Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (262)
イルクナーの収穫祭
イルクナーにいた灰色神官達は本当に頑張ったようだ。必死に教育したことが一目でわかった。そして、イルクナーの住人達が必死に努力したことも一目でわかる。前回の訪問と違って、ブリギッテに大きく手を振って出迎えることもなく、到着した時に群がってくることもなく、ギーベ・イルクナーを先頭に皆が跪いて出迎えてくれた。
たどたどしいところが残る部分もあるけれど、「まぁ、田舎だし仕方ないよね」で済むレベルにはなっている。
「長旅でお疲れでしょう。夕食の後でゆっくりとお話させていただきます。まずはお寛ぎください」
貴族同士で交わす長い挨拶を終えると、ギーベ・イルクナーはそう言った。
先に到着していた側仕え達が部屋の準備をしてくれているので、そちらで着替えを終えたら、夕食の時間までゆっくりしていてよいということだ。
「フラン、着替えたら離れに行きます。灰色神官を全員集めておいてちょうだい」
「かしこまりました」
フランに言付けて、わたしはモニカとニコラに手伝ってもらい、急いで着替えた。夕食に参加できる格好になったわたしは、モニカに留守を頼むと、ニコラを連れてすぐさま離れへと向かう。
胸には何とも言えない焦燥感が渦巻いていた。フランに「結婚自体がわからない」「強要されたら非常に困る」と言われるまで、わたしにとって結婚は、幸せになるものでお祝いするものだった。けれど、今回は結婚自体をわかっていない灰色神官の結婚話だ。
孤児院長であるわたしは、灰色神官という特殊な状況をもっとよく理解していなければならなかったのに、ギーベ・イルクナーやイルクナーの住人に強要されている可能性があることを全く考えていなかった。灰色巫女については、ヴィルマのこともあって、不愉快な思いをしないように心を砕いてきたつもりだが、男性である灰色神官については思い浮かばなかったのだ。
「ローゼマイン様、こちらです」
離れに入ると、青色神官が使う一室の扉の前にフランが立って待っていた。丁寧な動作で開けてくれる。わたしが中に入ると、ギルと四人の灰色神官が跪いて待っていた。
「久しぶりですね、皆。とてもよく頑張ってくださったのでしょう? ギーベ・イルクナーとブリギッテを通して、皆の頑張りは聞こえておりました」
「光栄に存じます」
準備されていた椅子に座り、わたしは跪く灰色神官をくるりと見回す。
「時間がないので、本題に入りますね。……わたくしは昨日ギーベ・イルクナーのオルドナンツで灰色神官とイルクナーの住人が婚姻を望んでいると伺いました。本当に望んでいるならば、方法はあります。望んでいるのはどなたかしら?」
皆の視線が一人に集中した。注目を受けた灰色神官が真っ青になって、項垂れる。
「フォルク、貴方が結婚を望んでいるのですか?」
「申し訳ございません、ローゼマイン様」
「謝ることではありません。ただ、フランは言いました。結婚というものがどのようなものなのかわからない、と。結婚することを強要されるととても困るだろう、と。灰色神官は立場が弱いですし、強要されれば受け入れることに慣れすぎています。ですから、わたくしは確認したいのです。ギーベ・イルクナーやそのお相手に強要されているということはないですか?」
ハッとしたように顔を上げたフォルクが「そのようなことはございません」と首を横に振った。わたしが予想した最悪の事態ではなかったようで、ホッと安堵の息を吐く。
「では、貴方自身が結婚を望んでいるのですか? ここ、イルクナーで一生を過ごす覚悟があるのですか? 一つの季節だけのお客様ではなく、一生を過ごすことになれば、習慣や考え方で様々な食い違いも出るでしょう。主従関係ではなく、夫婦関係を築いていくことに戸惑うことはとても多いでしょう。それでも、ここに残りたいと思うのですか?」
「……不安は多いです」
しばらくの沈黙の後、フォルクがゆっくりと口を開いて、絞り出すように呟いた。
「フランと同じように、私にも結婚がどのようなものかわかりません。ですが……それでも、彼女と共にありたい、と思いました」
