Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (208)
入れ替わり生活 後編
静かな怒りが籠った声に、ひゅっ、と息を呑む音がそこかしこで聞こえた。ヴィルフリートの筆頭側仕えであるオズヴァルトなど、もう顔色がない。
「ジルヴェスター、私は其方を領主として認めている。書類仕事から逃げ出すことがあっても、肝心のところでは逃げ出すこともなく、きっちりと領主としての役目と責任を背負っているからな。だからこそ、ヴィルフリートも気性がよく似ていて、教師から逃げ回っていると聞いても、似たようなことをよくしていた、と言う其方の言葉を信用してきた」
神官長は淡々と語る。その口調が静かなことが一層怒りを感じさせて、怖い。神殿で一体何をしてヴィルフリートは神官長を怒らせたのだろうか。
自分が怒られているわけでもないのに、胃の辺りがきゅっと絞られるような感じで、反射的に「申し訳ありませんでした」と謝りたくなるのは、普段から怒られているせいかもしれない。
「ヴィルフリートが領主となっても、優秀な補佐を付ければ問題ない、と思ってきたが、ヴィルフリートはジルヴェスターではない。そして、ランプレヒトもカルステッドではない。気性や言動が似ていても違う」
「それは……親子と言っても別人だから、当たり前だろう?」
お父様が顎を撫でながら、少しばかり眉を寄せた。
「あぁ、別人なのだ。私はローゼマインに指摘されるまで、似ているから同じように育つと何となく思ってきた。だが、違う。領主だから責任を背負うジルヴェスターと、領主の子という身分を振りかざして課題から逃れようとするヴィルフリートが同じように育つとは考えられない」
「はい! 質問があります」
きっぱりと断定した神官長に向かって、わたしはビシッと手を挙げる。凍った空気をぶった切るような行動だったようで、全員が息を呑んでわたしを見た。
注目を集める中、神官長は先を促すように軽く頷く。
「フェルディナンド様はヴィルフリート兄様の何を見て、そのような答えを出したのですか? 跡継ぎ候補から外すというのは、とても影響が大きいことだと思うので、ダメだと判断した理由を教えてください」
答えを求めて身を乗り出すようにしたジルヴェスターを見て、ふむ、と神官長は顎を撫でた。
「私がよく知る子供がローゼマインなので、ローゼマインと無意識に比べるから劣って見えるのか、と考えていたのだ。だが、そうではなかった。ヴィルフリートは、孤児院の子供にも、工房で働く商人見習いやローゼマインの側仕えにも、劣っている」
辛い評価にジルヴェスターとフロレンツィアが目を見張った。今まで耳にしていた教師や側仕えの評価と、神官長の評価では大きく違ったからだろう。
それは言い過ぎでは、と小さく呟いたジルヴェスターの声に、わたしはほんの少しだけ眉を寄せた。言い過ぎでも何でもない。事実だ。
「劣っていて当然でしょう」
わたしの発言に領主夫妻がぎょっとしたようにわたしを見た。けれど、わたしは発言を止める気はない。現状をきちんと認識してもらわなければ、環境を整えることも、ヴィルフリートを戒めることもできないのだ。
「わたくしの孤児院の子供達は、いつ青色神官に仕えることになっても恥ずかしくないように厳しく躾けられています。目的意識を持って、常に向上しようと努力を重ねて日々を生きているルッツやギルと、周囲が全ての我儘を通して我慢も努力もしていないヴィルフリート兄様では、比較対象にもなりませんよ。……それにしても、フェルディナンド様がそこまで怒るなんて、兄様は何をしたのですか?」
わたしの追い討ちに一番反応して項垂れたのは、ヴィルフリートの筆頭側仕えであるオズヴァルトだった。孤児にも劣る、と二人から聞かされれば、ただの辛口批評ではない、と少し認識を改めたようだ。
「ヴィルフリートは座って話を聞くこともできず、課題をこなせ、と言われてもやろうとしない。そこまでならば、ジルヴェスターで慣れているので私は我慢できた。だが、アレは領主の子であるという立場を振りかざして、逃れようとした。身分を責任逃れに使う愚か者を領主とするわけにはいかない」
