Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (279)
浦島太郎なわたし
わたし、起きたら浦島太郎だった。
隠し部屋の中にいた神官長が全く変化なしだったので、起きた時には何も思わなかったけれど、神官長に抱き上げられて隠し部屋から出た瞬間、心臓が止まるかと思った。
ぎょっとするほど皆が大きくなっているのだ。ニコラやモニカは成人していて、髪を上げているし、胸が目立っているし、スカート丈も長くなっていた。ギルなんて成長期なのか、わたしの記憶ではついさっきまでフランの胸くらいの身長だったのに、頭がフランの肩を少し超えている。おまけに、声が別人のように低くなっていた。
……なんか、怖い。
わたしが寝て、起きたら、周囲は一瞬で成長しているのだ。正直、怖い、というか、気味が悪い。実際にはわたしが二年寝ていたのだから、一瞬ではないのだろうが、わたしの感覚では、皆が一晩のうちに成長しているような感じなのだ。
そんな中、自分だけ成長してない。というか、退化している。二年間寝ている間に筋力が落ちているのか、思ったように体を動かすことができない。自分が思うように動けないのに、知っているけれど知らない人達に裸にされて、完全介護状態でお風呂に入れてもらうのだ。
言葉にならない恐怖と不安を感じていても、「自分でやる」とも言えず、「止めてほしい」とも言えない。口を噤み、手を開いたり閉じたりしたり、足をぶらぶらと動かそうと力を入れたりしてみる。
動かない体を少しずつ動かしながら、わたしは知っているのに知らない周囲に向けて笑顔を貼り付けつつ、内心ものすごくおびえていた。
今は隠し部屋で神官長から話を聞いて、皆がどれほど心配して目覚めを待ってくれていたのかを聞いて、ちょっと落ち着いた。それでも、やっぱり何ともできない時間の流れを目の当たりにすると自分の前に越えられない壁があるような気がしてしまう。
わたしが寝ている間に起こった出来事をダイジェストで説明してくれた神官長は、ふと何かを思い出したように手を打った。
「ローゼマイン、魔術具を取ってきたいのだが、ここで待つか? それとも、一度出るか?」
「……ここで待っているので、そこの本を一冊取ってください」
ギルが積み上げてくれていた本を視線だけで示すと、神官長は一番上の本を手に取って、わたしのお腹の上に置いてくれた。そして、魔術具を取るために踵を返して出て行く。
「新しい本だ。うふふん」
わたしはゆっくりと手を動かして、お腹の上の本に触れた。新しい本の感触に頬が緩んでいく。
さぁ、読むぞ、と気合を入れて、わたしは手を動かした。力が入らない震える手で必死にページを開けようとするが、ページを開くだけの行為がなかなかできない。一枚だけの紙を摘まんで開く、それだけがものすごく難しい。
「あ……」
本を押さえている手にも力を入れておくことができなくて、本がするりと滑り、バサリと音を立てて床に落ちてしまった。拾おうと手を伸ばしたが、長椅子の座面からだらりと落ちた自分の腕さえ、今のわたしには重すぎた。言わずもがなだが、本を拾い上げるなんてできるわけがない。
……本も読めないくらい弱ってるなんて。
二年間も犠牲にしたのに、全然健康になった気がしない。体は全く成長していなくて、筋力が減って、魔力が増えるなんて、あんまりだ。
周りに心配をかけないように笑顔を貼り付けておくのも無駄な気がして、力を抜いた瞬間、ボロッと涙が零れてくる。
「待たせたな……。何故泣いている?」
「本が、読めません。手が動かなくて、自分でページが開けないんです。もう嫌だ」
ハァ、と溜息を吐いた神官長が、わたしの左手をつかんだかと思うと、わたしの二の腕に装飾的な腕輪をはめた。魔術具の腕輪はシュンと形を変えて、ぴったりと二の腕について、すぅっと魔力を吸い取っていく。
