Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (275)
閑話 オレ達に休息はない
雪がぱらつき始めたある日の工房からの帰り、オレはどんよりと暗い表情のギルに呼び止められて手紙を渡された。
「必ず事情を知らない者がいないところで読んでくれよ」
何の事情かなんて、いちいち説明されなくてもわかる。ギルがそうやって名前を濁す時はマインに関することなのだ。だから、いつもマインの手紙を預かった時は、家に帰るよりも先にマインの家へと寄ることにしている。
今日も、オレは手紙が入っているバッグを気にしながら、階段を駆け上がってマインの家の玄関の前に立った。
「こんばんは。ルッツだけど、皆いる?」
「いるよ。……あ、もしかして?」
戸口へと出てきたトゥーリの言葉に、オレは頷きながらバッグの中から手紙を出して見せる。トゥーリが嬉しそうに青い瞳を輝かせ、三つ編みを揺らして後ろを振り返った。
「お手紙が来たよ!」
弾んだトゥーリの声が響くと同時に、寝室から飛び出してきたのはギュンターおじさんだ。多分、夜勤のための仮眠中で寝入りばなだったのだろう、やや寝ぼけた顔に寝間着姿である。エーファおばさんもすぐさま手を拭いて、台所仕事を切り上げた。
皆が台所のテーブルに顔をつき合わせるようにして手紙を待ち望んでいるのを見て、カミルが「カミュもうえ~」と言って、自分も抱き上げろ、と要求する。
エーファおばさんがカミルを抱き上げると、オレは皆が揃ったテーブルの上にマインの手紙を広げて置いた。
オレに向けられた手紙には「元気になるために薬を使うから、季節一つ分くらいは寝込むと思う。その間、工房やグーテンベルク達のことはよろしくね」というマインらしい軽い口調で書かれていた。他には細々とグーテンベルクへの指示が並んでいる。
家族宛ての手紙には「わたし、お薬作ったから元気になるよ。普通の女の子になるからね。しばらく寝込むけど、心配しないで」と書かれていて、家族一人一人に対した言葉が並んでいる。
「やっと元気になれるのか」
「マインが元気になるなんて、まだ信じられないわ」
「ルッツ、他にも手紙が入ってるよ? フランって書いてある。字は読めるけど、意味がよくわからない手紙だね」
マインの手紙を読んだ後に出てきたのは、フランからの手紙だった。フランの手紙は貴族向けに使う言い回しが多く含まれているので、トゥーリが読むにはちょっと難しい。オレは店でも練習させられているし、このあいだイルクナーでも習ったので、少しは読めるようになっている。
オレはフランの手紙を手に取って、目を通し始めた。
「……マジかよ」
「どうしたの、ルッツ?」
首を傾げるトゥーリの向こうでは、オレの強張った顔に気付いたギュンターおじさんがガタッと立ち上がった。
「マインに何があった!?」
「……城で何者かに襲撃され、毒を飲まされたらしい。神官長の見立てでは、命は助かったけど、薬を使う期間が一年以上に伸びる……って」
旦那様にもそのことを伝えてほしい、と書かれているが、それは今関係のないことだ。
オレが口を噤むと、ギュンターおじさんがフランの手紙を奪い取り、自分の目で確かめたいというように目を通す。けれど、トゥーリと一緒で理解できなかったらしい。眉を寄せて、手紙をテーブルに放り出す。
「眠る時間が伸びるだけで、命に別状はない……それだけが救いか」
きつく拳を握ったギュンターおじさんが拳を何度か額に当て、行き場のない怒りを吐きだすようにゆっくりと息を吐いた。
「マイン、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫よ、トゥーリ。マインは強い子だもの。いつだって死ぬんじゃないかって思いながら看病していたけど、マインはちゃんと目覚めてくれた。今回も大丈夫よ。……そう、信じて待つしかないわ」
大丈夫よ、としきりに繰り返すエーファおばさんの笑顔も強張っている。見舞いに行くこともできない。大っぴらに容体を尋ねることもできない。そんな状態では不安で仕方がないだろう。
どんよりと暗い雰囲気の家族をカミルは事情がわからないなりに、不安そうに見上げている。オレと目が合うと、こっちに向かって手を伸ばしてきた。
