Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (212)
ハッセの収穫祭
収穫祭の朝、エラ、ロジーナ、ニコラ、モニカと着替えや食器などの生活用品を乗せた馬車が出発した。一緒に出発したのは、エックハルト兄様とユストクスの側仕えや荷物が乗った馬車である。
体調を最優先にした結果、わたしはハッセまで騎獣で行くことになっている。騎獣に同乗するのはフランだ。フランは神官長から預かっている薬の管理もしているので、一緒に行動することになる。
「ローゼマイン、くれぐれも無茶をすることがないように気を付けなさい」
「はい」
わたしの部屋には専属料理人も側仕えもいなくなっているので、神官長から昼食の招待を受けていた。皆揃って、神官長の最後の注意事項を聞きながらの昼食を終えると、すぐに出発だ。
「エックハルト、ユストクス、頼んだぞ。絶対に目を離すな」
「はっ!」
今日、わたしのレッサーバスに乗るのは、わたしとフランだけだ。ダームエルとブリギッテが前を駆け、後ろにユストクスとエックハルト兄様という編成でハッセへと向かうことになる。
わたしがいつものようにレッサーバスを出すと、エックハルト兄様とユストクスが一歩後ろに下がった。
「……ローゼマイン、これが騎獣か?」
「そうです、エックハルト兄様。可愛いでしょう?」
うふふん、とわたしが笑うと、エックハルト兄様はぎょっとしたようにレッサーバスとわたしを見比べて、狼狽えたような声を出した。
「か、可愛いか? これはグリュンだろう?」
「え? グリュンじゃなくて、レッサーバスですよ」
「そ、そうか……」
顔がかなり引きつっている。最初の頃の神官長とよく似た表情に、やはり貴族の間では少し受けが悪いのか、と認識した。まぁ、ちょっとくらい受けが悪くても可愛いし、便利なので、問題ない。
うにょんと入り口を空けて、わたしとフランが乗り込むのを見たユストクスはひどく楽しそうに目を輝かせた。
「ローゼマイン様、この騎獣はどうなっているのですか? 私もぜひ乗せていただきたく……」
「ユストクス、其方が乗ってどうする!? 馬鹿なことを言っていないで、自分の騎獣を早く出すんだ」
神官長からの叱責が飛び、怒られた、と軽く肩を竦めたユストクスが騎獣を出した。
騎士団では見たことがないタイプの騎獣だ。角がいっぱいで、頭が派手な感じで、羽のある牛のような動物である。一角獣のような長めの鋭い角があり、ヘラジカのような大きく広がる角もある。騎乗したら前が見えないのではないか、と心配になるくらいだ。
足はライオンや虎のような足で、太くてガッチリしていて、鋭い爪がついていた。
「君のグリュンと一緒で、ユストクスの騎獣も魔獣バッヘルムを模している」
「わたくしの騎獣は魔獣じゃありませんっ!」
「誰が見ても魔獣にしか見えぬが、そんなことはどうでもよろしい。さっさと出発しなさい。収穫祭が始められぬだろう」
神官長が軽く手を振って、早く行け、とダームエルとブリギッテに指示を出す。それぞれの騎獣が飛び立ち、わたしのレッサーバスも二人に続いた。
今日はフランが助手席だ。最初の頃は顔を引きつらせていたフランも、今では悲痛な決意もなく、普通にレッサーバスに乗っている。
ダームエルの天馬を追って、空に向かって駆け出しながら、わたしはフランに今日の大事な仕事を頼んだ。
「フラン、収穫祭の間にリヒトと接触するのを忘れないでね」
「はい。春の祈念式に神官を派遣しないと決められたことと、ローゼマイン様が頑張って取り成しているけれど、神官長の怒りが深いことをそれとなく伝えれば良いのですね?」
「……それとなくではなくて、はっきりと伝えてあげて欲しいのです」
