Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (211)
商人の活動開始
ギルベルタ商会の面々を連れて、隠し部屋に入るのは恒例になってきた。もうブリギッテも当然のような顔で見送ってくれ、ダームエルがげんなりした顔でついて来る。
わたしがダームエルのげんなりした顔に見慣れてきたのだから、ダームエルもいい加減に慣れればよいのに、まだわたしがルッツに引っ付くのに慣れないらしい。
「ルッツ、ルッツ、ルッツ! もう嫌ぁ! 面倒くさい! 頭が爆発しそう!」
「今度は何だ!?」
「貴族の常識、わたしの非常識! わたしの常識、皆の非常識! 合わせるの、きついんだよ! 考えたくないんだよ! もー!」
「ローゼマイン様、デリアになってます」
ギルが笑いながらそう指摘する。わたしが叫んで発散しているうちは、大したことがないと判断されているようで、誰も深刻な顔をしていない。
「ホントに全力で叫びたい気分だもん。もー、嫌! って」
「で、叫んでスッキリしたのか?」
「ん。ちょっとだけどね」
全力で吠えたら、少しはすっきりした。城の自室はもちろん、神殿長室でもさすがに本音を全力で叫ぶわけにはいかない。周囲が一生懸命に作り上げている聖女伝説が崩れ落ちてしまう。
ルッツにひとしきり不満を訴えた後、はーっ、と息を吐いて、わたしはギルベルタ商会の面々をぐるりと見回した。
「とりあえず、ものすごく頑張ったから褒めてください。養父様から印刷業はわたしのペースでして良いって言質をとって、カントーナからハッセの契約を白紙にしてもらって、契約書を取り上げてきました。神官長によると、ハッセの担当がカントーナから別の人に変わったそうです。ついでに、神官長からは噂に関しても好きにしてみろ、という言葉をもらったんですよ。頑張ったでしょ?」
うふふん、と胸を張ってみると、ルッツがぐりぐりとわたしの頭を撫でてくれた。
「おぉ、すげぇな。頑張った、頑張った」
「よくやった、ローゼマイン。これでずいぶん楽になるぞ」
「えぇ、冬の間は紙が作れませんから、どうしても印刷業は停滞気味になります。領主様から催促がないとわかっただけでも、安心できました。これでハッセの案件に全力で取り掛かれますね」
とりあえず、面倒だったり、嫌な気分になったりしつつ、頑張った甲斐があったようで、全員から褒めてもらった。元気充電。もうちょっと頑張れそうだ。
「えーと、それでは、これから流す噂に関してなんですけど……わたしには、この辺りの商人の間で噂が回る速度やその影響力がどの程度のものなのか、全くわからないので、今回はマルクさんのやり方を勉強させてもらいますね」
わたしの声にマルクがやる気に満ちた笑顔を向けてくる。にこりと笑うマルクの笑顔が黒いけれど、神官長の笑顔に比べれば爽やかなものだ。
「おや、領主の養女であるローゼマイン様のお勉強のためならば、こちらとしても精一杯努力しましょう。どのように追い詰め……もとい、最終的にはどのような形に持って行きたいか、決まっていますか?」
……ハッセの町長、本当にベンノさんやマルクさんにどんな対応をしたんだろう?