「ルッツ、ルッツ。おもちゃ……」
「しばらく新しいのはないぞ、カミル。お前のために作ってくれていた姉ちゃんが病気で寝込んでいるからな」
オレはポンポンと軽くカミルの頭を叩き、自分宛ての手紙を畳んで、カバンの中に入れる。これは明日旦那様に見せなければならないだろう。
「また、ギルに様子を聞くよ。オレ、それだけしかできないけど……」
「ルッツはいつもよくやってくれてるわ。ありがとう。もう遅くなったから、帰りなさい。これ、お裾分けよ」
エーファおばさんから豚の腸詰を一つもらって、オレはマインの家を出た。階段を駆け下りて、井戸の広場を通り、また階段を上がって、ウチへと帰る。
「ただいま」
「おかえり、ルッツ。遅かったじゃないか」
「あぁ、届け物があって、マインの家に行ってた。これ、エーファおばさんから」
オレがもらったばかりの腸詰を渡すと、母さんは嬉しそうに受け取りながら、小さく笑った。
「マインが死んでもう二年近くなるのに、ルッツにとってはまだマインの家なんだと思ったら、何だか変な感じがするねぇ」
「……すぐには直らないんだ。仕方ないだろ? オレ、腹減ったから、何も残ってないなら、その腸詰茹でてくれよ」
「残ってるから、さっさと荷物を置いといで」
オレが不貞腐れながら荷物を置きに寝室へと向かうと、背後に母さんの笑う声が聞こえた。未だに咄嗟に口を突いて出るのは「マインの家」なんだから、仕方がないじゃないか。
どんどんと体が大きくなってきた男四人が寝なければならない寝室は狭くて仕方がない。ザシャが早々に結婚を決めたので、新居を整え始めることを考えると、来年の夏までにはこの寝室も少しは広くなるはずだ。
……オレも金はあるから、今すぐに出ようと思えば出られるんだけど。
自力で部屋を借りて、家事を下働きに任せるくらいの貯金はある。狭い部屋が本当に不満ならば、もっと広い部屋を借りて、家族ごと引っ越すことだって可能だ。
だが、今それをすると、トゥーリ達に手紙を届けるのが大変になるし、どうせオレはダプラ契約をしているので、10歳になったら旦那様の家に住処を移すことになる。だから、夏までは今まで通り家族といたいと思うのだ。状況に引き裂かれたマインを見たせいで、特にそう思うようになった。
バッグを置いて、夕食の並んだテーブルへと向かうと、ラルフが不機嫌そうな顔でこちらを睨んできた。夕飯は終わっているのに珍しくテーブルのところにいるのは、オレに文句を言うためらしい。何の文句を言われるかなんて、わかりきっている。
「ルッツ。お前、またトゥーリのところに行ってたのか?」
「工房から届け物があったからな」
肩を竦めて答えながら、オレはスープの入った皿を引き寄せて食べ始める。最近はこうしてトゥーリ関係の文句を言われることが多いのだ。
オレがさらっと流して食事を始めると、ラルフは何か言いたげだが呑み込んでいるような顔でイライラとテーブルの端を指先で叩き始めた。正直、食事の邪魔だ。こっちまでイライラしてくる。
「……あのさ、ラルフ。そんなに気になるなら、トゥーリを直接誘えばいいだろ?」
「それができたら苦労しねぇよ!」
トゥーリは10歳になって、ギルベルタ商会のダプラとなり、勤め先も街の北にあるコリンナの工房へと移動した。この界隈ではあり得ないくらいの出世をしている有望株なのだ。つまり、トゥーリはこの周辺では並ぶ者がないくらいの美人だということになる。10歳を超えて、少しずつ将来を見据えるようになってきた周囲には、トゥーリに目を付けている男も多い。ラルフもその一人だ。
「オレだって誘ってるさ。でも、土の日に一緒に森へ行こうぜって誘っても、トゥーリに断られる方が多いんだよ」
ラルフはどんどんと裁縫の腕を上げていて、身綺麗にしていて、働き者のトゥーリに完全に惚れ込んでいる。近所の幼馴染という強みを生かして近付きたいのだろうが、二人とも10歳になったので、土の日以外毎日仕事があって、会うこともままならないそうだ。
「……そりゃ、森に行く暇なんてないだろ」
「なんでさ?」
