Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (31)
ルッツの最重要任務
帰ってからもルッツの言葉がぐるぐると頭を回っていた。
ルッツが言いにくそうに、でも、ハッキリと言葉にしたということは、かなり不審に思われているはずだ。
わたしがマインじゃないとわかったら、どうなる?
マインを返せとか、お前のせいでマインがいなくなったとか、混乱と怒りと恐怖の混じった罵詈雑言を浴びせられるのは確実だろう。
ルッツがそれを家族にも言ったら、わたしのいる場所は消える。
家から追い出されるくらいならまだしも、最悪の場合、ここが魔女狩りをしているような宗教の世界の場合、悪魔憑きなんて思われて、拷問の末、殺されるかもしれない。
本で読んだ魔女狩りの数々の拷問描写が脳内に浮かんで、ぞっとした。
……痛いのは嫌だ。怖いのも嫌だ。
拷問なんてされるくらいなら、死んだ方がマシだ。
追い出されるのも、拷問も嫌だけれど、その前に自分の熱に食われてしまえば、熱に浮かされるだけの苦しさで死ねる。死のうと思えば、わたしは誰にも邪魔されることなく、簡単に命を投げ出せる術を持っている。
拷問される前に死ねばいい。
短絡的だが、拷問よりは熱に浮かされて食われる方がよほど楽だ。そう考えたら、ちょっと呼吸が楽になった。
それに、よくよく考えてみれば、熱に呑みこまれないように、この世界に踏みとどまったのは、ルッツに謝るためだった。ルッツとの約束を守らなければ、と思って、熱から逃げ出して来たのだ。
ルッツには謝ったし、オットーと引き合わせて約束は果たしたし、一応、心残りが消えたとも言える。
ベンノと会ったことで、紙作りが目前に見えてきたから、紙を作りたいし、本を作りたくなったけれど、この世界自体にはあまり執着はないのだから。
ルッツがマインじゃないわたしを気味悪がって避けるのは簡単だけれど、避けてしまったら、紙作りは成功しない。
きちんと説明すれば、紙作りが成功して、商人見習いになれることが確定するまでは、ルッツもおとなしくしていてくれる確率が高い。
紙ができるまでは何とかなるだろうし、死のうと思えばいつでも死ねる。
そう腹をくくったら、かなり気が楽になった。結論らしい結論ではないけれど、自分の中で折り合いがついた。
わたしがどういう行動をとるにしても、ルッツの出方を見るしかない。
いつ死ぬ時が来てもいいように、後悔しなくていいように、紙作りに全力を尽くすしかない。
腹をくくったなんて、言ってみても、ルッツに会うことに全く抵抗がないわけではない。
次の日の朝、わたしは多少びくびくしながら、ルッツと顔を合わせた。
「今日はオレ、森に行くから。薪拾ってこないとダメなんだ」
ルッツの言葉にわたしは顔を輝かせた。
わたしは残りの発注書を出して、簡易ちゃんリンシャンの作り方を教えるためにベンノの店に行かなければならない。
ルッツがいない間に、できるだけ多くの不審行動を終わらせて、バレるまでの時間を稼ぐ絶好のチャンスだ。
「わかった。わたしはベンノさんのところに行くよ。簀の発注書、出さなきゃいけないし、荷物が届く場所も相談しないとダメだから」
「……一人で行くのか?」
「うん。そうだけど?」
ルッツが一緒に行けないなら、一人で行くしかないし、今日も大人とのやり取りが主だから、身近な人はいない方が、わたしにとって都合がいい。
「……一人で行けるのか?」
「大丈夫だよ」
グッと拳を握りしめると、ルッツは何か言いたそうな顔になった。それでも、何も言わず、「じゃあな」と言って、森に向かって行った。
ベンノの店には一回行っている。オットーの家も合わせれば二回だ。一人で行くくらい何でもない。
わたしも石板と石筆と発注書セットが入ったいつものトートバッグを持って、ベンノの店に向かって歩き始めた。
よーし、じゃあ、今日一日で出来るだけたくさんの用事を終わらせよう。
「おはようございます。あ、マルクさん。ベンノさん、いらっしゃいますか? 発注書、持ってきたんですけど」
業者の出入りが激しいのか、ひっきりなしに客が出入りしているベンノの店に入って、顔を知っているマルクのところへと駆け寄った。
「旦那様は忙しいので、私が承ります」
そう言って手を差し出すマルクにわたしはバッグから出した発注書セットを手渡す。書き込みが終わった発注書とインクとメジャーだ。
「この発注書なんですけど、昨日も言っていたように、できれば作ってくれる方に直接お話したいんです。お話できる日を決めてもらっていいですか?」
「材木屋は午前中の方が時間に余裕があるので、今から行きましょうか?」
「お店、忙しそうですけど、大丈夫ですか?」
次々と入ってくる客をさばいている従業員のみなさんを見回すと、マルクはオットーと同じような少しばかり黒いオーラを放つ笑顔で言い切った。
「私一人が少し席を外したところで、泣き言を言うような教育はしていません」
今にも泣きそうな顔をしている従業員はいますけど?
