Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (326)
ギーベ・ハルデンツェルとの面会
「もう我慢の限界だったんだよ。今ルッツに散々甘えて元気出たから、また頑張れる。ありがとね」
「ほどほどにしとけ。倒れるぞ」
ルッツが顔をしかめて、ぺちっとわたしの額を叩いた。
まだ魔術具を外すことはできないけれど、意識をなくすような倒れ方をする回数は確実に減っている。わたしはグッと胸を張った。
「ちょっと丈夫になってるはずだから、倒れなくなるよ。そのうち」
「なんだ、その不安にしかならない言葉は!?」
「まだ回復中で、完全には回復していないってだけだから、わたしは大丈夫。トゥーリは? トゥーリは大丈夫そう? すごいお仕事任せることになっちゃったけど」
オットーもベンノも腹が据わった回答をくれたけれど、実際に作るトゥーリは大丈夫なのか。尋ねると、ルッツがトゥーリの口調を真似て、ちょっと高い声を出した。
「いくら何でも急すぎるでしょ! バカバカバカ!……だってさ」
「おおぅ、ごめん、トゥーリ」
「あとは、せっかくの機会だし、絶対にすごいの作るから待ってて、って言ってたぞ」
ぷんすか口では怒りながら、それでも丁寧に作ってくれるトゥーリが目に浮かんで、わたしは頬が緩んでいく。
……やっぱりウチのトゥーリ、マジ天使!
「ルッツ、ルッツ。わたしからもトゥーリに、大好きって伝えて」
「それは嫌だ」
「なんで!?」
即座に拒否されて、わたしが目を瞬くと、ルッツはものすごく苦い顔になった。
「孤児院に行儀作法を習いに来ているうちに、周囲からトゥーリと付き合っているみたいに思われてるんだ。そんな中で、そんな伝言、オレは絶対に言いたくない」
「何よ、ルッツはウチのトゥーリに不満があるの? 噂でも喜べばいいじゃん。だって、トゥーリだよ?」
わたしが唇を尖らせると、ルッツは眉間に皺を刻んで首を振った。
「嫌だ。余計な嫉妬、買いたくねぇよ」
「嫉妬を買うの? やっぱりトゥーリってもてもて? さすがわたしのトゥーリ! 美人になってるでしょ? 会いたいなぁ」
まだ目覚めてからトゥーリの、ウチの家族の顔は一度も見ていない。
「髪飾りができた時には会えるだろ? 手渡しして意見を聞きたい、ってトゥーリは言ってたぞ。後は、カミルがまたおもちゃ欲しい、って」
「それはぜひとも作らなきゃね! どんなおもちゃが良いかな? 新しい絵本もいるよね? そろそろ字を覚えるなら、カルタがいるかな? インゴの工房に板を注文する? それとも、イルクナーの紙を使ってみる?」
孤児院でよちよち歩きの赤ちゃんだったディルクが、採集に向かえそうな子供になっていたのだ。わたしが寝ている間に、カミルも大きくなっているに違いない。
わたしが4歳くらいの子が楽しめそうなおもちゃについて考えていると、ルッツが顔を引きつらせた。
「……ヤバい。もしかして失敗したか? おい、お前が先に考えるのは製紙とか印刷の方だぞ。優先順位だけは間違うなよ」
「えぇ~? カミルが一番じゃダメ?」
「ダメに決まってるだろ!」
「うん、知ってる。言ってみただけ。……こういう掛け合いっていいよね。ホッとする」
へへっと笑っていると、隠し部屋の扉の魔石が光った。向こう側で開こうとしている者の存在があることを教えてくれる。ノックしても音は完全に遮断されるので、来訪者を知らせるために、魔石が光るようになっているのだ。
わたしがルッツから離れて居住まいを整えたのを確認して、ギルが扉を開けるために動きだした。開いた扉の前にいたのは、フランとベンノとマルクだった。
「ローゼマイン様、プランタン商会のベンノ様とマルク様が到着なさいました」
……え? なんで?