まず、マインの家は病弱なマインがいなくなって、薬代もかからなくなった。そして、トゥーリがギルベルタ商会のダプラになったし、領主の養女の髪飾りを特別注文で受けている。そのため、森にわざわざ採集に行かなければならない経済状況ではなくなっている。
マインにとって思い出の家を出たくないし、生活環境をあまり変えたくないから、引っ越しをしていないだけで、今はもうちょっといい部屋に住めるはずなのだ。そんな他人の家の経済状況に関してはどうでもいい。
「トゥーリは一流の針子になるために、脇目もふらず努力している。仕事がない日にもギルベルタ商会へ行って、コリンナ様に色々教えてもらっているらしいから、すっげぇ忙しんだよ」
「あああぁぁ、仕事柄しょうがないってわかってるけど、オレよりお前の方がトゥーリのことに詳しいのがむかつくぞ!」
「何だよ、じゃあ、トゥーリの話をするの止めりゃいいのか?」
「……いや、知ってることは洗いざらい喋れ」
最近のトゥーリについて、いくつか仕事上で知っていることを教えながら、オレは恋する男の面倒くささに溜息を吐いた。
……なんだかんだ言っても兄貴だから、ラルフを応援してやりたいとは思うけど、でも、領主の養女のお抱えを目指しているトゥーリがこの辺の男と結婚するとも思えないんだよなぁ。
次の日、オレはプランタン商会へと仕事に向かった。ギルベルタ商会と距離は近いけれど、別の店舗を買い取った店だ。最近、旦那様とマルクさんはようやく引っ越しを終えて、プランタン商会の二階で生活している。
まだ残っている荷物を綺麗に片づけたら、今度は三階で住んでいたコリンナ様達がギルベルタ商会の二階へと移動するそうだ。ギルベルタ商会の引っ越しが落ち着いたら、トゥーリもダプラとしてギルベルタ商会で生活するようになるらしい。
「おはようございます、マルクさん。神殿長に関することでお話があるので、旦那様とお話する時間が欲しいのですが」
オレの要望に即座に頷き、マルクさんはすぐに旦那様に話を通して、旦那様の執務室へとオレを呼んでくれた。マルクさんの迅速で丁寧な仕事ぶりには感心する。何とか真似ようと思っているけれど、まだまだオレには難しい。
旦那様とマルクさん以外は人払いをして、オレはマインが一年以上眠ったままになることを報告した。
「命に別状はないんだな?」
「はい。フランの手紙によると、神官長の見立てでは一年以上は目覚めないだろう、と書かれていました。これがその手紙です」
旦那様とマルクさんが手紙を見て、「なるほど」と呟く。
「それでは、しばらくは新しい事業が始まることはありませんね」
「あぁ、ちょうど良い」
マルクさんの言葉に旦那様は少し肩の力を抜いた。マインが一年以上も眠る状態になるのに、「ちょうど良い」と言われたことにオレは思わず眉を寄せる。旦那様は「感情が顔に出すぎだ」とオレの眉間をグッと押して、大きく息を吐いた。
「お前も知っているように、ローゼマインは性急に物事を進めすぎる。新しいことが大量に芽吹いているのだから、それを定着させるための期間も必要だ。起きてきたらまた暴走が始まるから、今のうちに定着させろ」
「定着、ですか?」
どんどんと事業を拡大していくのかと思えば、そうではないらしい。
「イルクナーの素材の研究や新しいインクの開発、手押しポンプの普及、本の種類を増やすなど、事業を広げるのではなく、深みを出す方向に力を費やすようにグーテンベルク達にも連絡しておいてくれ。ダルア達には俺から伝えるからな」
「わかりました」
オレは大きく頷くと、すぐにグーテンベルク達に向けて招待状を出して、全員を集めることにする。入ったばかりのダルア見習いをグーテンベルクの遣いに出し、招待状を届けてもらった。
「おい、ヨハン。プランタン商会って、ここでいいのか?」
「うん、ここだ。すみません。ルッツに取り次いでください。え? どちら様って、ヨハンです。あ、その……グーテンベルクの」
グーテンベルクに招集をかけた当日、聞き慣れた声が部屋の外から聞こえて、オレは慌てて出迎えるために部屋を出た。
「ヨハン、ザック。雪の中、ご足労ありがとうございます。どうぞこちらへ」
「お、おぉ」
指定された日時にやってきたグーテンベルク達をプランタン商会の会議室に入れる。
