Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (270)
そして、その後
ふわりふわりとした柔らかな桃色の世界にわたしはいた。
足元がふよんふよんとする柔らかい世界なのに、どこかに行こうとすると、何故か硬い山がたくさんあって、通りたいのに通れない道ばかりだった。
……どうするよ、これ?
むーん、と考え込んでいると、パッと手に白いじょうろが出てきた。じょうろを傾けると、ちょろちょろと液体が出てくる。よくよく見てみると、じょうろの液体で硬い山が少し崩れている。
わたしはちょろちょろと水をかけて氷砂糖を少しずつ解かしていくように、じょうろを片手にせっせと硬い山を解かしていく。
本当に硬いところはカチンカチンで全く解けないけれど、気長に水をかけていると、だんだん解けてくる。ついでに、足でゲシゲシと蹴ってみると、割れて砕けた。
……ん。通れるようになったね。
ちょっと解けてない部分はあるけれど、通れるから、まぁ、いいか、と考えて、わたしは次の山に取り掛かる。
そんな感じで、わたしは硬い山を次々と崩していった。
時々、じょうろの液体が出なくなることもあるけれど、すぐに補充される。わたしは山を崩すことだけを考えて、ひたすらじょうろから液体を流し続けた。
……じょうろ一つで、わたし、マジ頑張った。誰か褒めて。
ものすごく頑張った達成感を胸に、わたしはゆっくりと瞼を上げる。
揺らぐ視界の中に人影が見えた。
すると、その後、大きな手のひらがザボッと勢いよく入ってくる。
わたしの頭はその手に持ち上げられ、半ば無理やり上半身を起こされた。
「うぇほっ! げほ、げほ、ごほっ!」
座る状態まで体を起こされた途端、鼻からも口からも空気が入ってきた。予想外の事態にわたしは驚きに目を白黒させながら咳きこむ。
……空気に溺れる!
わたしが口をはくはくさせていると、背中を一度バンと強く叩かれた。「げふっ!」と胸の奥に詰まっていたような液体が口から飛び出し、呼吸は楽になったけれど、背中がジンジンしている。
わたしは涙目で背中を叩いた人物を睨み上げた。
「痛いです、神官長」
一番に視界に映った人影は、神官長だったようだ。
神殿長室の隠し部屋の中で、自分はユレーヴェで満たされた白い箱の中に座り込んでいる。目の前には眉間に皺を刻んだ神官長。寝る前とほとんど変わらない光景だった。
「やっと目覚めたか。いくら何でも寝すぎだ」
そう言った神官長が額に触れたり、首筋の脈を測ったり、いくつかのチェックをした後、「特に問題はなさそうだな」とゆっくりと息を吐いた。
わたしは何度か目を瞬きながら、にぎにぎと指を動かしてみる。上手く力が入らない。
「わたくし、本当に健康になったんでしょうか?」
眠りにつく前と違って、魔力は思うままに動くようになっているけれど、体はあまり健康になっている気がしない。眠りについていたせいで筋力が落ちているのだろうか。
わたしがユレーヴェに浸かったままの手をもそもそと動かしていると、神官長は実に言いにくそうな顔で口を開いた。
「あ~、ローゼマイン。非常に残念な知らせがある」
「何ですか?」
「君の魔力のことだが……」
「はい」
「完全には解けていない」
わたしの時間がピタリと止まった気がした。一年半ほどかけて、素材を集め、ユレーヴェを作ったあれこれの苦労が思い浮かび、わたしは信じられない思いで神官長を見上げる。
「ええええぇぇぇぇ!? ちょっと待ってください。なんでですか? どうして解けてないんですか!? もしかして、ちょっとくらいはいいかなって、じょうろを使う時に、手を抜いたのが悪かったんですか!?」
「私は手など抜いていない」
むっとしたように神官長に言われて、わたしは慌てて首を振ろうとしたが、それができなくて、頭が前に傾いていく。神官長が手を伸ばして、額を押さえてくれなかったら、またユレーヴェにボチャンと沈むところだった。