知りたいけれど、聞きたくない。
「なるべく被害を最小に抑えたいです。町長は、もう、どうしようもないのですけれど、ハッセは冬の館がある町だから、周辺の農村の人もたくさん集うでしょ? 神殿襲撃には全く関係のない農村の被害が今よりも少なければ良いなぁ、と思っています……」
「今よりも、ということは、町長以外への罰はすでに決定しているのですか?」
わたしがコクリと頷くと、マルクが軽く眉を上げ、ベンノが小さく息を呑んだ。
「噂として流したり、町民の不安を煽るのに使ったりしても良いと言われています。神官長の決定として、来年の春の祈念式にハッセには神官を誰も出さないそうです」
「……それは、農民にとってはきついな」
基本的には領主が領地を守っているので、領地には魔力が満ちている。しかし、それは薄く広く覆われた魔力で、領民全体を食べさせていくにはもう少し魔力を加えなければならないそうだ。
そこで、貴族としては使えないけれど、魔力を持っている神官が領地の各地に派遣され、魔力の提供を行う。それが春の祈念式なのだ。
春の祈念式で祝福を得て、農村には魔力が行き渡るようになっている。その祝福が収穫に結構響くらしい。一年や二年ならば、農民達の努力で手間暇をかければ収穫できるようだが、魔力が不十分ならば、どんどんと土地が痩せていくと聞いた。
青色神官の数と質がぐっと下がってから、畑を満たすための魔力は少しずつ減っていたらしい。今年はわたしが祝福したので、収穫量が増えているだろう、と神官長は予測しているそうだ。
次の祈念式でわたしが祝福するところと、祈念式さえ行われないハッセでは来年の収穫量は目に見えて変わるだろう、と言っていた。
「次の収穫祭までのハッセの様子やわたしのやり方を見て、次の罰を下すかどうか、範囲をどうするか、考えると言っていました」
ベンノが腕を組んで、ふぅむ、と眉を寄せながら唸る。
「ローゼマイン、文官との契約は白紙になったと言ったが、町長との契約はどうなった? 孤児達の料金は払ったのか?」
「これからです。明後日、神官長と一緒にハッセに行くことになっています」
ほぅほぅ、と頷きながらマルクが書字板にメモを取った後、わたしを見た。
「では、今からすぐに流す噂としては、ハッセの町民は、孤児を取られたくらいで、神官に無礼な態度を取ったらしい。他の神官が怒っているのを、ローゼマイン様が抑えている、というような内容でどうでしょう?」
「ローゼマイン様でなければ、その場で殺されていても文句は言えない所業だ、と自分の意見も加えながら流せばいいだろう。大事なのは、ローゼマイン様の慈悲で処罰を今のところ免れている、という点を強調することだな」
ベンノが顎を撫でながら、マルクの意見に軽く頷いた。二人のやり取りをルッツが真剣な顔で見ている。
大事なのは、わたしの聖女伝説を加速させるということで神官長への点数稼ぎをしつつ、ハッセにわたしと協力体制を取った方が良いと考える反町長派を作り出すことだ。最終的にハッセと小神殿が持ちつ持たれつの関係になれれば良いと思っている。
「この噂を流した後、我々がハッセに行けば、木工工房辺りの顔なじみが接触して来るでしょう。その時に、ローゼマイン様がハッセはどうなってしまうのか、ひどい結果にならなければ良い、と憂えていることを伝えましょう。同時にエーレンフェストの街ならば、どうなるのか、教えておきます。そうすれば、貴族に対する恐怖に震え、町長に反抗する者と、これまでの貴族との繋がりを使って何とかしよう、と町長におもねる者に分かれるはずです」
これまで前神殿長との繋がりで便宜を図ってもらい、それを裏付ける手紙が届いているならば、同じような手段を取るだろう、とマルクが予想する。
