の言葉に、私は自分一人だけ文字が読めなかった昨日のカルタの情景を思い出した。
同じ情景が他の貴族達の前で繰り返されることを考えただけで、情けなくて、悔しくて、顔と頭が熱くなるような、とても嫌な気分になる。
「ローゼマインは毎日練習しているのか?」
「予定が入ってできないこともございますが、神殿にいらっしゃる時は欠かさず練習されております。練習しなければ、すぐに指が動かなくなってしまいますから」
そう言って、楽師は楽譜を持ってきた。
「いきなり上達するわけがございません。毎日の練習が大事なのです。冬までの間に一曲だけ弾けるように練習なさってください。他は考えず、たった一曲でよいのです」
……冬までにたった一曲なら、何とかなるかもしれない。
その日の訓練はフェシュピールの練習なのに、フェシュピールを一度も触ることはなく、暗譜するまで音階を歌わされ続けた。
3の鐘が鳴って練習が終わると、楽師は綺麗な笑顔で私を褒める。
「大変結構です。城に戻ったら、その音階に合わせて指を動かす練習をなさってください。この短時間で暗譜できたのですから、ヴィルフリート様は覚えがよろしいですよ」
普段褒められることがないせいか、ひどくくすぐったい感じがした。「この曲が弾けるようになれば、洗礼式を終えた初めてのお披露目ならば、十分です」と激励してくれる。
城にいれば、これから午前の教師がやってくる。だが、ここには教師はいない。やっと自由時間か、とホッと安堵の息を吐いた途端、フランが手に様々な物を持ってやってきた。
「神官長のお手伝いの時間でございます」
「……は?」
「儀式の祝福以外の、神殿長としての職務の大半は神官長がこなしております。ですから、少しでも助けとなるようにローゼマイン様は執務のお手伝いをしていらっしゃいます。さぁ、ランプレヒト様も急いでください」
フランに急かされ、私とランプレヒトはフェルディナンドの部屋へと連れて行かれる。
フェルディナンドの部屋には何人もの側仕えがいて、皆がそれぞれの仕事をしているように見えた。ここで皆と同じように仕事をするのならば、大人の仲間入りをしたようで、少しばかり誇らしい気分になれそうだ。
昨日の工房で見た子供達のように仕事をするのだ、と張り切って入室すると、フェルディナンドが視線を上げて、私達を見た。
「あぁ、来たか。ヴィルフリートはそこに座って文字の練習を。手本を準備したので、石板で字を練習しなさい。ランプレヒトはこちらの計算だ」
フェルディナンドがテーブルを指差すと、周囲の側仕えが石板や紙、木札を運び、ランプレヒトと私の前に積み上げていく。あっという間にテーブルの上には木札やインク、計算機が並べられた。
「文字の書き取り!? 仕事の手伝いではないのか?」
「馬鹿者。文字一つ読み書きできない者に一体何の手伝いができるというのだ?」
書類から視線を上げることもなく、フェルディナンドがそう言った。
「ローゼマインは……」
「あれは私が教える前から少なくとも基本文字は全て書けた。単語に関しても教えたらすぐに憶えたし、図書室に入れたら大喜びで聖典を読み込んでいたので、文字を教えたことはほとんどない」
ローゼマインはフェルディナンドに教えられたわけでもなく、文字が書けるようになっていたらしい。一体何なのだ、私の妹は?