「神官長じゃなくて、わたくしの夢の話です。……うぁ、頭がくらくらする」
神官長はこめかみを押さえて、深い深い溜息を吐いた。「君は起きれば起きたで頭が痛いな」と呟きながら睨まれて、うっ、とわたしは言葉に詰まる。
「……まぁ、夢の話は置いておいて。どうして魔力が解けていないんですか?」
「端的に言うならば、固まりすぎた。君が毒を受けて固まった魔力を解かすことにもユレーヴェが必要で、元々の魔力を完全に解かすには品質が足りなかった」
わたしがわずかに首を傾げると、神官長はトントンとこめかみを叩きながら、説明を加えてくれた。
「元々君の中で固まっていた魔力を10としよう。私は余裕を見て、15が解かせる品質のユレーヴェを作った。だが、君の魔力の固まりは直前になって20になってしまった。15が解かせるユレーヴェでは品質が足りなかった。……そういうことだ」
「……最初よりはマシになっているんですか?」
わたしは自分の腕の上に浮かぶ魔力の線を見下ろす。赤い線に変化があったのかどうかさえ、わたしにはわからない。
神官長はわたしを見下ろしながら、一つ頷いた。
「そうだな。完全に解けてはいないが、かなり良くはなっている」
「少しでも良くなっているなら、まぁ、いいや。死にかけていたわけだし……」
ひとまず一歩前進と考えたわたしは、ゆっくりと首を動かして辺りを見回す。
自分が入っている白い箱のすぐ近くに木箱が置かれていて、その上に本が五冊積まれているのが目に入った。ローゼマイン工房で作るタイプの和綴じ本だが、全く見覚えがない物だ。
「神官長、これは何ですか?」
「ギルと言ったか? 君の側仕えが持ってきた本だ。本を積み上げておけば、君が早く起きるのではないか、と言って、新しいものができる度に献上してきたので、積み上げておいた」
なんと、印刷された本をギルに頼み込まれて積み重ねていたらしい。
「わぁい、新しい本だ」
喜び勇んで手を伸ばそうとした瞬間、自分の手がユレーヴェの薬液まみれであることに気が付いた。この馬鹿者、と言いたげに神官長が目を細める。
「その手で触れたら、汚れるぞ」
「……ですよね?」
「目覚めの兆候が見えたので、風呂の準備はさせている。もう少し待ちなさい」
「はぁい。……って、あれ?」
見たことがない本が五冊できるほど、わたしは眠っていたようだ。そのことに気付いて、わたしは何度か目を瞬いた。
「あの、神官長。つかぬ事をお伺いいたしますが……わたくし、どのくらい眠っていたのですか?」
「君は約二年眠っていた。……だが、まぁ、貴族院の入学に間に合ってよかった」
「……はい?」
……約二年?
聞き捨てならない言葉にわたしは目を剥いた。
「ちょっと待ってください。わたくし、今、何歳ですか?」
「10歳の秋、収穫祭が終わったところだ。冬には貴族院に入ることになる」
神官長の言葉に、わたしは軽くパニックに陥る。
わたしがユレーヴェを使ったのは8歳の冬だったが、今は10歳の秋だと言う。どうやら、わたし、9歳をまるまるスキップしてしまったらしい。
「そ、そんな! わたくしの9歳は一体どこへ!?」
のおぉぉ、と頭を抱えると、神官長は軽く肩を竦めた。
「君の場合は7歳を二回経験したのだから、釣り合いは取れているだろう?」
「全然取れないですよっ!」
7歳を留年したのも予想外だったが、9歳を飛び級する予定なんて全くなかった。
「……神官長、わたくし、10歳と言われても、全く変わっていないような気がするのですけれど」
自分の目に映る手の大きさに何の変化もない気がする。これで二年の歳月がたったなんて信じられない。
「ユレーヴェに浸かっている間は魔力を解かす以外の生命活動が著しく低下する。半分ほど死んでいたようなものだ。……成長はしない」
そっと視線を逸らしながら、神官長がそう言った。
……ちょっとだけ健康にはなったけど、わたし、9歳をなくした上に、成長していないままで貴族院に行くことになったようです。