Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (274)
閑話 二つの結婚話
私がギーベ・イルクナーとなって早くも三年の月日がたった。
父上が亡くなり、ギーベとなってからは激動と言っても良いだろう。妹の婚約者に命を狙われ、怒った妹が婚約破棄をし、それから続く嫌がらせに家族一丸となって対処してきた。
貴族院を卒業するブリギッテには新しい相手が見つからず、卒業式では私がエスコートすることになったのは、苦い記憶でもある。そして、貴族院を卒業したブリギッテは女騎士として騎士寮に入ることで、イルクナーから離れる決意をした。騎士寮で新しい繋がりを得ることで、少しでも嫌がらせを減らそうとしたのだ。
ブリギッテは神殿や下町にも赴くことで、領主の養女であるローゼマイン様の護衛騎士の地位を獲得した。それとほぼ同時にイルクナーへの嫌がらせは激減し、我々は少し息が吐けるようになった。このままローゼマイン様の庇護下に入ろう。そう決めたイルクナーは大きな変換点を迎えた。
ローゼマイン様が主導する製紙業を他の貴族達に先駆けて行うことになったのだ。これ以上ない機会と飛びついたものの、始まってみると本当に大変だった。
エーレンフェストからローゼマイン様の御用商人であるプランタン商会とローゼマイン工房の灰色神官達が滞在することで、イルクナーに足りないものを次々と突きつけられる。これまではなかった貴族が訪れることで、私の貴族としての覚悟や気概、領民に対する姿勢を問われ続けることになった。
だが、止まることはできない。イルクナーはこのまま製紙業をしながら、発展できるように進まなければならないのだ。
「旦那様、できました! 枚数を確認してください!」
夏の半ばのある午後、カーヤが満面に笑みを湛えて執務室に飛び込んできた。その後ろからきっちりと礼をしてフォルクが入ってきて、カーヤの態度を咎める。
「カーヤ、ギーベ・イルクナーに失礼が過ぎます」
「ご、ごめんなさい。ちょっと浮かれてしまったのです」
カーヤは謝ると、一度部屋を出て、入室からやり直す。これは灰色神官達が館で働く者達に教育していた時の名残だ。
ローゼマイン様が治療のためにユレーヴェを使って眠りについたことで、製紙業や印刷業をすぐには広げるつもりはないようで、フェルディナンド様が貴族の申し出を退けているらしい。けれど、これから先、イルクナーには貴族が訪れることになると言われている。礼儀作法は館で働く者には必須となったのだ。
「フォルク、できたのかい?」
「はい、ギーベ・イルクナー。目標枚数の紙が作成できました」
穏やかだが、冷静であまり感情を見せないフォルクが嬉しそうに顔を綻ばせて、できあがった紙を丁寧に差し出した。
私はそれを受け取り、種類ごとに枚数を数えていく。
正直なところ、本当にできるとは思わなかった。けれど、ローゼマイン様がおっしゃっることを信じて、ただひたすらに冬の冷たい水で手を真っ赤に腫らしながら紙を作っていたフォルクとカーヤ二人の努力が実を結んだようだ。
やりきった達成感に晴れやかな笑みを見せている二人が、私にはとても眩しく見えた。
「確かにある。私は星結びの儀式で貴族街に向かわなければならないので、その時、プランタン商会に紙を売って、代わりに、フォルクの売買契約を成立させてくるよ」
「はい」
「ギーベ・イルクナー、もし、できればで結構ですが、機会があれば、神官長にローゼマイン様のご様子を伺ってきて頂けると嬉しく思います」
「あぁ、聞いて来よう」
私はオルドナンツでブリギッテを通してフェルディナンド様に面会予約を取ると、星結びの儀式のために貴族街へと向かった。