「噂が順調に広がっていれば、収穫祭で必ず顔色を変えた町民の接触があるでしょう。その時にローゼマイン様は、春の祈念式に神官を派遣しない、と神官長が決めた。頑張って取り成しているけれど、神官達と領主の怒りが深いと側仕えに伝えさせるのです。そうすれば、嫌でも冬の館での話題となり、色々と話し合いが行われます」
ふむふむ、と頷きながら、わたしが自分のやるべきことを書字板に書き留めていると、ベンノが少しばかり首を傾げた。
「マルク、領主が娘のために作った小神殿にハッセの町民が攻撃を仕掛けたらしい。さすがに、神殿長でも庇いきれないだろう、という噂を流す方が先じゃなかったか?」
「それはローゼマイン様ではなく、我々の仕事です、旦那様。収穫祭が終わり、我々が神官を連れて街へと戻る時に余所の農村の者に流すのですよ」
領主一族への反逆容疑に自分達も巻き込まれていると、農村の者が知れば、収穫祭どころではない。町中が大パニックになるだろうし、神殿長として出席するわたしも詰め寄られる可能性が高く、危険になる。後が大変なのですから、収穫祭だけでも楽しめるようにという配慮です、とマルクがニコリと笑う。
「噂に慌てて、神殿に詳細を問い合わせようにも前神殿長はおらず、慈悲深いローゼマイン様を初め、青色神官は収穫祭のために不在ですから、どうにもなりません。我々から少しでも情報を集めようとエーレンフェストでうろうろすることも考えられますが、こちらはそれ以上の情報などない、と突っぱねれば終了です」
情報を制する者は全てを制する、という言葉がマルクの背後に浮かんで見えた。
「小神殿の一件は領主一族への反逆罪ですからね。ローゼマイン様でも庇えるわけがありません。ハッセはどのような結論を出すでしょう。……あぁ、先走って町長を殺されることがないように、責任を取って裁かれるのはやはり町長でしょうか、という一言も入れておかなければなりませんね」
冬の間に町長の立場は一体どのように変わるでしょう、とマルクが唇を歪めた。町長への報復が最優先という思考が透けて見えるが、まぁ、いい。町長を孤立させろ、と神官長にも言われていたし、課題がクリアできるならば、もうこれ以上考えたくないのだ。
「……つまり、噂だけ流したら放置しておくということですか?」
「そうだ。収穫祭の後、小神殿を閉鎖したお前がハッセに赴くことはないだろうし、俺達もお前がハッセを引き上げて、次の冬の館へと向かうと同時に、神官達を連れてエーレンフェストに戻るからな。彼等がどういう結論を出すのか、町長に代わって町をまとめられる人物が出てくるのか、放っておいて待つしかない」
ベンノの言葉に、わたしは収穫祭を終えれば、春まで特に手を付けずに済むことがわかって、安堵の息を吐く。
「じゃあ、わたしは春までハッセについては考えなくていいんですね」
「こら、待て。ちょっとは考えろ」
「でも、わたしができることなんて何もないじゃないですか。元々、わたしは小難しいことなんて考えたくないんですよ。苦手なんです。いっぱい本がある図書室に引きこもって、本が読めたらそれでいいんですよ」
印刷するための工房を円滑に運用するために、ハッセとはある程度の協力状態を作り上げておきたいと思っている。けれど、町長や町民の行く末なんて、命さえ関わらなければどうでもいい。神官長を初めとする貴族の論理が動くと町を丸ごと潰されたり、無実の死人が出たりしそうなので、なけなしの頭を使っているだけだ。
「面倒でも、俺達の采配を振るっているのはお前になるんだ。状況把握くらいには頭を使え。知りませんでした、ではハッセの町長と同じだ」
「えーと、じゃあ、収穫祭までの間、どんな風に町の中に噂が広がっていくのか、ハッセの町へと来る商人の様子や町の様子の変化をルッツとギルに見ていて欲しいです。騎獣でちょくちょく様子を見に行くから、わたしに報告してちょうだい」
