Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (35)
ルッツのマイン
「ここで話をする? 倉庫に入る?」
「ここでいい」
込み入った話をすることになるのだから、人目を気にした方がいいかと思ったが、ルッツは首を振った。
「それで、話って何?」
ルッツの緑の瞳が怒りに燃えている割には、態度が落ち着いているように見えた。いきなり激昂するわけでもなく、ルッツは腹の底に煮えたぎるものを隠しているような低い声で、第一声を放った。
「……お前、誰だよ?」
いきなり難しい質問をされた。誰と言われても困る。
わたし自身は本須 麗乃だと今でも思っているけれど、どこからどう見てもマインでしかない。そして、この身体と約一年間付き合って、この世界で生活してきたわたしは、もう本須 麗乃でもなかった。
麗乃は本を読む以外、自分から何かをすることはほとんどなかった。大学も自宅からの通学だったため、親元を離れたことはなかったし、基本的に家事は全て専業主婦の母親任せで、やろうと思ったら出来たけれど、積極的にやったことはない。
こんな風に毎日のように森に出かけて採集したり、少しでも食生活を豊かにしようと味付けに凝ってみたり、本を読むために紙を作ったりする必要なんて全くなかった。自分の気が向くままに、辺りにある本を読んでいれば、それだけでよかった麗乃と今のわたしは全く違うのだ。
何と答えたらいいのか悩んでいるのを、答える気がないと判断したらしいルッツは、じろりと睨む目に更に力を加えながら、口を開く。
「こんな紙の作り方を知っていて、作ったこともあるって言ったよな?」
「……前に作ったのは、かなり違うやり方だったけどね」
「そんなの、マインじゃない」
「……うん」
誤魔化し損ねて、すでに確信を持たれている以上、嘘を重ねても何にもならない。わたしは正直に答えた。
「マインが知っているはずがない。あいつは家から出ることも滅多になかったんだ」
マインが滅多に家から出なかったことはわたしもマインの記憶から知っている。おかげで、情報が全くなくてどれだけ苦労したか。
家の中しか知らないマインの記憶では、この世界の常識を垣間見ることもできず、自分の常識とこちらの常識を擦り合わせるのは本当に大変だ。今でもよく失敗したな、と自分で思う時が多々ある。
「そうだね。マインは本当に何も知らない子だった」
「じゃあ、お前は誰だよ!? 本物のマインはどこに行った? 本物のマインを返せよ!」
カッとしたようにルッツが怒鳴る。
でも、ルッツに投げつけられた言葉より、自分の想像の方がずっとひどかったせいか、紙ができあがった時にくると覚悟していたせいか、自分がずっと落ち着いているのを感じる。自爆した直後のうろたえぶりとは大違いだ。
「本物のマインを返すのはいいけど……ここじゃなくて、家に帰ってからの方がいいよ?」
わたしが応じると思っていなかったのか、ルッツの目が驚きに見張られた後、訝しげに眉が寄せられた。
「なんでだよ?」
「だって、死体を担いで帰るのって大変じゃない? わたしが消えたら、多分、死体しか残らないから。ルッツが殺したと思われたら困るでしょ?」
この倉庫を使っているのは、わたしとルッツで、今日だってルッツと出かけることは家族もベンノの店の人も知っていることだ。
わたしが倉庫で意識を失って、そのまま死んでしまったら、全ての責めがルッツに向かうことになる可能性が高い。責められなくても、ルッツ自身が罪の意識を持ってしまわないだろうか。
わたしとしては、ルッツを思いやって「家に帰ってからの方がいいよ」と提案したつもりだったのだが、ルッツにとっては寝耳に水の言葉だったらしい。
「お、おま、な、ななな、何言ってるんだよ!?」