「神官長、いきなり何を……あれ? 腕が動く?」
「身体強化の魔術を補助するための魔術具だ。昔、私が身体強化のコツをつかむまで使っていた。今の君は魔力が有り余っているからな。普通に動く程度のことはできるようになるだろう。そちらの腕も出しなさい」
「はい」
両腕にはめると、上半身が楽々に動かせるようになった。これはすごい。ぐるんぐるんと腕を回してみる。
「これで本が読めますね!」
「……もっと他のことに感動してくれないか?」
「え? 最上級の感動と尊敬が籠っていますよ?」
処置なし、というように軽く頭を振った神官長が「これを後で足にはめろ」と言って、わたしの手に二つの輪を乗せた。わたしはそれを受け取って、首を傾げる。
「今、はめればいいんじゃないですか?」
「直接肌に触れていなければ意味がないのだ。君はここで足を露出するつもりか? はしたないにも程がある。君に露出趣味があるかどうかはどうでも良いが、せめて、私がいないところでしてくれ。妙な巻き添えを食らうのは御免だ」
わたしは腰に巻いた布のベルトに紐で結んで吊り下げるような靴下をはいている。ちゃちで色気のかけらもないガーターを付けているようなものだ。その上から、ドロワーズのような下着を付けている。つまり、肌に触れる状態で輪を付けようと思ったら、太腿にはめなければならないし、それよりも先に、下着を脱がなければならない。
自力で足を動かすことが困難なわたしが、今はめる、と言うのは、神官長に下着を脱がせろ、と言っているも同然なのである。
もちろん、そんなことを神官長に頼むつもりはこれっぽっちもない。わたしは足首にでも引っかければ良いのかと思っていたのだ。露出趣味などない。断じて、そんな趣味はない。
「露出趣味って何ですか!? そんなものありませんよ! 神官長が説明不足なんです。足首に引っかければいいのかと思っただけです。太腿じゃないとダメなんですね。納得しました。モニカとニコラを呼んでください」
神官長に隠し部屋を出てもらって、代わりにモニカとニコラを入れてもらう。そして、脱がしてもらって、太腿に輪をはめた。ブランブランと足を振ってみれば、思ったように動く。
先程まで緩慢にしか動かなかった足が自由に動く様子に、モニカとニコラが目を丸くした。
「動けないわたくしのために神官長が貸してくださったのです。立ってみますから、二人とも手を貸してもらっていいかしら?」
「もちろんです」
力を入れると、自分で思ったように立てる。モニカとニコラの手を離して、わたしは一人で歩いてくるっと回ってビシッとポーズを決めた。
「わたくし、やっと元気になれた気がします」
「……神官長の魔術具はすごいですね」
「ローゼマイン様のお顔に笑顔が戻って、わたし、嬉しいです」
ニコラが安心したように笑ってそう言った。わたしが頑張って貼り付けていた笑顔が作り笑顔だと見抜かれていたらしい。
「心配かけてごめんなさいね、二人とも」
わたしは自分の足で歩いて隠し部屋を出る。自分の思うように自分の体が動くのがこれほど快感だとは思わなかった。健康のありがたさを実感しながら、わたしは軽い足取りで扉へ駆け寄って、勢いよく開ける。
「神官長の魔術具のおかげで、ほら! 自分で動けるようになりました。ありがとう存じます」
神官長が、当然だ、というように軽く頷く向こうで、フラン達が目を丸くして、その後、ホッとしたように破顔した。
「ローゼマイン、三日後には城に移動する。その後は貴族院に向かうために必要な詰め込み講義をこなし、冬の社交界にそのまま入ることになる。プランタン商会と面会するならば、早目に済ませておきなさい」
「わかりました」
……貴族院まで詰め込み、かぁ。
