Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (371)
収穫祭とグレッシェル
心配していた下町の状況も特に問題なく終わったようで、ホッと安堵の息を吐いた。ただ、話を聞いた限りでは、今年の商人の受け入れだけで限界状態のようだ。来年、取引先を増やすのは難しいだろう。来年増える商人の分まで、高級な宿とその従業員がたった一年で準備できるはずがない。
……リンシャンや髪飾りは作り方を売ることも視野に入れた方が良いかも。
次の朝、灰色神官達は本当に朝早くから動き出して、畑で野菜を収穫して、荷物に詰めてくれた。
その間にわたしは朝食である。今日の献立は小神殿の畑で収穫したばかりの新鮮野菜のスープとサラダ、そして、エーレンフェストから運んできたベーコンが早速切られて焼かれている。
昨日からフーゴが仕込んでくれていたパンには、黒すぐりに似ているヴィオレーベという木の実と蜂蜜で作ったジャムをたっぷりつけて食べる。このジャムはハッセの巫女達がわたしのために森で摘んで、煮詰めて、今日のために準備してくれたものである。ちょっと酸っぱいヴィオレーベが蜂蜜のくどい甘さを消していて、とてもおいしい。
「今朝のスープもジャムもおいしかったです。皆が育てた野菜のおかげですね」
「この小神殿の周囲はローゼマイン様の魔力が満ちて、森の恵みが豊かですから」
トールが言うには、細い川を隔てたハッセよりも、小神殿の周囲の土地は肥えているのだそうだ。来年もおいしい野菜がなるように、礼拝室にある魔石にはたっぷりと魔力を注いでおこうと思う。
朝食を終えると、エーレンフェストに戻る馬車の見送りだ。孤児院へと向かう馬車の中には、入れ替えの灰色神官達、トール達が収穫してくれた野菜、ハッセで作られた印刷物、小神殿の決算関係の書類などが詰まっている。
父さん達兵士には恒例の出張費を渡して、神殿までの護衛をお願いする。
「冬は雪が深く、ゴミ捨てが大変になるでしょう。だからこそ、春になった時に下町が大変なことになっているという状況にならないように気を付けてくださいませ」
「はい。雪が積もっても捨てられるように、今、屋根が作られていますから、後は皆の協力だけです。なるべく見回ります。我々、兵士はずっと仕事ですから」
雪の中、仕事に出ていた父さんを思い出し、わたしは軽く頷く。下町のことは父さん達に任せておけば心配ないだろう。兵士の敬礼を受け、それを返せば、馬車はゴトゴトと動き始めた。
小さくなっていく馬車を見送った後は、わたしも出発だ。ハッセの冬の館へと向かって、徴税官の仕事を確認しなければならない。
出発の準備を整えるモニカやロジーナ、朝食の後片付けを灰色神官や灰色巫女達に任せ、お昼のお弁当をフランに渡しているフーゴとエラを視界に捉えながら、わたしはノーラと話をする。
「ノーラ、こちらの冬支度はもう大丈夫なのですね?」
「はい、ハッセの住人と協力して冬支度が行えるようになっています。いつまでもプランタン商会に面倒を見てもらうわけにはいかないですから」
これまでのプランタン商会の仲介があってのことだが、小神殿からお金や人手を出すことで、ハッセと上手く協力体制が築けているらしい。後でリヒトにもお礼を言って、これからの協力も頼んでおこう。
「ローゼマイン様、準備が整いました」
「では、ノーラ。後のことは頼みます。小神殿が少しずつ変化しているので、エーレンフェストの孤児院から来た神官は、戸惑うでしょう。どのように生活していくのか、教えてあげてください。同時に、神殿の生活から逸脱しすぎていないか、自分達の生活を改めて見直すようにね。変わりすぎると、エーレンフェストの孤児院に行くことになった時に、大変ですよ」
「はい、わかりました」
次の宿泊地に向かうモニカ達の準備が整ったので、モニカ達の馬車に並走するように、わたしもフランとアンゲリカを乗せたレッサーバスで、ハッセの冬の館へと向かった。