跡継ぎの候補から外せ、と神官長が冷たく言い放つ。それは本気の言葉で、全く取り付く島がない態度だった。神官長の譲らない本気を感じたジルヴェスターの顔色が変わる。
「待て、フェルディナンド。直に改善する。それくらいは私が幼い頃も……」
「ジルヴェスター様! 貴方とヴィルフリート様では程度が違う、とわたくしが何度も申し上げたはずです。聞いていらっしゃらなかったのですか!?」
息子を援護しようとした途端に落とされたリヒャルダの雷にジルヴェスターがぐっと口を噤んだ。
すぅっと神官長の目が細められた。ジルヴェスターを見ながら、他の誰かを見ているような、少し遠い目になり、わずかに唇の端が上げられて、ひやりとするような笑みを形作る。
「領主の子として生きていくならば、努力し、結果を出すのは当然だ。結果を残せないような役立たずなど、領主の子ではない。養育にかける費用が無駄だ。無能は生きている価値もない。役立たずの領主の子など城に置いておくことはできないのだから、放り出されたくなければ、それなりの成果が必要に決まっている」
わたしは「領主の養女となったのだから」「将来は領主の子として領主の補佐をするのだから」と課題を課す時に、もう少し言葉は柔らかいけれど、似たような意味合いのことを言われたことがある。
余所から入っていくわたしだから、厳しいのかと思っていたが、神官長は領主の子ならば誰にでも同じことを要求するようだ。厳しいけれど、公平でわかりやすい。
さすが神官長、と頷いているわたしと違って、ジルヴェスターはこめかみを押さえて頭を振った。
「フェルディナンド、いくら何でも、その言い分は7歳の子供に厳しすぎるだろう」
ジルヴェスターの言葉に、神官長は笑みを濃くする。それは嘲りと失笑が混じったような笑みだった。
「何を言っている、ジルヴェスター? これは私が洗礼式のために城へ連れて来られた7歳の頃から、其方の母親にずっと言われ続けてきたことだ。厳しすぎる? おかしなことを言うな」
神官長の己にも他人にも厳しい成果主義の根源がわかって、溜息が隠せなかった。
幼い頃から常に厳しい態度と言葉で追い詰められ、弱みを見せられない、と薬で体調を無理やり立て直して生きてきた神官長から見れば、ヴィルフリートの現状など、甘すぎて吐き気がするだろう。
「領主の子であり、あの人に養育されてきたヴィルフリートならば、当然この程度のことは弁えているに決まっているではないか。そのうえであの態度なのだから、廃嫡にして城から出すのが適当だ。今は魔力が不足しているから神殿で預かっても良いぞ」
淡々と吐き出される言葉に深い恨みと怒りを感じて、周囲がゴクリと唾を飲んだ。
前神殿長や養父様の母親に神官長が疎まれていたのは、事情を詳しくは知らないわたしにも何となくわかっていたけれど、ジルヴェスターとは仲が良かったので、楽観視していた。洗礼式直後に親から引き離され、養母から厳しい言葉を浴びせられ、唇を噛みしめながら生きてきたとまでは思っていなかった。
反論しようがない正論の固まりに、ジルヴェスターがぐっと奥歯を噛んだ。そんなジルヴェスターの肩にそっとフロレンツィアが手を差し伸べる。救いを求めるように顔を上げたジルヴェスターは、フロレンツィアの顔を見て、ピキッと固まった。
「ジルヴェスター様、貴方、わたくしに何とおっしゃいました? 自分と同じように育てるから何の問題もない。お義母様にお任せしておいたら、少なくともご自身と同じ程度の領主には育つ、とおっしゃって、ヴィルフリートの養育をわたくしから取り上げてお義母様に任せたのですよね?」
嫁姑戦争が激しく、「嫁いできたばかりでこちらの習慣も知らぬ嫁に子育ては任せられない」とフロレンツィアはヴィルフリートを姑に取り上げられたらしい。
ジルヴェスターによく似た初めての孫であるヴィルフリートをジルヴェスターの母親は殊の外可愛がっていたようだが、今の状況を見れば、それが間違いだったとしか思えない。
……あの神殿長を庇い続けた人だもんね。情は深いのかもしれないけど、ダメなタイプの甘やかし方をする人、ってことだよね?
