Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (289)
歴史・地理・音楽
ヒルシュールと少しばかり神官長の昔の話をした結果、神官長が学生時代に作った魔術具の修理ができるかどうか聞かれた。けれど、即座に「残念ながら」とお断りしておいた。わたしを神官長と同じに見られては困る。
「フェルディナンド様からのお便りからは何と? その、秘匿するように言われている情報を色々とご存知のようなので……」
「貴女が自領で襲撃を受け、ユレーヴェで眠りについていたことは、貴族院では周知の事実です。様子を見ている専属医の見立てによると、冬までに目覚めず、貴族院への入学が遅れる可能性がある、ということでした。春の領主会議で、専属医の見立てに関する資料の提出と特別措置を適用して欲しいというエーレンフェストからの申請がございました」
10歳になった貴族の子は貴族院に入って、成人まで学ぶ。こうしなければ、正式な貴族としては認められない。だからこそ、事情があって入学できない場合は特別措置がある。
特別措置では、冬だけではなく一年通して在籍し、成人までに決められた過程を終了するというものだ。そのためには、教師を貴族院に置いておく必要があるので、領主が事前に申請していなければならない。
最も利用されたのは、政変の後である。激減した貴族を補うために、還俗した青色神官見習いや青色巫女見習いが特別措置で貴族院へと入った。
「わたくしが個人的に知っている情報は、フェルディナンド様が貴女の後見人であること、目覚めたばかりで体を動かすことにも難儀するので魔術具を付けていること、そのせいで魔術関係の実技で苦労する可能性があるので配慮して欲しいこと、そして、ずいぶんと独創的な思考をしているので面白い着想が得られるかもしれない……そのくらいでしょうか」
……面白い着想って何? 神官長の配慮はありがたいけど、何だか素直に感謝できないんだよね。
「ここ数年でいきなりエーレンフェストの座学の成績が上がり始めたのは聖女のおかげだと学生達から聞いておりますし、フェルディナンド様のお言葉もございます。実際に魔術具を作ることになる二年生以降の講義を楽しみにしておりますよ」
魔力の扱いにずいぶんと時間がかかって、教室前の控室で待つリヒャルダとすでに課題を終えたコルネリウス兄様が非常に心配そうな顔で待っていた。
「遅かったですね。ローゼマイン様が魔力の扱いに苦労することはあり得ませんから、何かあったのではないか、と非常に心配になりました」
ヴィルフリートと同じように、コルネリウス兄様もわたしが魔力の扱いで苦労するはずがないと思い込んでいるらしい。わたしはゆっくりと首を振った。
「わたくし、自由に動けるように、と付けている魔術具のせいで、魔力の制御が儘ならないのです」
本当はユレーヴェで解けた魔力を持て余しているというのが正しいけれど、今日の制御に失敗したのは魔術具のせいもある。
「あぁ、そういう弊害もあるのか。ローゼマインが普通に動いているから、あまり深く考えていなかったな。ヒルシュール先生と対策について話をしたのかい?」
「慣れるしかないそうです」
「……そうか。では、寮に戻ろう」
13の扉から寮へと帰ったら、アンゲリカが青い瞳を潤ませて駆け寄ってきた。
「ローゼマイン様、わたくしにも護衛任務をさせてくださいませ。貴族院へと共に赴き、護衛できる時間が増えたのに、わたくし、碌にお仕事をしておりません」
主から仕事を得られず思い詰めた美少女が、涙ながらに現状の変化を訴えているように見えるけれど、わたしは騙されない。今のアンゲリカの言葉は「せっかくローゼマイン様が貴族院に来たのだから、護衛任務をして勉強時間を減らしたい」という意味だ。
皆が必死に勉強をしている中、アンゲリカは勉強から逃れることしか考えていない。ちらりとコルネリウス兄様を見上げると、コルネリウス兄様の漆黒の瞳がわたしを見て、コクリと頷いた。「アンゲリカに引導を渡せ」とその顔には書かれている。
