Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (233)
春の素材と祈念式のお話合い
よく眠れた。
すっきりと目覚めたわたしは父さんのマントからのっそりと這い出すと、大きく伸びをする。
その後、寝台の上にマントを大きく広げた。本当は側仕えに任せなければならないことなのだが、自分の手でしたかったのだ。
手のひらでなるべく皺を伸ばしながら、わたしは丁寧にマントを畳んだ。
「よし、完璧」
わたしはフランにマントを持ってもらって、食堂に向かった。
貴族が食べなければ、側仕えや平民が食べられないので、小神殿では護衛騎士も含めて、貴族階級の者は一度に食事を取ることになっている。
わたしが食堂に到着した時にはすでに皆は起きていて、食事をしていた。
「おはようございます、皆様」
「おはようございます、ローゼマイン様」
食べ始めたばかりらしいブリギッテや叩き起こされて、仕方なく起きてきたというのが一目でわかるユストクスと違って、神官長は一番早く起きたのか、そろそろ食事を終えるような状態だった。
「おはよう、ローゼマイン。よく眠れたようだな」
「はい。とても暖かかったからでしょう」
わたしはモニカとギルが食事の準備をしているうちに、フランに父さんを呼んでもらって、マントを返すことにした。
本当は自分で手渡ししたいが、それができないのがお嬢様だ。フランに渡してもらって、わたしは礼を述べるだけになる。
「こちらをお返しいたします、ギュンター。とても暖かく過ごせました」
跪いた父さんにわたしが声をかけると、父さんは少し顔を上げて、わたしを見た。そして、安心したように琥珀の目を細める。
「お力になれたようで、何よりです。……ローゼマイン様はこれから祈念式のために農村を回ると伺っております。くれぐれもご自愛ください」
「ありがとう、ギュンター。貴方のご家族にもよろしくお伝えくださいませ」
「恐れ入ります」
交わされる会話は本当に短いものだ。それでも、ほんの少しの会話が嬉しい。
父さんが兵士達の輪の方へと向かって行くのを見送っていると、ブリギッテが不思議そうにアメジストの目を細めた。
「ローゼマイン様はあの兵士とずいぶん親しいのですね」
この場にいる貴族の中で、わたしが父さんの実子だと知らないのはブリギッテだけだ。神官長とダームエルはもちろん、マインについて調べていたユストクスもその補佐をしていたエックハルト兄様もわたしの素性を知っている。
わたしはニコリと笑って、準備されている設定のままに説明した。
「あの兵士はギルベルタ商会と縁が深いのです。わたくしはギルベルタ商会に髪飾りを注文しているのですけれど、髪飾りを一手に引き受けてくれている親子がいるでしょう? エーファとトゥーリというのですけれど」
「孤児院長室で何度か見かけたことがございますね。わたくしの採寸の時にも助手として来ていた少女でしょう? ローゼマイン様のお気に入りと伺っております」
ブリギッテは髪飾りを持って出入りし、自分の衣装の採寸をしていたトゥーリを覚えていたようだ。
わたしは「そうです」と頷いて、先を続ける。
「あの兵士、ギュンターはトゥーリの父親で、ブリギッテの衣装を任せたコリンナの夫の上司でもあるのです。洗礼式前にわたくしが孤児院の工房の関係で下町へ出入りしていた時に、護衛騎士の代わりによく伴をしてくださったのですよ」
「そういう繋がりでしたか」
ブリギッテが納得したように頷いた。
そういう繋がりだったことになっているのだ。わかってもらえて何よりである。
「ローゼマイン、今日は一日休んで明日から祈念式に向かうことになる。話をする必要があるので、午後はそちらの部屋に向かう」
先に食事を終えた神官長が、本日の予定を告げると、自室へと下がっていった。わたしは「わかりました」と答え、急いで朝食に手を付ける。
わたしや他の貴族達が食事を終えなければ、貴族以外の皆が朝食を取れないのだ。ギルベルタ商会や兵士は今日の午前中にエーレンフェストに戻ると聞いている。早く交代してあげなければ、出発が遅くなってしまう。
わたしはなるべく優雅に見えるように気を付けながら、できるだけ早く食べた。
朝食を終えると、わたしは皆の邪魔にならないように自室に戻った。
椅子に座って、少し目を閉じると、昨日のハッセでの出来事がまざまざと蘇ってきて、陰鬱な気分に落ちていく。
「ローゼマイン様。皆様、食事を終えて、出発の準備をされていらっしゃいます。お声をかけられますか?」