身内には甘く、神官長やフロレンツィアのように余所から来た者にはひどく厳しい。ヴィルフリートにどんな教育をしていたのか、考えただけで頭が痛い。
我が子を強引に取り上げられ、その子が役に立たぬ無能と断じられたのだ。母親であるフロレンツィアは、笑顔に怒りをにじませてジルヴェスターを見つめる。
「義母様に任せた結果がこの有様ですか? このまま領主になっても、ヴィルフリートを誰が支えてくださると言うのです?」
「いや、それは……」
「言い訳は結構です。貴方はヴィルフリートに対して、取り返しのつかないことをしたのですから」
笑顔の中で怒りに燃えている藍色の瞳がぎらりと輝いているように見える。その目がぐるりと食堂を見回し、わたしの背後に控えているオズヴァルトのところでピタリと止まった。
「オズヴァルト、貴方には失望いたしました」
「フロレンツィア様! お待ちください! 私は……」
「怠惰の言い訳も、わたくし達に正確な報告をしなかったことに関する言い訳も、どちらも必要ありません。わたくしが知りたいのは正確な現状なのです」
養母様はおっとりとした笑顔をわたしに向けた。笑顔の下に、誰に対するものかわからない怒りが透けて見えている。怒って、泣いて、叫んで、責任者を罵れば多少はすっきりするかもしれないのに、それを押し殺して、先を見据える目が綺麗だ、と思った。
「ローゼマイン、貴女はどう感じたのかしら? 自分の側仕えや護衛騎士と比べて、ヴィルフリートを取り巻く環境やヴィルフリートの現状をどう思ったのか、正直なところを聞かせてくださる?」
「はい、養母様。……わたくしの工房に出入りする商人も、孤児院育ちの側仕えも、読み書き計算ができます。一冬でできるようになりました。それなのに、兄様は教師まで付けられて、数年かかってもできないなんて信じられませんでした。今日一日、過ごしてみて思ったのは、兄様には目標と真剣さと環境が足りないのではないかということです」
「目標と真剣さと環境ですか?」
やや目を細めたフロレンツィアの目が、改善するべき点を探して、わたしを見ている。
「こうなりたい、と明確に目指す目標があれば、人は努力します。次期領主と決まっているヴィルフリート兄様には目標がないと思うのです。目標がないから真剣に努力することもありません。そして、努力しないから、努力して課題をこなして得られる達成感を知りません。それだけではなく、成功を褒めてあげて一緒に喜んでくれる身近な人、負けたくないと思えるような競争相手……成長するための環境が全く足りていないと思いました」
軽く頷きながら、真剣に聞いているフロレンツィアの横で、ジルヴェスターが苦い顔になる。
「……競争は別に必要ないだろう。外の者とならば、ともかく、肉親間ではいらぬ」
「競争は成長する上で大事なことです。領主としての才能を伸ばすならば、跡継ぎは競争させて決めるべきだと思います。養父様は兄弟間の蹴落とし合いに辟易したかもしれませんが、それもまた身内に甘くなりすぎないようにするには必要な課題ではないのですか?」
ただでさえ、ここの一族は身内に甘いみたいだから、と心の中で付け加える。フロレンツィアはまるでその声が聞こえたかのように、大きく頷いた。
「養父様、本気でヴィルフリート兄様を跡継ぎにしたいと思っているならば、どうしてリヒャルダをわたくしではなく、ヴィルフリート兄様に付けなかったのですか? リヒャルダは養父様を育てた方ですから、リヒャルダが付いていれば、兄様の機嫌取りなどせずに、厳しく躾けたでしょう。未だ基本文字さえ読めない、数字も半分ほどしか読めないような状況にはならなかったと思います」