わたしの言葉にぎょっとしたルッツが、強張った顔でうろたえ始めた。わたしが消えてもマインが戻ってこないというのは、ルッツにとって想定外だったようだ。
「それって、マインはもういないってことか!? 戻ってこないってことか!?」
「うん、多分……」
多分としか言いようがない。
わたし自身はマインの記憶を探るしかできない。マインと話をしたこともなければ、身体を返せと訴えられたこともない。
「これだけは答えろ!」
ルッツがキッと強くわたしを睨む。まるで悪を憎む正義の味方だ。
そう考えて、小さく笑ってしまった。ルッツにとってはまさにその通りなのだろう。幼馴染の病弱な妹分を乗っ取った悪者がわたしで、ルッツ自身は何とか助けだそうとしている正義の味方に違いない。
「あの時、オットーさんやベンノの旦那に熱の話、してたよな? お前が熱で、マインを食べたのか!?」
わたしが体内に巣くう熱で、マインを食べてしまったというルッツの仮定に、少しばかり感心した。マインが熱に食べられたという部分は、多分間違っていない。
「半分正解で半分は違うよ。わたしも本当のマインは熱に食べられたんだと思ってる。最後の記憶は熱い、助けて、苦しい、もう嫌。そんなのばっかりだったから。でも、わたしがその熱じゃないし、熱にはわたしも食べられそうなんだよね」
「どういうことだよ!? お前が悪いんだろ!? お前のせいでマインが消えたんだよな!? そう言えよ!」
ガシッとルッツがわたしの肩をつかんで、揺さぶった。
自分の考えが覆されて、興奮しているのだろうが、「わたしが悪い」「わたしのせいでマインが消えた」という言葉を何度も繰り返されて、カチンときた。
「わたしだって好き好んでここにマインとしているわけじゃないよ! 死んだはずなのに、気が付いたらこんな子供になってたんだから。もし、わたしが選べる立場だったら、本がいっぱい読める世界を選んだし、この世界でも本が読める貴族階級を選んだし、こんな虚弱で病弱な身体じゃなくて、もっと健康な身体を選んだ。いきなり熱が広がって呑みこまれそうな難病を患った身体なんて選ばなかったよ」
マインになりたくてなったわけじゃないとぶちまけた瞬間、ルッツが虚をつかれたような表情になり、肩をつかんでいた手が緩んだ。
「お前、マインになりたくなかったのか?」
「ルッツなら、なりたいと思う? 最初なんて、家から出るだけで息が切れて、次の日は寝込むような身体だよ? やっと森に行けるようになったけど、成長は遅いし、今だって、ちょっと油断したら熱出るし……」
しばらく考え込んでいたルッツがゆるく首を振った。わたしにつかみかかってきた勢いが消えて、困ったように視線がさまよい始める。
「……お前も、マインと同じように熱に呑みこまれるのか?」
「うん、そうなると思う。抑え込む力を緩めたら、一気に熱が広がって、食べられそうな感じがするの。熱に呑みこまれていくというか、溶けて消えていく感じがするというか……説明するのは難しいんだけど」
わたしの説明で想像するのも難しいのだろう、ルッツは眉を寄せて考え込んでいる。
「だから、マインの身体を使ってるわたしが気に入らなくて、ルッツが消えて欲しいと思うなら、言ってね。すぐに消えることはできるから」
本物のマインを返せと言っていたはずのルッツが何故か愕然とした表情でわたしを見つめる。何を言っているんだ、とでも言いそうなルッツの顔に、わたしの方が困惑した。
「……消えた方がいいんだよね?」
確認してしまったわたしにルッツはグッと柳眉を上げて、逆切れしたように叫んだ。
「オレに聞くな! なんでオレにそんなこと聞くんだよ!? オレが消えろって言ったら消えるなんて変だろ!」
「変かもしれないけど、ルッツがいなかったら……わたし、もっと前に消えてたから」
「はぁ!?」
わけがわからないという顔になったルッツにわたしは、事の発端を思い出しながら、以前に消えかけた時の話をする。