思わず首を傾げてしまったわたしを見て、フランが言いにくそうに少しだけ視線を下げる。
「緊急事態のため、プランタン商会を呼びだすように、と神官長のお手紙にあったので、ルッツではなく、プランタン商会に招集をかけたのです。申し訳ございません」
「……そう、ですか。フランのせいではないので、気に病まなくても良いですよ」
わたしはそっとフランに下がるように手で示し、緊急事態と聞いて顔色を変えてやってきたベンノとマルクを見上げた。
「一体何の緊急事態だ!?」
扉が閉まると同時にベンノは唾が飛ぶような勢いで尋ねてくる。その勢いに思わずルッツの後ろに隠れつつ、わたしは正直に答えた。「契約魔術が切れて不安だったところに夢見が悪かったので、ルッツに会いたかった」と。
「こんの……阿呆がっ!」
「ぎゃうっ! いだいいだいっ!」
目を吊り上げたベンノによってルッツの後ろから引っ張り出され、怒りの拳骨で頭を高速ぐりぐりされる。もちろん、怒声付きで止まる気配はない。止めてくれる人もいない。
「城での話し合いがあった翌日の緊急呼び出しだぞ! すわ何事か、と思えば、夢見が悪かった!? 緊急でも何でもないだろうが!」
「精神的にもうダメダメだったんです! 魔力が暴走しそうだったから、神官長も緊急事態だって、連絡したんだもんっ!」
「あ~、そういえば、オレが到着した時は目の色がちょっと変だったもんな」
ルッツの言葉を聞いたベンノが頭をぐりぐりしていた手を止めた。そして、わたしの顔を覗き込み、ほっぺをぐにっと引っ張った上で、疲れ切った溜息を吐く。
「……もう落ち着いたのか? だったら、帰るぞ」
「ちょっと待ってください。お話もしますよ。朝早くから呼びつけておいて、甘えるだけ甘えたらもういいよ、というわけにはいかないでしょ?」
ベンノ達が来ていた謁見の後、養父様の執務室で行われた話し合いについて、ざっと説明する。無茶振りでグーテンベルク達が潰されないように、わたしが文官育成の権利を手に入れたことを報告すると、マルクが「それは助かります」と笑みを濃くした。今すぐに印刷工房を作れ、というお母様との交渉がとても大変だったらしい。
「頑張った? 役に立った? 褒めてください。さぁ!」
うふふん、と胸を張った途端、顔をしかめたベンノからビシッとでこピンを食らった。
「あうちっ!……なんで!?」
「褒めたら調子に乗って、暴走する気がしたからだ」
「そんな! 怒る時は拳骨でぐりぐりして怒るんだから、褒める時はちゃんと褒めてくださいよ! 頑張って痛い思いをするなんて変じゃないですか!」
「あー、わかった、わかった」
よしよし、と棒読みのように言いながら、ベンノがやや力を込めて撫でるのはさっきのでこピン跡だ。地味に痛い。
むぅっと頬を膨らませて「扱いがひどいですよ、ベンノさんっ!」と文句を言うと、ルッツが軽く息を吐いて、肩を竦めた。
「旦那様に文句を言ってるけど、顔がにやけてるぞ。どうせ、こんなやりとりも貴族の間じゃできないから嬉しいんだろ?」
ルッツが笑いながら指摘され、わたしは言葉に詰まる。その通りだ。こんなやりとりが懐かしくて嬉しい。にへっと笑っているとベンノとマルクが呆れたように頭を振った。
「それで、文官の話だが、誰をどう育成するんだ?」
「平民ともある程度話ができる人じゃなきゃ困るんですけど、わたし、仕事を任せられるような貴族の知り合いってほとんどいないんですよね。誰か心当たりありますか?」
わたしが尋ねると、ベンノとルッツが声を揃えて「ユストクス様でいいじゃないか」と言った。ユストクスは仕事が早くて、ハルデンツェルの上級貴族達と違い、プランタン商会の意見を聞いてくれ、話がすんなり通っていたので、わたしが寝ている間も問題なく活動できたらしい。
「それができたらよかったんですけど、ユストクスは神官長の文官なので、貸し出せないって言われたんです」