「わかりました。では、灰色神官のままでは結婚できないので、ギーベ・イルクナーとフォルクの売買契約を進めます。よろしいですね?」
「お願いいたします」
灰色神官の内の誰が結婚したいと思っているのか、本当に本人の意思なのか、を確認したかったわたしは、確認できたことに肩の力を抜いた。そして、工房に関する成果などは明日ゆっくりと聞くことを伝えて離れを出る。
「教えてくれて助かりました、フラン。わたくしはどうしても灰色神官の事情に疎いので……誰かに強要された関係ではないようで、安心いたしました。」
「灰色神官の心情など考えるのはローゼマイン様くらいです。ギーベ・イルクナーが望めば、フォルクは売られるのが当然ですから」
フランの顔は「相変わらず甘いですね」と言っている。フランの言う通り、貴族が望めば灰色神官は売られるのが当然だ。それでも、少しでも幸せになってほしいと思うではないか。フォルクの感情がギーベ・イルクナーに利用されているのでなければ良い、と考えずにはいられない。
「ローゼマイン様!」
夏の館の方からモニカが駆けてきた。
「どうかしたの、モニカ?」
「神官長がお呼びです」
急ぎの話がある、と先触れの側仕えが来たのだが、不在だと伝えて戻ってもらった、とモニカは言う。灰色神官との話を終えたら、何食わぬ顔で部屋に籠っていようと思っていたわたしは、神官長に不在がバレたことに血の気が引いていくのを感じていた。
「……叱られるかしら?」
「おそらく」
わたしはフランに抱き上げてもらい、急いで神官長の部屋へと向かう。予想通り、入室するなり鋭い目で睨まれた。
「どこをふらふらしていた、ローゼマイン?」
「急ぎの話がございまして、離れに行っていました。灰色神官に聞きたいことがあったのです」
「……ふむ、こちらも急ぎだ。ギーベ・イルクナーとの売買契約の前に、こちらに記入しなさい」
神官長に渡された紙は、フランに言われてわたしが作った契約書を、神官長がところどころ手直しした物だった。フォルクにできることの項目が書き足されていて、工房に関する仕事を書くように言われた。
「製紙業に関する知識があり、それを教えることが可能。印刷業に関する知識があり、印刷の経験がある。……それから」
わたしは思い当たるまま、フォルクにできることを書き連ねていく。できあがった書類を見た神官長は眉間に深い皺を刻んだ。
「ローゼマイン、ギーベ・イルクナーと金額の話はしたか?」
「いいえ、オルドナンツではそれほど深いお話はしておりません。本日、話をすれば良いかと思いまして……」
何でも「どうしても別れたくない」と住民から相談されたのが、数日前のことで、ギーベ・イルクナーにとっても寝耳の水の話であったらしい。わたしに至っては、離れに行くまで灰色神官の誰が望まれているのか知らなかったくらいだ。
オルドナンツによると、一応お金は準備してあるという話だったし、灰色神官の売買に関わったことがないわたしには詳しい値段がわからなかったので、流しておいた。
神官長は書類を見ながら、書き込まれた項目を数えていく。
「灰色神官の金額は、平均すると小金貨五枚くらいだが、個人の力量によりまちまちだ。こちらの表で、その者の能力を金額に換算するのだが……ずいぶん高価になるぞ」
「それはそうでしょうね。フォルクは元側仕えで教育もされていますし、製紙業にも印刷業にも深く関わっていて、数人で余所に出して成果を上げられる少数精鋭の一人ですもの。高価に決まっているではありませんか」
何でもできるウチの灰色神官が安いわけがない。安売りして、余所の貴族にどんどん買われていく方が問題だ。
「それがわかっているならば良い。情につられて値引きするようなことはしないように。……それから、君はお飾りとはいえ神殿長で、私の上司になる。神官の売買契約に関することは神官長の管轄の仕事になるので、今回、君は承認するだけで基本的には手を出してはならない」
「ん? 前神殿長は勝手に孤児達の契約を行っていたような……」
ディルクの時のことを思い出すと、神官長は嫌そうに顔をしかめた。
「神殿長は神官長の上司に当たるので、契約ができないわけではない。ただ、本来は神官長の仕事だ。前神殿長も事後承諾とはいえ、私に契約書を見せに来ていた。この、フォルクの契約について何か言いたいことがあるならば、今のうちに言っておきなさい」