「いいけど、どうせ、情報が目的じゃないんだろ?」
ルッツがわたしを見て、軽く肩を竦めた。どうしてバレたんだろうね。
「収穫祭までに、豚の皮か、牛の皮を買い取って、ハッセで
膠
作りをお願いしたいの。去年作った分がまだ余ってるけど、どのくらい使うかわからないし、一応作っておきたいんだよね。膠作りの合間に町の様子も見てくれると助かる」
「そんなことだろうと思った。膠作りの合間に町の様子を見ていればいいんだな?」
ルッツとギルが軽く息を吐いて、了承してくれる。
マルクが指揮をするままに動きそうなハッセの町より、わたしにとっては来年のための膠作りの方が大切だ。
「あとね、これ。届けて欲しいんだけど、いい?」
わたしはルッツに家族宛ての手紙を差し出した。
近況報告を少しと、母さんとトゥーリには冬のお披露目で付けるための髪飾りの依頼と、父さんには収穫祭で神官達を移送してもらうベンノ達の護衛依頼だ。
小神殿から神官達を連れて帰ってくるのに、護衛の兵士を付けておきたい。ハッセに物騒な噂を流して、荒らして帰ってくるならば尚更だ。
「ベンノさん。収穫祭とはいえ、さすがに、護衛の兵士にお酒を出すわけにいかないから、せめて、ウチの料理人の豪華料理でも味わってもらいたいと思ってるんです。食材の調達もお願いしていいですか?」
「ハッセで売る商品に加えて、食材も運んでやろう」
「お願いします」
マルクに噂を流す許可を出して、二日たった。
すでにギルド長を中心とした大店の旦那達には「ハッセの町民は、孤児を取られたくらいで、神官に無礼な態度を取ったらしい。他の神官が怒っているのを、新しい神殿長が抑えている」というような情報が回り始めている、とルッツから報告があった。
今日はカントーナから受け取った契約書を持って、神官長と一緒にハッセの町へと向かう日だ。側仕えのフランとモニカ、護衛騎士のダームエルとブリギッテが同行する。
「さて、少しは自分達の置かれた状況を把握できているだろうか?」
神官長の言葉に、わたしは緩く首を傾げた。手紙が読めていれば、平身低頭で接してくるだろうけれど、はたして読める人がいるだろうか。
わたしとしては、わかりやすい言葉で書いてあげても良かったのだが、「領主の娘であり、神殿長という役職に就いているのですから、お手紙一つとはいえ、きちんと体裁を整えなければ、子供だと見くびられます」とフランがひんやりとした笑顔で釘を刺してきたのだ。
フランの笑顔が、主に対する扱いに怒るマルクととてもよく似ていて、わたしは貴族らしい言い回しで書くしかなかった。
「……あのお手紙が読めていれば、良いのですけれど、貴族の言い回しに慣れた方でなければ難しいと思います」
手紙が読めなくても、エーレンフェストとハッセは馬車で半日足らずのところだから、もしかしたら、すでにマルクが流した情報はハッセにも回っているかもしれない。それとも、巻き添えを恐れた商人達が足早にハッセを通り抜けていくことで、ほとんど知られていないままなのだろうか。
小神殿から町長の館までは騎獣で移動した。馬車をいくつか連ねた商人の隊商がこちらを指差して何か言っているのが見える。今まで神殿長は馬車で移動していたようなので、貴族のみが扱う騎獣で町長のところへと乗り付ければ、噂の信憑性が増すに違いない。
レッサーバスに同乗していたフランとモニカとブリギッテが出ると、わたしはレッサーバスを魔石に戻して、腰の飾りへと片付ける。騎獣の出し入れにも慣れてきて、手早くできるようになってきた。
「神殿長、神官長、お待ちしておりました」
リヒトと名乗る男性が出迎えてくれた。前に来た時には見なかった顔だが、町長の親戚で、雑務を手伝っている側仕えのような役目をしているらしい。多分、町長の補佐を全般的に引き受けているのだろう。町長よりは事務仕事が有能そうに見える。