神官長から許可が下りなかったのが悔やまれる。もう一度頼んでみようか、と考えていると、マルクが軽く手を挙げて発言した。
「貴族の知り合いが多いギルド長の方が、話が通しやすい貴族や人当たりが悪くない貴族を知っていると思われます。急成長を妬まれているプランタン商会が推薦するより角も立たないのではないでしょうか」
そんなことを言って、面倒をギルド長に回すつもりだな、とベンノが苦笑する。適材適所です、とマルクはいつもの笑顔でサラリと流した。
「じゃあ、ギルド長に候補を見繕って欲しいってお願いしてみてください。その中から何人か回してもらえるように養父様にお願いしてみます。それから、これはお母様の提案なんですけど、土地を持っている貴族の代官なら、平民の生活も知っているし、自分の土地を潤すためなら、猛勉強するだろうって言われたんです。ハルデンツェルではどんな感じでした? 話ができそうな貴族っていました?」
わたしはまだハルデンツェルに行ったことがないけれど、ルッツもベンノもグーテンベルク達と一緒にハルデンツェルで活動していたはずだ。代官という人は文官としてどうだったのだろうか。
「……ギーベ・ハルデンツェルに会ったのは、旦那様とダミアンさんだけで、オレ達はその配下の人に町を案内してもらったんだ。あの人は文官だったのかな? ここと違って、多少貴族と平民の交流はあったぞ」
「上級貴族ではなく、中級、いや、下級貴族くらいの代官ならば、まだ話ができるか……?」
イルクナーは代官にできる貴族が不足していたことで、ギーベ・イルクナーが自ら製紙工房にも入ってきて、進度の確認までしていたらしい。イルクナーではかなり好きなように仕事をさせてもらえたが、ハルデンツェルではそうは行かなかったようだ。
「ハルデンツェルは少し祝福が減ると人が住むのも難しくなるような極寒の地で、身を寄せ合うようにして暮らしているところだからな。余所者に厳しいというか、なかなか意見を聞き入れてもらえないというか……。一度受け入れてくれたら、後は早かったんだが」
新しい仕事、新しいやり方を受け入れるのにずいぶんと時間がかかったそうだ。土地柄と言えばそれまでだが、仕事がなかなか進まないことに困ったらしい。
「……春になったら、ハルデンツェルに製紙工房も作るんだろうけどさ……」
ルッツがそう言いながら、うーん、と腕を組んで唸った。
「どうかしたの?」
「ハルデンツェルって、イルクナーに比べると、木が少ないんだよな。紙作りに向いている木があるかどうかもよくわからなかったし、今はエーレンフェストからもイルクナーからも遠いから、紙を買うと高くなるけど、エーレンフェストより北側に製紙工房がいくつかできたら、そこから買うようにした方が良い気がする。後は、できるだけハルデンツェルの南に工房を作るとかさ」
「ふーん、今度ギーベ・ハルデンツェルに提案してみるよ」
「オレ達が提案するよりは、お前が提案した方が聞いてもらえるだろう。頼んだ」
「わかった。それから、ベンノさん。グーテンベルクの滞在期間なんですけど……」
印刷業から家族の話、他に、別に重要でも何でもない話までして、すっきりしたわたしは笑顔でルッツ達と別れて神殿長室へと戻る。
わたしから情報を得た三人も「完全に無駄足じゃなかったから許してやる」と肩を竦めて、プランタン商会へと帰っていった。
「神官長が午後から顔を見せるように、と仰せでした」
神殿長室に戻るなり、ザームがそう言った。神官長もローゼマイン様をご心配していらっしゃるのでしょう、と言われて、わたしは持たされていた革袋を見た。感謝を込めて、この中の魔石は全部金の砂に変えてあげた方がいいのだろうか。
「ローゼマイン様の顔色が戻られたようで、安心いたしました」
「心配をかけてごめんなさいね」