「フォルク本人の気持ちも確認いたしましたから、特にはございません」
神官長とそんな話をした後、わたしはギーベ・イルクナーとの夕食に臨んだ。
住民の皆で囲むバーベキューではなく、貴族の館で出る食事だ。スープだけはフーゴが作ったらしい。イルクナーの特産をたっぷり使った料理だった。
神官長も満足したようで、ギーベ・イルクナーは緊張から解放されたように表情を緩める。
「今日のスープは格別です。さすが、ローゼマイン様の専属料理人ですね」
「お褒めに預かり嬉しく存じます。料理人にも伝えておきますわ」
そして、食後にはギーベ・イルクナーの部屋へと移動し、売買契約の話が行われる。
部屋には当事者であるフォルクが呼ばれ、その隣には若い女性が寄り添っていた。フォルクのお相手のお嬢さんは、誠実そうな女性に見える。ギーベ・イルクナーは、ブリギッテによく似た色合いの目を柔らかく細めて、二人の姿を見ていた。
二人に対する祝福の感情が明らかに透けて見えていることに、わたしはそっと胸を撫で下ろす。フォルクの気持ちがどうあれ、ギーベ・イルクナーに利用されているのではないか、という不安がすぅっと消えていった。
「神殿長、フォルクのことですが……」
「えぇ、売買契約のことですね。神官長、お願いいたします」
話を切り出したギーベ・イルクナーに、わたしは軽く頷き、神官長へと視線を移した。私の視線を受けて、神官長がギーベ・イルクナーの前にすっと契約書を差し出す。
「これがフォルクの売買契約書になる」
それを手に取って、さっと目を通したギーベ・イルクナーはぎょっと目を剥いて、愕然とした顔になった。何度も契約書とわたしや神官長を見比べ、そして、フォルクと女性を見つめた後、きつく目を閉じる。
「……これほど、高価なのですか? 父が生前に購入した灰色神官はこのような値段ではありませんでした。確か、小金貨一枚で……」
「それは、下働きしかできぬ灰色神官見習いだろう? どれだけの技能があるかで、灰色神官の値段が決まるのだ。フォルクは元青色神官の側仕えで、貴族に仕えるための教育もされている。それに、ローゼマインの指揮する製紙業と印刷業にも通じている。孤児院にいる灰色神官の中でも、余所に出して恥ずかしくない少数精鋭の一人だ。高価に決まっているではないか」
フォルクと彼女が顔を強張らせて、すがるような視線をギーベ・イルクナーに向けた。二人の視線を受けたギーベ・イルクナーが契約書を見つめて、非常に困った顔になって俯く。
「予想以上の値段で、とても……購入できそうにございません」
父親が買ったという灰色神官の値段を元に、フォルクを小金貨数枚だと想定していたならば、手が出ないと思う。フォルクは大金貨二枚と小金貨二枚だ。
ギーベ・イルクナーの言葉に、「そんな……」という女性の小さな呟きが聞こえた。
「いくらを想定していらっしゃったのですか?」
「……有能なので、高価だとは思っておりましたが、小金貨五枚から六枚くらいだろう、と」
「印刷業に関わっていなければ、そのくらいの値段だったが、フォルクの場合、その付加価値が大事だからな」
神官長はゆっくりと息を吐く。その通りだ。フォルクがイルクナーに購入されれば、印刷業や製紙業に関する知識がイルクナーに流れることになる。その付加価値を考えると、とても値引きはできない。
「……ローゼマイン様」
神官長よりはくみしやすいと考えたのか、ギーベ・イルクナーがわたしを見た。残念だが、値段交渉に関しては、ベンノに揉まれている分、わたしの方が厳しいと思う。
ここで負けてしまうと、他の貴族にも値引き交渉をされる可能性が高まる。イルクナーだけを贔屓するのか、と言われたり、偽装結婚のようなことが起こったりすることも考えられる。値引きはできない。
もちろん、恋を叶えてあげたい気持ちはわたしにもある。たくさんの不安を抱えつつ、それでも共にありたい、と願ったフォルクを応援してあげたいと思う。
それでも、値引きする時は、負けてもよいか先までよく見ておけ、とベンノに言われているわたしとしては、首を横に振るしかない。
「今回の交渉は決裂ですね。いくら何でも小金貨六枚にはできませんもの」