神官長の熱血指導を感じて、わたしはガックリと肩を落としながら頷いた。用は済んだ、と神官長は退室していく。
「ローゼマイン様、お休みの間に起こったことについて、順番に報告させていただいてよろしいですか?」
「はい、お願いします」
フランの言葉にわたしが顔を上げると、わたしの側仕えが勢揃いしていた。
神殿長室を預かってくれていたフランとザームとモニカが並び、ニコラはこの二年間厨房への出入りの方が多かったため、厨房に関する報告をするために一人別枠でいる。
孤児院に関する報告はヴィルマとロジーナだ。ヴィルマはいつの間にか神殿長室に出入りできるようになっていたようで、報告の順番を待って並んでいる。
そして、工房関係の報告のため、ギルとフリッツが最後にいた。
「神殿長室では特に大きな出来事はありませんでした。神官長の補佐のため、私とザームとモニカは毎日神官長室に詰めておりました。祈念式や収穫祭ではローゼマイン様の代わりにシャルロッテ様とヴィルフリート様が直轄地を回ってくださいました。一年目は少々不安のある扱いでしたが、二年目には見事に神具を扱って、祝福を与えてくださいました」
「そう、二人にはお礼を言わなくてはね」
「お二人が出発や到着のために神殿へと足を運んだことで、青色神官の意識にも少々変化が見られ、顔繋ぎのためにも真面目に仕事をしようとする者が数人出てきました」
現金と言えば現金だが、それで多少なりとも仕事にやる気を出してくれるならば良いだろう。
「我々が一番心配したのは、神官長の薬の量でしょうか。以前と同じように薬を常用するようになっています。また、ローゼマイン様から一言注意してください。我々の意見は聞き流されますから」
フランの心配そうな言葉にわたしは一応頷いておく。薬を常用していた神官長をして、目の前の仕事を片付けるだけで精一杯と言わしめた仕事量だ。注意したところで、薬を手放せなかったに違いない。
「……神官長がお薬を飲まなくても良いように、わたくしがお仕事を手伝わなければなりませんわね」
フランの報告を終えると、次はニコラが木札を持って、報告を始める。
「ローゼマイン様のおかげで、わたしは料理助手として二年間修業することができました。ローゼマイン様の残してくださったレシピは全て作れるようになりました。そして、フーゴとイルゼの間で料理対決があり、新しいレシピも増えています」
……料理対決? 何それ、面白そう!
「新しいレシピも楽しみだけれど、勝敗はどうなったのですか?」
「今は一勝一敗で引き分けです」
「次がどうなるのか、楽しみですわね」
「それから、フーゴとエラが結婚の申請をしています。ローゼマイン様がお目覚めになったら、一番に聞いてほしい、とフーゴに言われております」
……なんと!? フーゴの相手はエラだったんだ!?
「貴族の女性は結婚すると仕事を辞めるそうですが、エラは続けることを希望しています。できれば、そこにもご配慮いただけると嬉しいです」
「結婚の後も働いてくれるのは嬉しいわ。……でも、お部屋の準備はどうしようかしら? 神官長にも尋ねてみますが、次の夏には結婚できるように手配しましょう」
「わぁ、フーゴが喜びます。ありがとう存じます」
そして、レシピ本が完成したことを告げて、ニコラは報告を終えた。
ニコラが下がると、次はヴィルマとロジーナが進み出てきた。
「では、孤児院からの報告です。ローゼマイン様がお休みされていた二年間で孤児が三人増えております。そのうち二人は門の前に捨てられていた捨て子で、もう一人はエグモント様の側仕えをしていた灰色巫女リリーが生んだ子です」
エグモントと言えば、わたしの図書室を荒らした要注意人物だったはずだ。
……今度は側仕えを孕ませて、子供は孤児院? え? ちょっと待って。これってここの普通? わたし、怒っていいの? どっち?