「それに、旦那さまにも言われた通り、貴女の依頼は特殊ですから。他に任せず私が対応するのが適当だと判断しました。お気になさらず」
「えーと、では、お世話になります」
マルクと一緒にベンノの店を出て歩き始める。
目的地である材木屋は市場がある西門の方にあるらしい。川が近いので、大きな物は西門から運搬されてくるから、西門に近い場所に店を構えるのが材木屋にとっては便利なのだそうだ。
「ベンノさんにお願いしたいことがあったんですけど、忙しそうならマルクさんから伝えてもらってもいいですか?」
「何でしょうか?」
まず、中央広場に向かって大通りをポテポテと歩きながら、店で話せなかった用件を話し始めた。
「発注した荷物を置いておく倉庫というか、作業場も貸していただきたいんです」
欲しい物を次々と発注したのは良いけれど、置き場所がない。
まさか作業場がないと思っていなかったようで、マルクは目を瞬いた。
「今まではどうするおつもりだったのですか?」
「ウチとルッツの家に道具は分けて置いて、森の川辺や井戸の周りに道具や材料を持ち寄って作業するつもりだったんですけど……」
当初は鍋を借りるつもりだったし、家の中や森にある物で何とか代用できないか考えるつもりだった。灰も母達に拝み倒してもらうつもりだったし、木も森で切ってすぐに使うつもりだった。
注文してしまうと代用品を考える手間は省けるが、荷物が一気に増えるし、その日に使うものばかりではないので、一旦置いておく場所が必要になる。
しかし、余分な部屋がないウチやルッツの家では生活に関係ない物はそれほど置かせてもらえない。
「分散して置くにしても限度があるし、作業がしにくいんですよね。屋根のある作業場を貸してもらえるなら、それに越したことはないので、ダメでもともとと思って、相談してみました。これも初期投資に入りますか?」
わたしがそう言うと、マルクはこめかみを押さえて、信じられないと呟いた。
「予想以上に無茶をするつもりだったんですね」
「今までは大人の協力者がいなかったので」
大人の協力がない子供にできる範囲は本当に小さいのだ。
簡易ちゃんリンシャンの作り方と引き換えに得られたベンノという協力者は最大限利用させていただく。この機会を逃したら、二度と紙を作ることなんてできそうにないのだから、こちらも遠慮なんてしていられない。
「ふむ、倉庫に関しては、私からも交渉してみましょう」
「ありがとうございます。マルクさんが味方になってくれたら、絶対に倉庫を貸してもらえる気がします」
前回のやり取りを見ていても、マルクはベンノの右腕とか、懐刀とか、そういう関係の人だと思う。見るからにセバスチャンだし。
マルクが交渉してくれれば、間違いない。きっと倉庫は借りられる。
「倉庫に何か条件はありますか?」
「えーと、森に行って作業することが多いので、南門に近いほど嬉しいです。後は発注した荷物を置いておける屋根のある場所なら、それで十分です」
「わかりました。……あぁ、そろそろ見えますよ。あの材木屋です」
マルクがそう言って前方を指差したが、わたしの身長では見えない。ぴょんこぴょんこ飛び跳ねてみても見えない。
マルクの手をとって、わたしは足を速めた。
「じゃあ、急ぎましょう」
そして、意気揚々と材木屋に向かって、やや小走りになった瞬間、突然、膝がガクンとなって、一瞬息がつまって意識が暗転した。
気が付いたら、全く知らない場所にいた。
ベッドが厚手の布で覆われているお陰で、藁布団のチクチクがほとんどしなくて寝心地がいいベッド。シンプルだが、天井まで掃除が行き届いている部屋には全く見覚えがなかった。
「……ここ、どこ?」
起き上がって周りを見回すと、同じ部屋で針仕事をしているコリンナの姿があった。わたしの声が聞こえたようで、手を止めて駆け寄ってくる。
「マインちゃん、気が付いたのね? 突然倒れたと言って、ベンノ兄さんが運び込んできた時にはビックリしたわ。前にオットーから門まで来たら昼まで動けないって聞いたことがあったから、疲れからきた熱じゃないかと思って、寝かせておくことにしたんだけど」
「お、お世話おかけいたしました。本当に申し訳ないです」