「では、わたくしが主としてアンゲリカに命じます。一刻も早く座学の試験に合格してください。それが最優先に行うべき任務です。わたくしもアンゲリカが護衛任務についてくれる日を楽しみにしていますよ」
「ローゼマイン様……」
「主からの命令だ、アンゲリカ。騎士として何よりも優先すべきだろう? さぁ、勉強をしようか。レオノーレ、悪いが、ローゼマイン様に付いていてくれるかい?」
「はい」
コルネリウス兄様がアンゲリカを捕まえて引っ張っていくのと入れ替わるようにレオノーレがわたしに付いた。わたしは騎獣を出して乗り込むと、一度着替えるために自室へと向かう。
階段を上がっていると、アンゲリカの嘆く声が聞こえてきた。ちらりと振り返ったレオノーレが視線を階下に向ける。
「ローゼマイン様もコルネリウスも、アンゲリカにはずいぶんと親身なのですね。厳しく接しているように見えますが、アンゲリカが落第したり、退学になったりしないように、と必死ですもの」
「アンゲリカはわたくしの護衛騎士ですからね。主であるわたくしが貴族院にいるのに、落第させるような真似はさせませんよ」
わたしがそう言って胸を張ると、レオノーレは一度ひどく羨ましそうな表情で階下を見つめ、一度目を伏せた。
「皆が大事にしているのですもの。アンゲリカがボニファティウス様の愛弟子で、いずれカルステッド様のご子息の三兄弟のどなたかに嫁ぐという噂は本当なのですね」
「……わたくし、そのような噂は初めて耳にしました」
……アンゲリカが兄様達の誰かと? 全然結びつかないんだけど。
「アンゲリカは魔力が多いとはいえ、中級貴族ですし、ボニファティウス様が血縁者との縁組を望まれているとしても、トラウゴットのように第二夫人や第三夫人の系列の方が有力候補になるのではないかしら?」
おじい様がごり押しすれば、反対は誰にもできないかもしれないけれど、相手が騎士団長であるお父様の息子では、正直な話、身分差でアンゲリカが苦労しそうだ。特に、アンゲリカは考えるのが苦手で、勘で行動するタイプの人間である。
「むしろ、第二夫人や第三夫人の方がアンゲリカには合っているでしょうね」
「第二夫人や第三夫人ですか? でしたら、ローゼマイン様はどのような方が第一夫人として相応しいとお考えですか?」
「わたくしのお兄様は三人とも領主一族の護衛騎士ですもの。領主一族と深く関わる夫を支えて、留守の多い夫の代わりに家を切り盛りしながら、社交界でも一族のために行動できるお母様のような女性が一番です。わたくしのお母様はすごいのですよ。わたくし、いずれ、お母様のような器の大きい女性になりたいと思っています」
どこの馬の骨とも知れない子供を我が子として連れてきた夫の言い分と事情を聞き、自分の子として洗礼式を受けさせ、上級貴族の令嬢として相応しい教育を与えて、領主の養女として扱うなど、誰にでもできるわけではない。
「お母様は貴族としての利益を確保し、上級貴族に相応しい社会貢献をして、周囲からの賞賛を得ながら、自分の趣味にも妥協しないのです。わたくしは、心からお手本にしたいと思っています」
「では、わたくしもエルヴィーラ様を目標にいたします」
レオノーレが微笑んだ。一緒に貴族女性として、お母様を目指すのだ。
着替えて多目的ホールへと向かうと、皆が必死にお勉強していた。必死の形相をしているのは一年生だが、その気迫につられたように他の人達も一緒だ。感心、感心である。
皆の勉強を見ていたヴィルフリートが顔を上げた。
「ずいぶんと遅かったな、ローゼマイン」
「えぇ、慣れない魔術具を付けているせいで、魔力の制御に大変苦労いたしました。それよりもどれほど進みましたか?」
わたしが皆の進度を見て回ると、フィリーネが「頑張っています」と言った。誰も彼もわたしが配ったそれぞれの弱点を補強するための資料とにらめっこしている。
……このまま頑張ってギリギリ合格できるかどうか、って感じかな?