すぐに反応ができなかったわたしは、エグモントの行為の善悪について考えるのは、余所に置いておくことにした。
「……えーと、ここで出産が行われたということですか?」
「いえ、誰も出産についての知識がないため、ここでは対処できませんでした。トゥーリやプランタン商会に相談した結果、灰色巫女をハッセの小神殿へと移動させ、ハッセの住人に手伝ってもらうことになったのです」
神官長は勝手に生まれるだろう、としか言わなかったらしい。そんなものか、と思いつつ、どうにも不安だったヴィルマはトゥーリとルッツに相談したそうだ。そうしたら、二人に、そんなわけないだろう、と無知を指摘されたらしい。二人ともグッジョブだ。
孤児院には二十人くらいの女性がいるのに、誰一人として出産を手伝った経験さえないという事実に頭を抱えたベンノの指示により、ハッセの小神殿へと灰色巫女を移動させることになったそうだ。出産を手伝ったことがあるノーラを先頭に、ハッセの女性を呼んで出産が行われたらしい。
その時に、孤児院の責任者が知らなくてどうする、とベンノに叱られ、ヴィルマも数人の灰色巫女と一緒にハッセへと連れ出されたそうだ。
「それは……ヴィルマには大変だったでしょう? あの、大丈夫なの?」
あのベンノの剣幕で叱られるだけでも、男性恐怖症だったヴィルマには相当の恐怖体験だったに違いない。トラウマにトラウマを重ねる様子しか思い浮かばない。
「……確かにとても大変でしたが、得難い経験でした。今は母子ともにこちらの孤児院の一室で過ごしております。ディルクの時の経験を活かして、交代しながら面倒を見ています」
「ディルクはどうかしら? 魔力の吸収は行っている?」
「はい。兆候が見えたら、すぐにフランを通して神官長に相談しました。すぐに対応してくださったので、ディルクに関しては特に問題なく過ごしております」
魔力が増えすぎると危険なディルクも恙なく過ごすことができたようで何よりである。
「孤児院での音楽教育も順調です。一通りフェシュピールを触らせた後、興味がある子だけに教育を施しました。わたくしが見たところ、楽師になれそうな者は一人だけです。ですが、あまり練習が好きではないようなので、伸びないと思われます」
お披露目がある貴族と違って、孤児院での音楽教育は義務ではない。才能ややる気のある子を探そうというだけの話だ。才能があっても努力できない者や音楽に興味がない者もいる。本人にやる気がないならば、それまでの話だ。
「ですが、絵師になれそうな子はいました。絵を描くのが好きで、ヴィルマの絵を真似て、石板に暇を見つけては絵を描いています」
「そう。ヴィルマ、石筆は買い足しても良いですから、そのまま続けさせてあげてくださいね」
「かしこまりました」
ロジーナは孤児院で子供達の教育という仕事を真面目にしてくれたようだ。そのようなことは専属楽師の仕事ではございません、と断られたらどうしようかと思っていたが、心配は必要なかったようだ。
「工房の報告です」
背が高くなって、声が低くなって、目を見張るほど大人に近付いたギルが、二年間の報告をしてくれる。
わたしが書き残してあった原稿がなくなって、トゥーリに本を借りたらしい。その代わりに、トゥーリとルッツに行儀作法を孤児院で教えたのだそうだ。
「二人とも中級貴族の前に出られる程度には作法が身に着いたと思われます」
ルッツに教えていたフリッツがそう言うと、トゥーリに教えていたヴィルマも頷いた。
「とても向上心があって、努力していました。そして、お二人が孤児院へと定期的に通って、ディルクの子育て相談やリリーの出産に関する助言やお手伝いをしてくれたおかげで、とても助かったのです」