愛情を持って、お父様と養父様と神官長をまとめて叱り飛ばせる貴重な人材がリヒャルダだ。神殿にいることが多くて、城にいることが少ないわたしではなく、ヴィルフリートに付けるべきだったと思う。
「将来は嫌でも責任を負う立場になるのだ。子供時代くらいはのびのびと過ごさせてやりたいと思うだろう? あまり締め付けがきつくては可哀想ではないか」
「このままの状態が続いて、読み書き計算もできず、これから教育を受ける弟妹と比べられて馬鹿者扱いされるのは可哀想ではないのですか? 冬のお披露目の時に貴族が集まる前で、一人だけフェシュピールが弾けずに恥をかく方が、わたくしはよほど可哀想だと思いますけれど、養父様はどう思っていらっしゃるのですか?」
自分が嫌だったことを取り除いてやりたい親の心情と言えば、聞こえは良いけれど、実態は優しい虐待だ。親心であり、自分がしていることが悪いことだと思っていないジルヴェスターに、わたしは近い未来に起こることを突きつけた。
「……それはそうだが、幼い頃から練習させているのだ。フェシュピールくらいは弾けるだろう?」
自分の子供時代を引き合いに出すジルヴェスターの前に、リヒャルダが眉を吊り上げて、ずいっと進み出た。
「ジルヴェスター様、わたくし、本日ヴィルフリート様は練習が嫌で、常に逃げ出しているので、未だに音階さえ押さえられない、と楽師から伺いましたけれど、どのように弾くのです? 何年たっても基本文字がわからないのに、どのようにして領主の仕事をさせるのです?」
「今はできなくても、いずれできるようになる」
「嫌々でも必要なことを叩き込まれたジルヴェスター様と、叩き込む者がいないヴィルフリート様では基礎が全く違う、と言っているのです。どこまで頑ななのですか。執務の時のように問題点を直視なさい!」
ビシッと領主を叱りつける姿を見ていると、リヒャルダはやはり領主の血族の教育係にした方が良いと思う。
「ジルヴェスター様、もうお義母様もいらっしゃらないことですし、ヴィルフリートの教育に関することは全てわたくしに返していただきます。義母様や前神殿長をギリギリまで断罪できなかったように、身内に関しては現状を認めようとしない貴方にヴィルフリートはお任せできません」
笑顔ですっぱりとジルヴェスターに役立たずの烙印を押したフロレンツィアが、ジルヴェスターに背中を向けるように、少し座り直して、わたしを真っ直ぐに見た。
「ローゼマイン、孤児院の子供達には一冬で読み書き計算ができるようにした貴女ならばどのように環境を整えますか? 環境を整えれば、今なら、まだ冬のお披露目に間に合うかもしれません」
我が子を何とかしたいと思う母親の真剣な眼差しに、わたしはコクリと頷く。
「そうですね。まず、きちんと跡継ぎ争いをさせます。今の怠惰な状態では継がせられない、と本人に告げて危機感を持たせます。本人だけが危機感を持っても仕方がないので、側仕えや護衛騎士も真剣に取り組めない人は、どんどん入れ替えます」
「すぐに全員を入れ替えるのではないのですか?」
フロレンツィアの言葉に、わたしは軽く首を振った。
「側仕えは生活に密接していますから、いきなり全員の顔ぶれが変わるのも落ち着かないと思います。慣れた顔ぶれを残す代わりに、監督役としてリヒャルダを付けます」
「リヒャルダを? 貴女の筆頭側仕えではないですか」
驚いた声を上げて、フロレンツィアはわたしとリヒャルダを見比べる。
「わたくしはこれから収穫祭がありますし、孤児院の冬支度をしなければなりませんから、冬の社交界まではほとんど城にいる期間がないのです。その間、リヒャルダに側仕えと護衛騎士を教育し直してもらえば良いのです」