フランの声にハッとして、わたしは軽く頭を振って立ち上がった。
部屋を出て、正面玄関へと向かえば、ほとんど荷物の積み込まれた馬車が連なっているのが見えた。一つだけ、まだ荷物を積み終わっていない馬車があるようで、兵士と灰色神官達が積み込みを手伝っている。
「準備は整いましたか?」
荷物を積み終えた馬車の前で話し合っていたギルベルタ商会の面々に声をかけると、皆が一斉にこちらを向いた。
ベンノが一歩進み出て跪くと、マルクとルッツがそれに続く。
「ローゼマイン様、ハッセの件は片付いたと神官長よりお話がありました。大層ご立派な姿であったと聞き及んでおります」
「ギルベルタ商会の協力があってのことです。助かりました」
ギルベルタ商会が商人の繋がりを使って、平民同士の間で情報を回してくれた。そして、冬の間にじっくりと話し合い、考える時間があった。だから、ハッセの民に今回の結果が受け入れられた部分が大きいと思う。
自分達で出した結論もなく、「処分は決定した」と貴族から急に知らされたのでは、反発が大きくて、大変なことになっただろう。
貴族の常識に疎いわたしでは、上手く文官を使えたとは思えない。これから、貴族のやり方をどんどんと学んでいくことになるのだろうが、今は本当に何も知らない状態なのだ。ベンノやマルクがいなかったら、もっと処分対象者は多かったと思う。
「お役に立てたようで何よりです。我々もローゼマイン様の信頼厚い商会ということで、ハッセではずいぶんと商売がしやすくなりました。これからも何か御用がございましたら、いつでも声をおかけください」
ベンノの言葉の前半は素直に受け取っても間違いなさそうだが、後半では「報連相はちゃんとやれ」と釘を刺されているのがわかる。
何か言っておくことがあったかな、と記憶を探り、わたしはポンと手を打った。
「あぁ、一つ、伝えておくことを思い出しました。今すぐのことではありませんが、新しい紙の素材を探すためにイルクナー子爵の夏の館を訪ねたいと考えています。その時にはまた相談に乗ってくださいませ」
わたしが思い出したことを伝えただけなのに、ベンノは一瞬遠い目をして、マルクは一度目を伏せて、ルッツはゆっくりと息を吐いて、肩を落とした。
首を傾げたわたしをベンノが笑顔で見返してくる。赤褐色の目があんまり笑っていない。むしろ、ここが孤児院長室の隠し部屋だったら、雷が落ちていそうな目だ。
「……かしこまりました。ローゼマイン様が祈念式を終えて戻られるのを、心待ちにしております。ぜひ、詳しくお話をお聞かせください。こちらからも、ローゼマイン様のお声掛けで貴族の方々とのお付き合いが増えたお礼と、コリンナが引き受けた衣装についてのお話もさせていただきたいのです」
ふふふ、と愛想よく笑いながら、ベンノがそう言った。けれど、わたしには「貴族に呼び出されまくって忙しい時に、余計な仕事を作るな、このたわけ!」という怒鳴り声が聞こえた気がした。
……祈念式が終わるのが怖い!
心の叫びは表に出さず、表面上は和やかにギルベルタ商会との話を終えた。
出発の準備が全て整って、皆が馬車に乗り込むと、わたしはベンノに準備してもらっていたお金をフランから受け取って、兵士達に小銀貨を手渡ししていく。
「エーレンフェストからハッセまでの護衛は大変でしょうけれど、ユストクスとギルベルタ商会をよろしくお願いいたしますね」
「かしこまりました」
「お任せください」
兵士達は手渡される小銀貨を見て、口元をわずかに綻ばせる。護衛の役目はすでに争奪戦になっているようなので、報いがあったことに満足しているのだろう。
父さんだけは大銀貨を渡しているが、これで皆に「お疲れ様」とお酒を奢っているようなので、手元にはほとんど残っていないらしい。判読の難しい手紙にトゥーリがそんなことを書いていた。
兵士に報酬を渡して、皆の出発準備が整ったというのに、まだ馬車に乗っていない者が一人いる。ユストクスだ。
「本当に残念でなりません。私はこの先もぜひお伴したいと思っていたのですが……」
ユストクスはなるべく早く登録証の箱を城に返さなければならないので、ここでお別れである。ユストクスの騎獣には大きな箱が載せられないため、馬車で貴族街へと戻らなければならない。ユストクスの側仕えも一緒だ。
貴族の中では一人だけ帰る支度を整えたユストクスが、未練がましい目でわたしと神官長を交互に見るけれど、神官長は呆れた声でさっさと馬車に乗れというように軽く手を振った。