貴族らしい言い回しで手紙を書いたため、町長にはまだ神殿長が亡くなったことが伝わっていない。「はるか高みへと続く階段を上がって行かれました」では、死んだと伝わらなくても仕方がないと思う。単純に昇進したと考えても不思議ではない。
麗乃時代ならば、「空しくなる」とか「お隠れになる」で死んだことを悟れと言うようなものだ。知らなかったら、わかるはずがない言い回しなのだ。
フランはわずかに眉を寄せ、そっと目を伏せた。「かしこまりました」と言う声が硬く、明らかに嫌々だとわかる。
「相手はあの神殿長と仲が良かった町長ですし、町長の不敬に対する神官長の怒りも、神官長を尊敬するフランの怒りもわかりますけれど、ハッセの民全てが巻き込まれてしまうのは嫌なのです」
「小神殿を襲撃したのは、そのハッセの民ではないですか」
わたしの対応が甘すぎる、とフランは溜息を吐いた。
いくら甘いと言われても、これ以上の不敬罪を町長が重ねる前に前神殿長の死を教えてあげなければ、採点者が神官長なので、町長が不敬を重ねる度にわたしの課題達成も難しくなっていくのだ。
「わかりました、フラン。言い換えましょう」
コホンと咳払いして、わたしは神官長の物言いを真似てみる。もちろん、できるだけ眉を寄せて難しい顔をするのも忘れない。
「前神殿長が処刑されて、すでに頼るべき対象などいないこと、春になっても神官が派遣されることがないという事実を、あの町長とハッセの民の頭と心に刻み込み、心胆を寒からしめて恐怖の谷に突き落としてやるのだ。わかったか、フラン?」
これでもう甘いとは言わせないよ、と助手席のフランを見ると、フランが必死に笑いをこらえるように口元を押さえていた。
「仰せの通りにいたしましょう」
街道に面した部分が町長の館となり、鍛冶工房、木工工房などの職人の店が同じ建物に並んでいるが、その奥は冬にしか使われない冬の館になっている。
昔の小学校のような木造の大きな建物が採光のためだろうか、コの字型に並び、運動場のような広場には、すでに農村からの人々が集っているようで、人が大勢ひしめき合っていた。
収穫祭の会場となる広場は、普段の閑静な町の雰囲気とは全く違う、祭りらしい熱気と喧騒に包まれている。そんなざわめきの中、祈念式の時と同じように、わたし達は騎獣で冬の館の広場へと降りていく。
騎獣を見つけた人々が空を見上げて、指差しながら口々に声を上げて、降り立つための場所を開けてくれた。降り立ったところから舞台までの道筋が自然とできていく。
建物にピタリとくっつくように作られている舞台には、神官や徴税官を持て成すための場所が左の方に、ハッセの関係者が座る場所が右側にあり、椅子やテーブルが準備されていた。そして、中央には儀式を行うための祭壇がある。
ダームエルを先頭に、ブリギッテとフランに抱えられたわたしが続く。自分で歩く、と言ったけれど、全員に却下されたのだ。エックハルト兄様やユストクスが、「洗礼式や星結びの儀式の時の歩みを見た上での判断だ」と、前置きし、わたしの歩きには周囲が合わせられない、と言われてしまった。
フランに抱き上げられたまま、わたしは舞台へと進む。
物珍しそうに見る好奇の視線の中に、不安そうに様子を見守るような視線が混じっている。マルクの流した噂が広がっているせいだろうか。
わたしの後ろについていたエックハルト兄様が視線を遮るように、わたしの隣へと来た。表情が厳しく引き締まっていて、周囲に油断なく視線を巡らせているのがわかる。
「ローゼマイン様はこちらへどうぞ」
フランに促されて、わたしが座ると、わたしの両脇にエックハルト兄様とユストクスが座り、フランと護衛騎士の二人は後ろに並んだ。
舞台の上に上がると、広場の様子がよく見えた。
洗礼式、成人式、結婚式の主役達が、着飾って舞台前に集まっている。
洗礼式の子供達は白の晴れ着に秋の貴色の刺繍がされ、成人式に望む新成人は秋の貴色のシンプルな晴れ着だ。
