Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (322)
お母様とハルデンツェルの印刷業
「では、急いで着替えましょうか。エルヴィーラ様がお待ちですから」
寒くないように色々と着込んでいたわたしは、城の中で動きやすいように着替えさせてもらう。そして、お母様へのお土産が入った箱を持って、オティーリエが準備してくれていた部屋へと向かう。
今日はお母様と余所に出してはいけない本の話をするので、側仕えとしてついているのは、オティーリエだけで、護衛はアンゲリカだけになった。
リヒャルダはお部屋で、わたしが神殿から持ち帰った荷物の片付けしなければならない。ヒルシュールから預かった荷物をわたしが管理するように、と神官長が言ったせいだ。
「リヒャルダ、こちらが処理済で、こちらが未処理の荷物だそうです」
「大丈夫ですよ、姫様。札が付いているのでわかります」
オティーリエはお母様と仲が良く、個人的によく会っているお友達なのだそうだ。わたしが城に上がることになった時に、オティーリエに側仕えを頼んでくれたのはお母様だったらしい。
「お待たせいたしました」
わたしが席に着くと、「ご家族に甘える時間も必要だろうと許可をいただきましたから、態度を崩されても構いませんよ」とオティーリエが教えてくれた。
準備されたお茶とお菓子を一口ずつ口にして見せ、お茶を味わったところで、本題へと入ることになる。目が合うと、くすりと笑ったお母様が漆黒の目をキラキラと輝かせた。
「ローゼマイン、わたくしの本は読みまして?」
「いいえ、まだ全ては読めておりません。騎士物語のお話を一つだけです。城にいる日が丸一日もありませんでしたし、部屋でしか開いてはならないとお手紙にありましたから」
ちゃんと約束は守っているのですよ、とわたしはお母様にアピールしておく。お母様は満足そうに頷いた。
「手紙に書かれていることをきちんと守ってくれているならば、それで良いのです。外に出してはならない本ですからね」
「一応どのような内容か、パラパラとは見ましたけれど……良い絵師を見つけたのですね。挿絵がすごかったです」
……神官長が三割り増しキラキラで。
わたしが心の声を隠しながらそう言うと、お母様は嬉しそうに顔を輝かせた。
「ふふっ、そうでしょう? わたくしが注文したのです。やはり、恋物語には麗しい絵が合いますから」
わたしが騎士物語で神官長をモデルにしたイラストをヴィルマに描いてもらったことで、恋愛系の話ばかりを集めた騎士物語を作る気になったらしい。
「でも、お母様が作られた本は、フェルディナンド様から隠さなければならないので、広くは売れませんよね? 収益が低くなると思うのですけれど、ギーベ・ハルデンツェルは許可を出してくださったのですか?」
「ローゼマインに贈った本はわたくしのお友達に特別にお譲りするための本で、お兄様に見せて、ハルデンツェルの本として売り出したのは、別の絵師に挿絵を書かせておりますから、全く問題ございません」
……内容は同じで、イラスト違いか。ギル達、もしかして、ものすごく面倒な仕事を緊急で頼まれたんじゃ?
