Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (323)
冬の社交
城の子供部屋の様子を見て、ゆっくりするつもりだったが、そんな余裕はない日々が始まった。
リヒャルダとオティーリエ、そして、後見人である神官長が必死に分けなければならないくらい大量の面会依頼があり、そのどれもこれもが印刷業や製紙業に関わりたい貴族からの依頼である。
会っても良い貴族の判別を神官長達に任せ、わたしはお母様に引っ張られるまま、養母様やシャルロッテと一緒にお茶会に出ることになる。
そこでも印刷について尋ねられ、魔力圧縮について尋ねられ、夫や一族の売り込みが来て、目が回りそうだった。
そして、今回初めて知ったことだが、お茶会の後にはお母様と養母様が反省会をしていたようで、わたしとシャルロッテも情報収集の勉強のために参加することになった。
お茶会で飛び交っていた話題や噂を確認し合い、詳しく知りたいことについてまとめていく。
「ローゼマイン、シャルロッテ、誰のどんなお話が気になりました?」
「わたくしはお姉様の話題が多いことに驚きましたわ。去年とはずいぶん雰囲気が違いますし……」
シャルロッテはそう答えたけれど、わたしは養母様に尋ねられても、すぐには答えられない。まだ同席した貴族の顔と名前が一致しないくらいだ。
「お顔とお名前が一致しないので、詳しくは述べられませんけれど、魔力圧縮の方法はずいぶんと話題になっているのですね。かなりの希望者がいるようですけれど、調整はされているのでしょうか?」
「えぇ、後はローゼマインの承認があれば良い状態になっている者が何人もいますよ。ヴィルフリートや側近達の貴族院での行いはどうだったかしら?」
養母様はやはりヴィルフリートのことが心配なのだろう。頑張って寮内をまとめようと奮闘していたことを告げておく。
「ヴィルフリート兄様に関しては、アーレンスバッハとフレーベルタークの領主候補生とのお茶会がどのようになるのかが、大きな分かれ目になると思っています」
「心配だわ。ディートリンデと言ったかしら? アーレンスバッハの領主候補生はゲオルギーネ様によく似た面差しで金髪に緑の瞳なのでしょう? つまり、あの子を可愛がっていたヴェローニカ様によく似ているということですもの」
「そうなのですか?」
わたしはヴェローニカに会ったことがないので知らなかったが、金髪に緑の瞳らしい。ディートリンデとの初対面でヴィルフリートが見せた懐かしそうな表情を思い出すと、養母様の言う通り不安が大きくなってくる。
「きっと大丈夫ですよ。話題についての話し合いもしましたし、フェルディナンド様にも質問書を書いてやり取りできるようになってきたみたいですから」
わたしがそう言って養母様を慰めると、今度はお母様が悩ましげな溜息を吐いた。
「わたくしが心配なのはランプレヒトのことですわ。アーレンスバッハの上級貴族との結婚許可が下りなかったでしょう? 領地間の関係で仕方がなかったこととはいえ、その件でヴィルフリート様が責められていなければ良いのですけれど」
ランプレヒト兄様が貴族院に在学している時分はヴェローニカが健在で、アーレンスバッハとの交流が推奨されていたそうだ。時世の流れが変わることは珍しくないし、領主からの許可が下りなかったというのは、領地を跨ぐ交際では最も穏便な断り方であるらしい。心変わりしたわけではない、と相手に納得させるためには、誠意を尽くしておくことが必須なのだそうだけれど。
「アーレンスバッハはエーレンフェストより格が上ですし、彼女のご両親がランプレヒトとのお付き合いを快く思っていないと伺っていたので、アーレンスバッハが食い下がってきたことに驚きましたもの。次の領主会議は荒れそうですね」
「フレーベルタークのお兄様方も協力を要請してくるでしょうから、今から対策を練っておかなければなりませんね」
「領地間の取引に関する話し合いもあるでしょう? ローゼマインが交流を持った王族に上位領地……情報が足りなすぎますわ」
……ごめんね。エーレンフェストにそこまで情報がないと思ってなかったし、流行を広げろって言われたから、広げただけなんだよ。
「けれど、お姉様が目覚められて、魔力圧縮や印刷業に関する話が進むことがわかったせいでしょうか、去年よりも派閥の勢いが一気に強くなった気がいたします」