ひいぃぃっ、と息を呑みながら、わたしはベッドの上で土下座した。
材木屋に向かう途中で、ぶっ倒れて、ベンノによってコリンナの家に運び込まれて、面倒をかけていたらしい。
母やトゥーリに知られたら、叱られるなんてもんじゃない。
ああぁぁ、マルクさんにも土下座しなきゃ。普通に会話していたわたしがいきなりぶっ倒れるなんて、心臓が止まるほど驚いたに違いない。
倒れた原因が今ならわかる。
まず、ルッツの発言に考え込んで少しばかり寝不足だった。
そして、ルッツのいない間に交渉事を済ませようと、ちょっと張り切り過ぎた。
そのうえ、紙作りが順調に行きそうなことに興奮していて、やる気に満ちていたため、自分の体調を考える心の余裕が全くなかった。
ついでに、わたしの体調を心得ていて、無茶を止める身近な人がいなかった。
やる気だけはあっても、身体が全くついてこない。
わたしの体、マジでポンコツ。
「マインちゃん、いきなりどうしたの? そんなことしなくても大丈夫よ。ベンノ兄さんには連絡しておくわね。ご家族へも連絡したかったのだけれど、すぐに連絡がつかなかったみたいで……」
今日、ウチには誰もいないはずなので、連絡がつかなくても仕方ない。しかも、家族はルッツと行動していると思っている。
まさか、わたしが一人でベンノの店に行って、ぶっ倒れているなんて思いもしないだろう。
心配のあまり怒り狂う父の姿を想像しただけで怖いし、コリンナに迷惑かけたことを知った母の怒りは想像さえしたくない。
「あのぅ、コリンナさん。か、家族に内緒ってできませんか?」
「マインちゃん?」
「家族はルッツと行動していると思ってるから、ルッツが怒られたら……」
ルッツを盾に、何とか家族の怒りから逃れられないか、交渉してみたが、コリンナはにっこりと女神のような綺麗な微笑みを浮かべてこう言った。
「ダメよ。怒られてらっしゃい」
「のおおぉぉ……」
盛大に叱られる予想に打ちのめされていると、ベンノに連絡がついたようで、ドカドカという大きな足音と共にベンノが部屋に入ってきた。
赤褐色の鋭い瞳がじろりとわたしを睨み、低い声で呼びかける。
「嬢ちゃん」
「ふぁいっ!」
びしっと背筋を伸ばして、ベッドの上で正座する。
「俺の寿命が縮んだぞ」
ベンノの剣幕に寿命が縮んだわたしは、条件反射のように、ベッドの上でまたしても額を布団に擦りつけた。
「大変申し訳ありませんでした」
「……なんだ、それは?」
「わたしの中で一番誠意を示す謝罪方法、『土下座』です」
「そうか」
ベンノはボスッとベッドに腰掛けて、ぐしゃぐしゃとミルクティーのような色合いの髪を掻き回す。
「オットーから一応身体が弱いとは聞いていたが、ここまでとは思わなかったな」
「わたしもです」
「ぅん?」
ルッツがいない間に何とかしようと欲張りすぎた。このくらいなら大丈夫と無意識に考えた基準が昔の自分だった。マインの身体でこなしたら、倒れても当然だ。
「やる気だけではどうにもできない問題でした」
ベンノは「まぁ、いい」と呟いて、わたしを見た。
「今後は坊主と一緒に来るように。一人での行動は認めん」
「……はい」
ペースメーカーをしてくれるルッツがいないだけで、ぶっ倒れるなんて予想外だった。ちゃんと森まで歩けるようになっていたし、街の中なら大丈夫だろうと高をくくっていた。
「今日はもう帰れ。心配しまくっているマルクをつける」
「えぇっ!? そんなの申し訳なさすぎます。マルクさんに『土下座』でお詫びしたら一人で帰りますからっ!」
ベンノの言葉に大きく目を見開いて、わたしはバタバタと手を振って辞退する。これ以上、マルクに迷惑をかけるようなことはできない。
しかし、ベンノはひくっと頬を引きつらせて、わたしを睨む眼光を鋭くする。
「一人での行動は認めんと言ったのが、聞こえなかったのか?」
「……聞こえてました。わかりました。マルクさんに怒られながら帰ります。えーと、でも、せっかくベンノさんに会えたから『簡易ちゃんリンシャン』の作り方を……」
今日、ここに来た目的を果たしてしまおうと口を開いたら、恐ろしい形相をしたベンノに、ぐわしっと頭を片手で鷲掴みにされた。
「お・ま・え・は!」
「はいっ!?」
「今日は帰れ、と言っただろう!」