「そう。では、二人にはわたくしからもお礼をしなければならないわね」
わたしの言葉にギルが「トゥーリが行儀作法に関する本を作ればどうか、と提案してくれたので、去年の冬に印刷してみました。貴族との挨拶についてまとめた本が富豪に売れています。そちらに関しても、お礼をしてください」と付け加えた。
……トゥーリは本当に天使かもしれない。
わたしが書き残しておいた騎士物語をまとめた本が一冊、トゥーリに渡した「母さんの寝物語」が一冊、ニコラがまとめてヴィルマが絵を付けたレシピ本が一冊、トゥーリの発案で側仕えがまとめたマナー本二冊、計五冊が商品として増えているそうだ。
「これらに加えて、エルヴィーラ様からお預かりした本も印刷したのですが、これは期限がギリギリの中、必要数ピッタリを刷ったので、残してありません。失敗した物に関しても全て引き取るとエルヴィーラ様からの注意があり、原本、完成品、失敗作、どれ一つとして工房にはありません」
わずかにギルの視線が泳いでいる時点で、内容の見当がついた。それは置いておけないだろう。ちらっとでも見つかろうものならば、怒り狂った神官長に印刷工房を全力で潰されそうだ。
……お母様、そんなにフェルディナンド様本が欲しかったんですか。
それに加えて、ギルからはハルデンツェルでの活動報告も受けた。グーテンベルクの大移動が行われ、植物紙協会や印刷協会の支部を作り、利益やそれぞれの取り分について決め、ギーベ・ハルデンツェルが準備した工房へグーテンベルクを送り込んで技術供与していたらしい。
「印刷機を作る金属関係の部品はエーレンフェストから持ち込みました。設備が違うと、全く同じにできるかどうかわからないとヨハンが言ったためです」
「それで?」
「あちらで作り方を教えてほしいということになったのですが、設備はともかく技術が足りなくて……」
「でしょうね」
わたしが次々と細かい注文ばかりするせいで、ヨハンの技術はどんどん上がっている。他の追随を許さないレベルだ。
「冬の間に金属活字に挑戦するので、出来を確認してほしいと言われています」
「そう。ギルも遠いところへの出張、大変だったわね」
「いえ、印刷業を広げるためですから」
ニッと笑ったギルの顔には、わたしの知る面影が色濃く出て、わたしも思わず笑ってしまった。
「わたくしの留守の間も皆がそれぞれ頑張ってくれたことがよくわかりました。ありがとう。さすがわたくしの側仕えですね」
報告を終え、皆を労うと、フランはいくつもの木札と共にわたしを寝台に入れた。
「ローゼマイン様、本日は神官長よりこちらを預かっております。これを読みながら、体を休めてください。無理はしないように、とのことです」
「でも、わたくし、手紙を……」
「ご安心ください。プランタン商会にもギルベルタ商会にも連絡は入れておきます。面会の手はずを整えるくらいは我々に任せ、今はお休みください。三日後には城へ行き、貴族院に向かうまでの詰め込み学習が始まるのですから」
フランの言葉にわたしは頷いて、ベッドで寝転がりながら、木札に目を通す。神官長が準備してくれた木札は貴族院に入学するまでにこなしておかなければならない優先度順に並べられた一覧表だった。
国の地理や歴史、魔力や経済力などによる領地の影響力の順位、在学中の王族の名前や領主候補生の名前などを本や資料を読んで覚えこむのが最優先にあった。これはいい。しばらく本を読み放題のようだ。
……うふふん、ふふん、読む本がいっぱいありそう。……ん? 何、この奉納舞の練習って? それに、おじい様と体力増強特訓? わたし、貴族院に行く前に死なない?