結婚式の衣装は、親から子へと伝えられる衣装なのか、少しずつ手が加わっていくらしく、刺繍や飾りが豪華な物もあれば、できたてで布が綺麗な分、装飾は少ない物もある。女性は秋の野草や実りを編み込んだリースのような冠を被っている。
全ての儀式が秋に行われるので、エーレンフェストと違って、生まれた季節の違う兄弟であっても、わざわざ晴れ着を仕立てる必要はないようだ。誰も彼も全て秋の貴色を中心にした衣装をまとっているのが印象的だった。
子供はエーレンフェストの子供達とあまり変わらないし、ハッセの町民を見た感じではそれほど目に付かなかったのだけれど、農村から集まってくる大人や老人は長年の農作業のためか、背中が少し曲がって前かがみになっている人が多いような気がした。
「これより収穫祭を始める。洗礼式を行う子供達は上へ」
町長による収穫祭の開会宣言がされ、大きな歓声が上がる。拍手と歓声の中、今年洗礼式を迎える子供達が舞台に上がってきた。十数人の子供達だが、もうじき8歳になる子と7歳になったばかりの子では体格も違うようだ。
……確実に言えるのは、ここに並んでいる誰よりも、わたしが小さいってことだけど。
フランは持参した白い平べったいメダルのような物を持って、十数人の子供達の前に進み出る。マインの時の洗礼式と同じように、血判を押させていくのだ。
わたしはやや目を伏せて、視線を逸らしながら、全員が血判を押し終わるのを待つ。他人の血でも見たら痛い。
その後は神様のお話をするのだが、今回はわたしが作った聖典絵本を子供達に見せながらフランが読むことになっている。わたしでは声が通らないせいだ。
絵本を見たことがないのだろう、子供達が身を乗り出すようにして絵本を見ていた。目を輝かせて話に聞き入る子供達を見ていると、やっぱり識字率の普及のためには学校が必要だと思う。
……神殿はエーレンフェストにしかないらしいから、神殿学校を作っても領地の他の場所には広がらないでしょ? 新しく学校を立てる予算があればいいけど、そんなのないし、神官長のチャリティーコンサートは嫌がられてるんだよね。……あ、でも、農村の冬の館に灰色神官を派遣するだけならできるかも?
冬の間だけの出張神殿教室だ。雪に閉じ込められて暇をしているならば、子供だけではなく、大人も学ぶ気になるかもしれない。
……ただ、灰色神官の地位向上が先だけど。
灰色神官が孤児として侮られている今の状態で、閉鎖状態になる冬の館に出張させるのは、灰色神官の扱いが心配で仕方ない。わたしの側仕えとして取り立てるのは簡単だが、それで孤児のレッテルが消えるわけではないのだから。
「神への祈り方はわかりましたか? それでは、神殿長より祝福を頂きましょう」
フランの声にわたしはハッとして、舞台の中央に進み出た。広場も舞台も、ここにいる全ての視線が自分に集中しているのがわかる。
わたしは準備されている台に上がって、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「夏に領主より神殿長を拝命いたしましたローゼマインです」
軽く挨拶をして、自分より小さい神殿長の登場に目を瞬く子供達を見回した。どうやら、わたしはフランと一緒に来ているだけで、わたしが神殿長だとは思っていなかったような顔をしている。
「新しき子供達の健やかな成長を願い、神に祈りを捧げましょう。……神に祈りを!」
フランに教えられた通り、よろよろしながらも子供達が真面目な顔で祈りを捧げていた。頑張っている様子が可愛かったので、微笑ましく思いながら、わたしは指輪に魔力を込めていく。
「では、これより其方らに神々の祝福を与えます。その場に跪いてください」
フランが跪くと、子供達は見様見真似で同じようにその場に跪いた。