今回は私だけが星結びの儀式に出席するので、騎獣でささっと移動することにする。エーレンフェストまでは距離があるので、あまり馬車では移動したくないのだ。
貴族としてはあまり褒められたことではないが、騎獣に紙の入った木箱をいくつもくくりつけて貴族街まで駆けると、冬の館に常駐している執事が驚いた顔で出迎えに飛び出してきた。
「旦那様、お早いお着きでしたね」
「今回は一人だからね。身軽だよ」
「……とても身軽と言えるような荷物の量ではないようですが」
執事に睨まれ、私は下働きの者達が荷物を運ぶ方へと視線を移す。
「この荷物は箱のまま執務室へと運んでくれ。大事な商品なんだ」
「かしこまりました。ですが、旦那様、こちらへ来られた時はもう少し貴族らしい威厳をお願いいたします」
「あぁ、善処しよう」
私は馬車に大事な商品である紙を乗せて、神殿に出発する。今から行動すれば、フェルディナンド様が指定した時間にちょうどよいだろう、と考えて移動したのだが、私の到着が一番遅かったらしい。神殿の神官長室には、すでにプランタン商会のベンノとダミアン、ローゼマイン様の筆頭側仕えとイルクナーにも来ていたギル、そして、売買契約のために神官長であるフェルディナンド様が揃っていた。
「ようこそ、ギーベ・イルクナー」
フェルディナンド様の立ち合いの下、紙作りの成果の発表と売買を行った。イルクナーに植物紙協会を形式上作り、ダミアンを通じて予め紙の値段の取り決めをしていたことで、商人から値下げ交渉をされることもなく、呆気ないほど簡単に紙の売買が終わった。
「ギーベ・イルクナー、良質の紙の取引ができて大変嬉しく存じます。これからもどうぞよろしくお願いいたします」
「あぁ、こちらこそよろしく」
ベンノから契約魔術で紙の値段を決めたいと申し出があった時には、「紙の値段くらいで大袈裟で、お金の無駄遣いだ」と思っていたが、これほどすんなりと商人との交渉が終わるのならば、事前に決めておく方が良いのかもしれない。売買と商人に関する認識が少し変わった。
売買を終えたプランタン商会が退室していくと、今度はフォルクの売買契約だ。プランタン商会に売った紙の金額が、フォルクの売買に足る金額であることをフェルディナンド様に確認してもらい、書類に署名する。
「ふむ、これで契約は成立だ。……それにしても、ローゼマインの予想より早かったな」
「はい、フォルクは真面目に実直に、……必ず貯められるというローゼマイン様のお言葉を信じて一心に紙を作っておりました」
「そうか。フォルクはイルクナーの生活に馴染めたのか?」
灰色神官が新しい環境に馴染めたかどうかを、フェルディナンド様が気にするとは、失礼な話、全く思っていなくて私は思わず目を瞬いた。その視線に気付いたのか、フェルディナンド様はわずかに目を細める。
「イルクナーを出る時にローゼマインや側仕え達、同行していた灰色神官達までが気にしていたのだ。フォルク一人を置いていくことになるから、心配でならない、と。私個人としては、自分で選んだ道なのだから放っておけ、と思うのだが……」
そう言って、皮肉気に口元を歪めながら、フェルディナンド様は傍らに立っているローゼマイン様の側仕え達にちらりと視線を向けた。イルクナーで共に紙作りをしていたギルは確かにフォルクのことが気になって仕方がないのだろうと思う。
「フォルクは生活習慣の違いに戸惑いながら頑張っています。彼自身もイルクナーの風習に馴染もうとしていますが、館の中では神殿のやり方を取り入れたこともありますから、良い影響を与え合っているのではないか、と私自身は考えております」
「ほぉ……」
フェルディナンド様に向けて話しながら、視界の端で安堵しているギルの姿を捕える。フォルクの様子を知ることができて、安心したようだ。
フッと口元が緩むのと同時に、私はフォルクもまたこちらのことを心配していたのだと思いだした。