「そういえば、ヴィルフリート兄様、全員合格は座学だけですか? 実技も含みますか?」
わたしの質問に一年生が一斉にヴィルフリートの方を振り返った。全員の視線を受けたヴィルフリートが、びくっと肩を震わせて、慌てた様子でぶるぶると頭を振る。
「さ、座学だけだ! ローゼマインが今年強化しようと言ったのは座学だけだっただろう? それに、魔力に差があれば、実技は教えようとしたところでどうにもならぬことも多いからな。座学だけで十分だ」
座学だけだ、と繰り返すヴィルフリートに、一年生が安堵したように肩を下ろす。わたしも予想以上に早く図書館に向かえそうで、ホッと安堵の息を漏らした。
「座学だけでしたら、それほど日数もかからず、図書館に行けそうですね。明日の全員合格を目指して全力で取り組みましょう」
わたしとヴィルフリートで手分けして教えていると、ブリュンヒルデが戻ってきた。そして、わたしに向かってそっと木札を差し出す。
「ローゼマイン様、図書館のソランジュ先生からお返事が届いています」
「まぁ!」
面会予約の返事がきたことに喜んで、わたしはいそいそと木札を読んでいく。返事としては、領地ごとに登録を行うので、四日後のお昼休みにエーレンフェストの新入生を全員連れてきてほしいと書かれていた。
それから、必要な登録料が書かれている。本の貸し出しに必要な保証金はまた別らしい。これでは図書館を利用できる学生はそれほど多くない気がする。
「図書館への登録料が一人につき小金貨一枚だそうです。結構高いですね」
「高すぎます。……わたくしには払えません」
フィリーネが絶望的だと言わんばかりの表情になった。
「登録料はわたくしが貸しますから、フィリーネはお話集めや写本をして返してくださればよいのです。座学を終えたら自由時間はできるでしょう?」
「ローゼマイン様、私が写本をしても買い取ってくださるのですか?」
ローデリヒがおずおずと尋ねる。多目的ホールにいた他の学年の者達の視線もこちらに向いていることに気付いて、わたしは皆をぐるりと見回し、大きく頷いた。
「当然です。派閥が違っても、本には何の罪もありません。わたくしは貴族院にいる間にできるだけたくさんのお話や本を集めたいのです。城の図書室にない本の写本はどんどん購入いたします。ただし、字の美しさ、間違いの少なさが大事であることは当然のことですよ」
自分の本を増やすために今まで稼いできたお金だ。本を増やすためならば、わたしは惜しみなく使うつもりである。
「写本のためならば、紙とインクも支給いたします。ただし、紙もインクも高価なものなので、着服されたり、どこかに横流しされたりしないように、誰にどれだけ持って行ったのか、写本としてどれだけが返ってきたのか、細かく確認はいたしますよ」
写本のための道具も貸し出すと聞いて、下級貴族の目がギラリと輝いた。お話や情報料として、わたしが初日に配った現金には絶大な威力があったらしい。
「ローゼマイン、これから写そうとする本が城の図書室にあるかないかはどのようにして判断するのだ?」
「わたくし、城の図書室の蔵書目録を作っておりますから、それを参考にすると良いですよ」
「其方、一体いつの間に?」
「図書室の本を読んだら控えるのは、当然のことではありませんか。わたくしは神殿と城と騎士団長の家の蔵書目録の控えを所持しています。ローゼマイン十進分類法を作成するためにも必要でしたし」
うふふん、とわたしが胸を張ると、ヴィルフリートが「其方、本当に二年間寝ていたのか? 実はこっそり活動していたのではないか?」と呟き、愕然とした顔になった。
ヴィルフリートの言う通り、こっそりと本を読むだけの二年間を過ごせたのならば、どれほど幸せだったことか。現実は儘ならないものである。
「とりあえず、四日後の図書館登録の日までに一年生は全員座学に合格できるように頑張りましょうね」
「……はい」
後からコルネリウス兄様に聞いたところによると、必死に勉強する一年生を見る上級生の視線はとても憐憫に満ちた目だったらしい。ついでに、アンゲリカは「ローゼマイン様と同期でなかったことを神に感謝します」と言っていたそうだ。