「ルッツは覚えてない? 母さんに木簡を燃やされた時に、倒れたでしょ?」
「あぁ……」
そういえば、そんなこともあったな、とルッツが呟く。ルッツにとってのそんなことがわたしにとっては結構大きな分岐点だった。
「あの時、わたしは熱に呑みこまれてもいいかなって思ってた。あれで、本当は消えちゃうつもりだった。本のない世界に未練なんてなかったし、どんなに頑張っても完成しなかったし、もういいやって思ってた」
ゴクリとルッツが唾を飲み込んだ音が聞こえた。
視線だけで続きを促されたわたしは軽く目を閉じて、思い出す。熱いものに呑みこまれながら、ぼんやりと映っていた家族の顔の中に、突然ルッツの顔が浮かんだ時のことを。
「熱に呑みこまれてる途中で、家族の顔の中にいきなりルッツの顔が見えて、なんでいるんだろうって思った。ルッツをよく見ようとして、身体中に力を入れたら、熱が引いて意識が戻ったの。本当にルッツがいたから、ちょっとビックリしたんだよ?」
「そんなの……家族じゃない顔だったからビックリしただけで、オレがいたから意識が戻ったわけじゃないだろ?」
眉をひそめて溜息を吐いたルッツにわたしは軽く首を振った。
「意識が戻った初めのきっかけは、ルッツにビックリしたことだけど、その時にルッツが燃やされないように竹を取ってきてくれるって言ったでしょ? あれで、もうちょっと頑張って熱に抵抗しようかなって思ったの」
「竹も、おばさんに燃やされたよな?」
ルッツの言葉にわたしは頷く。怒りや悔しさを突き抜けた、あの虚脱感は今でもはっきりと思い出せた。思い出すだけで、自分の中の熱が力を得ていくような感覚が未だにするほどだ。
「ホントに何もかも嫌で、もうどうでもいいや、って思ったら、ぐわっと熱が襲いかかってきてね。もう抵抗する気もなかったから、あのまま死んでも良かったんだけど……ルッツとの約束、思い出しちゃったんだよ」
「約束?」
ルッツは「約束なんてした覚えがない」と呟いた。本当に覚えていないようで、少し上を向くようにして記憶を探っている。
やっぱりね、とわたしは小さく笑った。ルッツにとっては早く元気になれ、という程度の言葉だったとわかっている。それでも、わたしをここに繋ぎとめる大事な言葉だった。
「オットーさんに紹介するって約束だよ。竹は前払いだから元気にならなきゃダメだって言ったでしょ?」
わたしの言葉を聞いて、ルッツ自身は思い出したくないことでも思い出したのか、まるで黒歴史でも指摘されたように恥ずかしそうな呻き声を上げて、頭を抱えた。
「あ、あれはっ! 別にお前に恩をきせようとして言ったことじゃなくて……あぁぁ、くそぉ」
「じゃあ、どういうつもりで言ったの?」
「聞くな! 流せ! 忘れろ!」
ルッツの思わぬ反応に、つっこんでいじりたかったけれど、今のわたしは糾弾される立場だ。ルッツの要望通り我慢して、見て見ぬ振りをした。
「えーと、そんな感じで約束も思い出したし、ルッツには色々してもらったのに、一つも恩返ししないまま消えちゃうのはダメだって思って、頑張って熱を抑え込んだんだけど……」
「……」
「オットーさんとベンノさんに会って、約束も果たしたし、紙も作れたし、できれば、本を作りたいけど、ルッツが消えて欲しいなら消えてもいいんだよ?」
ルッツは苦虫を噛み潰したような顔で、わたしを見つめる。ほんの小さな嘘も見逃すまいとするような目がわたしを上から下まで見た後、項垂れた。
「いつから……」
「うん、何?」
俯いたままこぼされた言葉が聞き取れなくて、わたしは首を傾げて聞き返した。
ルッツは顔を上げて、じっとわたしを見据える。
「いつから、お前がマインだったんだよ?」
「……いつからだと思う? いつからルッツの知っているマインじゃなかったと思う?」
質問に質問で返したけれど、ルッツは怒るでもなく、真剣な顔で虚空を睨んで考え込んだ。わたしを見て、小さく何かを呟き、下を向いて足元の土を蹴る。