最初の印刷はお母様との意見調節のため、ローゼマイン工房で引き受けたはずだ。痕跡を全く残さずに、失敗作も何もかも全て引き取って行かれた、と報告を受けたが、二種類の挿絵があって苦労したとは聞いていない。
「工房からの報告でも二種類の挿絵があったという報告は受けておりませんわ」
「決して他に漏らしてはならない、とわたくしがプランタン商会に申し付けたのです。どこまで守れるかと思っていたのですけれど、ローゼマイン工房の者は優秀ですわね」
プランタン商会が顧客の秘密をしっかり守れるところは確認していたが、神殿にある工房の者が神官長に報告せず、どの程度の秘密が守れるのかわからなかったけれど安心した、とお母様が言う。
「フェルディナンド様に知られたら、ハルデンツェルの印刷業が頓挫するかもしれませんし、そうなったら、わたくし、お兄様にひどく叱られますわ」
挿絵が神官長ではない本が、そこそこイイ感じに売れていて、ギーベ・ハルデンツェルはこのまま印刷業を推し進めていくつもりなのだそうだ。
「わたくし、次はフェルディナンド様の貴族院時代のお話を書きたいと思っているのです。けれど、挿絵を変えたところで、目を通されてしまうと気付かれるのではないかと思うと、踏み出せなくて……」
「それは、さすがに気付かれると思いますよ。危険すぎます」
貴族院時代の神官長伝説は驚くようなエピソードがたくさんある。だが、それを本にまとめると、間違いなく神官長にバレる。
「フェルディナンド様については、貴族院でも話題になったことがございます。お茶会での話題に上ることもあるでしょうし、逆に、話題にすることを嫌がる方もいるかもしれませんから、情報を集めさせたのですけれど……ご覧になりますか?」
わたしは「お母様へのお土産です」と持ってきた箱をオティーリエに出してもらった。この中には皆が集めてきた神官長伝説を、ローデリヒが一生懸命にまとめたものが入っている。
お母様は「まぁ! なんて素敵なお土産でしょう」と嬉しそうに箱の中身を取り出して、次々と目を通していく。
……わたしもお母様の本が読みたいなぁ。神官長の挿絵じゃなくていいから。
お母様は本当に神官長情報が好きなようで、「あら、素材採集はこんなふうに語られているのですね?」「一番重要な恋物語が入っていないではありませんか」と一々コメントを付けながら情報を吟味して、自分が知っていた話と知らなかった話に手早く手元の情報を分けていく。
「わたくしが知っているフェルディナンド様のお話はエックハルトから見た情報ばかりだったので、こうして他領で語られているお話を知るのも楽しいものですわね」
神官長が在学していた頃から時間が経過していること、人伝に語られているので、程よく誇大されていて、お話のネタにするにはちょうど良いらしい。
「こちらをまとめたのがローデリヒという一年生なのです」
「ローデリヒ……旧ヴェローニカ派で、狩猟大会の折、ヴィルフリート様を陥れた中級貴族の子ですわね」
「よくご存知ですね、お母様」
「危険な存在を覚えておかなくてどうします?」
「……親に言い含められただけでローデリヒに悪意はなかったのです」
「えぇ、そうでしょう。けれど、一番怖いのはそのように悪意なく不利益を運んでくる相手なのですよ。明確な敵、悪意があることを悟らせてくれる相手であれば、警戒は容易ですからね」
お母様は困ったような、聞き分けのない子に言い聞かせるような顔で語る。
「こちらの勢力が大きくなり、利があることを悟れば、自然と中級貴族や下級貴族は集まってまいります。我が身を守るため、少しでも優勢な方につこうとするのが彼らなりの処世術ですからね。その生き方を非難するつもりはありませんけれど、その分、信用も置けません」
身分の違いで扱いが大きく変わることから考えても、長い物には巻かれておくのが、安全な生き方なのだ。旗頭とならなければならない領主一族や上級貴族とは考え方が違うのだそうだ。
「ローゼマイン、貴女は利害よりも感情を優先させて物事を判断することがとても多いです。自分が気に入った下級貴族を側近に置いて、勢力図の変更で裏切りに遭うのではないか、わたくしにはそれが心配でなりません」
「裏切りだなんて……ダームエルもフィリーネもよく仕えてくれています」
二人ともそういうタイプではない。特にダームエルなんて、命懸けでわたしを守ってくれた護衛騎士だ。裏切るタイプならば、とっくにわたしはこの世にいない。
わたしがふるふると頭を振ると、お母様は「知っています」と頷いた。