その夜も7の鐘まで勉強し、次の朝起きて、最後の確認とばかりに朝食後も勉強して、一年生は試験に臨む。
やや寝不足で充血して赤くなり、腫れぼったい目と国王の名前や土地の名前がぶつぶつと漏れてくる様子は初めての講義に向かっているようには見えない。どこからどう見ても初めての学園生活にドキドキワクワクしている新入生の姿ではなく、明らかにエーレンフェストの一年生だけは周囲から浮いていた。
「本日が正念場です」
「はい」
歴史と地理の試験に合格すれば、魔術の座学は魔石の属性やその色に関することなので、試験もそれほど難しくない。
「皆一生懸命にお勉強しました。何とかなるはずです」
「精一杯頑張ります」
歴史の試験用紙を前に、魔術具のペンを手に取って、運命を決める試験は始まった。
カリカリと書き上げて、全員分まとめて提出するのだが、今日はフィリーネとローデリヒの終わりが遅い。かなり悩んでいる問題があるようだ。
「こ、これで出します!」
最後まで悩んでいたフィリーネが試験用紙を提出に行ったのは、終了時間が間近に迫っていた時だった。けれど、周囲でもまだ下級貴族はほとんどが頭を悩ませながら、問題と向き合っている。フィリーネとローデリヒは下級貴族では早い方だ。
「13番のフィリーネ、前に来てください」
音響の魔術具から教師の声がして、フィリーネが名指しで呼ばれた。何を言われるのか、とフィリーネが顔を真っ青にして、前にいる教師のところへと歩いていく。
「何があったのでしょう?」
「わからぬ」
先生と何やら話して、フィリーネが首を振っているのが見えた。
不安に思いながら、じっと見つめていると、フィリーネがホッとしたような顔で胸元を押さえて戻ってくる。
「ただいま戻りました」
「フィリーネ、先生は何とおっしゃったのですか?」
「……お恥ずかしいことに、わたくしの点数は合格点ギリギリだったようなのです」
きちんと講義を受けてから、試験を受け直しても良い、とフィリーネは教師に言われたらしい。だが、フィリーネは必死で断ったらしい。
「お気持ちはありがたいのですが、その点数で結構です。合格にしてください。三日後の図書館登録に間に合わないと困るのです」
フィリーネの必死の形相に教師は、「深い事情がありそうなので、一応合格にしますが、講義を受けても良いですよ」と言ってくれたそうだ。
「合格できて本当に良かったです」
フィリーネの言葉の途中で、先生の声が音響の魔術具から講堂に大きく響いた。
「エーレンフェストは全員合格です」
周囲からどよめきが起こる。算術と神学はここ数年全員合格だったし、周囲でも合格率が高いので、それほど驚かれることではなかった。だが、歴史と地理は下級貴族の合格率が著しく低い。下級貴族に教えるために講義が準備されていると言っても過言ではない程だ。
そんな教科に下級貴族も含めて全員が一発合格である。注目されないわけがない。
「……ずいぶん目立っているな」
「そうですね。目立つのは本意ではないですけれど、図書館のためならば仕方ありません。視線は甘んじて受けましょう。次は地理です。ここまで順調ですもの。気を抜かずに頑張りましょうね」
地理の苦手なローデリヒがぎゅっと唇を引き結んで頷くと、ラストスパートの追い込みとばかりに資料に目を通していく。
「ローゼマイン、其方、本当に、驚くくらい図書館のことしか頭にないな」
「今、図書館以上に大事なものが他にありますか?」
まだ入ったことがない図書館。それも、神官長によると貴族院の図書館は国で二番目に蔵書数が多いそうだ。ここの本を読み漁ること以上に大事なことなど、今のわたしにはない。
「叔父上が言っていた、図書館は薬にも猛毒にもなるとは、このことか」
「フェルディナンド様がまた何か言っていたのですか?」
「其方に図書館を与える加減は、投薬と同じくらいに難しい。使い方も知らぬ無能が不用意に触れると被害は甚大になる、と。私は今その言葉を噛みしめているところだ」
実感の籠ったヴィルフリートの言葉にわたしはムッと眉を寄せた。