わたしが首を振ると、ギーベ・イルクナーは絶望した顔で寄り添う二人に視線を向ける。
「ですが、ローゼマイン様。あの二人は愛し合っていて、それで……」
「ギーベ・イルクナー、何を勘違いしているのか知らぬが、灰色神官に結婚は許されてない。買い取ることができぬ以上、其方が口出しすることではない。この話は終わりだ」
「……申し訳、ございませんでした」
苦いものを呑み込んだ顔で、ギーベ・イルクナーは神官長に跪いた。
同時に堪え切れなかったらしい嗚咽が女性の口から漏れる。
「何とかなりませんか、神官長?」
わたしが神官長に声をかけると、ギーベ・イルクナーがハッとしたように顔を上げた。そこに希望の光が輝いているのが見える。
逆に、神官長は非常に苦い顔になった後、フンと鼻を鳴らした。
「何とかしなければならないのは私ではないだろう?……欲しいものがあり、金銭が不足した場合、君ならばどうする?」
「稼ぎます」
わたしは即答した後で、ポンと手を打った。欲しいもののために稼ぐのは当然だ。ならば、フォルクを他の人に売らずに確保しておけるように、売約済みという形にすればどうだろうか。
「……ギーベ・イルクナー、フォルクの優先権は与えますから、一年くらいで稼げばいかがでしょう?」
わたしがそう提案すると、ギーベ・イルクナーが絶望したようにがっくりと項垂れた。「一年で稼げるような金額ではございません」と言いながら。
「必要な分を準備すればよいだけの話だ。戻るぞ、ローゼマイン」
ガタリと立ち上がって、神官長が退室するのに合わせて、わたしも一緒に退室する。ちらりと振り返ると、頭を抱えたギーベ・イルクナーと泣き崩れた女性の姿が見えた。フォルクも今にも泣きそうに顔を歪めている。
……一年間、必死に頑張れば何とかなる金額だと思うんだけどね。
今までと違って、イルクナーでは新しい紙が発明されたところだ。その紙の特性に相応しい使い方を見つけて売り込めば、それほど難しい金額ではないと思う。
実際、わたしとルッツも初期の紙作りで荒稼ぎした。他の誰も真似できないうちに稼ぐべきだろう。チャンスは今だ。
「もしかすると、ギーベ・イルクナーは御商売が下手なのでしょうか」
「私には交渉事自体に弱いように思える」
「……それは貴族として致命的ではないですか?」
根回し、交渉が貴族の本領だ。それをわたしに叩き込んできた神官長は「その通りだ」と頷く。その後、何とも複雑な顔で「君の商売感覚は貴族としてかなり異端だが……」とこめかみを押さえながら、わたしを見下ろした。
「稼ぎ方についての助言くらいならば良いのではないか? 君もベンノにそうして育ててもらったのだろう?」
……神官長が情けをかけるなんて珍しい。
驚きたっぷりにわたしが神官長を見上げると、「全部顔に出ている」と睨まれ、ビシッと額を弾かれた。あうちっ!
次の日は収穫祭だ。
午前中はイルクナーの住人が総出で準備をして、午後から祭りが始まる。いつもわたしが到着した時には収穫祭の準備が整えられているので、準備段階のバタバタとした熱気を感じることはない。盛り上がる興奮がこちらに伝わってくるのが、お祭りの雰囲気らしくて心が弾む。
今日のブリギッテはお休みにしてある。久し振りの故郷の収穫祭を堪能するといい。神官長がいるので、程々に。
そんな騒ぎの中、わたしはフランとダームエルを連れて離れへと向かっていた。
イルクナーの収穫祭は、神官長が連れてきた徴税官を使うため、洗礼式、成人式、結婚式も神官長が執り行うことになっている。ユストクスがすでに帰ってしまったわたしは、今回ただのお客様なのだ。
離れに準備されていた一室に入ると、そこにはギルとルッツとダミアンが、それぞれ報告するための木札や書字板を抱えて待っていた。
「ローゼマイン様、お久しぶりです」
「ギル、元気そうで良かったわ。ルッツ、お疲れ様でした。それから、ダミアンも長期間ありがとう存じます。では、どのような紙ができたのか教えてくださいませ」
わたしは三人からイルクナーでの成果を尋ねると、ギルが一番に前に進み出た。そして、目を輝かせて報告してくれる。