金属加工のヨハンとザック、木工加工のインゴ、インク研究のハイディとヨゼフ、ローゼマイン工房代表のギル、そして、プランタン商会からオレ達三人。こうしてずらりと並ぶと、意外と人数が多いことに驚いてしまう。マインと二人だけでごそごそと紙を作っていた頃がひどく遠くて懐かしい。
……何だかカルフェバターが食いたくなってきたな。
寒い季節に食べると格別だった味を思い出しながら、オレはザックとヨハンに席を勧めて、自分も席に着いた。
「まず、グーテンベルクに知らせておかなければならないことがある。ローゼマイン様のことだ」
旦那様からローゼマインが長期の療養に入ったことが知らされ、オレはその後でマインから預かった手紙の内容を読み上げる。
「……つまり、印刷は今まで通り、インクは新しい紙に合う物を開発して欲しいそうだ。それから、インゴには以前に話してあった本棚の作成を、ヨハンとザックは金属活字の増量と手押しポンプの普及を頼まれている」
オレが手紙を読み上げて、その意味を説明した途端、ハイディが拳を握って高く突き上げて立ち上がる。
「新しいインクの研究だぁ! やったー! お嬢様、大好き!」
「周りを見ろ。空気を読め。落ち着け、ハイディ!」
新しい紙とインクの研究を一手に引き受けることになって、目を輝かせるハイディと、ハイディを落ち着かせようとする夫のヨゼフ。ハイディを押さえながら、ヨゼフがちらりと気遣わしげに視線を向ける先には、茫然とした顔で目を見張ったまま止まっているヨハンの姿があった。
「……なぁ、ルッツ」
「何だ、ヨハン?」
「手押しポンプに金属活字って、もしかして、忙しいのはオレばっかりじゃないか? ザックは何をするんだよ!?」
細かい物を作るのはヨハンと決まっている。マインが注文した物は、確かにヨハンが担当する物ばかりだ。仕事量が不公平かな、とオレが思っていたら、ザックは嫌そうに顔をしかめ、耳をほじりながらヨハンを見た。
「あのさ、オレはバネを使ったベッドを考えなきゃいけないし、馬車の揺れを少なくするようにも頼まれてる。設計することがいっぱいだし、オレのパトロンはローゼマイン様だけじゃないんだ。他の依頼もある。ヨハンはローゼマイン様以外のパトロンがいないんだから、言われたことをしっかりやればいいだろ?」
マインのように細かい注文をする者でなければ、ヨハンの真価は理解できないのだから、ヨハンは諦めて細かい部品を作るしかないだろう。
「ヨハン、そんなに同じ部品を作るのが嫌なら、自分と同じことができるような後進を育てろよ。ローゼマイン様が起きたら、また新しい依頼がガンガン来るぞ」
ザックの言葉にヨハンはザッと青ざめて身震いしながら、「いやいや、さすがにそれはない」と自分に言い聞かせているが、オレもザックの意見に賛成だ。
マインが「起きたら、わたし、健康になってるんだよ」と言っていた。今までと違って、体調で止まらなくて、マインが暴走したままになってしまうのだ。
……うわぁ、ちょっと考えただけで頭が痛いな。
先の予想にオレが頭を抱えていると、旦那様がインゴへと視線を向けた。
「インゴの本棚とは何だ? また何か新しい物か?」
「おぅ、突飛な本棚だ。棚が動く移動式の本棚だってさ。他にも集密書庫と言ったか? 本棚の原案だけはいくつか持ち込まれているからな。他の依頼を受けながら、これをまず完成させるさ。ちょこちょこと金属部品があるから、それはヨハンに依頼することになるだろうが……その、何だ。頼むな」
インゴは気の毒そうにヨハンを見ながらそう言った。頼まれたヨハンの顔色が悪くなっていく。
「え? それって、まさか……オレの仕事が増えたってことか?」
「よかったじゃないか、ヨハン。金属活字とは違う仕事ができて」
「新しいお仕事って楽しいよね? 皆で頑張ろうねぇ!」
「嫌だあぁぁ!」
ザックとハイディの激励を受けて、涙目になったヨハンを皆で笑いながら、グーテンベルクの集いは旦那様によって締めくくられる。
「そういう感じで、ローゼマイン様がお目覚めになるまで、各々の仕事に取り掛かってくれ。ローゼマイン様のお金は神官長が預かっているそうだ。こちらでも立て替えておく覚悟はあるので、今まで通りに活動して欲しい」