モニカ達は冬の館で徴税官の側仕え達と合流して、今日の宿に移動し、わたしはハッセで徴税官の仕事を確認してから、騎獣で移動することになる。
「モニカ、後で会いましょう」
「はい、ローゼマイン様」
ハッセの冬の館を出発するモニカ達を見送ると、わたしはリヒトの案内で広場へと回った。そして、収穫物を城へと移動させる徴税官の仕事を見る。
儀式を行った舞台の上に魔法陣の付いている布が大きく広げられ、その上に次々と徴税した物が置かれていくのが見えた。大量の物が一瞬の光と共に城へと移動し、消えてなくなっていく。その大量の荷物の一部は、わたしの分だ。
「リヒト、小神殿の冬支度をハッセの住人も手伝ってくださっているのですってね? 灰色神官達は神殿育ちで世事に疎いですから、生活の術を教えてくださるのは助かります」
「我々もお金をもらったり、小神殿付近で採集させてもらったりしていますから」
お互い様です、とリヒトが微笑んだ。
わたしの魔力が満ちた小神殿の周囲の森は、実りが豊富なのだそうだ。そして、その豊富な実りを求めて、動物もやってくる。狩りをするにも、もってこいらしい。
「ハッセはこれからも小神殿と良好な関係を築いていきたいと思っています」
「えぇ、よろしくお願いいたします」
リヒトと笑みを交わした時には徴税官が仕事を終えていた。
「ローゼマイン様、次の町へ向かいましょう」
「えぇ」
騎獣で空を駆けて、次の冬の館へと移動する。儀式をこなし、次の朝に徴税を終えるとまた移動する。
道中の徴税官との話題は、基本的に今年の収穫とハルトムートについてである。ハルトムートは非常に冷めた子供だったのに、今はエーレンフェストの聖女に傾倒していて、その変化が微笑ましくもあり、不安でもあると言っていた。
……うん、わたしも時々不安になるよ。優秀だからこそ怖いというか、ね。わたしの研究をライフワークにするなんて言い出すし。
徴税官の言葉を要約すると、主の言うことは聞くので、しっかりハルトムートの手綱を握っておいてください、ということらしい。そういえば、オティーリエにも同じようなことを言われた記憶がある。
「ハルトムートは優秀ですから、側近として側に置いておけば、使い勝手は良いと思います」
「そうですね。適応能力も高いというか、柔軟性があるというか……」
神殿でもすぐに馴染んで仕事をしているハルトムートを思い出してそう言うと、徴税官は軽く目を見張った。
「頑固で、他人の言葉ではなかなか自分の考えを変えようとしないハルトムートが、ローゼマイン様にはそのように見えるのですか。それは、おそらく柔軟に対応してでも、ローゼマイン様にお仕えしたいと考え、実行しているからです」
一瞬だけ頭に思い浮かんだ「狂信者」という言葉は、何となく不穏なので、丸めてポイしておく。わたしが考えているよりもずっとハルトムートは忠臣だったようだ。
……何かご褒美を上げた方が良いかも。
フラン達の書字板を羨ましがっていたし、自分の側近達にもお揃いの何かがあっても良いかもしれない。わたしはそんなことを考えながら、途中で一度体調を崩して寝込みつつ、直轄地の収穫祭を終えた。
直轄地の収穫祭を終えたことを報告するために一度神殿へと戻る。そこでもう一度寝込んだ。
収穫祭の途中で寝込んだわたしが、一番戻ってくるのは遅かったようだ。ヴィルフリートやシャルロッテはすでに収穫祭を終えて城に戻っているらしく、狩猟大会にもぎりぎり間に合ったらしい。
「神官長、わたくし、次はグレッシェルへ向かいますね」
「グレッシェルへ向かうのならば、エルヴィーラにも連絡を入れなさい。収穫祭だけではなく、印刷業に関することも行うのであろう?」
神官長に指摘されて、わたしはポンと手を打った。神殿から神殿長として出るので、儀式の延長で、離れに泊まり、グーテンベルクだけを回収してくるつもりだった。だが、グレッシェルへ行けば、ギーベ・グレッシェルと対面することになるかもしれない。