「シャルロッテの言う通りです。こちらの派閥に入らなければ、魔力圧縮について知ることができないため、中級貴族や下級貴族が次々に派閥に入ろうと集まっています」
わたしは去年を知らないので比較できないが、グッと派閥の勢力が大きくなっているらしい。
「味方に付く旨味を上手に見せることが大事なのですよ、ローゼマイン」
お母様がそう言ってニッコリと笑う。
こうして、お誘いを受ける女のお茶会で揉まれながら、情報収集とその整理、更に詳しい情報を集めるための文官への指示の出し方を教えられた。シャルロッテも来年は貴族院で同じようにしなければならない、と言われ、真面目な顔で聴き入っている。わたしも姉として負けられないと、奮起する。
「ローゼマイン、貴族院のお茶会でもできるだけたくさんの情報を得て、このように報告してちょうだい。領主会議までにできるだけたくさんの情報が欲しいのです」
「……わたくしが戻るのは、領地対抗戦の寸前だと伺っておりますけれど、お茶会をする余裕があるのでしょうか?」
神官長はわたしの社交スキルが低いので、ギリギリまで貴族院には戻さないと言っていた。領地対抗戦は学年の終わり際にあるので、悠長にお茶会をしている余裕はないと思う。
「領地対抗戦の準備のためにも、ローゼマインは早目に戻した方が良いのではなくて?」
「……フェルディナンド様が難色を示していらっしゃったけれど、大丈夫かしら?」
お母様達が顔を見合わせて、同時にこめかみを押さえた。わたしの扱いに悩んでいる姿に、心の中でしっかり謝っておいた。
……貴族の常識がない子でごめんね。次はうまくやるから!
お母様に教えてもらった通り頑張るんだ、と拳を握った途端、頭の隅で「君が張り切ると碌なことがない」という神官長の声が聞こえた気がした。
そして、神官長から許可の下りた貴族との面会も始まる。製紙業の工房開設の許可を求める貴族が多いとは聞いていたけれど、実際に開設できる数は限られる。教師役として派遣できる人員がそう多くないせいだ。
「ローゼマイン、春から秋の間にどれだけの工房を作ることができる?」
面会依頼の手紙の選別をある程度終えたらしい神官長に呼び出され、わたしは工房を増やすための質問を受けた。
「印刷工房に関しては、エーレンフェストで印刷機の部品を全て作った上で、グーテンベルク達を移動させて、設置し、技術供与をしなければならないので、今年は無理だと思います。春にはハルデンツェルへ向かうことになっていますし、グーテンベルクに新しい印刷機を作るための依頼をしていませんから」
「ふむ」
印刷工房に関しては、これから作っていく順番を決めて、ハルデンツェルと同じように、事前にその土地で話し合い、鍛冶工房や木工工房、商業ギルドでの受け入れ準備を整えてもらっておかなければ、どうしようもない。今年できるのは、向かう順番を決めるくらいだ。
「事前準備に必要なことに関しては、ギーベ・ハルデンツェルかプランタン商会に聞かなければ詳しいことがわからないので、印刷工房を作りたい貴族は後回しで、先に製紙工房を作りたい貴族と面会したいです」
「そちらは数が限られていないのか?」
「限られています。場合によって、数は変わりますけれど」
製紙工房を作るためには、その土地にエーレンフェスト紙協会を作るためにもプランタン商会から一人は絶対に派遣しなければならないし、実際の工程を作ってみせる教師役も必要だ。プランタン商会から出せる人数はそれほど多くないし、教師役として出せる灰色神官も多くない。ハッセやイルクナーの工房から人員を出してもらっても、一年に3つの領地に工房を開設するしかできないだろう。
「ただ、イルクナーのように一年かけてじっくりと腰を据えて特産品を作るのではなく、すでにある比率で紙の作り方を教えるだけならば、もう少し数が増やせるとは思いますけれど、プランタン商会と教師役の移動を考えると、それほど多くは増やせません」
その土地にある素材で新しい紙を作ろうと思えば、ものすごく時間がかかるけれど、今ある比率と作り方を教えるだけならば、それほど大変ではないだろう。ただ、余所の差別化のためには特産品が欲しい貴族が多いのではないだろうか。
「研究など各自でさせればよい」
その方が楽しいではないか、と言いたげな神官長にわたしは肩を竦めて見せた。
