Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (340)
約束
わたしが中に入ると、それに続いて皆が入ってくる。わたしはギルが引いてくれた自分の椅子に座り、フランが丁寧に扉を閉めたのを確認して、ゆっくりと皆を見回した。
護衛であるダームエルは定位置であるわたしの背後に立ち、フランは扉の前、ギルは右隣の側仕えとしての定位置についたけれど、プランタン商会の三人は立ち位置を決めかねているような顔でユストクスとわたしを見比べている。
「ルッツ、ベンノさん、マルクさん、ユストクスはいるけど、いつも通りにそこに座って。ユストクスは全部の事情を知っている人だから気にしないでね」
「え?」
ルッツが驚いたような声を上げて、ユストクスを見上げた。ユストクスは軽く肩を竦めて、ルッツを見下ろす。
「フェルディナンド様の命により、下町のマインについて調べたのは私だ。だからこそ、二年間、プランタン商会と工房を任された。今日もこの場に立ち会うのはフェルディナンド様の命令なのだ」
ユストクスの言葉に嫌なことを聞いた顔になったルッツが正面に座りながら、わたしへと心配そうな顔を向ける。
「ローゼマイン様、神官長に何か言われたのですか?」
「ルッツ、お願い。普通に喋って」
「普通って……」
ぐるりと周りを見回した後、ルッツがゆっくりと息を吐いて、困ったように一度きつく目を瞑った後、緑の瞳でわたしを真っ直ぐに見つめた。
「わかった。何があったんだ?」
耳に馴染んだ声と口調にホッとすると同時に、止められない寂寥感に襲われる。
自然と目の奥が熱くなってきた。歪む視界にこちらに向かって手を伸ばそうとしたルッツとベンノが映る。
わたしは膝の上に置いていた手をグッと握った。
「この隠し部屋を使うのは、今日で最後だって。だから、ちゃんとお別れしてくるようにって……言われて……」
零れそうに揺れていた涙は誰のものかわからない深い溜息と共にぽたりと落ちた。拳の上を伝っていく涙の粒を見つめていると、ベンノの唸るような声がした。
「やはりな。お前の外見と意識はともかく、他人から見ればもう十歳だ。貴族の娘が十歳にもなれば、隠し部屋が使えなくなるのは予想がつく」
苦い表情をしているベンノの言葉にルッツが驚いたように目を見開いた。別れを予想していなかったのはルッツだけで、ベンノもマルクもこうなることはわかっていたようだ。
「年齢的な意味でもそうですが、ローゼマイン様は個人的に贔屓にしてお付き合いしている商人が本当に少ないですから」
マルクが穏やかにそう言いながら困ったように笑った。
「ローゼマイン様がプランタン商会とギルベルタ商会を贔屓しすぎだという意見はすでに商人達の間でも出ています。そこに神殿の隠し部屋へ平民の男を連れ込んでいるような噂が流れれば、ローゼマイン様はもちろん、こちらへの打撃も大きいと思われます」
プランタン商会の業績が全てわたし寵愛によるものだと思われると、先々に影響が出てくる。特に従業員のやる気に大きく関わるのだ、とベンノが言った。わたしのせいでプランタン商会に悪評が立つのは困る。
「あ~、確かに聖女にそんな悪評は困るよな?」
「それだけじゃなくてね、もうじき婚約発表があるの」
ぽかーんとした顔でルッツが何度か目を瞬いた。眉が不可解そうにぐにゅっと歪む。
「……誰の?」
「わたしの。わたしと、領主の息子であるヴィルフリート兄様の婚約発表」
さすがにそれには驚いたようで、ベンノとマルクも目を丸くした。ルッツは婚約とわたしが頭の中で全く結びつかないような顔で首を傾げる。
「……は?……えーと、婚約? は、早くねぇ?」
「うん。貴族院でも色々あってね。面倒事を避けるためにそういうことになったの」
お前、どこに行っても問題を起こしてばかりだな、と呆れた顔でルッツが言った。その後でものすごく困った顔になって、「もう、オレに手伝ってやれる問題じゃねぇな」と寂しそうに笑う。その複雑な笑顔に胸が締め付けられる気がした。
いつも通りルッツにぎゅーっと抱きつきたいのに、手を伸ばすことができなくて、わたしは膝の上で拳を開いたり握ったりしながら、自分のスカートに皺が付くのをじっと見る。