「どういう意味ですか、ヴィルフリート兄様? 皆が順調に合格していて、最善の結果がでているではありませんか。被害甚大だなんて失礼な……」
「……甚大ではないか。ほら、其方も最後の見直しをすると良い。其方は注意力散漫でつまらぬ間違いをするのだからな」
死にそうな表情で勉強した効果があったのか、地理の試験も全員が合格した。地理はローデリヒがギリギリ合格だったが、フィリーネと同じように「講義も受けるが、点数が足りているならば、合格にしてほしい」と頼み込んで合格にしてもらったのだ。
「エーレンフェストは全員合格です」
そして、魔術に関する座学の試験も全員が問題なく合格。初回の試験で一年生は全員が座学を終えた。驚嘆する周囲の視線を受けながら、皆が拳を握って大喜びだ。
「今日は久しぶりにご飯がおいしく食べられそうです!」
苦手の地理を何とか克服したローデリヒが拳を握ってそう言った。派閥が違う自分だけが不合格だったら、この後の生活がどのようになるか考えて戦々恐々としていたらしい。
「皆が頑張ったので、今夜の夕食には一年生の全員にデザートを付けてもらえるよう、わたくしの料理人に頼んでおきましょう」
「本当ですか、ローゼマイン様!?」
「えぇ、図書館が近付いたのは、皆の頑張りのおかげですものね」
全力で追い込んで頑張らせていたものの、本当に合格できるとは思っていなかった。あと一回くらいは挑戦しないと下級貴族は無理だろう、と思っていたのだ。デザートでよければ、いくらでも振る舞ってあげたい。
「わたくし達、全員合格したのですよ!」
昼食のために寮へと戻ると、上級生に胸を張って、全員初回の試験で合格したことを自慢した。座学に全員が合格したので、最速のチームは一年生チームに決定したわけだが、他のチームの皆は別に羨ましそうでもなく、ただひたすらに健闘を称えてくれる。
「よかったな。本当にお前達はよく頑張ったよ」
「全員合格できてよかったですね。わたくしまで感動してしまいました」
「一年生がここまで頑張ったのですもの。わたくし達も負けていられませんわね」
敵対しているはずの上級生チームからの心の籠った労い言葉に、わたしの方が感動した。
昼食後は音楽の実技が行われる。フェシュピールは冬の子供部屋でも練習していたので、多少気が楽であるという理由もあるが、座学の試験をクリアした一年生は、皆、お昼ご飯を食べる表情が達成感に満ちた笑顔になっている。
「フィリーネ、まだ実技が残っているのですから、気を抜きすぎてはなりませんよ」
「はい、ローゼマイン様」
「午後の実技は音楽ですか。……ローゼマイン様、一年生全員の初回合格で周囲を驚かせているのですから、このまま音楽でもフェシュピールの演奏と同時に祝福を行って、周りをあっと言わせましょう。誰もが聖女と認めると存じます」
ハルトムートが橙色の瞳をきらりと楽しげに輝かせる。
「お断りします。エーレンフェストの評価が上がるのと、わたくし個人がそのような騒動を巻き起こすのは完全に別物ですもの。演奏の時に神への祈りは籠めません」
「ご理解いただけず残念です。せっかくの機会なのですが……」
ハルトムートにしつこく祝福しよう、と言われるのを断り、フェシュピールをリヒャルダに持ってもらって、音楽の講義が行われる小広間へと向かう。
自分の魔力量の把握や制御ができていない今の状態で祝福を与えるなんて、自分でも何が起こるかわからなくて怖すぎる。とてもできない。
魔術の実技と同じように、音楽の実技も階級ごとに分かれて行う。音楽は人数が多すぎるのもやりにくいし、階級で明らかに教師や楽器の質が違うからだ。
「今日は一人一人の実力を見たいので、ご自分の得意な曲を一曲ずつ披露してください」
領地の順番で皆が一曲ずつ弾いていく。実力が似ていれば、同じ曲を選択することになるようで、どうしても聞き比べられてしまう。できるならば、知っている人が少ない曲の方が、先生に新鮮な気持ちで聞いてもらえるかもしれない。
そして、皆の演奏を聞いていて、思ったこと。
……神官長、マジでスパルタ。わたし、どれだけ詰め込まれていたの!?