……マッドサイエンティストには理解できないかもしれないけれど、皆が研究好きとは限らないんですよね。
「君の言い分は理解した。早急に工房を増やすために、イルクナーからも教師役が出せるかどうか尋ねてみよう。これが最優先だな」
神官長の一言で、ギーベ・イルクナーとの面会が組まれることになった。
ギーベ・イルクナーとの面会が決まった時点で、わたしはダームエルと話をすることにした。盗聴防止の魔術具を借りて、周囲に側仕えや他の護衛騎士がいる中、ダームエルと向き合う。
「ダームエル、ブリギッテと会うのが辛いならば、今日は護衛のお仕事をお休みにしても良いですよ?」
「……仕事はします」
「大丈夫なのですか? その、未練とか、あるのではありませんか?」
ブリギッテの名前に顔が強張ったのを見て、わたしが尋ねると、ダームエルは軽く目を見開いた。
「ローゼマイン様、そんな言葉を一体どこで!?……女性方のお茶会は怖いですね。ハァ」
別にお茶会で知ったわけではないのだが、ダームエルが納得しているので、それで良い。わたしがダームエルの言葉を待っていると、困りきった顔でダームエルが口を開いた。
「未練というよりも、後悔があります」
「後悔ですか?」
「私があまりにも考えなしだったせいで、ブリギッテに恥をかかせてしまったのです。それを後悔しています」
ダームエルの口から聞く言葉は神官長から聞いた簡単な報告とは全く違う事情があるように聞こえた。
「身分が違うから、二人の結婚は難しかったとフェルディナンド様から伺いましたけれど、わたくしにはまだよくわからないのです。何がどう難しいのですか?」
「私も兄上に叱られるまでよくわかっていませんでした。上層部と周囲の見方が違うことをよく認識できていなかったのです」
ダームエルはあくまで護衛騎士を続け、ブリギッテと結婚してからも貴族街で暮らすつもりだった。わたしに失態を庇われ、引き上げてもらった以上、わたしからの解任がない限り、仕え続けるのが当然だと思っていた。
けれど、周囲が同じように考えるとは限らない。
ダームエルの兄のヘンリックからすれば、イルクナーへ行かなかったのは、下級貴族である自分達が土地持ちの中級貴族と縁続きになれる神憑り的幸運を自ら手放した愚かな行為にしか見えなかったらしい。
「兄上には、ブリギッテ嬢を娶るつもりだった? 何と無謀な……。土地持ち中級貴族の令嬢を満足させるだけの生活がダームエルに準備できると思っていたのか? と言われました。私がイルクナーへ婿に行くならば、私が中級貴族になりますが、ブリギッテが私の嫁となれば、ブリギッテが下級貴族となるのです」
ダームエルは自分が下級貴族だったので、ブリギッテが下級貴族になることに関して特に何も思わなかったが、ヘンリックは一々例を挙げて説明してくれたそうだ。
中級貴族から下級貴族へとなれば、これまで対等に付き合っていた友達だけではなく、家族や親族も、それまで繋がりがあった全ての者は身分が上の貴族となる。ブリギッテは下級貴族としての社交を覚えなおさなければならないし、生まれた子供も下級貴族として扱われる。
「……それは、ブリギッテへの負担が大きいですね」
それまで対等だった家族との間に身分差ができるという状況を思い浮かべて、わたしは唇を噛んだ。自分の前に家族が跪き、丁寧な言葉を使って、別人に対するように別れの言葉を告げられたあの時を思い出す。
「それにイルクナーはブリギッテの婚約解消を発端にして、元婚約者からの嫌がらせがあり、共にイルクナーを支えてくれる代官となれる下級貴族が当時はほとんどいない状態だったそうです。ギーベ・イルクナー自ら土地を飛び回っている状態だと聞きましたが、私にはそれがどのような状況なのか、よくわかっていませんでした」
神殿と騎士寮を往復して、実家に寄ることさえなかったダームエルは知らなくても、文官であるヘンリックにとってはよく知っている有名な話で、結婚を機にブリギッテがイルクナーへ戻り、兄を支えようとするのは当然だと見なされていたらしい。
「家族に相談することも容易にはできない状態で、ブリギッテ嬢が貴族街で下級貴族として生活できると思っているのか? ダームエルが護衛騎士を辞めて婿入りするのが普通だろう? と言われ、私はブリギッテの生活がどのように変わるのか、全く考えていなかったことに気付いたのです」