「……フェルディナンド様、一つお伺いしたいのですが、まだローゼマイン様はお目覚めになりませんか?」
「あぁ、まだまだだ。あと一年近くかかると思っているが、どうした?」
契約書を側仕えに渡し、片付けさせていたフェルディナンド様が振り返ってこちらを見た。鋭い金の瞳に見据えられ、私は急いで首を振り、フォルクもまたこちらのことを気にしていたのだ、と伝える。
「それに、あの二人はローゼマイン様の祝福を受けたいだろうと思いまして……」
「ローゼマインが目覚めるまで待つならば、それでも良いのではないか? 当人たちの好きにすれば良い。もう灰色神官ではなくなったフォルクに、こちらからは何の強制もせぬ」
フェルディナンド様の言葉を伝えれば、フォルクはいつまででもローゼマイン様の目覚めを待ちそうだが、カーヤはもう待てないだろう、と思う。
プランタン商会が帰ってすぐに、私は屋敷の一室、独身の下働きが過ごす部屋をフォルクに与えた。フォルク一人となってしまったのに、離れで過ごすのは良くないと思ったのだ。ブリギッテを通して、ローゼマイン様からフォルクにはなるべく他の者と同じ生活をさせるように言われていたせいもある。
何人もいた客人の一人ならば、それほど目立たなかったフォルクだが、一人残って共に過ごすことになれば、嫌でも目立つようになった。
フォルクは物腰穏やかで、下手すると領地内を駆け回らなければならない領主である自分よりも、優雅で上品に見える。それでいて、貴族に仕えることに慣れているので、謙虚で控えめだ。
イルクナーの他の男達とは全く違うフォルクに、周囲の独身女性の目が向き始めるまでに、それほど時間はかからなかった。あの手この手で群がろうとする女性達に焦ったカーヤは早く名実ともに夫婦になりたくて仕方がないようなのだ。
「おそらく、この秋には結婚することになるでしょう。彼女の方が待てないようなので」
「製紙業がどのようになっているのかも知りたいから、秋には私がイルクナーに向かうつもりだ。結婚式の様子と二人のことはローゼマインに伝えよう」
「恐れ入ります」
私が胸の前で手を交差させ礼をすると、フェルディナンド様はほんの一瞬言うべきか言わないべきか悩むような素振りを見せた後、口を開いた。
「ギーベ・イルクナー、これは余計なおせっかいだとは思うが、其方は実直すぎる。人柄としては好ましいが、貴族社会では簡単に足元をすくわれるだろう。気が進まなくとも、貴族のやり方をもう少し学んだ方が良いぞ」
眉を寄せたフェルディナンド様の表情は不快に感じているように見えるが、ギーベとなった者にそのような忠告をしてくれる者はいない。これは紛れもなく貴重な忠告だった。
「有難いお言葉、肝に銘じます」
フォルクの契約で残った少しのお金と契約済みの控えを持って、私は冬の館へと戻る。これで、フォルクは名実ともにイルクナーの住人となったのだ。フォルクはこのまま工房の経営と館の教育係として生活していくことになるだろう。
……私に助言してくれる係りでも良いかもしれぬ。
貴族街にいる時ならばともかく、イルクナーにいるとどうしても気が抜けてしまう。フォルクに指摘してもらった方が良いかもしれない。
「お兄様、おかえりなさいませ」
「あぁ、ブリギッテ。こちらに帰っていたのか」
館に戻ると、普段は騎士寮で生活しているブリギッテが寛いでいた。ここ最近は、領主一族の護衛騎士が順番にボニファティウス様にしごかれていると言っていたが、今日は休みなのだろうか。
領主の伯父であり、元騎士団長のボニファティウス様の鍛錬は非常に厳しいという話で、「鍛錬で疲れ果てている時に襲撃を受けそうで怖いですよ」とブリギッテが愚痴をこぼしていたことがある。