「結論から言うと、三種類の新しい紙ができました。リンファイと魔木のナンセーブとエイフォンから紙ができています。シッスイラはこちらで取れるデグルヴァという糊と相性が悪いようなので、白皮をエーレンフェストに持ち帰り、スラーモ虫やエディルで試してみようと思います」
「三種類もできたのですか? 素晴らしいですね」
わたしが褒めるとギルが嬉しそうに笑った。
「トロンベ紙が火に強いという特性があるように、ナンセーブ紙とエイフォン紙にも何か特性があるかもしれませんが、まだ発見できていません」
「その辺りは使いながら、探してみるしかありませんね。ありがとう、ギル」
ギルが報告を終えると、ルッツが秋の山歩きで発見したトラオペルレという木の実について報告してくれた。
「トラオペルレはこの白い木の実です。イルクナーの森ではよく採れるけれど、苦みが強すぎて、食用にはできなかったそうです。トラオペルレを潰して取れるねばねばで、お送りした硬い紙が作れるので、トラオペルレを購入してエーレンフェストに持ち帰り、フォリンとの相性も試してみたいと思います」
糊としてトラオペルレを使えば、基本的に硬いつるんとした紙になるそうだ。
「トラオペルレがイルクナーの特産になりそうですね」
そして、ダミアンとは値段に関する話をした。ギーベ・イルクナーが交渉事に弱いようなので、プランタン商会が暴利をむさぼらないように気を付けながら、わたしは他の紙との兼ね合いも考えつつ、値段を決定する。
「では、これで契約書を作成して参ります」
「えぇ、よろしくお願いいたしますね、ダミアン」
決定した値段を元にギーベ・イルクナーとの契約書を作ると言って、ダミアンが退室していった。わたしはギルとルッツが残され、フランとダームエルが立っている部屋の中をくるりと見回し、軽く肩を竦める。
「フラン、扉の外で見張っていてもらっても良いかしら?」
「……声が大きくならないように、お気を付け下さい」
仕方なさそうな溜息を吐いたフランが退室し、扉が閉まると、わたしはルッツに飛びついた。久し振りのルッツ分を補給し、「すごいよ、すごいよ、よく頑張ったね」とギルの頭を撫でまわす。
「……で、お前はどうだったんだ?」
「うふふん。薬の材料は全部揃ったよ」
わたしが胸を張って、「頑張ったでしょ?」と言うと、後ろの方でぼそりと「頑張ったのは護衛騎士ですけれど」というダームエルの呟きが入り、ルッツとギルが笑い出した。むっと膨れて見せて「わたしだって頑張ったのに」と言ってみるけれど、皆が笑っているのでつられて笑ってしまう。
「ルッツ、ルッツ。これでやっと普通の女の子になれるんだよ、わたし」
走って倒れたり、興奮して意識を失ったりしないで普通に活動できるようになるのだ。そんなわたしの喜びの声にルッツは懐疑的な顔になった。眉を寄せて、腕を組んで「うーん」と唸る。
「……薬ができたら、元気にはなれるだろうけどさ、どう考えても普通の女の子は無理じゃないのか?」
「ルッツ、それってどういう意味?」
「元気になると、誰にも止められなくて、余計に変なところが目立ちそうだってことだ」
「ひどい!」
だが、ひどいと思ったのはわたしだけだったようで、ギルとダームエルは「確かに」なんて呟いてルッツに賛同している。
そんな他愛ないやりとりを交わし、一息吐くと、ルッツがわたしを見た。
「なぁ、フォルクがすごく落ち込んでいたんだけど、ダメだったのか?」
「……うん。交渉決裂。フォルクを買い取るだけのお金がギーベ・イルクナーには準備できなかったの。色々なことができるから、フォルクは高いんだけれど、先を考えると安売りはできないでしょ?」
商売という分野で、もうとっくにわたし以上の商人になっているルッツは翡翠の目を細めて、頭の中で計算機を弾き始めた。
「印刷関係の知識を持っているだけでも、かなり高価になるよな?……これから広げていく印刷業の知識だから、下げられるようなことじゃないし……仕方ないか」
「わたしは優先権を付けて一年待つって言ったんだけどね。これだけの新しい紙ができたんだから、紙を作って売れば、大金貨二枚くらいなら稼げると思わない?」
わたしの言葉にルッツが「一年あれば何とかなるだろうな。……ただし、イルクナーで活動する必要があるけど」と肩を竦めた。