「はいっ!」
そして、去年より吹雪が長引いた冬が終わり、春も半ばを過ぎた頃、オレはギルから相談を受けた。マインが準備していた印刷用のお話がもうほとんど残っていないらしい。
「フランにも一応相談したんだ。そうしたら、冬の城で貴族の子供達から聞き取った話を神官長が渡してくれたんだけど、全部子供の喋り言葉で書かれていて読みにくいんだよ。ローゼマイン様はあれを本で読める文章に直していたみたいで、オレ、どうしたらいいかなって……」
印刷するための話がなければ、印刷はできない。ギルの悩みにオレも、うーん、と考え込む。貴族達に売れる絵本はウチの主力商品だ。貴族に売れるという触れ込みで、豪商達にも売れ始めているのだ。ここで印刷が止まるのは困る。
「……あ! 確かトゥーリが手書きの本をもらっていたはずだ。それを借りられないか、聞いてみる」
「ん。頼む。いっぱい本を作ったら、ローゼマイン様は読みたくて早く起きてくるかもしれないからな。頑張ろうと思って」
「確かに。本を積み上げていたら、飛び起きそうだ」
ギルとそんな話をした後、オレはギルベルタ商会で生活することになったトゥーリのところへ行って、トゥーリに本を貸してもらえないか、聞いてみた。
「ギル達は丁寧に扱ってくれそうだから、貸すのはいいんだけど……これはマインが家族のために書いてくれたものだから、商売向きじゃないと思うよ?」
そう言いながらトゥーリが出してくれたのは、「母さんの寝物語集」だった。マインが粘土板に書いていた頃から溜めていたお話が、全部書かれているものだった。パラリパラリとめくっていくと、森へ行く途中で聞いたことがあるお話がいくつもあって、何だかあの頃に帰りたくて泣きたくなる。
「トゥーリの言う通り、今までの絵本と違いすぎるけど、一応借りていいか?」
「いいけど、わたしのお願いも聞いてくれる?」
トゥーリがそんな風に交換条件を出してくるのは珍しい。オレが目を瞬くと、トゥーリは決意を込めた青の瞳をクッと上げた。
「わたしね、行儀作法を覚えたいの。ルッツはイルクナーで灰色神官に教えてもらって、すごく動きが良くなったし、貴族向けの難しい言い回しのお手紙も読めるようになってるよね? わたし、行儀作法を覚えたら、貴族の館に連れて行ってくれるってコリンナ様に言われたんだけど、どうやって覚えたらいいのかわからないの。この本を貸す代わりに、わたしに行儀作法を教えてくれる灰色神官を紹介してほしい」
オレはイルクナーの館で働く人たちと一緒に灰色神官達の教育を受けた。自分ではあまり実感がなかったが、旦那様もマルクさんも褒めてくれたし、トゥーリがすぐにわかるくらいには動きが洗練されたらしい。同じ貧民街出身のトゥーリが焦る気持ちは理解できる。
マインが神殿に入って工房を始める前は、灰色神官や灰色巫女は孤児だ、とオレもトゥーリもどこか見下していたところがあった。「図書室に入れるだけで尊敬するよ」と言っていたマインを除いて、下町の人間は多分同じような考えだったと思う。
けれど、深く知ってみれば、彼等は自分達が生きるために、貴族の前に出されても恥ずかしくないだけの行儀作法を身に付け、教養がある者だった。お金を出しても手に入れたい知識を持っている相手だ。
「わかった。ギルやフリッツに話を通してみる」
印刷をしている孤児院のローゼマイン工房は、ギルベルタ商会からプランタン商会の管轄になったので、ローゼマインの招待がなければ、服飾関係のギルベルタ商会のダプラであるトゥーリは出入りできなくなった。先に神殿へ話を通しておかなくてはならない。
オレは工房へと行った時に、トゥーリに借りた本を渡しながらギルに頼んでみた。
「だからさ、トゥーリの行儀作法に関して、何とかならないか? 頼む、ギル」
「トゥーリが覚えたいんだったら、灰色神官よりは灰色巫女に教えてもらった方が良いかもな。トゥーリには今まで世話になってるし、ヴィルマとフランに聞いてみる」
今までにトゥーリは孤児院の子供達のために裁縫や料理を教えたり、森へ連れて行ったり、と骨折ってくれている。冬の神殿教室にも何度も顔を出していることで、孤児院にも馴染みがある。なので、その恩返しという形で、行儀作法を教えるのは構わない、とフランとヴィルマから許可が出た。ただし、出入りを許されているオレがトゥーリを連れて来ることが条件らしい。