部屋の雑事だけならば、他にも側仕えはいる。ヴィルフリートの教育も大事だが、それ以上に周囲の教育が必要なのだ。領主も頭が上がらないリヒャルダに、次期領主を育てるということがどういうことなのか、徹底的に叩き込んでもらえば良い。
「それは、心強いですけれど、リヒャルダはよろしいのですか?」
「もちろんです、フロレンツィア様。あのようなヴィルフリート様をそのままにはしておけませんからね」
じろりとオズヴァルトを睨むリヒャルダは、すでに臨戦態勢だ。頼もしい。
「では、リヒャルダに主として命じます。わたくしが不在の時は、ヴィルフリート兄様のお部屋で監督役として、兄様の環境を整えることに全力を尽くしてください」
「確かに拝命いたしました」
リヒャルダがその場に跪き、首を垂れる。少し安心したようにフロレンツィアの笑顔から怒りが薄くなった。
「それから、成長のためには親の背中を見せると良いです。具体的には仕事をしている父親の姿を見て、このように仕事をするのだ、と目と心に刻み、目標にするのです。二、三日に一度、それほど長い時間でなくても良いので、養父様の執務室で机を並べてみるのはいかがでしょう?」
自分が担う仕事内容や責任がわからないから、簡単に身分を振りかざすのだ。領主となれば、しなければならないことを教えた方が良い。
「まぁ、それは素敵な考えだわ。執務室でヴィルフリートはお勉強を、ジルヴェスター様は執務をなさるのですね?」
「フロレンツィア……」
困ったような声で呼びかける、微かなジルヴェスターの反抗は、フロレンツィアの笑顔に封じ込められる。
「息子のお手本となる方が、お忍びと称して下町を出歩くより大事ですもの。父親として協力していただけますよね?」
「……も、もちろんだ」
ジルヴェスターは「何故下町に出たことを知っている?」と言わんばかりの顔で、了承する。情報を掻き集めておいて、すぐに問い詰めたり、禁止したりするのではなく、ここぞという時に効果的に使う手腕は見習った方が良さそうだ。
「他には何か思いつくことはございませんか?」
「……後は、護衛騎士でしょうか。ヴィルフリート兄様に手心を加えず捕まえて、躊躇いもなく椅子に縛り付けられるような人でなければ、兄様の護衛騎士には向きません。ランプレヒト兄様より、エックハルト兄様の方が向いていると思うのですけれど」
成人して一年半のランプレヒト兄様よりも、成人して数年たっているエックハルト兄様の方が色々な意味で立ち回りもうまいと思う。それに、神官長と年が近くて一緒にいる時間が多かったので、神官長を尊敬していると言っていたことからもわかるように、エックハルト兄様は笑顔で厳しく接することができそうなのだ。
「エックハルトは駄目だ。ヴィルフリート様の洗礼式の前に、一応、一度声をかけたが、断られている」
頭を振ったのはお父様だった。
わたしが「一応?」と首を傾げると、神官長が軽く肩を竦めた。
「ローゼマイン、エックハルトは私の護衛騎士だ。神殿に連れて行くわけにはいかなかったので、今は騎士団で新人の訓練や事務仕事をしているが、公的な場に出る時は未だに私の護衛騎士として付くことになっている」
初めて知った。そうか、神官長も領主の子なのだから、護衛騎士がいてもおかしくない。神殿でも城でも付き従っているのを見たことがなかったので、全く思いつかなかった。
「わたくしは神殿に護衛騎士を連れているのですから、神官長も護衛騎士をお連れすればよいのでは?」
「いや、領主の養女として領主の命で神殿長となったローゼマインと、政治の世界と関わらないことを対外的に示すために自ら神殿に入った私では立場が違う」