見た感じはお父様と同じくらいだろうか。30代の半ばから後半という感じである。上と下に気を使っている中間管理職の雰囲気が漂っている人だ。
「今日は一体どのようなご用件でしょうか?」
貴族に対する挨拶をした後のリヒトの言葉に、フランが前に進み出て、本日の用件を伝える。
「面会依頼の手紙にも書かせていただいた通り、正式に孤児を買い取るために参りました」
フランの言葉に、リヒトは軽く頷いた。それでも、腑に落ちないというか、何故そのような展開になったのかわからないというように首を傾げている。
「こちらとしては大変ありがたいお話ですが……」
「懇意にしている商人に指摘されるまで、ローゼマイン様も我々も孤児を売ったお金でハッセの町が冬を越していることを知らなかったのです。ハッセの町が養っている孤児を引き取るだけのつもりでしたし、孤児を引き取ればハッセへの負担が減ると思っておりました」
これは本当のことだ。孤児院の院長をしていれば、孤児を養うのにはかなりお金がかかることが嫌でもわかる。孤児を満足に食べさせるだけのお金がないならば、小神殿で孤児を引き取れば、ハッセの町も負担が無くなって助かるだろう、と考えていた。
「貴族と契約している孤児を勝手に連れて行ってしまうと、ハッセの町がとても困るのですってね。わたくし、神殿育ちですから、どうしても世事に疎くて……」
困ったわ、と手を頬に当てて、わずかに首を傾げて見せる。
どこが世事に疎いのだ、と冷ややかなに見下ろしている神官長は完全に無視だ。
「ですから、ローゼマイン様は文官のカントーナ様と連絡をお取りになり、こうして契約を取り消す旨に同意をいただきました」
フランがカントーナとの契約書を見せると、リヒトはホッとしたように表情を和らげた。やはり、孤児を連れて行かれてしまい、貴族との軋轢を考えると胃が痛い思いをしていたのだろう。
「カントーナとの契約を破棄し、わたくしがノーラ達を正式に買い取ろうと思うのですけれど、よろしくて?」
「もちろんです。こちらへどうぞ」
リヒトの言動からは、まだ商人達の間で出始めた噂が届いている気配がない。
この辺りの情報伝達は一体どんな感じなのだろうか。街から出ることはもちろん、周囲の噂話を家族やルッツ以外から聞いたことがなかったわたしには、農村での情報伝達がどのようなものかわからない。
わたし達は町長の部屋へと通され、席を勧められた。出されたのはお茶ではなく、付近で採れたフェリジーネを絞った新鮮なジュースだった。貴族用に準備されているのだろう、銀の杯にピンク色の液体が注がれる。
お茶をおいしく入れるには技術と品質が大事だ。滅多に来ることがない貴族の客のために高いお茶を常備するほどの余裕はないだろう。
「お酒はどちらをお好みでしょうか?」
わたしにはジュースだったが、神官長にはお酒が勧められた。
昼間からいきなりお酒? 契約に来たのに? とわたし達が目を瞬き、首を傾げると、リヒトもまた思わぬ反応にあったように、目を瞬く。どうやら神殿長や文官達はお酒で歓待していたらしい。
「酒はいらぬ。私は神殿長と同じで良い」
神官長も同じように銀の杯が出され、果汁が注がれる。フランが銀の杯を手に取り、匂いを嗅いだり、色を見たり、いくつかの確認をした後、一口だけ口に含んだ。ゆっくりと飲みこみ、自分が口を付けた部分を指で拭い、銀に変化がないか確認する。
毒見が終わった後、布でもう一度口の付いた部分を拭い、フランはわたしと神官長の前に杯を差し出した。
モニカが毒見の手順を自分の書字板にメモしているのを横目で見ながら、杯を手に取ろうとして、わたしは固まった。
……重っ!