「そして、ローゼマインは工房で商人と接している分、計算が得意だ。ランプレヒトの前に積み上げたのは、普段ローゼマインがこなしている仕事だ。代わりをすると言った以上、きっちりとこなしてくれ」
ランプレヒトは自分の目の前に積み上げられた木札に大きく目を見開いている。私の勉強に関して、「やりたくない気持ちはわかりますが、やらなければなりません」と言っていたランプレヒトのことだ。きっと計算が苦手に違いない。
「仕事かと思えば文字の練習だと? そのようなこと、やっていられるか。私は知らぬ」
椅子から飛び降りて、いつものように逃げ出そうとした瞬間、フェルディナンドがシュタープを取り出して、早口で何やら唱えた。
「フェルディナンド様!? 一体何を!?」
ランプレヒトの焦った声を遮るように、シュタープから飛び出した光の帯が私に巻き付いてくる。ぐるぐると決して解けぬ魔力の帯に身動きすることもできず、私は無様に床に転がった。
フェルディナンドがつかつかと歩いてきて、私を荷物のように担ぐと、椅子の上に乱暴な動作でどさっと置いた。
「逃げだそうとしても、そうはさせぬ。其方が一日交代すると言ったのだ。自分の言葉に責任くらい持ちなさい」
魔力でぐるぐる巻きのまま椅子に座らされ、本物の紐で椅子に縛られた後、光の帯が解かれる。
あまりにも乱暴で無礼な扱いに呆然とした。何故、私にこのようなことをして許されるのか、全くわからない。
「ランプレヒト、早く計算しなさい。ぼんやりするな。時間の無駄だ」
ピッと背筋を伸ばして、計算を始めたランプレヒトを見れば、フェルディナンドに勝てないことが嫌でもわかった。仕方なく、私も石筆を手にとる。
ペンが走る音、計算機が動く音、そして、小声でフェルディナンドに許可を求めたり、仕上がった物を提出したりするだけの静かで緊迫した空間だった。息が詰まりそうだ。
ひとまず文字の練習をしてみたが、手がだるくなってきたので、石筆を置いた。
それに気付いたのか、フェルディナンドが席を立って、石板を見下ろす。
「……この程度か」
「ヴィルフリート様にしてはとても努力しておいでです、フェルディナンド様」
そうだ。いつもの私では考えられない程、よく練習したのだ。ランプレヒト、もっと言ってやれ。
私が心の中でランプレヒトを応援していると、フェルディナンドが私に向けていた冷たい視線をランプレヒトに向けた。
「この馬鹿者。其方等がそうして甘やかすから、このように怠惰な愚か者に育つのだ」
ランプレヒトが息を呑んで軽く目を見張る。そして、その後、反論しようとするように口を何度か開けたり閉じたりして、ぐっと奥歯を噛みしめた。
そんなランプレヒトを見下ろして、フンと鼻を鳴らしたフェルディナンドが冷め切った金色の目を私に向けてくる。
「ヴィルフリート、城では他の者が言うことはないだろうから、私が現実を教えてやろう。其方は領主の子としての気構えも覚悟も努力も全くない、領主の血を引いているだけの愚かで我儘な子供だ」
私にだって領主の子としての気構えくらいはある。それに、フェルディナンド以外の誰も私のことを「愚かで我儘な子供だ」などと言わない。間違っているのはフェルディナンドだ。
「フェルディナンド、無礼だぞ!」
「無礼? ただの事実だ。洗礼式を終えたのに、文字の読み書きも計算もできず、領主の子という立場を振りかざして全てから逃げ回るだけの能無しではないか。領主としての仕事を手伝わせることもできないくらい役に立たぬ無能が甘ったれるな」
うぐぐぐ、と唸りながら、私はフェルディナンドを睨み上げた。そんなことはない、と声を大にして反論したかったが、反論できるだけの言葉がない。
「フェルディナンド様、そのくらいで……」
「ランプレヒト、其方も何をダラダラしている? そのくらいの量、ローゼマインならば、すでに終わっている。遅いぞ。主従揃って使えぬな」
フェルディナンドはそう言ってランプレヒトを切り捨てると、真っ直ぐに私を見た。