そう言われればそうか、と納得するしかない。けれど、神官長を冷遇してきた養父様のお母様も失脚したのだから、還俗はしないのだろうか。いや、今されたら困るのだけれど。
「エックハルトはフェルディナンド以外に仕える気はないそうだ。次期領主の護衛騎士という立場を蹴って、神官となったフェルディナンドに今でも嬉々として付き従う変わり者だ」
そう言って、お父様は軽く肩を竦めた。
そこまで神官長に肩入れしているならば、神官長を冷遇してきた人に養育されたヴィルフリートに仕えるのは、絶対に避けたいだろう。無理やり仕えさせたら、ヴィルフリートに変な八つ当たりをされそうだ。
「エックハルト兄様が駄目ならば、ランプレヒト兄様を鍛えるしかないですね」
「フン、いくら環境を改善したところで、本人にやる気がなければ無駄だ。未だ幼い弟妹の教育に力を入れた方が良い。役に立たぬ無能は早目に退けておけ。禍根を残したら面倒だ」
何とかヴィルフリートの現状を改善しようとする流れが気に入らないのか、神官長は鼻を鳴らして冷たく言い放った。
「待ってください、フェルディナンド様。まだダメではありません。環境が悪かっただけならば、環境を整えれば大丈夫です。先程フェルディナンド様が認めてくださったわたくしの側仕えは、孤児院一の問題児と言われたギルですよ。10歳でも本人にやる気があれば、変われるのです。ヴィルフリート兄様は7歳ですもの」
変わろうと本人が思えば、目を見張るほどの成長も可能な年だ。ヴィルフリートを擁護するわたしの言葉に、ジルヴェスターが希望の光を見つけたように顔を輝かせてわたしを見た。
「本当か、ローゼマイン!? まだ間に合うのか!?」
「……もちろん、本人のやる気と努力次第ですよ。何もせずにできるようになることなどありませんから」
希望を見つけたようなジルヴェスターに比べて、苦虫を噛み潰したような神官長が対称的すぎた。そこまでヴィルフリートを廃嫡したいのか、と思っていると、神官長はぐにっとわたしの頬をつねった。
「ローゼマイン、其方、自分があれだけ課題を抱えているのに、最初から逃げ出すことしか考えていない愚か者を更生するような余計なことに、時間と体力を使うつもりか? 其方まで愚かになるし、そのような余裕はないだろう。止めておけ」
言葉は刺々しいけれど、わたしの体調を心配してくれているのだと思う。とても前向きに考えると、多分。
わたしはヒリヒリする頬を押さえながら、神官長を睨み上げた。
「フェルディナンド様のおっしゃる通り、わたくしにはそんな余裕はありません。けれど、環境が悪いとわかっているのに、このまま放置なり、廃嫡なりになるのは気分が悪いのです。やっと母親であるフロレンツィア様が教育に口を出せるようになったのですもの。育てられるならば育ててあげれば良いではありませんか」
「ローゼマイン、私は感情に走って余計なものを抱え込むな、と言っているのだ。君の悪い癖だ」
物分かりの悪い生徒を眺めるような呆れを含んだ金色の目に見下ろされたので、うむむむ、と反抗的に唇を尖らせて、わたしは神官長を見上げた。
「……じゃあ、ヴィルフリート兄様にやる気があれば良いのですね?」
「どういう意味だ?」
「わたくし、フランに渡した予定表の中で二つの課題を出しています」
わたしが指を二本立てると、少しばかり興味を持ったように神官長が目を細めた。
「祈りの言葉を憶えるというものと、フェシュピールの曲を暗譜するというものです。ヴィルフリート兄様が課題をこなしていたら、環境が悪いだけで、やる気はあるということです。フェルディナンド様も認識を改めて、教育計画に協力してください」
「協力とは私に何をさせる気だ?」