普段使っている自分の食器と違って、銀の杯が重い。片手ではとても持てないし、両手で持っても、手がプルプルする。
……零す。これは間違いなく、傾けたら零す。
すぐに気付いたフランが手を添えてくれて、いや、むしろ、わたしが手を添える形で杯を口元に運んでくれた。コクリと一口飲めば、柑橘系のさわやかな酸味が口の中に広がる。
供された物を口にしたことで、ようやく本題へと入れるようになった。
「カントーナ様との契約を廃棄して、新しく神殿長に就任したローゼマイン様と神官長が孤児を買い取るということで、お間違いないでしょうか?」
「えぇ」
リヒトにしたのと同じ説明を町長にもして、フランがカントーナの契約書を差し出した。契約の破棄に同意してもらい、正式にわたし達がノーラ達を買い取る契約をする。
わたしと町長が契約書にサインし、フランがお金を払って終了である。特に何の問題もなく終わって、わたしはホッとする。
文官との契約破棄と新しい契約で孤児を売ったお金が無事に手に入ったことで、町長もホッとしたのだろう。少し肩に入っていた力が抜けたようだ。それと同時に、ニヤニヤとした、見ていて嫌な気分になるような笑みを浮かべた。
「それにしても、前神殿長は領主の叔父上というだけあって、引退した後も影響力が大きいものですなぁ。感心いたします」
「……え?」
町長は、やはり手紙が読めなかったようで、前神殿長が死んだことを理解できていないようだ。おまけに、しきりに前神殿長が領主の叔父であることを強調してくる。
……領主の叔父だったけど、犯罪者として処刑されたから。
わたしが領主の娘として神殿長に就任していることを知らないようで、嫌味な物言いをしてくる町長にわざわざ事実を教えてあげる気にはなれない。わたしは「さようでございましょうか。それほど立派な人物だったとは、存じませんでしたわ」と相槌を打ちながら、前神殿長へのおべっか交じりの賞賛を聞き流す。
……でも、お願い。そろそろ黙って。横がひんやりしてるから。
わたしの右側に座り、張り付けた笑顔のまま、冷気を発している神官長が怖い。町長が自爆するのも、自ら処刑台へ上がるのも好きにすれば良いが、せめて、わたしがいないところでしてほしい。
「ここだけの話ですが、私は前神殿長と深い繋がりがありまして、色々と便宜を図っていただいているのです。今回もご尽力いただいたのですよ」
どうやら、手紙が読めなかった町長の中では、神殿に届けられた手紙が無事に前神殿長へと渡り、前神殿長に叱られたわたし達が文官とのやりとりをして、ここに契約のやり直しに来たことになっているようだ。
……やめて! もうこれ以上、口を利かないで! もう命が短いと決まってるのに、これ以上短くしないで!
わたしの心の絶叫はこれっぽっちも届かなかったようだ。町長は実に満足そうな顔で、これからも前神殿長の言うことはよく聞いた方が良い。神殿長ではなくなっても、領主の叔父なのだから、というようなことを言っていた。
わたしは神官長がいつ爆発するのかと冷や冷やしながら、会談を終えて席を立つ。いきなり切り殺されるような殺人事件が起こらなくてよかった、と胸を撫で下ろしながら、小神殿へと一度戻った。
「さぁ、ローゼマイン。あの無礼で無知で愚かで頓馬で救いようがない痴れ者をどうするのか、見せてもらうぞ」
どうなっても全く構わない良い教材だ。存分に勉強すると良い、と神官長が目を細める。
町長を批判するために並べ立てられた形容の数と漂う冷気から察するに、わたしの教材でなければ、町長はすでに大変なことになっていたようだ。教材になっているだけで十分に大変なのだが、突然血の雨が降らなかっただけマシだと思う。
……町長のせいで、わたしの難易度も上がってる気がするんだけど。
神官長の期待に応えられる気がしない。
「町長を孤立させ、小神殿とハッセが対立しないように全力を尽くします。……噂の種はマルクが楽しそうにばら撒き中で、計画は一応進んでいるので、進展は春になるまで待ってくださいね」
……春までに神官長の怒りが収まっていればいいけど、無理だろうな。
小神殿の神官達を集めて、収穫祭と冬籠りのための引っ越しに関する打ち合わせとルッツとギルが膠作りのために近々やってくることを連絡して、わたし達は神殿へと戻った。