ブリュンヒルデの父親であるギーベ・グレッシェルは生粋の貴族なので、誰かがいないと話題にも、対応にも困る。間に入ってくれるお母様か、ブリュンヒルデの存在は必須だ。
「ローゼマインです。直轄地の収穫祭が終わったので、これからグレッシェルへ向かいます」
お母様にオルドナンツで連絡を取ると、すぐにお母様から返事が届いた。諸々の準備を整えて、文官も連れて行くので、三日後に出発ということだ。
日付が決まったので、ブリュンヒルデにもグレッシェルへ行くことと、同行するかどうかを問う。ブリュンヒルデは未成年者だが、グレッシェルは実家なので、問題ない。
「神官長、今回は収穫祭も行うのですよね? 神殿長として神事で向かうのに、ハルトムート達文官見習いは同行しても良いのでしょうか? 前回は印刷業の関係で同行させたのですけれど」
神事に城の側近は必要ない。けれど、貴族として、領主一族として行動するならば、側近が必要になる。例外的な立場というのは、実に面倒だ。
「一応連れて行きなさい。直轄地ならばともかく、グレッシェルではどちらの立場が必要とされるかわからぬからな」
神官長の言葉に従い、どちらの従者も連れて行くことになった。
フランとモニカ、そして、専属料理人としてフーゴ。貴族の館で滞在するならば、そちらの料理人がいるし、神殿長として離れで泊まるならば、料理人が必要になるので、フーゴだけいればよいだろう。
約束通り、三日後にわたしは神殿長としての儀式の格好を整え、グレッシェルへと向かった。以前にも言ったように、グレッシェルは第二のエーレンフェストだ。アーレンスバッハの姫君に配慮して、直轄地の中でも人口が多い、街道沿いの土地が与えられてギーベとなった。そのため、貴族達が過ごす小さな貴族街と平民達が過ごす下町がくっきりと分かれている。
グレッシェルは直轄地と違って、冬の館は見当たらず、イルクナーと違って、領主の館のすぐ近くに儀式を行うために平民達が集まっているわけでもない。上空からパッと見ても、どこで儀式を行うのかわからなかった。
……祈念式では来たことがあるはずなんだけど、祈念式はギーベに小聖杯を渡すだけだったし。
しかも、その役目は神官長が離れからギーベの館に挨拶に向かって、手早く終わらせてしまったので、わたしはほとんど関知していないのだ。
「徴税官は儀式の場所をご存知ですか?」
「いえ、徴税はギーベの館で行いますから、儀式に関しては存じません」
ギーベの土地では、徴税官は館から出ることなく仕事を終えるのだそうだ。儀式の場で神官によって登録されたメダルを受け取り、徴税はすでにギーベが行っている中から収穫物を移動させるらしい。
「ギーベ・グレッシェル、儀式を行う場所はどちらでしょう? わたくしを案内してくださいませ。わたくし、収穫祭でこの地を訪れるのは初めてなのです」
「……儀式の場所へ?」
不思議そうに聞き返したギーベ・グレッシェルは、片手で顎を撫でながら、もう片手を軽く手を振って、側仕えを呼ぶと何事か囁いた。
その後、慌てたように下級文官らしき人がやってくる。
「ご、ご案内いたします」
「他の方々は印刷についての話をしましょう」
神殿長であるわたしは儀式へ向かい、印刷業関係の文官達は館へ入っていく。側近達も儀式には関係ないので、館に入っているように、とわたしは言ったけれど、ハルトムートだけは「同行する」と言い張った。
「ローゼマイン様の祝福をこの目で見られる機会はそう多くございませんから。それに、グレッシェルには神殿がないのですから、入室禁止はない。違いますか?」
わたしはフランやモニカと共に、ハルトムートも連れて行くことになった。貴族には忌避される下町へ向かうのだが、本人が楽しそうなので、構わないだろう。
料理人のフーゴには料理をしてもらわなければならない。わたしは下級貴族に言って、離れへと連れて行った。グーテンベルクの皆がそこで生活しているはずだったが、中は空っぽで誰もいない。
……なんで?