フランは言った通り、すぐに面会の手はずを整えてくれた。次の日の午後が面会予定になっている。そのため、午前中は神殿でのいつも通りのスケジュールをこなすことになった。
わたしが目を覚ましたことで、2の鐘が鳴ってすぐにダームエルも護衛騎士の仕事をするために神殿へとやってきた。
少年っぽい雰囲気は完全になくなって、ダームエルも大人の顔になっている。疲労が濃い顔をしているのは失恋したせいだろうか、と思ったが、どうやら、おじい様にしごかれていたせいらしい。
「二度とローゼマイン様を危険な目に遭わせないよう、ボニファティウス様が領主一族の護衛騎士を鍛えるとおっしゃって、鍛錬の毎日でした。アンゲリカもコルネリウスも驚くほど強くなっています」
「そうですか。少し城に行くのが楽しみになりました」
朝食後、わたしはロジーナとフェシュピールの練習をしたのだが、指がさび付いたように動かなくなっていることに驚いた。
「三日、練習をしなければ、音に変化がありますもの。二年も寝ていらっしゃったのですから、仕方ありません。ですが、ローゼマイン様は御自身の感覚ではつい先日まで練習していたせいでしょうか? 勘を取り戻すのが、お早いです」
「……貴族院に向かうのに、恥をかくのではないかしら?」
わたしのレベルは8歳で止まっている。さすがに10歳までみっちり練習した貴族達が集う場に向かうには練習不足が過ぎるだろう。
「いいえ、ご心配には及びませんわ。このまま練習を続ければ大丈夫です。神官長のご方針で難易度をどんどんと上げて練習していましたから、指の動きさえ戻れば、恥をかくようなことはございません」
それでも、何とか及第点というレベルだろう。こういう実技系は空白を埋めるのが難しいので、ひたすら練習するしかない。
そして、3の鐘の後は、神官長のお仕事のお手伝いだ。わたしがフランとザームとモニカを連れてお手伝いに行くと、神官長の側仕えに涙を流して喜ばれ、神官長がいかに体に悪い仕事量を抱え込んでいたのか、訴えられた。
「わたくし、貴族院に向かうので、お手伝いできるのは今日と明日だけですけれど……」
「それでも、心強さが違います」
「城からの呼び出しが少し減るだけでも十分です」
……養父様め!
とりあえず、神官長を少しでも楽にしてあげるために、ひたすら計算した。「大変結構」と、とても満足そうに神官長が頷いて、疲労回復の薬をくれた。
「ありがとう存じます」
ものすごく微妙な気分だが、味を改良してくれたこの疲労回復薬の半分は神官長なりの優しさと気遣いでできている。喜んでおかなければならない場面なのだ。
昼食を終えたら、軽く孤児院と工房の見回りをして、元気になった報告と皆よく頑張ったねという労いの言葉をかけて回る。お伴はギルとダームエルで、モニカとニコラは先に孤児院長室へ行って、準備をしてくれているのだ。
孤児院でも色々と変化があった。見習いだった子達が何人も成人していて、わたしとあまり変わらないくらいの大きさだった子達が見習いとなっていた。洗礼前の子供はディルクとよちよち歩きの赤ちゃんが三人である。
元々綺麗な顔立ちをしていたデリアは完全に美少女になっていたし、ディルクは赤ちゃんの面影などない幼児になっていた。
……カミルもこれくらいになっているんだろうな。
これから頑張って成長しなければ、わたしはカミルやディルクに抜かれるかもしれない。そんな危険をひしひしと感じた。
工房に回って激励の言葉をかけた後は、孤児院長室へ入って、来客を迎える準備だ。わたしがギルからもらった工房の収支を記した書類に目を通していく間、側仕え達は隠し部屋の掃除をしたり、お茶やお菓子の準備をしたり、忙しく働いていた。
「ローゼマイン様、プランタン商会がお着きになりました」
「お通ししてちょうだい」
二階へと上がってきたのは、ベンノ、マルク、ルッツの三人だ。ギルほどではないが、ルッツの背も伸びていて、フランの肩くらいになっている。忙しい職場で揉まれているせいか顔付きがキリッとしていて、できる男の雰囲気に近付いている気がした。
「こちらでお話いたしましょう」
真面目くさった長い挨拶を終えると、わたし達は隠し部屋へと案内した。わたしとプランタン商会の面々、側仕えのギルと護衛騎士のダームエルでいつも通りのメンバーだ。