「ローゼマイン様、フォルクに教えてやってもいいですか? その、稼ぎ方とか、無理な金額じゃないとか、そういうこと……」
結婚できそうだ、と昨日はあんなに喜んでいたのが、今朝には一転して、死にそうなほどに落ち込んでいるのを見ているのは辛い、とギルが呟く。
わたしは大きく頷いた。
「もちろんいいよ。わたしには直接声をかける機会がほとんどないから、どうしようかと思っていたんだもん。フォルクとギルからギーベ・イルクナーにも話を通してもらって、ギーベ・イルクナーに頼まれてフォルクを貸し出すという形が取れれば一番かしら?」
「言ってみます」
そして、収穫祭は始まった。
工房を任せることが常となっているため基本的に留守番係のギルやハッセまでやってきても小神殿でいるルッツ、エーレンフェストから出ることがない灰色神官やダミアンは、余所の収穫祭を見るのが初めてで、目を輝かせて祭りに見入っている。
「まとめて全部の式をするというのが面白いです」
「エーレンフェストでは人数が多すぎて無理ですものね」
わたしは今日、舞台上ではなく、プランタン商会や灰色神官達と一緒のお客様席に座っている。
朗々とした声が響き、堂々とした態度の神官長が舞台の上で祝福を与えるのを眺めながら、わたしもこんな感じに見えているのかな、と思う。
……台もあるし、姿が見えないということはないと思いたいな。
儀式を終えた後は、ボルフェ大会が始まる。初めて見たルッツとダミアンは大興奮だが、灰色神官達はルール無用に見える乱暴さにドン引きしている。
その温度差に苦笑していると、物言いたげなフォルクの姿が視界に入った。
わたしは少し周囲を見回し、皆がボルフェに集中し、大騒ぎしている喧騒を確認した上で、フォルクを手招きして呼び寄せる。
「フォルク、交渉が決裂したことは可哀想だと思うけれど、これは譲れないのです。他の灰色神官との契約を考えると、安易に値段を下げることはできません」
「……はい」
ゆっくりとフォルクは頷いた。そして、一度奥歯を噛みしめるように力を入れ、わたしを見る。
「ローゼマイン様、ギルからお話を伺いました。……ローゼマイン様は本当に一年間でお金を貯めることはできるとお考えですか?」
「もちろん努力は必要だと思いますけれど、三種類も新しい紙を作れるようになったイルクナーならば、それほど難しいことではないと思っています。わたくしは現にルッツと植物紙を作り始めた頃、およそ半年でその金額を稼ぎましたから」
フォルクが弾かれたように顔を上げた。孤児院の工房で言われるままに働いてきたフォルクは植物紙の正確な利益も、絵本の利益も知らないと思う。
「ねぇ、フォルク。これまで分のフォルクのお給料で、ギーベ・イルクナーにフォルクを貸し出すことは可能です。ここは冬でも川が凍らないそうですし、こちらで一年間頑張ってみてはいかがですか?」
「ローゼマイン様……」
「本音を言うと、わたくしはまだ灰色神官の結婚が心配でなりません。価値観を擦り合わせて一緒に生活していくのは、同じ町で住む同じ階級同士でも難しいのです。イルクナーとエーレンフェストの灰色神官では、常識、生活習慣、価値観など、考え方の全てが違うでしょう?」
思い当たることは多いのだろう、フォルクが少し目を伏せた。そして、ゆっくりと視線を人混みの一角へと向ける。おそらく視線の先にはわたしには見分けられない彼女がいるに違いない。
「一年間、二人で新しい紙作りに励み、お金を貯めながら、イルクナーでの生活に慣れてください。こちらで灰色神官ではない生き方を見つめ、様々な家族や夫婦のあり方を見て、お相手の方と分かり合う努力をしてほしいと思います。わたくしは、フォルクだけが譲るのではなく、お相手の女性にばかり負担をかけるのではなく、苦楽を共にし、お互いを大事にできる関係を築けることを祈っています」
「……恐れ入ります」
収穫祭の後、ギーベ・イルクナーとプランタン商会の契約が行われ、わたしはその契約を元に商売に関する助言を少しして、一年間フォルクを貸し出すことについて話し合った。
そして、全ての話し合いを終えたわたしは、レッサーバスにプランタン商会と三人の灰色神官を乗せてエーレンフェストに帰る。
フォルクと彼女が寄り添って、静かに跪き、最後まで頭を垂れていた。