無駄だと言いたげな冷笑に、わたしもにっこりと笑う。
「ヴィルフリート兄様に廃嫡の脅しをかけて危機感を煽り、甘やかしていたランプレヒト兄様に喝を入れてください」
今までにほとんど触れ合いがない親から廃嫡の話を聞かされるのは、ヴィルフリートが可哀想すぎる。親は褒めたり、慰めたり、ご褒美を与えたりする飴の役に置いておきたい。鞭役にピッタリな人がいるのだから、適材適所というやつである。
「後は……そうですね。ヴィルフリート兄様を椅子に縛り付けてでも勉強させるとか? 心胆寒からしめて、後がない崖っぷちであることを頭と心に刻みつけていただきたいのです。フェルディナンド様は、そういうの、お得意でしょう?」
「得意か、不得意か、と聞かれれば得意だが、やりすぎる可能性は否めない。それで、構わないのか?」
心胆寒からしめて、谷に突き落としたい、と言っていた神官長のやる気に満ちた黒い笑みに、心の中で二人に合掌しながら、わたしは頷いた。何も知らないところで廃嫡にされるよりは、うなされるくらいの危機感を持つ方がマシだ。
「それで、ヴィルフリートが課題をこなせなかった場合はどうするつもりだ?」
「課題をこなせていなくて、やる気がないのだと確証が得られれば、フェルディナンド様のおっしゃるように、ヴィルフリート兄様は跡継ぎの候補から外して、弟妹の教育に力を入れます」
わたしの答えに神官長が「ほぅ」と意外そうに軽く眉を上げ、ジルヴェスターが焦ったように立ち上がった。
「ローゼマイン、それではヴィルフリートがあまりにも……」
「養父様達が甘やかしすぎた結果ですね。その時は諦めてください。勝負は冬のお披露目までなのです。失敗したら、その汚名と評価はずっと残りますから、本当に時間がないのです」
こちらの方が仕事は多いのに、やる気のない子の面倒なんて見ていられません、とわたしが言うと、ジルヴェスターがこめかみを押さえて、ドカッと座った。
そんなやり取りを神官長は見遣り、わたしとジルヴェスターを交互に見ながら意地の悪い笑みを浮かべる。
「ローゼマイン、ジルヴェスター。5の鐘から6の鐘まで、ヴィルフリートは祝福の言葉を憶えるという課題に手を付けようとしなかった。期待するだけ無駄だぞ」
絶望的な目をするジルヴェスターと違って、わたしは軽く肩を竦めるだけだ。
「無駄でも、交代が終わる明日の昼まで待ちます。孤児院の子供達や工房の様子、わたくしの側仕えを見て、本当に何も感じず、何も変わらなかったのならば、冬までに挽回するのは無理ですから、その時はきっぱりさっぱり諦めますよ」
「その言葉、忘れるな」
勝利を確信しているような神官長に、わたしは笑って頷いた。
「忘れません。でも、絶対に大丈夫です。わたくしの読書時間を賭けてもいいですよ」
読書時間を賭けると言った瞬間、神官長の口元がひくっと動いた。目を細めて、わたしを見下ろし、上から下まで見る。
「……君が読書時間を賭ける根拠は? 君もヴィルフリートと接した時間は少ないだろう?」
「わたくしの根拠にヴィルフリート兄様は関係ないのです」
今度こそ得意満面にわたしは腰に手を当てて、胸を張る。
「わたくしの側仕えは優秀ですから。わたくしが出した課題を達成しなかったことがありません。ヴィルフリート兄様に課題をさせるくらいは、できるに決まっています」
軽く目を見張った神官長がこめかみを押さえて、溜息を吐いた。そして、腕を組んで、はるか高みからわたしを見下ろす。
「得意そうなところ悪いが、フランを教育したのは私だ」
「フランだけじゃなくて、ウチの子は全員優秀なのですっ!」
冷静な神官長のツッコミに、わたしが力いっぱい吠えると、周囲から堪え切れなかったような笑い声が漏れた。