すがりたくてもすがれない壁があるというか、すがりつくにも躊躇するくらいの距離ができていたことに今更気付かされたというか、見ない振りしてきたものを直視しなければならない時が来てしまったというか、今の気持ちを言葉にするのはとても難しい。
「……婚約しちゃった貴族の女性が、平民の男を隠し部屋に連れ込んでいるのは、すごく外聞が悪いんだって」
「いや、婚約した女が男を連れ込むっていうのは、貴族じゃなくても外聞が悪いからな」
お前は相変わらず常識が足りてないんだよ、とルッツにすぐさま指摘される。
わたしがムッと唇を尖らせて見せると、ルッツはベンノの癖がうつったようにガシガシと頭を掻いた。
「あ~、とりあえず、ここで会えなくなるのはわかった。……でも、お前、それでホントに大丈夫なのか?」
「……全然大丈夫じゃないよ」
本音と一緒に涙が零れた。
これまでも全然ダメだった。ルッツがわたしの存在を認めてくれて、体調管理をしながら一緒に紙や髪飾りを作ってくれて、悩んで壁にぶち当たったら一緒に解決策を考えてくれて、寂しくて不安で仕方がない時は一緒にいてくれて、離れるしかなかった家族からの手紙を運んでくれたから、何とかやってこられたのだ。
わたしが一人で何とかできるとは思えない。
「大丈夫じゃないなら……」
言いかけたルッツの言葉をわたしは自分で手を挙げて制した。
「大丈夫じゃなくても、もうダメなの。貴族院に行くまではって、目溢しされてて、わたし、二年間寝てて、不安定だったから仕方がないって許してくれていただけで……、本当はもうとっくに離れてなきゃダメだったんだよ」
痛そうにルッツが顔を歪めた。ベンノとマルクが目を伏せて、そっと視線を逸らす。
「一緒にいちゃいけない理由は嫌になるほどわかるけど、でも、わからないよ。わたし、なんで二年も寝ちゃったんだろうね? なんで二年も寝たのに完全に治ってないんだろうね? なんでこんなに急にお別れすることになったんだろうね? もう十歳って言われても、自分ではそんなふうに思えないんだよ」
ルッツの手がわたしを慰めようと伸びてくる。
その途中で手が止まって、きつく拳の形に握られた。
「……泣くな」
呻くような低い声がルッツの口から漏れる。
顔を上げると、ルッツは立ち上がって、歯を食いしばり、悔しそうな顔でわたしを見下ろしていた。
「もう泣くなよ、マイン!」
ルッツからの叱責と「マイン」という名前の響きに驚いて、わたしの涙が一瞬止まる。
「この先、いくら泣いても、オレじゃあお前を慰めてやれないんだ。……だから、もう泣くな」
痛いのを必死に堪えているような顔で、自分の無力さを嘆くようにそう言うと、ルッツはもう一度座り直した。
シンとした沈黙が落ちる中、ユストクスが静かにわたしを見ていることに気が付いた。神官長にも共通する、相手を見定めようとする目だ。
心弱っているわたしが思わず視線を逸らして俯こうとするのと、ルッツが「なぁ、マイン」と呼びかけるのは同時だった。ルッツの声にわたしは俯くことなく、視線を動かす。
「いつだったか、森へ行く道中に話した将来の夢、マインは覚えてるか?」
そんな質問に、わたしは小さな背負子を背負って、薪や森の恵みを集めるために、息を切らせながら森まで歩いていた頃を思い出す。ルッツがペースメーカーをしてくれて、子供達のまとめ役にトゥーリがいて、ラルフがいて、フェイがいた。子供達の集団で森へと向かうのに、歩くのが遅いせいでといつも最初に出発して、到着するのは最後だった。
将来の夢の話をしたのは、粘土板を作るのに必死になっていた頃だったような気がする。ルッツが旅商人になりたいと言っていた。あの頃は市民権のことも、旅商人の生活も、その職業が周囲にどのように思われているのかも、何も知らなくて、その分、自由で怖いもの知らずだった。
「確か、ルッツは旅商人になりたいって、言ったんだよね?」
懐かしさにわずかに頬が緩む。懐かしさに浸るわたしと違って、ルッツは真面目な顔で頷いた。