「今日はお休みの日なのです。午前中はエルヴィーラ様のお茶会にお招きを受けていたので、それほどゆっくり過ごせたわけでもないのですけれど。……わたくしのことより、首尾はいかがでしたの?」
「ローゼマイン様のおっしゃったとおり、目標金額が溜まったよ。先程フォルクの売買契約も
恙
なく終わったところだ」
「よかった。これでカーヤはフォルクと幸せになれますね」
私はブリギッテの正面にある椅子に座りながら、契約書の控えを見せた。さっと契約書を手に取ったブリギッテは、契約成立を我が事のように喜び、「何か贈り物をしようかしら」と思案し始める。幼い頃から共に遊んだカーヤが幸せをつかんだことを嬉しく思っているのが伝わってきて微笑ましい。
「カーヤのことは喜ばしいが、むしろ、私が気になっているのは、ブリギッテの星結びの儀式だ。どうするつもりか聞かせてほしいのだが、いいかい?」
去年、ローゼマイン様が考案された衣装を身にまとい、星結びの儀式に出席したブリギッテは一度婚約を破棄された男に言い寄られていた。ローゼマイン様の後援が欲しいのだろう。ブリギッテの名誉のためには復縁した方が良い、としつこく言い寄っていたのだ。「一度婚約破棄された女に言い寄る男などいない」と言って。
実際に、言い寄る男がいなかったためだろう、ブリギッテは唇を噛みしめて、それでも、男の手を取ろうとはせずに、衆人の視線に晒されていた。
そこをブリギッテの同僚であるダームエルが救ってくれた。友人の騎士達と共にブリギッテを庇い、ダームエルが求婚するという形で、ブリギッテの名誉を守ってくれたのだ。
魔力差が大きい二人だが、ダームエルは今年の星結びの儀式までに魔力を増やして、もう一度求婚すると去年の星結びの儀式では宣言していた。
「……どうするとおっしゃられても」
手近にあったクッションを抱きしめるようにして抱えたブリギッテが、一度顔を伏せた後、甘えるように上目遣いで私を見た。
「お兄様はダームエルをどのように思いますか?」
……ふぅん?
どうやらブリギッテはダームエルに好意を持っているようだ。去年の星結びの儀式では求婚されても、「わたくしの名誉を守ってくれただけです」と言っていたけれど、一年の間にこの二人の関係にも色々と変化があったらしい。ブリギッテが結婚に関して前向きになっているならば、喜ばしいことだ。
私はイルクナーに滞在していた時に見たダームエルの言動を思い返す。ブリギッテを大事にしてくれそうだし、どちらかというとお人好しで損をしてそうな性格に見えた。イルクナーを田舎だと毛嫌いすることもなかった。ローゼマイン様の信頼も厚いようで、気の置けない相手として遇しているようだ。
「人柄には問題ないと思ったよ。ただ、魔力の問題はどうなんだ? ダームエルは一年で魔力を伸ばす、と言っていたが、結婚できるかどうか、かなり微妙なところではないか?」
下級貴族のダームエルとブリギッテは、去年の時点では子をなすのにギリギリというくらいに魔力差があった。結婚できなくはないだろうけれど、子供のことを考えるならば、いくら何でももう少しマシな相手と結婚して欲しい、と親族なら思うし、第三者が見てもあり得ない、と言われるくらいだ。
実際にそう思われていたからこそ、ダームエルの求婚はブリギッテの名誉を守るためのもの以上には周囲に受け取られておらず、からかいの対象となっていた。下級貴族なので、魔力を伸ばすにしても、たかが知れている。
「一年で変わったのかい?」
「はい。ダームエルは本当に一年で魔力が伸びて、今はまだ私の方が上ですけれど、ある程度釣り合うくらいになっています」
少しばかり恥ずかしそうにブリギッテがそう言った。完全に結婚相手としてダームエルを想定している顔になっている。
まさか下級貴族がそこまで魔力を伸ばしてくるとは思わなくて、私はわずかに目を見張った。