モニカはそう言いながら、昼食の支度を始めている。自分で思っていた以上にルッツ達と話し込んでいたようだ。
昼食の後は、神官長の部屋だ。朝早くから予定を狂わせ、神殿に戻ることになったのだから、怒られるかもしれない。びくびくしながら、わたしは神官長の部屋へと向かう。
眉間に深い皺を刻んだまま、こちらをじろりと見た神官長にわたしはすぐさま謝った。
「神官長、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「まったくだ。……だが、気は済んだようだな」
「おかげさまで、不安要素もなくなって、元気もたっぷり補充しました」
「それは役に立ったのか?」
手に持っている革袋を指差した神官長に、わたしは礼を言って、革袋を返した。
「ありがとう存じます。神官長の用意周到さに驚きました」
「……足りたようで何よりだ。それにしても、一体どれだけ溜め込んでいたのか。城で感情を爆発させるようなことにならず良かったが、プランタン商会に頼らずとも、何とかできるように考えねばならぬな」
革袋の中を見て、神官長がひくっと顔を引きつらせながらそう言った。
「わたくし、元気になったので、本を広げるためにこれからバリバリ頑張ります!」
「君が頑張ると過剰になることが多いので、決められた範囲内で動けるようになりなさい」
「……うぐぅ。では、決められた範囲を教えてください」
そのまま神官長の部屋で、ギーベ・ハルデンツェルとの面会に向けて打ち合わせを行うことになった。
契約魔術が解消されたので、製紙工房の開設を行う許可はアウブ・エーレンフェストから出すようになる。そのため、今回は顔合わせがメインだそうだ。
わたしがギーベ・ハルデンツェルと話し合わなければならないのはグーテンベルク達をいつからいつまでハルデンツェルに向かわせるか、ということらしい。先程のベンノとの話し合いで決まったことを神官長にも報告した。
神官長との打ち合わせを終えた後は、エラを城に残して来てしまったので、夕方には城へと戻る。リヒャルダが「やっと時間を取れたのですから、もっとゆっくりしていてもよろしかったのですよ」と忙しいスケジュールに唇を尖らせつつ、出迎えてくれ、体調を心配してくれるシャルロッテと夕食を食べた。
二日後の午後にはギーベ・ハルデンツェルとの面会が行われることに決まり、後見人である神官長に呼ばれて、一緒に面会のための部屋へと向かうことになった。
上級貴族と面会をするための部屋は今までの面会で使っていた部屋よりも少し豪華だった。タペストリーが色彩豊富で、家具も年季が入った良い物に見える。そんな部屋の中、ギーベ・ハルデンツェル夫妻とお母様が待っていた。
わたしと神官長が着席すると、ギーベ・ハルデンツェル夫妻が挨拶にやってきた。
「命の神 エーヴィリーベの厳しき選別を受けた類稀なる出会いに、祝福を祈ることをお許しください」
「許します」
……お母様とギーベ・ハルデンツェルって似てる。
深緑の髪の色も、黒の瞳もよく似ているように見える。愛想の良さそうな笑みを浮かべているけれど、眼光は鋭く、こちらをじっと観察しているのがわかった。跪いて挨拶をされているのに、わたしの方が気圧されるというか、迫力があるというか、人の上に立って率いているのが一目でわかるようなどっしりとした雰囲気がある人だ。
「ローゼマイン様にはやっと正式にご挨拶することができました。お礼を申し上げたいとずっと思っていたのです」
ギーベ・ハルデンツェル夫妻はわたしの洗礼式にカルステッドの館まで来てくれたが、挨拶を交わす前にヴィルフリートに引きずられてリタイア、お披露目の時も祝福をやらかしてしまって早々に退散、その次の冬にはヴィルフリート達と固まって旧ヴェローニカ派の貴族とやり合っていたため、正式に接触しないまま終わっていたのである。