「祈念式は神官の行事だ。ハッセの案件が終わった以上、文官の其方に用はない。担当者から仕事を奪ってまで、ここへやってきたのだ。十分に満足しただろう?」
「ハッセに関しては満足しました。けれど……姫様といたら、面白そうなものが見られる気がするのです」
「気のせいだ」
神官長はじろりとユストクスを睨んで、スパッと話を打ち切った。「其方のせいでいつまでたっても出発できぬではないか」と急き立てて、ユストクスに馬車へ乗るように命じる。
仕方なさそうにユストクスが馬車に乗り込むと、やっと出発だ。馬車は先頭からゆっくりと動き出す。それに合わせて、護衛の兵士も馬車の脇を歩き始めた。
護衛の殿を務める父さんは、動き出す先頭の馬車を見ている。わたしは父さんに声をかけた。
「ギュンター、道中、お気を付けて」
「ローゼマイン様も体調にはお気を付けください」
フッと父さんが笑った頃には、最後の馬車が動き始めた。父さんが馬車に合わせて歩き出す。昨夜、わたしが包まって眠ったマントがぶわりと揺れる。小さくなっていくマントを見送って、わたしはまた小神殿へと戻った。
一気に人数が減って、神殿の中が静かになった。
昼食を終えて一休みしていると、神官長とエックハルト兄様が話をするために部屋へやってきた。
「側仕えはフランが居ればよい。他の者を下げなさい」
「では、フランを除いて、皆、下がってください」
わたしの言葉にフラン以外の側仕えが退室していく。残ったのは、フランと護衛騎士の二人だ。
フランは皆にお茶を入れると、きっちりと閉ざした戸口に控える。
神殿の神殿長室にあるのと同じように、長方形のテーブルがあり、わたしと神官長が向かい合って座り、神官長の隣にエックハルト兄様が、わたしを挟んで左右にダームエルとブリギッテが立っている。
「まず、祈念式の途中で採集に向かう素材について話をしておきたい」
神官長がそう切り出したことで、護衛騎士の顔がすっと引き締まった。雰囲気が急に硬くなったことに気付いて、わたしも一緒に背筋を伸ばす。
「護衛騎士を集めて話をするということは、また魔獣が出るのですか?」
「魔力が豊富なところには魔物が集まりやすいから、おそらくいるだろう。ユストクスからの情報では、タルクロッシュがいると聞いている」
名前を聞いても、わたしには一体どんな魔物なのか、全くわからない。
けれど、騎士の皆はすぐにわかったようだ。ブリギッテが一瞬嫌そうに顔をしかめたので、もしかしたら、女の子が嫌いなタイプの魔物ではないかと思った。
……昆虫系は嫌だな。
「ただ、シュツェーリアの夜に起こった状態から考えると、フリュートレーネの夜もあまり楽観視しない方が良いと思う。強大なのか、多数なのか、わからぬが、何かいるだろう」
「でしたら、騎士の人数を増やせば良いのではございませんか? せめて、わたくしの護衛騎士であるコルネリウス兄様を増やす、とか」
なるべく秘密裏に薬を作るということになっているが、コルネリウス兄様のような身内ならば、協力してもらっても良いと思う。
けれど、神官長は首を振って却下した。
「それはできぬ。コルネリウスは未成年の見習いだ。街の外に出る任務はさせられぬことになっている」
「そうなのですか? イタリアンレストランの試食会の時は、ハッセまでいらっしゃったような記憶があるのですけれど……」
誰かを騎獣に乗せて飛んでいたのは、わたしの記憶違いだろうか。わたしが首を傾げると、神官長とエックハルト兄様が苦い顔になった。
「……ローゼマイン、あれは例外だ。本来、街の外に出る予定はなかったからな」
確かに、イタリアンレストランの試食会でハッセに小神殿が建つ予定はわたしにもなかった。
「これ以上人数が増えないということですけれど、本当に大丈夫でしょうか?」
「フェルディナンド様がいらっしゃれば、大抵の魔物は問題ない。案ずるな、ローゼマイン」
エックハルト兄様は神官長に全幅の信頼を置いているようだ。そして、神官長の護衛騎士ができるのが嬉しいのか、どこか浮かれている様子も見てとれる。
確かに神官長がいれば、大抵のことは何とかなるだろう。安全管理に関しては神官長に丸投げして、わたしは素材についての情報を得ることにした。書字板を取り出して、鉄筆を構える。
「神官長、春の素材はどのような物なのですか?」
「あぁ、女神の愛した花と言われているライレーネの蜜だ」
春の女神の水浴場と言われるほど、春になると魔力の満ちる泉へと向かうらしい。泉の中に咲くライレーネの蜜が今回採取する素材だそうだ。