「もしかして、彼は元々成長が遅い方だったのかい? 」
成長が遅い者もたまにいる。貴族院で相手を探すことが多いので、成長が遅い者は相手を探すのに苦労するけれど、ダームエルがそうだったなら、これから先もまだ伸びる可能性があるということだ。
「この一年は魔力の伸びが目に見える程ですから、成長が遅かったということもあるかもしれません。けれど、一番大きかったのは、ローゼマイン様が効率的な魔力の圧縮方法について教えてくださったことでしょう。……成人後でも魔力が伸びるのです。人によりますが」
「何!? 冬に魔力を増やすための新しい圧縮方法があると噂が流れていたのは、本当だったのか」
冬の社交界でどこからともなくそのような噂が流れていた。出所は不明だったが、魔力の増加方法は貴族ならば誰しも興味がある事なので、どのようにすれば良いのかで、貴族達が盛り上がっていたのだ。
「今のところ、領主夫妻とローゼマイン様のご家族とフェルディナンド様、それから、ヴィルフリート様を除く領主一族の護衛騎士と騎士団の一部とユストクス様しか教えられておりませんけれど、ローゼマイン様がお目覚めになれば、少しずつ信用できる者に広げていくようですよ。ダームエルが、その、わたくしとの結婚のため、ローゼマイン様に教えを乞うたのが発端だったのですって」
ローゼマイン様から誰よりも先に魔力の圧縮方法を教えられるほど信頼されているならば、ダームエルとブリギッテの婚姻は間違いなくイルクナーのためになる。フォルクに向けた
餞
の言葉からも、ローゼマイン様は情が深いことがわかる。ならば、イルクナーをすぐに見捨てはしないだろう。急激に変わり始めたイルクナーには、まだまだローゼマイン様の後ろ盾が必要だ。
「魔力の問題がないならば、後はブリギッテの選択次第だ。去年の時点でブリギッテが言っていたように、イルクナーに害がなく、自分が幸せになれると思うならば、それで私は十分だと思っている。私は兄として、ギーベ・イルクナーとして、ダームエルとの結婚に賛成するよ」
私の言葉にブリギッテはアメジストのような目を輝かせ、大輪の花が開くような柔らかで嬉しそうな笑みを浮かべた。
「お兄様にそう言っていただけて嬉しいです。……そういえば、本日、エルヴィーラ様のお茶会に招待された時も、同じようなことを聞かれました。ダームエルの求婚を受け入れるのかどうか、と」
小規模のお茶会とはいえ、領主夫人までいらっしゃるお茶会で根掘り葉掘り聞かれて、非常に居心地が悪く、恥ずかしい思いをしたのだ、とブリギッテは唇を尖らせる。それでも、嬉しそうに笑っているのだから、満更でもなかったのだろう。
「何と答えたんだい?」
「わたくしは、ダームエルの求婚を受け入れて、イルクナーに戻りたい、と答えました」
ブリギッテの言葉に、私は目を瞬いた。それは、あまりにも予想外な言葉だった。
「ブリギッテはイルクナーに戻るのかい?」
「何ですか、お兄様? わたくしが戻るのはご不満ですか? 結婚するとなれば、女に期待されるのは、子を産み育てることではありませんか。わたくしは子を育てるならば、イルクナーで育てたいと思っております」
二人とも跡取りではないので、貴族街で生活するためには家の購入から始めなければならない。庭の狭い窮屈な家に住み、自分に経験のない貴族街での子育てをしながら、社交に励むのではなく、土地だけは広大なイルクナーで家を持ち、子供達は野山を走り回って育つような、自分が育ったのと同じような環境を準備してあげたい、とブリギッテは語る。
「ダームエルはそれに対して何と?」
「え?……ダームエルは土地を持つ貴族ではありませんから、住む場所にはこだわらないと思います。イルクナーを良いところだと言ってくださいました。それに、エルヴィーラ様もわたくしの故郷への思いに賛同してくださって、ダームエルの愛情を試すと良いとおっしゃいましたから」