「風の女神 シュツェーリアよ 我の祈りを聞き届け 新しき子供の誕生に 御身が祝福を与え給え 御身に捧ぐは彼らの想い 祈りと感謝を捧げて 聖なる御加護を賜わらん」
指輪から黄色の光が飛び出して、子供達の頭上へと降り注ぐ。
「すっげぇ!」
「キラキラだ!」
すぐさま立ち上がって、両手を上に上げながら、光の粉をたくさん浴びようと動き回る様子が、いかにも子供らしい。
よく躾けられた孤児院の子供しか知らないフランには、あまり馴染みがない突飛な行動に見えたのだろう、軽く目を見張って固まっている。
「貴方達への祝福は終わりです。さぁ、舞台を降りて、新成人の方々と交代してちょうだい」
「うん、わかった!」
「お前、ちっさいのにすげぇな!」
興奮した面持ちで目を輝かせてそう言いながら、子供達は舞台を降りて、自分の家族の元へと走っていく。代わりに上がってきたのは、新成人だ。
そうして、洗礼式に続いて、成人式、結婚式を終えると、収穫祭でのもう一つの一大イベントが始まる。簡単に説明すると、村対抗の球技大会だ。秋と冬の戦いを模した競技で、勝者には来年の実りが約束されるらしい。
わたしは外に出ることがあまりなかったので、このようなスポーツ競技のような催しは初めて見る。町長の説明を聞きながら、どんな競技だろう、とわくわくしていると、エックハルト兄様が、すくっと立ち上がった。
「ローゼマイン様、小神殿へと戻りましょう」
「え? えぇ、構いませんけれど……」
……あれ? 7の鐘までは祭りを見てよかったんじゃ? まだ5の鐘が鳴ったところだよ?
有無を言わせない笑顔で手を引かれたので、わたしは首を傾げつつも手を引かれるままに席を立った。
「フランはユストクスと共に奉納される物の確認を、ダームエルは二人の護衛だ。ブリギッテはローゼマインの護衛として小神殿に戻る」
「フラン、後は頼みます」
手早く指示を出すと、エックハルト兄様はわたしを軽々と抱き上げた。そして、舞台の上で騎獣を出して、飛び乗ると、空へと駆けだした。ブリギッテがすぐさまそれに続く。
「エックハルト兄様、突然どうしたのですか?」
「ハッセには妙な目をしている不審人物が多くいるようだ。危険な目に遭うとは考えにくいが、祭りという興奮状態では何が起こるかわからないからね。安全策をとっておいた方が良い」
……あぁ、リヒトのことだ。
ハッセの関係者の席に座っていたリヒトが、ずっと話しかけたそうな顔をしていたのは知っている。儀式も終わっていなかったし、エックハルト兄様とユストクスとフランに囲まれたわたしには近付けなかったのだろう。
話をする時間がないか、こちらをチラチラと見ているので、エックハルト兄様には不審人物認定されてしまったらしい。
「わたくし、お祭りを楽しみにしていたのですけれど……」
「ここで見られなくても、これからは毎日が収穫祭だ。嫌でも見なければならなくなる。今日は小神殿で収穫祭に行けない者達のためにご馳走を振る舞うのだろう? そちらで楽しみなさい」
「はぁい」
噂を流すことによって、ハッセの町がどのように変化するのか全くわからないので、小神殿の者は収穫祭の間は、外に出ないように言ってある。
その代わり、ギルベルタ商会の面々や護衛の兵士達、灰色神官や巫女達が皆で楽しめるように、ベンノ達が食料品を運び込んでくれて、エラとニコラがご馳走を作ってくれることになっているのだ。
小神殿に着くと、今夜の寝床を整えるため、ご馳走を作るため、てんやわんやの大騒ぎになっていた。
灰色神官が指示して、兵士達が男子棟の部屋や厨房へと、ギルベルタ商会の荷物を運び込んでいる。父さんが厨房の方へと木箱を抱えて降りていくのが一瞬見えた。
ノーラとマルテが女子棟に積み上げられていて使っていない布団を食堂へと運び、それをトールとリックが男子棟へと持って行く。