「夜の間は花が閉じ、ゆっくりと蜜を蓄える。夜明けと共に花が開くのだが、他の魔力に触れぬよう、魔物に取られぬよう、夜明けと共に採集する。そのため、夜明け前に出発し、状況を整えて夜明けを待つ形になる」
神官長の言葉をわたしは書字板に書きとめていく。
「神官長はその泉に行ったことはあるのですか?」
「いや、私は貴族院の周辺ではよく採集をしていたが、卒業してエーレンフェストに戻ってからは、そのような余裕がなかったからな。騎士団で討伐しなければならない凶暴で危険な魔物に関しては知っているが、大した害もない魔物や素材に関してはそれほど詳しくない」
エーレンフェストにおける素材に関しては、ユストクスの情報が頼りだ、と神官長は言った。ユストクスは
紛
うことなき変人だが、その情報量は膨大で、フットワークが軽く、自分で素材採集に行くので、エーレンフェスト内の素材に関する情報は、かなり信用がおけるそうだ。
「採集に必要な道具は準備してあるので、また貸し出す」
「ありがとうございます」
ライレーネの蜜に関する話やユストクスが遭遇したタルクロッシュに関する情報のやりとりを終えると、神官長は護衛騎士とフランにも退室するように命じた。
「これから、ローゼマインとハッセについての話をする。皆、席を外せ」
「はっ!」
フランがお茶を入れ直してから退室すると、ダームエルとブリギッテもそれに続いて部屋を出た。エックハルト兄様は護衛騎士として残りたそうだったけれど、神官長が許さなかった。
「ローゼマイン」
「はい」
フランが入れ直してくれたお茶を飲み、コトとテーブルに置くと、神官長が薄い金色の瞳で静かにわたしを見据えた。
二人きりで向き合えば、それはお小言やお説教開始の合図だ。わたしは膝の上に手を重ねて姿勢を正す。
「今回のハッセの件で何を学んだのか、教えてもらおうか」
神官長の切り出しに、わたしは一度軽く目を閉じた。昨日の情景を思い出し、グッと手を握る。
神官長を真っ直ぐに見て、できるだけ感情的にならないように口を開いた。
「……まず、貴族の常識をできるだけ早く身に付けなければならないと痛感いたしました」
貴族の持て成しについて、白の建物について、平民と貴族の考え方や常識の違いについて、わたしが無知だったことが全ての始まりだった。同じことが起こらないように、わたしは早急に貴族の常識を覚えなければならない。
「そうだな。君が他の貴族の子供のように、親の庇護下から出ずに成長するならば、成長に合わせて徐々に常識を身に付けていけばよい。けれど、君は工房を経営するため、印刷業を領地内で広げるため、大人の世界ですでに活動をしている」
他の貴族の子供ではあり得ない行動をしているから、わたしは早急に勉強が必要なのだ。もうわたしは平民ではない。商人ではなく、貴族として活動するための指針がいる。
「平民の商人の常識を振りかざしたところで貴族は動かない。ハッセはまだ孤児院を増やして、工房を作っただけだ。根回しもなく、唐突に行動したが、領主の直轄地の平民が相手だったので、
大事
にはならずに終わった」
「……かなり大事だったと思いますけれど」
神官長の言葉にわたしは、思わず眉を寄せた。あれが大事でなければ、一体何が大事だと言うのか。
わたしの反論に神官長は軽く眉を上げる。
「それは、君は反逆者となってしまったハッセを残したい、救いたいと考えたからだ。普通は、全部消して終了だから、後に残る問題は少ない」
「え? 絶対に少なくないですよ」
「意識の違いだな。私にとってはハッセを潰さず、残す方がよほど面倒で手間がかかる」
人の命の重さが違う。平民と貴族の間の隔たりが大きすぎる。
わたしはゆっくりと頭を振った。
「わたくしの常識がこの世界に馴染まないのはわかっているのですが、そう簡単に人の命を奪うということには馴染めないのですよ」
「……君の場合は平民の家族がいるからな。貴族の意識に染まるのは難しいかもしれないが、なるべく呑み込みなさい」
説明されたり、教えられたりすれば、呑み込めるように努力しようと思う。けれど、理解したつもりでも、ふとした拍子に考えることやその基準は麗乃時代の常識が元になる。完全に上書きするのはなかなか難しい。
「生活習慣くらいならば、見様見真似で何とか真似て覚えることができますけれど、思考回路はなかなか変わらないのです。全ての考え方の中心にあるものがずれているので、自分がこの世界でどれだけずれているのか、わからないですし、擦り合わせるのも容易ではありません」