「ひゃんっ!」
頭を掴まれて、大きな声で怒鳴られて、びくぅっと身体が震えた。反射的にぶわっと涙が飛び出した目でベンノを見上げながら、脳味噌の片隅では至極どうでもいい感想が浮かんだ。
なるほど、これは確かに雷を落とされるって感じだ。
「今後、坊主を連れずに一人での入店は禁止だ! 記憶力があるなら、きっちり覚えろ!」
「覚えた! 覚えました! いたたたたたっ!」
その後、歩いて帰るか、マルクが抱いて帰るかで、少しばかりの問答があったけれど、「わたしの心臓を止めたくなければ、おとなしくしていてください」とマルクに優しく脅され、「先程の謝罪は口先だけですか?」と駄目押しされれば、わたしが勝てるはずなんてなかった。
無駄な抵抗は諦めて、マルクに抱き上げられたまま、家まで運ばれる。
そして、マルクに抱えられたわたしを見て、マルクから本日の行動を報告された家族は、案の定、怒った。長時間にわたるお説教の間に、本格的に熱を出して、わたしが二日寝込むくらい怒っていた。
熱が下がったらお詫びのための土下座行脚が必要かもしれない。
そうトゥーリに話したら、「謝ることは大事だけど、マインはおとなしくしていた方がいいよ」と言われてしまった。
「そんなわけで、みんなに迷惑かけて怒られたので、今日は一緒に行ってください」
熱が下がった翌日、わたしはルッツに事情説明をして、ベンノの店に同行してくれるようにお願いする。
ルッツは呆れかえった顔でわたしを見て、大きな大きな溜息を吐いた。
「ハァ~……だから、言ったろ? マイン一人で行けるのかって。全然大丈夫じゃなかったじゃないか」
「あ、あれって、そういう意味だったんだ? もう道は覚えてるから大丈夫って、思ってて……ルッツ?」
「ハハハハハハ……どこをどう考えたら、そんな意味になるんだよ? マインの心配は体力だけに決まってるだろ!?」
屈みこんで笑い始めたルッツにわたしが、むぅっと唇を尖らせると、ルッツが吹っ切れたような笑顔で見上げてきた。
「こんなにすぐにぶっ倒れるようじゃあ、マインにはオレが付いてないとダメだな」
「うん。ルッツがいなかったら、入店禁止ってベンノさんに言われた」
「ハハハ……入店禁止って、お前」
自分のダメダメ加減を思い知らされて、わたしが落ち込んでいるのに、何故かルッツは機嫌がいい。
機嫌が悪いよりは良いけれど、何だか釈然としない。
わたしはルッツの言葉に悩んで睡眠不足になったり、顔を合わせづらいと思ったりしてたのに、なんでルッツはいつも通りなの!?
「さぁ、マイン。脹れっ面してないで、行こうぜ」
いつも以上にご機嫌でお兄さん風を吹かせるルッツと並んで、わたしはベンノの店に向かって歩き始める。
「ルッツはあの日、森で何を採集したの?」
「薪と竹。竹を削って、どういうものがいるか、職人に見せるってマインが言っただろ?」
「そういえば、そうだった。忘れてた」
口で説明したり、石板に描いたりしてもわからなかった時のために、現物を用意するつもりだったのに、すっかり忘れていた。
「おいおい、しっかりしろよ」
「わたしの代わりにルッツがしっかりしているから大丈夫だよ」
メモ用紙もないところで全てを覚えていられるわけがない。わたしはメモ魔だった。何でもかんでも忘れないように手帳にメモしていた。メモすれば忘れても大丈夫だったので、手帳に頼り切っていたわたしには、大した記憶力が備わっていない気がする。
二人で覚えていれば忘れることは少なくなるよ、とわたしがルッツに言えば、ルッツは泣きそうに顔を歪めた。
「……オレさ、マインが文字を書いて、計算もできて、大人とわけのわからない話もできるのを見て、悔しかったんだ」
「え?」
「オレなんか必要ないんじゃないか。あの店でオレが役に立つことなんてないんじゃないかって思ってた」
洗礼前の子供にいきなり役立てなんて、店の誰も言わないだろう。ルッツが自分の名前を書けて、真面目に勉強に取り組んだことで、かなり評価は上がっていた。
ルッツはそれに気付いていなくて、わたしと自分を比べて落ち込んでいたということだ。
わたしと比べる必要はないよ、と慰めようとしたら、ルッツが今度は小さく笑いながら顔を上げた。