しばらく考え込んでいたルッツが、ハッとしたように顔を上げた。
「……これ」
ルッツがわたしの簪を指差した。
「これを付けるようになったくらいか?」
まさかピッタリ当てられるとは思っていなかったけれど、確かに、簪挿している人ってわたしの他にいない。わたしだって、いくらきつく縛っても解けてくるような、さらさらの真っ直ぐストレートでなかったら、普通に紐で縛っていたはずだ。
「……正解」
「ほとんど一年じゃねぇか!」
カッと目を見開いたルッツが唾を飛ばすような勢いで怒鳴った。
そういえば、マインになったのは秋の終わりだった。今が秋の真ん中なので、そろそろ季節が一巡しようとしている。
「そうだね。熱出してぶっ倒れてた記憶ばっかりだけど、そろそろ一年だよね」
ここでの生活の記憶の半分以上が、倒れて熱を出している状態だが、これでも大半を寝込んで過ごしていたマインに比べればずいぶん活動的だ。
「……家族は気付いてないのか?」
「よくわからない。変なことには気付いてるけど、マインじゃないとは考えたくもないんじゃないかな?」
特に、家に籠っていたマインの面倒をずっと見てきたトゥーリと母が全く気付いていないとは思えない。けれど、何も言われないので、こちらからも言わない。それで生活が成り立っているのだから、別にいいと思っている。
「それに、父さんは元気になっているだけで嬉しいって言ってた」
「……そっか」
ハァ、と溜息を吐いたルッツが話は終わりだとでも言うように、わたしに背を向けた。板に張り付いている紙を指先で触って、乾き具合を確認し始める。
消える覚悟もしたのに、結論が出ないまま会話が終わってしまっては、身の振り方に困る。
「ねぇ、ルッツ……」
「……オレじゃなくて、マインの家族が決めることだと思う」
全てを聞く前にルッツに遮られた。
わたしが消えた方がいいかどうかを決めるのは、家族だと言う。でも、それだとわたしには何の変化もないことになる。
「じゃあ、しばらくこのまま?」
「そうなる」
こっちを見ないルッツの真意がわからない。
マインじゃないわたしがこのまま生活をしていてもルッツは構わないのだろうか。
「それでいいの?」
「だから、オレが決めることじゃねぇって……」
あくまでこっちを見ようとしないルッツの腕をわたしはつかんだ。
わたしが聞きたいのは、マインではないわたしをルッツがどう思っているか、だ。あれだけ怒って話を持ちかけてきた結果が、現状維持でルッツに不満はないのだろうか。
「ルッツは、わたしが消えちゃわなくていいの? 本当のマインじゃないんだよ?」
ピクリとルッツの腕が動いた。わたしがつかんでいるルッツの腕が小さく震えているのだと思っていたが、本当に震えているのはわたしの手の方だった。
「……いい」
「なんで?」
重ねて問いかけると、やっとルッツがわたしを見た。
困ったような、呆れたような顔で、ピシッとわたしの額を指先で弾く。
「お前が消えてもマインは戻ってこないんだろ? それに、一年前からずっとお前だったんなら、オレが知ってるマインって、ほとんどお前なんだよ」
そんなことを言いながら、ルッツは金髪をガシガシと掻いた。そして、わたしとしっかり視線を合わせた。
わたしを見る薄い緑の瞳は凪いでいて、最初の怒りも剣幕も霧散してしまっている。わたしが知っているいつものルッツの目だった。
前は身体を鍛えようなんて考えてなくて、もっと虚弱だったから。
ルッツやラルフと顔を合わせたのも、実は両手で事足りるくらいの回数だけだったから。
「……だから、オレのマインはお前でいいよ」
ルッツの言葉にわたしの心の奥底で何かがカチャリとはまった。
ふわふわしていたものがストンと落ち着いた。
それは、目には見えない小さな変化だったけれど、わたしにとっては大事な変化だった。