神官長も養父様もフェシュピールが上手かったし、灰色巫女のロジーナやヴィルマでさえフェシュピールを嗜みだと言って簡単に弾きこなしていた。だから、わたしはそれが貴族の基準だと思って、せっせと練習していたが、そうではなかった。
弾いて歌って女性を失神させる神官長は完全に別格で、そんな別格と並んで演奏ができる養父様も神官長に少し劣る程度の別格だった。芸術巫女と異名を持つ程に芸術に傾倒していたクリスティーネも同様に別格で、その薫陶を受けて、お気に入りの巫女だったロジーナとヴィルマも別格だったらしい。
……神官長と並んで一緒に演奏ができる時点で、養父様もロジーナも普通じゃないって、どうして気付かなかったの!? 気付けよ、わたし!
二年間のブランクが何とかなるのは助かる。本当に助かったと思う。だがしかし、もっといっぱい本を読める時間があったのではないかと思うと、悔しくて仕方がない。
……もっと手が抜けたのに!
わたしが周囲のレベルと、自分が目指していたレベルの違いに内心で地団太を踏んでいるうちに、エーレンフェストの順番がやってきた。上級貴族が先に弾き始める。
「次は私が行く。其方は最後だ」
ヴィルフリートがそう言って立ち上がる。特に反対する必要もなかったので、わたしは頷いて、ヴィルフリートを見送る。
そして、ヴィルフリートが弾き始めた時に、わたしは自分のフェシュピールを抱えて前へと行き、次の奏者が待つ席に座った。
「音楽は人並みにできるのでしょうか?」
「ユレーヴェを使って二年も眠っていたのですから、そのように言うものではありませんわ。外見通りのことができていれば十分ではありませんか。温かく見守って差し上げなくては」
ひそひそとわたしに聞こえるように言っているのはアーレンスバッハの一角だ。少し聞いただけならば、周囲を
窘
め、わたしのことをフォローしているように聞こえるが、「外面と同じく中身も成長していないから、期待するだけ無駄だ」と言っている。
……別に何を言っていてもいいんだけど、こういう事情もディートリンデが一年生にまで広げたのかな?
ディートリンデの意図がつかめないまま、わたしの順番になった。
わたしはあまり他では知られていなくて、一番弾き慣れている曲を弾く。簡単に言うと、神官長がアレンジしたアニメソングだ。神官長を笑うために教えたのに、耳慣れていて一番弾きやすいという結果になっている。
……ここでは元の曲なんて誰も知らないし、神官長のアレンジのおかげで、まるで別の曲のようになっているから大丈夫。誰にも笑われない。
祝福にならないように気を付けて、わたしはフェシュピールを弾いた。
「二年間も眠っていたと伺っておりましたけれど、予想以上にお上手で驚きました。このまま練習すれば、フェシュピールの名手となれるかもしれませんね」
「恐れ入ります」
……周りが別格レベルの名手だっただけで、わたしはそんなの目指す気は全くないんだけどね。
にこりと笑って褒め言葉を受け取って戻ろうとすると、先生が「ローゼマイン様」とわたしを呼び止めた。
「わたくし、貴族院で音楽教師となって二十年近くになりますが、この曲を聞いたのは初めてですわ。一体何という曲ですか?」
「ライデンシャフトに捧げる夏の歌……それ以上の名はございません」
無名の作曲家が作ったどこにでもある練習曲の一つです、とはぐらかそうとしたら、ヴィルフリートがニッと笑った。
「この曲はライデンシャフトへの祈りを込めて、エーレンフェストの聖女が作曲したのだ。私は他にも数曲知っているが、ローゼマインが作るのは全て神に捧げる曲ばかりだ」
……こんなところに伏兵が!
目を見開くわたしに、先生は目を輝かせてわたしを見た。
「他の曲も聴かせていただきたいですわね」
「時の女神 ドレッファングーアの紡ぐ糸が重なる日があれば、ぜひ……」
……ヴィルフリート兄様のバカバカ!