指示を出し、采配を振るっているのはモニカだったようで、わたしの到着に気付いたモニカが目を丸くして、駆け寄ってくる。
「ローゼマイン様!? どうなさったのですか? 体調を崩されましたか?」
「いや、安全を期して、こちらへお連れしただけだ。……ローゼマイン様、我々は町長の館に泊まることになっております。明朝、迎えに参りますので、こちらでお待ちください」
「わかりました」
わたしがコクリと頷くと、エックハルト兄様はモニカを振り返る。
「側仕え、ローゼマイン様のお召替えを。では、私は会場へと戻ります」
「後のことはお任せしますね」
収穫祭の会場へと戻っていくエックハルト兄様を見送り、モニカと一緒に礼拝室の隠し部屋となっている自室へと入った。
小神殿へと何度か出入りするうちに、部屋は整えられているので、わたしの部屋はいつでも寝泊りできる状態になっている。
モニカに手伝ってもらって、神殿長としての儀式用の服を脱いで着替える。エラとニコラと灰色巫女達は厨房でご馳走作りに奮闘中らしい。
ロジーナは女子棟で、ニコラやモニカを含む、自分達の部屋を整え中だそうだ。
「まだ満足に準備できておりませんので、ローゼマイン様は夕食の支度が整うまでお部屋でゆっくりとお休みくださいませ」
「ありがとう。わたくしのことは良いから、大変でしょうけれど、頑張ってちょうだい」
「はい」
ブリギッテは貴族女性なので、わたしの部屋で一緒に寝ることになった。長椅子があれば大丈夫だと言うので、布団だけ運び込んでもらう。
部屋で休憩していると、壁に取り付けられている魔石が光った。誰かが呼び出しているようだ。ブリギッテがカチャリと扉を開けると、ギルとルッツが立っていた。
「ご報告したいことがございます、ローゼマイン様」
二人を中に入れて、扉を閉める。ブリギッテがいるので、二人ともきっちりとした姿勢を崩そうとしない。わたしも姿勢を正して二人の話を聞いた。
「ローゼマイン様に命じられていた膠作りは終了しました。工房に並べて、冬の間に乾燥させれば良い状態になっています」
ギルの報告にわたしは軽く頷く。ブリギッテがいなければ、頭を撫でて「よく頑張りました」と褒めているところだ。そんなことを考えているとギルと目が合った。同じことを考えていたのか、ちらりとブリギッテに視線を向けて、肩を竦める。小さく笑った。
そして、年に一度の収穫祭を楽しみにしていたらしいハッセ出身の孤児達は、収穫祭に参加できないことにガッカリしていたようだが、ここでご馳走が出てくることになって大喜びしているとのことだ。
ルッツからの報告によると、前回、出張費としてボーナスを渡したのが広がったようで、今回護衛の兵士は壮絶な争いを繰り広げて、決まったらしい。わたしが指定して依頼した父さんだけは悠然とした顔で、その争いを見ていたようだが。
「そして、ローゼマイン様のお言葉が伝わっているのか、士長の教育が行き届いているのか、兵士達は前回に比べて神官達にも協力的です」
「そう、それはよかったわ。では、今回も出張費用を出さなければならないわね。ベンノに用立ててもらえるかどうか聞いてちょうだい」
収穫祭に赴くわたしは現金を持っていない。ギルドカードだけは肌身離さず持っているので、決済はできるのだけれど。
「噂の方はどうかしら?」
「エーレンフェストで噂を聞いた隊商が足早に通り過ぎたり、ハッセにも気を付けるように噂を流したりしたようです。旦那様やマルクさんが町に来た時は話を聞きに来た人もいます。マルクさんの予想通りの広がり方のようです」
「農村から人が集まり始めると、ハッセの住人達は口を閉ざすようになった気がします。町の人はともかく、農村の人達はまだあまり噂を知らないと思います」
ルッツとギルの言葉に、わたしは軽く頷いた。