「ダームエルとフィリーネの忠誠心は本物でしょう。そう判断できるだけの材料をわたくしは持っておりますから」
「え?」
貴族院に入ってから側近に任じたフィリーネの忠誠心を本物と言えるだけの材料を持っていると言われ、わたしが目を丸くすると、お母様がニッコリと笑う。
「わたくしの情報網を甘く見てはなりませんよ」
「ローゼマイン様、エルヴィーラ様は優秀な文官だったのですよ」
オティーリエがそう言って笑いながら、お母様と視線を交わす。
わたし自身が貴族院で文官見習い達が奮闘している様子を見て、集まってくる情報の整理をしたことで、今更ながら、お茶会が情報収集の場で、色々なところから色々な情報を集めて来られるお母様の優秀さを思い知った。
「ローゼマイン、貴女がよほど粗雑な扱いをしない限り、ダームエルやフィリーネの忠誠心が揺らぐことはないでしょう。ですが、それが他の中級貴族や下級貴族に通じると思ってはなりません」
「……わかりました」
お母様の食いつきが一番良い神官長伝説でローデリヒの頑張りを認めてもらって、側近にしたかったのだが、簡単に信用して側近に入れるな、と釘を刺されてしまった。
「それに、報酬は同派閥の六割から少しずつ上げていくのが妥当なところですよ、ローゼマイン」
「え?」
「敵対する派閥の者にもきちんと報酬を出す公平性を見せつつ、自分の派閥の者は優遇し、味方に付いた方が良いと思わせなければ、自分の派閥に取り込みはできません。味方も敵も扱いが同じでは、派閥に属する意味がないのです。それに、敵対派閥の者と同列に扱われれば、普通は良い気がしません。貴女は派閥に関する認識が甘いのでしょうけれど、そういうものだと覚えておかなければ、味方に不満を抱かせることになります」
「……はい」
貴族院でのわたしの言動がどこからどれだけ流れているのだろうか。養父様からも神官長からもこのようなお説教はなかった。
「貴女が神殿に移動してから、リヒャルダの報告が上がったのですよ。寮監のヒルシュールがほとんど不在で当てにならない以上、寮の管理人をもう一人置くか否かという話が上がっています」
「管理人、ですか?」
これまで他領からあまり関心を抱かれなかったエーレンフェストなので、流行を発信しようと思っても、お茶会に招かれることがないので、一年目はそれほど広がらないだろう、と予想されていたらしい。
ところが、わたしのせいで、王族や上位の領主候補生、先生方と貴族院で最も影響力のあるところと予想外の関係が生まれてしまった。領主会議でエーレンフェストがどこと繋がりを持つか考えるためには情報が必要だが、シュバルツとヴァイスの研究を始めてしまった寮監は全く当てにならない。
「そのため、貴族院の様子と貴女の行いを詳細に報告できる者が必要ではないかという意見が出ました。フェルディナンド様から」
……これが神官長の言ってた「少しひどい計画」!? つまり、わたし用の管理人って意味だよね!? 少しじゃなくて、とてもじゃない!?
のおおぉぉ、と頭を抱えているわたしの前で、お母様はローデリヒのまとめた神官長伝説へと視線を落とし、ほぅ、と溜息を吐いた。
「それにしても、貴族院ではこれほどフェルディナンド様の情報が残っておりますのね。驚きましたわ」
「えぇ、わたくしも驚きました。情報を集めてきた者達によると、エーレンフェストより、他領の方がよく知っているような状態だったようです」
神殿に入ってしまった神官長について、語られることは少なく、今貴族院に在学している者が初めて知るような神官長伝説がわさわさと出てきたのだ。エーレンフェスト寮では、半分以上が誇張か別人の話だろうと言われている。
わたしも真偽が判別できないので、どうでしょうね、と流しておいた。
「どうしてこれだけ情報量に隔たりがあるのでしょう?」
「フェルディナンド様の成績が良すぎたため、ヴェローニカ様のお怒りを買って、エーレンフェストでは誰もが口に出さなかったのですよ」
お母様が悲しげに目を伏せてそう言った。
愛人の子とはいえ、神官長は領主の子として洗礼式を受けた領主候補生だ。神官長が貴族院に在学し、成績優秀者として不動の地位を得る高学年に進んだ頃には、ヴェローニカの娘二人はすでに他領へ嫁に出ていた。
エーレンフェストに残る領主候補生は二人だけだ。ジルヴェスターに何かあれば、自動的に神官長が次期領主の座に着くことになる。それでなくても、他領に名を轟かせるほどの優秀な成績で、ジルヴェスターにいまいちやる気がなく、補佐として仕事の半分以上を任せている状況を見れば、危機感はいや増しただろう。