パタリと扉を閉めて向き合うと、わたしはとりあえずルッツに飛びついた。
「ルッツ、大きくなったねぇ!」
どーん、と飛びついて抱きついたら、肩の辺りにあったはずのわたしの頭がルッツの胸元からみぞおちの辺りになっていた。前は15センチくらいだった差が、30センチくらいにまで広がっている。
なんだか気分がずーんと落ち込んだところにベンノが近付いてきて、ルッツにしがみついたままのわたしの頭を軽くポンポンと叩き、首を傾げた。
「……ローゼマイン、お前、縮んでないか?」
「変わってないけど、縮んでないもん。ひどいよ、ベンノさん。わたしだって好きでこんな状態でいるわけじゃいなのに……」
そう言っているうちに、だーっと堰を切ったように涙があふれてきた。何だろう、思うままの感情を出しても許される場だからだろうか、止まらない。
「あ~、悪い。すでに誰かに何か言われた後か?……それとも、泣くに泣けなかったか?」
後の言葉がストンと自分の中に落ちてきた。
「神官長に、魔力が暴走するから感情を乱すなって、言われたけれど、わたし、感情のままに泣きたかったみたい」
「魔力が暴走するのはヤバいだろ!?」
「今は身体強化を補助するための魔術具を4つも付けてるから、平気だもん」
「そうか。だったら、思い切り泣いておけ。どうせ、泣けるところなんてないんだろ?」
ベンノがそう言って、わたしの頭をぐしゃぐしゃと掻き回してから離れていく。ルッツも小さく笑いながら、わたしの背中をポンポンと軽く叩いた。
「よしよし、泣け、泣け。オレは正直お前が変わってなくて安心した。いきなり別人みたいになっていたらどうしようかって、トゥーリと話していたからな」
「うぅ~、ルッツ~」
気が済むまで泣け、と言われて、ルッツにしがみつくと、自分でもびっくりするくらい涙が出てきた。
しばらく泣いて、気が済んだのか、すうっと涙が止まる。ずっと抱え込んでいたもやもやが涙と一緒に流れていったように、すっきりした気分だ。
わたしは顔を上げて、記憶あるより上にあるルッツの顔を見上げた。わたしを見下ろすルッツの翡翠のような目は変わっていなくて、ホッとした。
「ルッツ、抱き着いた感触が前と全然違うね。なんか硬くてごつごつしてるよ。ギルもルッツも大きくなりすぎ。しかも、二人ともすごくカッコよくなった。ギルなんて、声も違う。そんでもって、ベンノさんは老けた」
「くぉら! お前、今、何て言った!?」
「あっかんべー!」
ルッツを盾にしたわたしは、んべっ、と舌を出して、ふふん、と笑えば、ひくっと頬を引きつらせたベンノがわたしの頭をぐりぐりする。
「ぎゃー! 痛い痛いっ!」
「俺達の苦労を知らんお前にはこれくらいで丁度いい」
「うわーん! 今日はその苦労話を聞きに来たんじゃないですか!」
「だったら、聞け! ガッツリ教えてやる」
ベンノの言葉に促され、わたしは座った。ルッツの膝の上に。正面に座ったベンノが溜息を吐いた。
「おい、ローゼマイン」
「わたし、まだルッツ分の補充が足りないから、これでいいんです。これから、お城に行って二年分の勉強を大急ぎで詰め込んで、貴族ばっかりが集まる学校に行かなきゃいけないんだよ。たっぷり補充しておかなきゃ」
「あぁ、そうか。もう勝手にしろ。こっちは報告させてもらう」
ベンノからの報告で、ハルデンツェルでの進度や状況を知った。次の春にもハルデンツェルに向かって、確認しなければならないことが数点あるらしい。そして、わたしの許可が必要で止まっていることもいくつかあるそうだ。
「わかりました。騎獣でぱぱーっと行って、ぱぱーっと片付けましょう」
「……ぱぱーっと、な。そう願いたいものだ。とりあえず、お前が目覚めてホッとした。きっちりと周囲の手綱を握っていてくれ。上級貴族がずらりと並んで、神官長に同情めいた視線を受けながらの商談なんぞ、もう十分だ」
自分の印刷工房を作るのだ、と意気込むお母様と、本当に利益に繋がるのか、と疑ってかかるお母様のご実家の方々に囲まれたベンノさんを思い浮かべて、そっと視線を逸らした。
「あ~、それはもう、何と言っていいか……お疲れ様でした」