オレは神殿で行儀作法を習う話を旦那様にもしておく。トゥーリと一緒に行かなければならないのだから、オレもついでに教えてもらうつもりなのだ。イルクナーで色々と教えてもらったとはいえ、側仕えをしているギルとは結構差ができている。オレももっと頑張らなければならない。
「旦那様、そういうわけで、しばらくの間、オレ、土の日は行儀作法の勉強のために孤児院に行きます」
「ルッツとトゥーリだけか? 他にも入れないか?」
旦那様はプランタン商会やギルベルタ商会のダルアにも行儀作法を叩き込みたいと考えているようだが、許可を出してくれるマインが寝ている以上、他の人間をねじ込むことはできない。
「さすがに無理だと思います。トゥーリはずっと孤児院のために色々してきたから、フランとヴィルマが許可してくれただけだから」
「さすがにこんな時は、あの暴走娘が起きていれば、と思うな」
苦笑していた旦那様が表情を引き締めた。
「ルッツ、しっかり習ってこい。お前達二人は、いつ断ち切られてもおかしくないとはいえ、領主の養女と繋がりを持っている。その貴重な繋がりを精一杯生かせるように、努力を怠るな」
「はい!」
「それから、これはローゼマインに以前言われたことだが……」
旦那様からいくつかの注意事項と共に、買い出しの許可が出たので、オレはコリンナ様の工房へと向かった。そして、工房で旦那様からの招待状を見せて、トゥーリを呼び出す。
「トゥーリ、許可が出た。行儀作法を教えてくれるって」
「ありがとう、ルッツ。頑張って覚えなきゃ!」
トゥーリがやる気に満ちた目で、グッと拳を握った。以前にマインから少し物の扱いを教えてもらっただけで、トゥーリはあまりきちんと教育を受けていない。コリンナ様が教える行儀作法は工房で浮かないようにするためで、行儀作法より針仕事に関することが大半を占めるそうだ。
「じゃあ、買い出しに行くぞ。中古でいいから袖が長い服を買ってこいってさ。立ち居振る舞いの練習には必要なんだって」
「えぇっ!? そんな余分なお金、わたし、持ってないよ!?」
ギルベルタ商会に所属したことで、トゥーリもギルドカードを持っているし、ダプラ契約をして領主の養女に贈る髪飾りを一手に引き受けているのだから、給料は同年代よりかなり高い。それでも、袖口がひらひらしたお嬢様用の衣装をポンと買える程のお金は持っていないらしい。
オレはちらりと自分のギルドカードを見た。金はある。忙しくて使う暇がないから貯まる一方なのだ。
「今日はオレが買ってやるよ」
「悪いよ、そんなの」
「トゥーリ、気にしなくていい。マインが起きたら、マイン貯金の中から返してもらうから、心配するな」
予想通り固辞しようとするトゥーリにオレはひらひらと手を振った。
「……ルッツ、マイン貯金って何?」
「死ぬまでのマインが貯めていた、家族のために使うお金。家族に手紙を書いてもらうための紙やインク、トゥーリやカミルが勉強するために使うって、言っていたから、今回の教材に使ってもマインは文句言わねぇよ」
「教材って、袖が長い服は高いでしょ? そんなの教材にするなんて……」
無駄遣いだよ、とトゥーリが首を振ったが、貴族に通用する行儀作法を身に付けるために、豪商はもっと大金を払うのだ。
「必要経費だ。袖がないと感覚がつかめないんだぞ。これで無駄遣いって感じるなら、最初から行儀作法を覚えるのを諦めた方が良い。今回は、今までのトゥーリの善意を返すってことで、孤児院で教えてもらえるけど、本来は大金をはたいて、行儀作法を教えてくれる先生を招かなきゃダメなことなんだぜ?」
「……そうだね。ルッツにお願いしておく」
トゥーリと一緒に練習用のひらひら服を買いに行き、ついでに工房に着ていける普段着も数着積み重ねた。女物の服が積み重なった情景にトゥーリが悲鳴を上げる。
「ルッツ、こんなにいらないよ!」