「……お礼と言われましても、わたくし、何かいたしましたか?」
「はい。ローゼマイン様が神殿長として……いや、正確には青色巫女として神殿でご活躍されるようになってから、ハルデンツェルの生活はかなり楽になりました」
魔力がたっぷりと詰まった小聖杯が届くようになり、エーレンフェスト全体の生産量が上がったことで、税も少し楽になった。その少しが、ハルデンツェルにはとても大きいものだったと言う。
エーレンフェスト内の地理の勉強で習ったことによると、ハルデンツェルは川が凍るほど寒い土地で、人々は身を寄せ合って暮らしているらしい。土地自体は広大だが、南の方に人口が集中していて、北の方はほとんど人がいないそうだ。そして、何より大変なのは、冬の主が現れる確率が高いということである。
「ローゼマイン様の祝福で、冬の主討伐も助かっているとハルデンツェルから討伐に向かった騎士からも報告を受けております」
「旗の色も戻りましたものね」
ギーベ・ハルデンツェル夫人がおっとりとした容貌で笑みを深めた。この場合の旗の色が戻るというのは、首脳部がアーレンスバッハに染まりかけていたのを食い止めたということだろう。
「それに、ハルデンツェルは冬が長いので、印刷事業を始めることができたことで助かっている者は多いのです」
そこからはハルデンツェルから見たグーテンベルクの活動についての報告を受けた。
印刷工房として準備されていた工房に、部品を持ち込んで、印刷機の組み立てと印刷の実演を行ったが、文字を読める平民が全くと言っても良いほどいなかった。ルッツや灰色神官達が金属活字を組み、やり方を教えたわけだが、ハルデンツェルの民は金属活字を組むのにも図柄を合わせるようなやり方だったので、非常に時間がかかったそうだ。
「エーレンフェストの職人が全員文字を読めることに驚きました。この冬はまだグーテンベルクに教えられた技術を自分のものにするので精一杯ですが、今後は文字を覚えさせなければならないようです。活字が上下逆でも気付かないのは困りますから」
「わたくしの孤児院ではカルタや絵本を使って、皆で遊びながら覚えましたけれど、すぐに覚えるのが難しいようでしたら、しばらくは文字の見直しを下級文官や文官見習いの仕事にしても良いかもしれませんね」
本は貴族に売る物なので、文字に間違いがないかどうかは、ローゼマイン工房でも最も気を遣うところなのだ。
「ローゼマイン様が育てたグーテンベルクは若いのに素晴らしい腕の持ち主が揃っていると職人達の間ではとても評価が高いと聞いております」
インク工房ではインクの作り方を教え、木工工房では印刷機の木の部分の作り方を教えられた。春から秋までの滞在期間で、インクや木工に関しては何とかなりそうだったし、校正のために文官を付ければ印刷はできた。
けれど、鍛冶工房は技術が足りなくて、金属活字や部品の数々でヨハンの合格が出なかったと聞いている。印刷をしようと思ったら、金属活字が作れるようにならないと困る。活字は印刷する間に意外と擦り減ったり欠けたりするのだ。
「春にはグーテンベルクから合格をもらうのだと鍛冶職人が一丸となって取り組んでいると報告を受けています」
「わたくしがグーテンベルク達から受けた報告では、ハルデンツェルで受け入れられたかどうかわからないとありましたけれど、そうでもなかったようで安心いたしました」
わたしはグーテンベルクからの報告や提案を述べた。
ハルデンツェルでは、エーレンフェストから赴いたグーテンベルク達への警戒心が最初の内はすごかったと聞いている。難しい顔で聞いているだけで、反応が乏しかったそうだ。
「ハルデンツェルでは余所者が少なく、新しい物が生活に入ってくることが少ないので、職人達にも抵抗があったのでしょう。けれど、身内同士はとても結束が固く、一度受け入れたものは大事に守っていく土地柄です。印刷技術がもたらす恵みを理解した領民達はローゼマイン様から受けた恩、印刷に関する技術等は忘れずに大事にするでしょう。グーテンベルクからの提案も一度ハルデンツェルで吟味してから答えを出したいと存じます」