「洗礼式の頃からずっとフェルディナンド様への当たりが厳しい方でした。ですが、貴族院の最終学年、先代領主が病に伏してからと、優秀さを示すほど、当たりがどんどんとひどくなっていきました。周囲の者も手が付けられない有様でした。それで、ジルヴェスター様が神殿へと逃れるように勧められたのです」
そういえば、以前、父親が亡くなる少し前に神殿に入ったので、葬儀には親族として参加できなかったと聞いたことがある。わたしは親の死に目にあえなかった神官長のことを考えると、ヴェローニカの仕打ちがあまりにもひどいものにしか思えない。
「もう少し城にいられれば、親の死に目にあえたかもしれなかったのですよね。そう考えると、フェルディナンド様がお気の毒でなりません」
「……おそらく、あえたと思いますよ。フェルディナンド様が神殿へと入られて少したってから、正式に公表されたので、実際にはもう少し前にはるか高みへ向かわれたはずですから」
領主の葬儀は、領主会議の後で行われるらしい。領主会議で報告がされて、次期領主が承認されて、領地に戻ってから葬儀なのだそうだ。近隣の領主や貴族がやってくるため、余裕を持って行われるらしい。それまでは、時を止める魔術を使って、遺体を保存しておくのだそうだ。
そのため、実際の死亡日と公にされる死亡日には違いがあるらしい。公には死に目にあえていないことになっていても、実際はあえたのではないか、とお母様は言った。
……本当にそうならば、良いのだけれど。
「今はフェルディナンド様が人目を憚ることなく活躍されていらっしゃいます。それだけでわたくしは十分ですわ」
「……お母様はどうしてフェルディナンド様にそこまで入れ込むのですか? 今はともかく、以前は表立って味方をするのも大変だったのではありませんか?」
それだけ疎まれていたのならば、神官長の味方をするだけで間違いなくヴェローニカに睨まれたはずだ。困ったわ、と頬に手を当てて首を傾げるお母様の代わりにオティーリエが悲しげに目を伏せた。
「エルヴィーラ様もヴェローニカ様に疎まれていらっしゃいましたからね」
「え?」
「別に秘密でも何でもないのですけれど、わたくしのお母様がヴェローニカ様にとって、異母姉に当たる方だったのです」
「異母姉、ですか?」
貴族の名前を覚えるために準備されていた資料は一覧表で、見たことがある家系図はお父様の家系を中心にした物だったので、お母様の家系がどういうものかは全く知らなかった。
「ヴェローニカ様の異母兄弟というと、ものすごく疎まれていたと伺ったことがあるのですけれど……」
前神殿長も異母兄弟とは死後の荷物の引き取りも拒否されるほどの確執があったはずだ。まさかそれがお母様の親族だったとは思わなかった。
「先々代領主の弟、わたくしのおじい様に当たる方にアーレンスバッハの姫君が嫁いでくることになったのが、今の騒動の最初の原因と言えるでしょう」
アーレンスバッハの領主候補生としては魔力が低かった姫君は、領地対抗戦の観戦にやってきた先々代の弟に優しくされて惚れ込んだらしい。エーレンフェストのような影響力の低い領地ならば、魔力の低いアーレンスバッハの姫でもありがたがってくれるだろう、と父親の権力にすがって、輿入れしてきたそうだ。すでに第一夫人で二人の子がいたお母様のおばあ様を第二夫人へと押し退ける形で。
領内でも最大の勢力を誇るライゼガング伯爵の娘を第二夫人へと落とすことになり、騒動が起こるのを懸念した当時の領主は、先々代の弟を次期領主の候補から外したそうだ。そして、ボニファティウスおじい様のお父様を先々代として就任させ、ライゼガング伯爵家からボニファティウスおじい様へ娘を輿入れさせることで伯爵の不満を押さえたらしい。
そんな状態で嫁いできたアーレンスバッハの姫君は三人の子を為したものの、「このような田舎では住みにくい」とずっとアーレンスバッハに帰りたがっていたそうだ。
……家系図を描いてみたけど、複雑すぎて頭がこんがらがってきた。血縁関係がぐっちゃぐっちゃだよ。
そして、姫君は三人目の子を為した後、産後の肥立ちが悪く、幼い子供を残して亡くなってしまい、第二夫人に押しやられていたお母様のおばあ様が第一夫人に返り咲くことになった。
残された一人目の子は男で、全ての子の中で最も魔力が高いため、跡取りとして養育されることになった。二人目の子がヴェローニカで、エーレンフェストでは群を抜く魔力の豊富さから、次期領主の第一夫人となれるように教育を施されることになった。