「そう、オレは別の街にも行ってみたいって、ずっと思っていた。旅商人になって、この街を出ていきたいって思ってた。……今はお前のおかげで夢が叶った。グーテンベルクとして、オレはこの街を出て、ハッセに行って、イルクナーに行って、ハルデンツェルに行った。ハルデンツェルは馬車で行くには遠くて、途中で色々な町や村にも行ったんだ。オレはもう色々なところに行っている。これからも行く。印刷工房を作らなきゃいけないからな」
自分の向かった村や町の名前を指折り挙げていたルッツの翡翠のような緑の瞳が真っ直ぐにわたしを見た。
「……お前の夢は何だったか覚えてるか?」
ルッツに問われて、わたしは何度か瞬きをしながら、記憶を探る。
あの頃は紙もインクもなくて、何とか文字を残したいのに、体力がなくて、腕力がなくて、身長が足りなくて、お金がないというないない尽くしの中、記録媒体を作ろうと必死だった。ただひたすら、本が読みたくて、読みたくて仕方がなかった。
「……本に囲まれて暮らすこと。一月に何冊も新しい本ができて、それを全部手に入れて、読みふけって暮らしたいって、わたし……」
……あぁ、そうだ。あの頃に比べたら、わたし、すごく恵まれてるんだ。
紙ができた。インクができた。印刷機ができた。本を広げていくための土台ができた。本作りを仕事にして手伝ってくれる協力者ができた。神殿にも城にも図書室があって、わたしは今の身分だからこそ、自由に出入りして、本が読めている。自分が欲しいと望んだ物をきちんと手に入れている自分に気が付いた。
自分の手を見て、ルッツへと視線を戻す。ルッツがコクリと一度頷いた。
「まだエーレンフェストで作られる本は一年に数冊だけど、このまま印刷工房を増やしていけば、そのうち一月に一冊、一月に数冊って、本の数は増えてくる」
「うん」
エーレンフェストだけではなく、ハルデンツェルにも印刷工房ができた。印刷を始めたいと考えているギーベは他にもいる。グーテンベルク達が移動して教えていけば、印刷工房は増えていく。それはわたしが何よりも望んだ本が増えていくのと同義だ。
「オレが増やしてやる。お前のために本をどんどん増やしてやる」
「……なんでルッツはそこまでしてくれるの?」
前にも同じことを聞いたな、とわたしは思っていると、ルッツは当たり前のことだと言いたげに肩を竦めた。
「オレの夢はお前が叶えてくれたじゃないか。だから、お前の夢はオレが叶えてやる。お前のためにいっぱい本を作って届けてやるから、泣くな。お前は笑って本が届くのを待っていればいいんだ」
ルッツの言葉を聞いて、嬉しいというより「何か違う」という妙な気持ちになった。
ずっと一緒にやってきたルッツが、わたしに待っていればいいと言った。待っていれば本が届くということは、とても嬉しいことだけれど、ルッツに言われると何故かしっくりしない。何がしっくりしないのか、眉根を寄せながら考えて、ハッとした。
「……わたし、ダメだね」
「うん?」
しっくりしなくて当然だ。わたしはこれまで一緒にやってきた。紙や髪飾りを作る時も、神殿で孤児を救う時も、城で本を売る時も、場所が違って、担当する仕事が違っても、わたしは別にただぼんやりと待っていたわけではない。
「わたしの考えた物はルッツが作る。ルッツが本を作ってくれて届けてくれるんだったら、わたしは口を開けて、ぼーっと待っているんじゃなくて、わたしにできることをしなきゃダメなんだよ。できることをせずにただ待っているだけのわたしに、ルッツの作ってくれる本を読む資格なんてない」
わたしの言葉にルッツがニッと笑った。
ベンノが「あぁ、その通りだ。泣いている暇があるなら、働け。稼げ。利益を出せ」と赤褐色の目を細める。
「グーテンベルクが気持ちよく働けるように、少しでも多くの本が作れるように、協力して、援助する。……父さんとも約束した通り、わたし、この街ごと皆を守るよ」
「そうですね。これからプランタン商会やグーテンベルクはずっと貴族と関わる仕事をすることになります。立場の弱い平民である私達を守れるのは、領主の養女となった貴女だけです」
マルクの励ますような言葉にわたしが頷いて応えると、ルッツが立ち上がってわたしの前に立った。そして、バッと手を差し出す。
「約束だ。こうして会えなくても、オレはお前のために本を作る。この約束はずっと有効だからな」