「工房を作り、新しい事業を始めるのですから、ハルデンツェルにとっての最善をよく吟味してくださいませ。……それにしても、エーレンフェストの中でも、土地柄によって色々と違いがあるのですね」
イルクナーとはかなり雰囲気に違いがありそうだ。わたしは祈念式でエーレンフェスト全体を回ったことがあるけれど、祝福を与えるほんの一時、祈念式の舞台に降り立っただけではそこまで雰囲気の違いなどわからなかった。
「春にはグーテンベルクと共にローゼマイン様にもハルデンツェルへ足をお運びいただけると伺っております。その時にご覧いただけるでしょう。環境が厳しくとも、それに耐える我慢強さを誇るハルデンツェルの民を」
自分の民を誇るギーベ・ハルデンツェルの笑みに、自然とつられてわたしも笑みを浮かべる。良い土地なのだろう、と思った。厳しい環境からできるだけ民を守ろうとするギーベとギーベを中心に結束の強い民の姿が見える気がした。
「わたくしもハルデンツェルを訪れるのを楽しみにしております」
「ギーベ・ハルデンツェル、グーテンベルクをハルデンツェルに派遣できるのは、春の祈念式から夏の終わりまでになる」
神官長が口を開くと、ギーベ・ハルデンツェルはそこの発言の意味を探るように、むっと目を細めた。神官長はこれからエーレンフェスト全体に印刷工房を広げていくこと、そのためにはグーテンベルクにも準備期間が必要なことを説明する。
「グーテンベルクの派遣を待つ土地はいくつもある。今回ハルデンツェルにグーテンベルクを派遣することを特別な待遇だと思って欲しい」
「なるほど」
考えを巡らせるように、ギーベ・ハルデンツェルが軽く目を閉じる。そして、少しの沈黙の後、ゆっくりと目を開け、お母様によく似た漆黒の瞳でわたしを真っ直ぐに見つめた。
「ローゼマイン様、私は貴女がエーレンフェストの上層部にあることを非常に心強く感じております。エルヴィーラの娘ならば、身内を大事にし、故郷を蔑ろにすることはない……そう信じております」
「……あの、わたくし、身内に甘いので、そこを直すように、とフェルディナンド様やお母様に言われているのですけれど」
身内を優遇しろと要求されているように聞こえて、わたしは困惑しながら神官長とお母様へと視線を移した。けれど、神官長もお母様も静かにギーベ・ハルデンツェルの次の言葉を待っているだけだ。
わたしがもう一度視線を戻すと、違うと言いたげにゆっくりと息を吐いたギーベ・ハルデンツェルが漆黒の瞳を光らせた。
「これほど色々と新しいことを生み出すことができるのです。貴族院では他領からの誘惑も多いことでしょう。それでも、故郷を思い、家族を思い、エーレンフェストに留まってくださることを願っております」
エーレンフェストの上層部にあれ、というのは、身内を優遇しろというのではなく、他領に出るな、ということだったらしい。また言葉の解釈がずれていたようだ。
わたしはそっと息を吐いた。
家族を思えと言われて、一番にわたしの頭に浮かぶ家族の顔は下町の家族だ。契約魔術で禁じられた触れ合いの中、髪飾りのやりとり、ハッセに向かう護衛として、わずかに残っている細い細い繋がりは、わたしがエーレンフェストにいなければ成り立たない。わたしは家族がいる限り、エーレンフェストから出るつもりはないのだ。
「……わたくしの家族がいるのはエーレンフェストですもの。アウブ・エーレンフェストからのご命令がない限り、わたくしの帰る場所はここです」
わたしがそう宣言すると、フッと安堵したようにギーベ・ハルデンツェルが表情を和らげる。
同時に、神官長が眉間に深い皺を刻んだのが、視界の端に見えた。