「旦那様に言われたんだけどさ、コリンナ様の工房やプランタン商会は金持ちの見習いが多いから、オレやトゥーリは浮いているんじゃないかって、マインが心配して、いつも服を買う時期や枚数を指定していたんだって。マインがいなくなったんだから、自分で気を付けて服を買えって、旦那様に言われたんだ。……だから、こっちはオレの分」
オレは自分の服も積み重ねた。オレも旦那様に指摘されなかったら、服装には全く構わないから、本当に気を付けなければならない。
知らなかった、とトゥーリが呟きながら、積み上がった服を見つめる。そして、嬉しそうに口元を緩ませ、目を潤ませて、服に手を伸ばした。
「……側仕え達の服を買うお手伝いをしたお給料代わりって気分だったけど、マインがわたし達のこと、考えて指示を出してくれてたんだね。そんなの、言ってくれないとわからないじゃない。マインはもうあっちが忙しくて、こっちのことなんて忘れちゃってるんじゃないか、って思ってたのに……。わたし、バカみたい」
「トゥーリ達は直接話ができないから、わからないかもしれないけど、お前ら、どっちもお互いのこと好きすぎ。ウチもそんなに悪くないけどさ、ウチの兄弟とは大違いだよ」
こうして、仕事が休みになる土の日にオレとトゥーリは孤児院で行儀作法を教えてもらうことになった。孤児院でオレはフリッツに、トゥーリはヴィルマに。
毎週トゥーリが休みのたびに一緒に出掛けることになるので、ラルフがじっとりとした目で見てくるようになった。何を言っても無駄っぽい。仕方がないので、ラルフのためにちょっとトゥーリに探りを入れてみることにする。
「なぁ、トゥーリはそろそろ恋愛とか考えないのか? 周りにはそういう話題、増えてきただろ?」
「周りはそうだけど、正直、わたしはそれどころじゃないんだよね」
周囲が色めき立ってくるお年頃なのはわかっているが、自分には全く関係がないというか、むしろ、巻き込んでくれるな、という気分らしい。同じような気分になったことがあるオレには、トゥーリの気持ちがよくわかった。
「あ~、その気持ちはわかる」
「でしょ? マインに追いつこうと思ったら、むしろ、こっちは忙しいんだから、恋愛なんかで邪魔しないでよって、気分にならない?」
「なるなる」
イルクナーで領民の女子達に取り囲まれ、邪険にすることもできず、同じようなことを思っていたオレは、心の中でラルフに謝った。
……悪い、ラルフ。今のトゥーリに恋愛は無理っぽい。
そして、マインが眠って、そろそろ一年かというくらいの秋の終わり、旦那様が血の気の引いた顔でグーテンベルクを全員集合させた。
冬支度の最中なんだけど、と不満顔をしていたグーテンベルクも、旦那様の顔色を見て、背筋を伸ばす。
「ローゼマイン様の母親に当たる方が、ご自分の印刷工房が欲しいとおっしゃっているそうだ。ご実家のあるハルデンツェルで大々的に事業を行うらしい。植物紙工房を作り、お抱えのインク工房を作り、印刷工房を作ると神官長から話があった。ローゼマイン様の代わりに印刷事業を広げるのが母親の務め、だそうだ」
「えーと、それって……どういうこと?」
ハイディがよくわからないというように、首を傾げた。
「次の春から秋にかけて、グーテンベルク全員の大移動が行われる。長期間抜けても工房や店が回るように、冬の間に各自準備をしておけ。それぞれの協会にも話を通しておくんだ。商業ギルドは俺が受け持つ」
グーテンベルク全員が駆り出されるという予想外の大事業に、全員顔色が変わった。
「いきなりハルデンツェルに行ったとしても、協力してくれる工房がないと活動できないこと、冬は川が凍って紙作りができないことを理由に、これでも春まで引き延ばすことには成功したんだ」
当初は今すぐにでも、と言われたが、印刷したい物をローゼマイン工房で先に印刷することと引き換えに、何とか猶予をもぎ取ったらしい。さすがウチの旦那様だ。
「エルヴィーラ様は生粋の上級貴族だ。神殿育ちのローゼマイン様と違って、平民の事情など考慮してくれんからな。あの方を止められるローゼマイン様はお休み中だ。春になったらいつでも出られるように準備を怠るなよ」
マインが眠ったら、その家族が暴走し始めた。それも、オレ達には止めようがない上級貴族が相手だ。
グーテンベルクに休息なんてなかったらしい。真っ青になったグーテンベルク達が一斉に会議室を飛び出した。