「でもさ、マインはすぐにぶっ倒れるし、頭は良いのに抜けてるし、腕力ないし、ちっこいし、よく考えたら出来ないことの方が多いんだよな。オレがいなかったら入店禁止とか……」
「ひどい、ルッツ! わたしだって、たまには役に立つよ!」
あまりの言い様に抗議したら、何故かルッツはお腹を抱えて笑い始めた。
しばらく笑った後、ルッツがポンとわたしの頭に手を置いて、ぐりぐりと撫で回す。
「この間はマインがマインじゃないみたいで、意地悪言った。悪かったな」
「……なんだ。意地悪、だったんだ」
気が抜けた。
わたしはルッツの言葉をものすごく深刻にとらえていたのに、ルッツにとってはただの意地悪だった。微妙な緊張が残っていた身体から、力が抜ける。
「……ルッツに嫌われたかと思ってたから、よかった……」
「嫌ってねぇよ。ほら、早く行こうぜ」
ルッツが差し出した手をとって、そのまま繋いで歩きだす。わたしにとっての日常が戻ってきた気がした。
「おはようございます」
ベンノの店に入ると、わたし達を見つけたマルクが奥のベンノの部屋へと案内した。
こめかみを押さえながら、ベンノが相変わらず鋭い目でわたしを睨む。
「坊主、そこの無茶な嬢ちゃんのお守は、最優先にしなければならないお前の仕事だ。お前にしかできない最重要任務だと思え。いいな? 街中を歩いて、前触れもなく、いきなり目の前でぶっ倒れられたら、心臓がいくつあっても足りん」
不機嫌そうなベンノからの命令にルッツは目を瞬いて、自分を指差した。
「……マインのお守はオレにしかできない?」
「そうだ。お前以外にこんな無茶な嬢ちゃんの面倒みられるヤツがいるか? 家族以外で今までいたか?」
「いない」
「この店にいると思うか?」
「いない」
ベンノの言葉にルッツは即座に首を振った。顔が輝いて、薄い緑の瞳が何だか誇らしげに見えるのは気のせいではないと思う。
ぬぅ、誇らしげなルッツのほっぺをぐにぐにしてやりたい。
「さて、坊主に聞きたい。今日、この嬢ちゃんは南門まで歩けそうか?」
「歩く速さに気を付ければ大丈夫だ。南門なら家も近くになるから、気持ち悪くなってもすぐに帰れる」
いつものことだが、わたしの体調を家族やルッツの方が詳しく知っていることが情けない。少しずつ鍛えているつもりだが、どうにもスタミナが伸びないのだ。
子供ってぐんぐん成長するはずなんだけどな。
鍛えても成長率が良くない自分の体を見下ろしていると、ベンノが机の上のベルを一振りする。
ギッと扉が開いて、マルクが入ってきた。
「お呼びですか、旦那様?」
「歩く速さに気を付ければ行けるそうだ。案内してやってくれ」
「かしこまりました」
「え? どこに行くんですか? 材木屋は西門ですよね?」
南門に向かわなくてはならないような用件はなかったはずだ。わたしが目を瞬くと、ベンノは軽く肩を竦めた。
「マルクから話は聞いた。南門に近い倉庫をお前達に貸してやる」
「いいんですか? ありがとうございます」
わたしが飛び上がって礼を言うと、ベンノが軽く溜息を吐いた。
「嬢ちゃんのためじゃない。坊主のためだ。嬢ちゃんの面倒を見ながら、道具も運ばなきゃならんなんて、大変すぎるからな」
「えぇ!? わたしだって、ちゃんと運びますよ!? ちょっと腕力だってついてきたんですから」
わたしが自分の腕を叩いて主張したら、三人が異口同音に反論した。
「余計なことしなくていいから、おとなしくしてろ」
「力を使うことはオレがするから、倒れるようなことはするな」
「運ばなくていいので、体調管理をしてくださいね」
だが、断る。
おとなしくなんてしていられない。
わたしはトゥーリと約束しているんだ。出来ることからやっていく。出来ることを増やしていくって。自分のことは自分でするし、今はできなくてもできるように頑張るんだ。
神妙な顔で頷きながら、決意していると、ルッツがぐにっとわたしの頬をつかんで、顔を覗きこんできた。
「マイン、その顔……ちゃんと聞いてるふりして、言うこと聞く気ないだろ?」
何故バレたし!?
びくっとしながら頬を押さえてルッツを見上げるわたしを見て、ベンノとマルクが視線を交わしあって頷きあう。
この日以降、ルッツは「マイン係」として、ベンノの店で重宝されるようになった。