「なるほど……」
ブリギッテはどこまでも真っ直ぐだ。自分が婚約破棄をしたことで、イルクナーが窮地に立たされたのを知って、下町に下りることもある神殿勤めのローゼマイン様の護衛騎士に志願した。有力者の後ろ盾を少しでも得られるように、必死だった。
だが、郷土愛に溢れるその行動は、騎士のものではない。郷土を守り、その地に住む民を守り、より良くしていきたいと願う土地持ちの貴族の考え方だ。
ローゼマイン様の護衛騎士を務めたけれど、ブリギッテの根底は変わっていない。
……ならば、おそらく。
私はゆっくりと息を吐いた。
郷土愛に賛同し、イルクナーに戻ることを許したエルヴィーラ様は、ブリギッテを護衛騎士としては失格だ、と切り捨てたのではないかと思う。
そのうえで、ブリギッテを使って、ダームエルも試すつもりなのだ。ダームエルが試されているのは、ブリギッテへの愛ではなく、ローゼマイン様への忠誠心に違いない。
貴族街で生まれ育ったダームエルは、騎士としての功績で身を立てていくしかない。もし、ダームエルが領主一族の護衛騎士でなければ、イルクナーに婿としてやってきただろう。ギーベ・イルクナーの妹と縁付けるのは、下級貴族にとってはまたとない機会だ。
だが、ダームエルは貴族街で育った騎士で、ローゼマイン様に失態の取り成しをされた上に引き立ててもらっている護衛騎士だ。結婚を機にイルクナーへ行くというのは恐らく考えていない。考えられない選択だと思う。
「……ブリギッテ、仮にダームエルがイルクナーには来られないと言えば、どうするつもりだ? ブリギッテが貴族街に残って結婚するという考えはあるのかい?」
軽く目を見張った後、ブリギッテはゆっくりと首を振った。
「ありません。わたくしはローゼマイン様に指摘され、イルクナーに足りないものを知りました。余所から見たイルクナーの姿が見えました。それを今後に生かしていきたいと思っています。ローゼマイン様がおっしゃったように、イルクナーの良さを残して、発展させていきたいのです」
イルクナーのためならば、意に沿わぬ結婚でもするし、神殿にも下町にも赴く。できれば、ずっとイルクナーで過ごしたいので、婿に来てくれそうなダームエルを選んでいるところまで、土地持ちの貴族の娘としては完璧だ。
「ブリギッテがイルクナーを思う気持ちはよくわかった。……だが、ブリギッテに譲れないものがあるなら、ダームエルがブリギッテと共に歩む道よりも、護衛騎士としての道を選んだとしても恨んだり、憎んだりしてはいけないよ」
「お兄様、どういう意味ですか?」
気色ばんだブリギッテがクッションを放り出すようにして立ち上がった。
私はブリギッテを見上げながら、諭すようになるべく静かに落ち着いて語り掛ける。
「ダームエルは我々のような土地持ちの貴族とは違う、貴族街で育った護衛騎士だ。領主一族であるローゼマイン様から離れることはない、と私は思う。……彼がイルクナーに来てくれるならば、もちろん歓迎するけれどね」
ブリギッテは衝撃を受けたように座り直し、もう一度クッションを抱え込んだ。泣きそうな顔で考え込んでいる姿を見て、私は立ち上がる。この後どうするのかを考えるのはブリギッテだ。兄であっても私が口を出すことではない。
そして、星結びの儀式の夜。
ブリギッテは去年と同じ衣装で会場にいた。今年はブリギッテの衣装を参考にした女性や、ローゼマイン様の髪飾りによく似た花の飾りで衣装を飾っている女性、あまり目にしたことがない衣装を身に付けている女性もいた。いつでも流行の似たような衣装ばかりになる星結びの儀式では珍しい感じだ。