「混乱が広がるのを防ごうと思っているのでしょうけれど……」
わたしは話を聞きたそうにこちらの様子を伺っていたリヒトを思い出す。前神殿長が死に、春の祈念式に神官が派遣されないことを伝えられれば、混乱が広がるのは間違いない。
「ルッツ、マルクに次の段階へと移るようにお願いしておいてください」
「かしこまりました」
二人との話し合いを終え、しばらくたつと、夕食の支度ができたようで、モニカが呼びに来てくれた。
食堂へ行くと、たくさんのご馳走を前に、皆が跪いているのが見える。
「今日は収穫祭。お祭りですもの。『無礼講』でお願いいたします」
わたしの言葉に皆が理解不能という顔になる。それはそうだろう。わたし以外、こんなことを言う貴族はいないはずだ。
けれど、ご馳走が並び、皆が待ち構えている中で、皆に「早く食べさせろ」と思われながら食事をしなければならない状況には耐えられない。
「簡単に説明すると、皆で一緒に食事をしましょう。せっかく温かいご馳走が冷めてしまってはもったいないわ。厨房の人達も呼んできてちょうだい。テーブルだけは貴族席、側仕えと専属、神官と巫女、ギルベルタ商会、兵士とそれぞれで分けますけれど、皆で楽しみましょう」
お酒はないけれど、搾りたての果汁で乾杯し、皆が一斉に食べ始めた。背後で、わぁっ、と兵士達が盛り上がる中、ブリギッテだけが渋い顔になっている。貴族のブリギッテには耐えがたいことなのだろう。
「ごめんなさいね、ブリギッテ。でも、わたくし、どうしてもこれだけの視線の中でゆっくり味わって食事をすることができなかったのです。従者や兵士と食事をするのは不満かもしれませんけれど……」
「いえ、わたくしの実家はとても田舎で、従者と共に食事を取ることもありますし、何かの催しの時には農民達と共に騒ぐこともございますので、この状態に嫌悪感はございません。ただ、フェルディナンド様に知られたらどうなるかと考えると……」
ブリギッテが頬を押さえて、ちらりとわたしを見た。「一体君は何を考えている!?」と怒鳴られるところが容易に想像できる。
「フランとエックハルト兄様達が町長の歓待を受けて、あちらで泊まるからできたことです。皆に内緒にしておいてくださいね」
わたしが人差し指を立てて、口元で×を作ると、ブリギッテは軽く眉を上げて「ローゼマイン様こそ、お口を滑らせないように気を付けてくださいませ」と小さく笑った。
わたしは食事を終えると、それぞれのテーブルへと回っていく。兵士のテーブルへと向かうと、ガツガツと食べていた全員が慌てたように食べ物を置いた。
クスクスと笑いながら、わたしは代表者である父さんに話しかける。
「皆様、楽しんでくださっていますか?」
「お酒がないのが残念ですが、料理は最高です。なぁ、皆?」
父さんの声に皆が一斉に頷いた。
「あぁ、こんな料理、食べたことがありません」
「これを食べただけでもここまで来た甲斐があります」
「酒があれば完璧でした」
なるべく丁寧な言葉を心掛けて、たどたどしく褒めてくれるが、その目は料理に釘づけだ。続きを早く食べたいと全身で訴えている。
「おいしいと思ってくださって嬉しいです。料理人に伝えておきますね。どうぞ、続けてくださいな」
わたしの言葉に、兵士達はガッと一斉に料理に飛びついた。わぁわぁと取り合いながら、食べる様子を見ていると、喧騒に紛れる程度の大きさで世間話のように父さんが口を開く。
「……今日の料理は、とても懐かしい味です。私の娘が初めて作ってくれた料理を思い出しました。私の秘蔵の酒を勝手にたっぷり使われたのですよ」
鳥の酒蒸しを口に運びながら、父さんが懐かしそうに目を細めた。秘蔵の蜂蜜酒を使って、笑いあった思い出が過り、涙が溢れそうになる。
……ここで泣いてはダメ。
わたしはなるべくゆっくりと呼吸して、ぐっと涙を堪えながら笑って見せた。