「ヴィルフリート、其方の父は自分が跡継ぎ問題で嫌な思いをしたため、魔力量に問題がなければ長子である其方に継がせたいと考えている」
それは知っている。父上は私を跡継ぎとするつもりだと言っていた。
「上に立つ者が無能でも、周囲を優秀な者で固めれば、何とかなるとジルヴェスターは考えているようだが、優秀な者を集めるのと、優秀な者が留まって其方を支えてくれるのは別問題だ。ジルヴェスターと違って、其方にそれだけの求心力があるようには思えぬ」
「このような幼子に向かって、言いすぎです」
「幼子とは言っても、すでに洗礼式は終わっている。それに、ただの幼子ではなく、領主の子だ。本来ならば、養女であるローゼマインよりも、ヴィルフリートこそが自覚と責任を持たなければならないのだ」
正論すぎた。
ここにいれば嫌でもわかるローゼマインの優秀さと毎日の努力。側仕えが一丸となって、神殿長として、領主の娘として恥ずかしくないように、と数多の課題を課している。
それに比べて、私は一体何をしてきたのか。
「フェルディナンド様、確かにその通りですが……」
ランプレヒトが声を出した瞬間、フェルディナンドはぎろりときつい視線を向ける。フェルディナンドの目は私を見下ろしていた時より、ずっと怒りに満ちているように見えた。
うっ、と息を呑んだランプレヒトが、まるで視線で縛り付けられたように固まって動かなくなり、小さく震えている。フェルディナンドが少し身を乗り出すようにして、ランプレヒトに近付けば、ランプレヒトは苦しそうに小さく呻いた。
「努力しない能無しはヴィルフリートだけではない。其方もだ。主のためを思うならば、椅子に縛り付けてでも学ばせろ、ランプレヒト」
何ということを言うのだ、と私が目を見張った次の瞬間、フェルディナンドは一瞬だけちらりと私を見た。
「ローゼマインは色々な意味で特殊だから、比較対象にはならぬし、ヴィルフリートに同じような結果を出せとは言わぬ。だが、領主の子だと言うのならば、周囲に認められるようにローゼマインと同程度の努力くらいはするべきだ。違うか?」
「……おっしゃる通りです」
苦しそうにランプレヒトが言葉を絞り出した。フェルディナンドに呪いでもかけられているようだが、今のフェルディナンドはシュタープも持っていない。フェルディナンドがランプレヒトに何をしているのかわからず、何とも言えない恐怖だけが心の中に積もっていく。
「フランから報告を受けたが、昨夜、ヴィルフリートは祝福の言葉を憶え、フェシュピールの暗譜をするという課題をこなした。最初から愚かだったのではない、と私も認識を改めた。やればできるし、努力できないわけではない。ならば、甘やかして主を愚か者に育てているのは、周囲の者だ。其方等の責だと自覚せよ!」
フェルディナンドがふっと息を吐いて、目を伏せた途端、ランプレヒトがテーブルの上に伏せるように崩れ落ちた。
「ランプレヒト! フェルディナンド、其方、何を……」
「ヴィルフリート」
私の言葉を遮り、フェルディナンドはずしりとした重みのある声で私を呼んだ。声に重みを感じるなどおかしいかもしれない。だが、本当に肩とお腹にぐっとくるような重い声だった。
そして、冷酷な、私に対して温かみのある感情を全く持っていない、暗くて冷たい金色の目を向けられて、私は小さく息を呑んだ。今まで誰にも向けられたことがない怖い目に、知らぬうちにカチカチと小さく歯が鳴りだす。
「私は、何の努力もせず、困難も苦労も知らぬ其方のような者を主と仰ぐのは真っ平御免だ。今のままの其方が領主の地位に就くというのならば、私は其方の弟妹を育て、其方を全力で叩き潰す」
父上やおばあ様が、跡取りは私だ、と言ったから、自分は絶対に跡取りなのだと思っていた。その言葉に逆らおうとする者が存在するということさえ考えたことがなかった。自分の立場が絶対のものではないと叩き込まれて、泣きたくなる。
「領主となるのは、本来、正妻の子の中で最も魔力量が多い者だ。覚えておけ」
私がゴクリと唾を飲んだ時、4の鐘が鳴り始める。
生活を入れ替えると約束した一日の終わりだった。