似たような衣装を着ている者が何人もいたので、ブリギッテは去年ほど衣装に関しての注目はされていない。今年、ブリギッテが注目されているのは、ダームエルの求婚の行方がどうなるか、だろう。恋愛関係の噂話が好きなご婦人方がブリギッテとダームエルの動向を非常に気にしているのがわかる。
そして、ダームエルの方は「どうやって魔力を伸ばしたんだ」と騎士仲間や同じ年頃の友人達に肩を叩かれたり、「羨ましいぞ」と軽く小突かれたりしているのが見えた。
フェルディナンド様が星結びの儀式を執り行った後は、未婚の者達が結婚相手を探す場となる。
今年も若い者達はそれぞれ相手を探そうと躍起になっていた。躍起になっているとは言っても、相手がいない者に群がられる者はほんの一部だ。それ以外は仕事場ですでに目を付けていた相手と距離を縮めようと奮闘していたり、来年に向けて親族へ紹介に行ったりしている。
「ブリギッテ」
大勢が一年間の進展に注目する中で、ダームエルは一大決心をしたことが一目でわかる緊張した顔でブリギッテの前に跪き、飛び切り上等な紫の魔石を捧げた。
「天上の最上位におわす夫婦神のお導きにより、私は貴女に出会えました」
そんな決まり文句から始まった求婚は、「貴女が側にいてくれたら、私はどこまでも成長できる気がいたします。私の光の女神であってください」と結ばれた。
周囲が固唾をのんで見守る中、ブリギッテは嬉しそうに顔を綻ばせた後、きゅっと唇を引き結ぶ。
「ダームエル、わたくしの光はイルクナーでのみ、輝くようです。……貴方はわたくしと一緒にイルクナーへ来てくださいますか?」
ブリギッテの言葉に、ダームエルは大きく目を見開いた。戸惑うように揺れ、信じられないというようにブリギッテを見上げる。
魔石を捧げたままで驚きに固まっているダームエルと、静かにダームエルの答えを待つブリギッテ、二人とも時の女神 ドレッファングーアの悪戯にでもあったかのように動かない。
ほんの数秒、だが、ひどく長く感じられた沈黙の後、静かに見下ろすブリギッテの瞳に、譲れない一線を見つけたダームエルの灰色の瞳が、ぎゅっときつく閉じられた。苦しげに眉を寄せ、唇が引き結ばれる。
苦渋に満ちた表情で俯いたダームエルは、ゆっくりと首を横に振った。
「……イルクナーには行けません。私は、ローゼマイン様の護衛騎士です」
「そう、ですか」
小さく呟いたブリギッテのアメジストのような瞳から落ちた涙が、よく似た色合いの魔石にポツリと落ちた。
「想い合っていても儘ならぬ恋もまた美しいこと」
背後で、ほぉ、と感嘆の溜息が漏れ、私は思わず振り返った。
「エルヴィーラ様……」
ローゼマイン様とよく似た花の髪飾りを付け、悠然とした佇まいで微笑んでいる貴婦人の姿に、私は一歩後ろに下がる。その場に跪こうとすると、エルヴィーラ様がすっと手を出して、それを止める。
エルヴィーラ様は頬に手を当てて少しばかり首を傾げながら、漆黒の目を細め、ニコリと笑った。敵を見定めようとする貴族の目に気付いて、私は背筋を伸ばす。
「ギーベ・イルクナー、わたくしはローゼマインが願っていたのと同じように、ブリギッテの幸せを心から願っておりますのよ。イルクナーへと戻り、故郷の発展に尽くしたいという優しい心映えには、本当に感動いたしました。わたくし、ブリギッテの幸せのためにも、心を尽くしてイルクナーのためになる良縁を探して差し上げますわ」
ダームエルとの貴族街での生活よりイルクナーを選んだブリギッテに、上級貴族であるエルヴィーラ様の申し出を断るという選択肢はない。そして、ローゼマイン様の後ろ盾が必要なイルクナーにとっても、ローゼマイン様の母親であるエルヴィーラ様との良好な関係は必要だ。
ギーベ・イルクナーである私の答えは一つだった。
「勿体無いお言葉に存じます。我が妹のために良縁を探してくださるとのこと、どうぞよろしくお願いいたします」