わたしも立ち上がって、ルッツの手を取った。繋いだ手に力を入れて、お腹に力を入れて宣言する。
「こうして会えなくても、わたしはルッツ達のために何ができるか考える。約束するよ」
手を繋いたまま、ニッと笑い合う。
ルッツ達が「じゃあな。約束、守れよ」と言った後、隠し部屋を出て行く。神殿の門まで見送るのはギルだ。
すでに目が腫れているわたしは「ルッツもね」と言い返しながら、隠し部屋で皆を見送った。
「ユストクス」
「何でしょう、姫様?」
「わたし、今、笑えていますか? ルッツは心配しないで行ったと思いますか?」
ユストクスがコクリと静かに頷く。
「笑えています。……ただ、そうですね。城へと戻るまでにまだ時間がございます。神殿長室の隠し部屋を使うのはいかがでしょう? こちらの隠し部屋を使用すると、側仕えが動けませんから」
自分の感情を露わにしてはならない高貴な貴族女性は、隠し部屋で一人、自分の気持ちを立て直すのですよ、とユストクスが言った。
「これまで姫様の隠し部屋は御自身の家族であり、下町の商人達との関係だったのですね」
ユストクスの例えはするりと自分の中に入ってきた。わたしにとって下町の家族は自分の素を出しても構わない隠し部屋のような存在だったのだ。
「そうですね。家族が今はもう扉が開かなくなった隠し部屋、ルッツ達は天幕さえ閉めてしまえば少しは自由になる寝台か、包まって眠ると次の日は頑張ろうと思えるお布団、というところでしょうか」
……隠し部屋も寝台もなくなっちゃったね。
これから、どこで休めばいいのだろうか。野宿ができる騎士のように自分が強くならなければならないということだろうか。
わたしが神殿長室へ戻ろうとしたら、フランがヴェールを持って来て、ふわりとわたしの頭にかけた。泣いたせいで真っ赤になっているだろうわたしの顔が他の人から見えないようになると、フランが「失礼します」と一言断って、わたしを抱き上げる。
「こちらの片付けはモニカとニコラに任せます。私はローゼマイン様を神殿長室にお連れいたしますから」
フランは隠し部屋を出てモニカとニコラにそう言うと、すたすたと歩き始めた。「自分で歩けます」と言いかけて、わたしは口を噤むとフランにコテリと寄りかかる。主と側仕えの境界線を越えないフランにとってギリギリの甘やかしとスキンシップだと気付いたからだ。
……相変わらず神官長と一緒でわかりにくいんだから。
ダームエルとアンゲリカが護衛騎士としてついてきて、隣を歩いているのはユストクスだ。神殿長室に到着すると、隠し扉の前で下ろされる。
「姫様、城へと戻る時間になったらお呼びいたします。それまで、隠し部屋をお使いくださいませ。こちらの文箱には大事な物も入っているのでしょう?」
書類に挟まれた家族からの手紙を知っているような口ぶりでそう言って、ユストクスはここまで持って来てくれたらしい文箱を渡してくれる。
「ありがとう、ユストクス」
わたしは神殿長室の隠し部屋で文箱から手紙を取り出して広げた。
城での販売会の時に、わたしがプランタン商会へ預けていた手紙への返事だった。トゥーリの髪飾りが王子からお褒めの言葉をいただいたこと、貴族院の一年生で最優秀をとったことを報告する手紙を読んだらしい皆が手放しの賞賛を送ってくれている。
「マイン、よく頑張ったね。大変だったでしょう? 体調を崩さないように気を付けて。それだけが心配よ」
「トゥーリは王子様に褒めてもらって、マインは貴族の中で一番がとれるなんて、ウチの娘は二人ともすごい。父さんの誇りだ」
「髪飾りを作れる職人が増えてきたけど、マインのはわたしが作れるように、頑張ってるからね。他の人に頼んだら嫌だよ」
手紙を開いただけで泣きたくなった。
読んだら涙が止まらなくなった。
これからはいつでも文官がついてくるならば、こんな些細なやり取りすらできなくなる。
「父さん、母さん、トゥーリ……」
養父様との契約魔術という扉に阻まれたわたしの隠し部屋へはもう入れない。
「ベンノさん、マルクさん、ルッツ……」
これからは泣きついて甘えられる布団もない。
「約束は守るけど……泣かないのは無理みたいだよ、ルッツ」