「だが、この先、領主の養女として、領地内に印刷業を広げていこうとするならば、その相手は貴族だ。貴族の常識を知らなければ、問題が起こった時はハッセと違って、収拾するのは大変なことになる。領主の権力だけではどうしようもない事態になるのだ」
平民との間に問題が起こっても、これだけ大変だったのだ。貴族との間に面倒が起こったら、この程度のことでは済まない。慎重に、丁寧に事を進める必要がある。
「言質をとられないように婉曲に、失敗しないように慎重に、物事を進めなくてはならないのですね。わたくしの性急さをまず改善しなければならないということですか?」
神官長は望んでいた答えを引き出せたように、わずかに唇の端を上げながら、頷いた。
「何よりも本が欲しい、本しか見ていない君の気持ちは理解できないが、どれほど欲しいと思っているかは見ていればわかる。だが、君ほど本を必要とする者は多分いない。印刷業を広げるために、強引に性急に事を進めるところを改めなければならない」
「……はい」
つまり、他から求められるまでは、広げないようにした方が良いのかもしれない。今ある工房をフル稼働して本を作りながら、営業と改良に力を注いでいけば良いのかもしれない。
「では、印刷業を広げるのは反発が起こらないようにゆっくり進めることにして、紙の改良や識字率の向上に力を入れましょう」
貴族の子の教育に力を注いだ後は、平民の識字率も上げていきたい。そうして、顧客を作り出さなければ、と計画を述べると、神官長がわたしの前で軽く手を広げて、計画を止めた。
「待ちなさい。何を言っているんだ、君は?」
「広げるのではなく、深みを出そうか、と考えたのですけれど?」
わたしがそう言うと、神官長が「前半はうまく進んでいたのに、何故そうなった?」と頭を抱えてしまった。おかしい。
「えーと、前半はうまく進んでいたなら、印刷業ではなく、ハッセの反省に話を戻しましょうか。わたくしは今回、平民と貴族の意識や常識の違いも軽視できないと思いました。特に、町長や村長のような立場の人には貴族の考え方を教えなければならないでしょう」
「何のために、だ?」
神官長は、平民に貴族の考え方を教える意味がわからない、と言うけれど、貴族と接する立場の平民だから知っておかなければならないのだ。
「神官や貴族相手でも、お金や女やお酒さえ出しておけば要求が通る、と思いこんでいたから、ハッセはあのようなことになったのです。あの神殿長が仲良くしていた直轄地には、絶対に他にも勘違いしているお偉いさんがいると思います。もう今までと同じようにはいかない、と改めて話をしておいた方が良いと思います」
わたしがそう言うと、神官長はあからさまに嫌な顔になった。
「そのようなことを私がいちいち説明して回るのか?」
「だって、わたくしは子供ですから、大人ばかりの夜のお話には招かれませんもの」
わたしが話をする機会がないのと、子供が言ってみたところで、どこまでわかってもらえるか、わからない。神官長から言ってもらえれば、きっと心に刻み込まれて、一度で理解してもらえると思う。
けれど、神官長には説明する気がないようだ。
「接する相手が変われば、対応を変えるのは当然だろう? その程度もできぬ能無しのために、何故こちらが面倒な説明をしなければならない?」
「……祈念式や収穫祭で回った時にちょっとお話するだけじゃないですか。説明を渋って、厄介事が起こって、町を潰したり、処刑して回ったりする方がよっぽど大変で面倒ですよ。効率を考えたら、説明する方が穏便で手っ取り早いですって」
神官長はトントンと指先でテーブルを叩きながら「なるほど。君の言い分にも一理ある」と言い、わたしを見た。
「どうしても説明したいならば、君がしなさい。夜に泊まるところだけに話をするならば、結局、聞いているところと聞いていないところに差ができてしまう。祈念式の前に君が神殿長として、話をすればよい。面倒な事を私に回そうとするな」
「……はぁい」
そして、次の日。
わたしは祈念式のために午前と午後に訪れた冬の館で、出迎えてくれた町長や村長に向かって、ハッセの町で起こったことをかいつまんで説明した。「まさか同じことがここで起こるとは思いませんけれど、前神殿長の影響がどこまで浸透しているのかわからなくて不安なのです」と聖女らしい演技付きで心配しておいた。
ちょっと目が泳いでいた町長がいたので、多少の危険回避にはなったと思う。