体調が悪い中、姫が無理をして生んだ三人目の子は魔力が低すぎた。母方の親族であるアーレンスバッハに後ろ盾や引き取りを頼めるわけもなく、神殿へと送られることになったそうだ。
そして、数年後、一人目の男の子が亡くなったことで、ヴェローニカは神殿に送られてしまった同母の弟と頻繁に連絡を取り、溺愛して、依存して育つことになったらしい。
「興入れすることで、領主夫人となったヴェローニカ様は異母兄弟に嫌がらせをするようになりました。年上の兄姉よりは、その子供である甥や姪の方が標的にしやすかったのでしょう。わたくしや兄は様々なやり方で厳しく当たられました」
ギーベ・ハルデンツェルの子であるため、普段はそれほどあからさまではなかったけれど、女性ばかりのお茶会に誘われると、何とも言えない嫌がらせが多かったらしい。
「おじい様はその状態を憂い、わたくしをカルステッド様と婚約させることで孤立から守ろうとしてくださったのです」
だからこそ、お母様はヴェローニカに疎まれている者ばかりで集まる派閥を作り、フレーベルタークから嫁いできて、ヴェローニカにいびられるフロレンツィアを擁護し、愛人の子として迫害されるフェルディナンドを庇おうと奮闘したのだそうだ。
「先代が高みに上られてからは、お兄様が治めるハルデンツェルへの対応が厳しくなりました。ハルデンツェルはエーレンフェストの中でも北にあるでしょう? この辺りよりもずっと冬が厳しいのです。税が高くなるとそれが民の生死に関わります」
領地全体がカツカツ状態なので、どうしてもハルデンツェルだけを免除するわけには行かない。全体への税が引き上げられる中、ハルデンツェルのダメージは他より大きかったらしい。
「ローゼマインのおかげで、お兄様は助かったと申しておりましたよ」
たっぷりと魔力の満ちた小聖杯が届くようになり、嫌がらせをしてきたヴェローニカが退けられ、養母様とお母様が率いる派閥が最大派閥となったことで、ハルデンツェルは息を吹き返したのだそうだ。
「それに、お兄様は半信半疑だった本が予想以上に売れました。お兄様はもっとハルデンツェルで印刷を広げたいとお考えなのです」
「それはとても嬉しいですね」
ただ、印刷には当然のことだが、紙が必要だ。そして、本来ならば植物紙工房も同時に作る予定だったけれど、わたしが眠りについたことで植物紙の工房は新しく作れていないらしい。
これはイルクナーの成功を知って、こぞって製紙業に手を伸ばしたがった他のギーベ達も同じなのだそうだ。
「それに、販売についても契約魔術で縛られているのでしょう?」
わたしが結んだ商人の契約魔術は、エーレンフェストの街だけの契約だが、本を買うような貴族がいるのは貴族街のあるエーレンフェストだし、わたしが起きるまでは他領に印刷物を広げることを領主によって禁じられていた。
契約魔術の範囲は曖昧だが、何が抵触するかわからない以上、プランタン商会を通じて売るしかない。本の数が少ない今はともかく、これから先ずっとこの状態では困る。そのためにも契約魔術の解消が求められているそうだ。
それを聞いて、わたしは思わず膝の上でぎゅっと拳を握った。
「ローゼマイン、貴女はとても良い人の縁に守られていたようですね」
「え?」
「プランタン商会は、お兄様がいくら問い質しても、詳しい契約内容はアウブ・エーレンフェストに問い合わせてほしい、と頑なでした」
上級貴族に囲まれても、ベンノはわたしの過去が明らかになるかもしれない契約内容を口にはしなかったそうだ。
「神殿で過ごしていた時期のローゼマインと結んだもので、その時のローゼマインを守るために必要だったそうですね」
「……はい」
貴族街に連れ去られるようなことがあっても、少しでも関係が残るように、顔を合わせる機会を作るためにベンノが必死に考えてくれた。そして、自分の身が危険になるかもしれないことを覚悟してルッツが結んでくれた契約魔術だ。
「ですが、貴女を守るためにはもうその契約では小さすぎるでしょう。本や印刷を広げていくために、今の貴女にあった新しい契約が必要なのではありませんか?」
「……新しい契約ですか?」
「そうです。契約がなくなっても、プランタン商会との関係が変わるわけではありません。今の貴女に合わせた新しい契約を結んではいかが?」
契約が変わったところで、繋がりが切れるわけではない。新しい契約を結び直せばいい。
それはお母様の言う通りだ。
……でも、それはもうマインとルッツの契約じゃないんだよ。
誰にも言えない言葉の代わりに、わたしはそっと息を吐いた。