護衛騎士は誇らしい役職だが、下級騎士であるダームエルには過分な地位でもある。実際、ダームエルはわたしから魔力圧縮について教えてもらい、魔力を伸ばしていることで妬まれているそうで、中級騎士や上級騎士と入れ替えた方が良いという意見は出ているらしい。
「神殿時代からローゼマイン様を知っているので、私が護衛騎士から外されることはまずないのですが、本当に限られた者しかそのような事情を知りません。兄はもちろん、ブリギッテも知らなかったのですから、求婚した時点で私の婿入りを当然のことと考えていたのだと思います」
それぞれにとっての当然が、あまりにも違いすぎた、とダームエルが項垂れた。
「……身分違いとは、これほど大変なことなのですね。お互いに好きだと思っていれば、何とかなるものだと思っていました」
「お恥ずかしながら、私もです。魔力さえ釣り合えば何となると思っていました。考えが足りなかったことを後悔しています。こちらから結婚を申し込んでおきながら、私がイルクナーへは行けない、とお断りしたわけですから」
……なんと! 振ったのはダームエルだったのか。ごめんね。てっきりブリギッテに振られたとばかり思ってたよ。
「ダームエルにもその内に似合う人が現れますよ」
「ローゼマイン様の魔力圧縮でブリギッテに求婚できるほど魔力が伸びて、下級貴族で魔力の釣り合いそうな女性がほとんどいないのですが、それでもそうおっしゃいますか?」
じとーっとした目で見られて、わたしはそっと視線を逸らす。
「え?……え、えーと、これからは魔力圧縮で魔力の増えた下級貴族も出てくるはずです。若くて可愛い女の子に騒がれます。大丈夫です。……きっと」
「……相手が若すぎますよ。ローゼマイン様の同年代が適齢期になる頃には、私は二十台半ばです」
カクンと項垂れるダームエルだが、貴族ならばそれくらいの年の差は珍しくないと聞いている。頑張れば大丈夫だ。頑張るのは、ダームエルだけれど。
「その頃までには魔力を高めて、お金も貯めて、大人の男の魅力で何とか……してください。わたくしは精一杯応援します」
「放置ですか!? ブリギッテに良縁を見つけたように、私にもどなたか紹介してくれるのではないのですか!?」
お母様にお願いしてあげましょうか、と尋ねると、ダームエルは「ぜひお願いします」と言っていた。今度、お母様に頼んでみよう。
そして、ギーベ・イルクナーとの面会当日、わたしは神官長や側仕え、ダームエルを含む護衛騎士と一緒に面会用の部屋に入った。
ギーベ・イルクナー夫妻とブリギッテ夫妻が一緒にいるのがわかった。 結婚して奥さんになったせいだろうか、ブリギッテの雰囲気は以前よりずっと柔らかく、女性らしくなっていた。ふわりと浮かんでいる笑みが幸せそうでホッとする。
この中で唯一の初対面であるブリギッテの夫が進み出て、わたしの前に跪いた。
「ローゼマイン様、命の神 エーヴィリーベの厳しき選別を受けた類稀なる出会いに、祝福を祈ることをお許しください」
「許します」
「ブリギッテの夫で、ヴィクトアと申します。お会いできて光栄です」
ヴィクトアは穏やかな物腰で、見るからに文官という雰囲気の人だった。文官が明らかに不足していたイルクナーにとっては必要な人物だろう。ギーベ・イルクナーやブリギッテと並んでいても、雰囲気が綺麗にまとまって見えるので、よく合う人なのだと思う。
……よく見つけてきたな。さすがお母様。
ほぅほぅ、と感心しながらヴィクトアを見ていると、ギーベ・イルクナーの後ろで書字板を構えているのがフォルクであることに気付いた。まさか元灰色神官のフォルクと城で会うことになるとは、これっぽっちも考えていなかったので、驚きに目を見張る。わたしの視線に、フォルクは懐かしそうな嬉しそうな笑みで応えてくれた。
この場でフォルクに話しかけるわけにもいかないので、わたしはブリギッテへと視線を移した。
「ご無沙汰いたしております、ローゼマイン様」
「ブリギッテも元気そうで嬉しく思います」
「ローゼマイン様のお目覚めを待つことができなかったことだけが心残りでございました」
ブリギッテとしては婚約だけをして、わたしの目覚めを待って、わたしの祝福を得て結婚したかったそうだが、なるべく早く結婚して、使える人手をイルクナーへ入れることをお母様に提案されたらしい。
製紙業を始め、ライバルがいない時にできるだけ販路を開拓し、売り込んでおいた方が良い、ハルデンツェルで印刷が始まるまでにイルクナーでできるだけ紙を作ってほしいと言われたそうだ。
「結婚だけはしたものの、新婚生活どころではなく、エルヴィーラ様とプランタン商会から次々と商品の催促が来て、イルクナーでは嬉しい悲鳴を上げていました」
ブリギッテの言葉に、ヴィクトアが表情を緩めて、頷く。
「ローゼマイン様が目覚めて、各地に工房ができるようになると優位性が失われるので、新しい紙の開発にも力を入れております」
「ローゼマイン様の後援と製紙工房のおかげで下級貴族も戻ってきて、領地経営がずいぶんと楽になりました。心からお礼申し上げます」
ギーベ・イルクナー夫妻がそう言って、わたしの前に跪いた。
「イルクナーからローゼマイン様にこちらをお納めしたく存じます。新しい紙でございます。イルクナーではフォリンよりもよく採れる素材、リンファイから作られました。プランタン商会が欲していたロウ原紙になるかもしれません。こちらの分は研究にお使いください」
向こうが透けて見えるような薄い薄い紙を重ねた物が、イルクナー特産のつるりとした硬い紙でぐしゃぐしゃにならないように包まれている。丁寧に開いて、一枚だけを摘まんで持ち上げた。
わたしが寝ている間に、腕前も上がっているようだ。薄い紙の仕上がりに、わたしは笑み崩れていく。
これでロウ原紙ができれば、これまではトロンベ紙を使うしかなかったロウ原紙の値段をグッと下げられるだろう。当然、印刷の価格が下げられる。
……本がちょっと安くなるよ! ばんざーい!
「ありがとう存じます。早速工房でロウ原紙として使用できるかどうか、研究させてみますね」
わたしが頬擦りするように新しい紙を堪能していると、ブリギッテが「ローゼマイン様」と声をかけてきた。
「こちらは役立つかどうかわからない情報なのですけれど、魔木であるナンセーブから作られた紙が、まるで魔術具のようなのです」
「……魔木から紙を作ると、魔木の性質を引き継いでいることがあります。何か発見したのですか?」
トロンベ紙ならば燃えにくい、と例に出しにくかったので、わたしは言葉を濁してブリギッテに問いかけた。
ブリギッテによると、工房では失敗作を破って、煮詰めて、再生紙を作っているそうだ。そんな中、ナンセーブ紙も同じように破ったところ、バラバラになったナンセーブ紙がズリズリと動いて、一番大きな破片のところへ集まってきたらしい。
「わたくしはあまり魔術具や素材には詳しくないのですが、ローゼマイン様やフェルディナンド様ならば、何か使い道が思い浮かぶかもしれないと思ったので、ご報告させていただきました」
「その紙を買おう。今、こちらに持って来ている分はあるか?」
ブリギッテの報告に反応したのは、まだまだ研究熱が冷めきってはいない神官長だった。値段も聞かずに即決である。
「見本のために10枚ほど持参しておりますが、売買に関しては、プランタン商会を通すことになっておりますので、お渡しできるのは春先になります」
「そうか。……プランタン商会は近々アウブ・エーレンフェストに呼ばれることになっている。その時にプランタン商会に交渉しよう。日取りが決まったら、連絡する」
「かしこまりました」
春まで待てないのか、とわたしは思ったけれど、ギーベ・イルクナーはナンセーブ紙が売れることがわかって嬉しいようだ。
神官長が表情を引き締め、ギーベ・イルクナーを見つめた。同時に、ヴィクトアが姿勢を正し、フォルクが書字板と鉄筆を持ち直す。
「ギーベ・イルクナー、ローゼマインが目覚めたため、これからエーレンフェストに製紙業を広げていくことになる」
「承知しております」
「そのため、イルクナーから紙の作り方を教える技術者を3~4名出してほしい」
「それは……とても難しい要求です、フェルディナンド様」
答えたのはギーベ・イルクナーではなく、ヴィクトアだった。イルクナーが製紙を担っていて、要求されている量に対して人手が足りていない状況であることを説明し、わざわざライバルを増やすために協力することに難色を示す。
「ヴィクトア、イルクナーはローゼマイン様から知識と技術の供与を得て、今がある。ローゼマイン様が協力をお望みでしたら、できる限り引き受ける覚悟はございます。詳しくお話を聞かせてください」
「えぇ。製紙工房を作りたいというギーベが増えているのはご存知でしょう? これから印刷業を広げていくためにも、紙は大量に必要になります。印刷機を増やす前に製紙工房を増やさなければなりません。イルクナーに派遣したように、プランタン商会の者とわたくしの工房から灰色神官を派遣する予定ですが、数が足りないのです」
ギーベ・イルクナーとローゼマイン工房を見たことがあるブリギッテが頷いた。いくつもの土地に一度に派遣できるほどの人数はいない。そして、作業を教えるのにどれだけ時間がかかるのかもわかっているはずだ。
「イルクナーから出す教師役が他の土地で教えるのは、フォリンで作る紙の作り方だけです。春から秋の間に数か所回ってもらうつもりですが、一カ所に長期間滞在する予定はありませんし、他の紙の作り方を教える必要はありません」
わたしの言葉に神官長が付け加える。
「これから先の中央との取引を見据え、我々としては製紙工房の数を増やすことを最優先に考えている。それぞれの土地の素材を使って新しい紙を作るならば、それぞれで考えてもらうつもりだ。ヴィクトアが懸念しているイルクナーの優位性はしばらく揺らがないと思われる」
神官長の言葉にヴィクトアの表情が和らいだ。
「一年間ローゼマイン様より灰色神官が派遣されたイルクナーがいかに優遇されていたのか、よくわかりました。これから先のエーレンフェストのため、できるかぎりご協力いたしましょう」
プランタン商会の者が同行する必要があるので、詳しくはナンセーブ紙の買取りの時に話し合うことになった。
……ベンノさん、大丈夫かな?
そんなことを考えていると、扉のところで護衛をしていたダームエルがリヒャルダのところへと表情を厳しくして歩いていく。何か伝言があったようだ。ダームエルの言葉を聞いたリヒャルダが軽く目を見張った後、神官長のところへと向かって歩いてきた。
「会合中、失礼いたします」
「構わぬ。重要な話は終わった」
「冬の主が現れたと騎士団から連絡が入ったようです」
リヒャルダの言葉にザッと音を立てて神官長が立ち上がり、ダームエル以外の護衛騎士達に緊張が走る。
自分が知っている冬の主の討伐を思い返した。お父様にお兄様方、と冬の主との戦いには家族が赴くのだ。少しでも楽になるならば、祝福を与えたい。わたしは神官長を見上げる。
「フェルディナンド様、わたくしの祝福は必要ですか?」
「なくても問題はないが、あると助かる」
「ギーベ・イルクナー、今回の会合は以上とする」
「はい。これ以上お時間を取らせるわけにも参りません。我々は失礼いたします」
ギーベ・イルクナー夫妻が立ち上がる。ヴィクトアが軽くブリギッテの肩を叩いた。
「……険しい顔になっているが、もうブリギッテは騎士ではないだろう?」
「馴染みの深い顔に囲まれたせいで、錯覚してしまったようです」
苦笑気味に指摘するヴィクトアの言葉にハッとしたようで、ブリギッテが恥ずかしげな、そして、寂しげな笑みを浮かべた。
「お邪魔にならないように失礼いたします。皆様のご武運をお祈りしております」
ギーベ・イルクナー達と一緒に歩き出すフォルクの背中に、わたしは思わず声をかける。
「フォルク」
「何でしょう、ローゼマイン様?」
声をかけられるとは思っていなかったようで、フォルクが驚きに満ちた表情で振り返った。
「奥様と仲良くしていますか? フォルクはイルクナーで幸せになれましたか? わたくし、それが気掛かりだったのです」
わたしにとってフォルクは、初めて余所へと買われていった灰色神官だ。それも、労働力としてではなく、結婚相手として見込まれて。
結婚も家庭も知らない灰色神官が進んだ道がどうなったのか、わたしは気になって仕方がない。咎めるような神官長の視線を感じながら、わたしが問いかけると、フォルクはわたしの前に跪いた。
「ローゼマイン様のお言葉を噛みしめ、何事に関しても我慢するのではなく、よく話し合い、譲り合いができるようにカーヤと努力を重ねております。ローゼマイン様が永い眠りにつかれていた間に、子にも恵まれ、私は家族という存在を初めて知りました。毎日の小さな幸せを感じる度に、幸せへの道を示してくださったローゼマイン様に心から感謝しております」
そう述べるフォルクの顔は誇らしげで、主に仕える灰色神官の顔ではなく、家族を支えるお父さんの顔になっていた。