ルッツやギルに何かあったのではないか、とわたしは思わず下級貴族を睨んだ。
「わたくしのグーテンベルクはどこですか?」
「し、下町で生活しております。こちらの離れでは遠いようで、下町に居を移したいと彼らが……」
しどろもどろに答える下級貴族によると、毎日の移動が大変なので、下町の工房に近いところに住処が欲しいと言われたそうだ。決して危害を加えたり、強制的に移動させたりしたわけではない、と言い募る。
「わかりました。では、儀式の場所へと案内してくださいませ。フーゴとモニカはここで泊まれるように準備してちょうだい」
グーテンベルクが下町で過ごしていても、神官であるフランとモニカはこの離れで泊まらなければならない。掃除や料理をする時間は必要だ。
フーゴとモニカを離れに残すと、騎獣で向かう案内役の下級貴族の後ろについて、フランとアンゲリカとハルトムートを乗せたレッサーバスで儀式を行う広場へと向かった。エーレンフェストの下町で言うならば、中央広場に当たる場所が儀式を行う場になっているようだ。
「……少ない、ですね」
洗礼式、成人式、星結びの儀式を希望する人達が集まっている。けれど、余所に比べて人口が多いはずなのに、集まっている人数は少ない。お祝いの当人達と身内だけという感じだ。
集まっている面々の中にグーテンベルク御一行の顔を見つけた。特に何事もなく元気そうな顔を見て、何かあったのでは、というわたしの中の不安が消えていく。
「では、私はこれで失礼いたします」
案内だけを終えると、とても下町などにはいられないというように、下級貴族が戻っていく。汚くて臭い下町にはいたくないのだろう。
久し振りの下町の臭いに、わたしも思わず顔を歪めてしまう。慣れたつもりでも臭いものは臭い。
「ハルトムートはそちらでアンゲリカと共に立っていてくださいね。儀式の邪魔はしないでくださいませ」
洗礼式の子供をメダルに登録したり、成人式や星結びの儀式を行う人達の照合をしたりとフランが一人奮闘していると、徴税官の叔父について見習いをしていたハルトムートがすっと隣に立ち、手伝い始めた。
「ハルトムート様にお手伝いいただくわけには……」
「心配しなくても、メダルの扱いは知っている」
その間、わたしは子供達に聖典絵本を読み聞かせ、神様のお話を終えると、神に祈りを捧げさせ、祝福する。
「風の女神 シュツェーリアよ 我の祈りを聞き届け 新しき子供の誕生に 御身が祝福を与え給え 御身に捧ぐは彼らの想い 祈りと感謝を捧げて 聖なる御加護を賜わらん」
風の女神 シュツェーリアの貴色である黄色の光が指輪から飛び出して、キラキラと舞い落ちる。わたしにとっては、そして、直轄地の収穫祭では、見慣れた光景になってきた祝福の光だが、グレッシェルではそうではなかった。
「うわっ!? 何だ、これ!?」
「すげぇ!」
初めて祝福を見たような子供達の反応に、そういえば、わたしがギーベの土地で祝福を与えるのは初めてだ、と思い出した。
周囲に集まっている身内の人達もポカンとした顔になっている。その中、グーテンベルクと一緒に立っていたギルが得意そうに胸を張って、大きな声を上げた。
「だから、言っただろう? オレは嘘なんか吐いていない。ローゼマイン様は本物の祝福ができる聖女で、オレはローゼマイン様の側仕えなんだ」
下町でしばらく過ごしていたせいか、ギルの言葉遣いが荒くなっていた。
ずいぶん下町に馴染んでるな、とわたしが思ったのと違い、フランは「あのような言葉遣いで、ローゼマイン様の側仕えを名乗るとは……」と顔をしかめた。神殿に戻ってからの再教育が大変そうだ。
本物の祝福だ、という声が響いたせいか、「なんだ、なんだ」と野次馬が集まり始める。成人の祝福を終え、星結びの儀式の祝福を行う頃には、かなり人が増えていた。
「ずいぶんと聖女伝説が広がりましたね」
ハルトムートが楽しそうだ。聖女伝説が広がる瞬間に立ち会えたことが、とても嬉しくて楽しいらしい。わたしには理解できない。
「たいしたことはしていないのですけれどね」
このような儀式の祝福に使う魔力はそれほど多くない。指輪を光らせる貴族達への挨拶と、さほど変わらないものだ。
けれど、ハルトムートはゆっくりと首を振った。
「祝福を返してくれるわけでもない平民のために、魔力を使って祝福できるところがたいしたことなのです」
ハルトムートの言葉に、わたしは貴族と自分の間にある深くて広い溝を改めて知った。
収穫祭とは言っても、エーレンフェストの下町と同じで、農村のような収穫があるわけでもない。グレッシェルの収穫祭では儀式の後、ご近所で祝いの宴があるらしく、皆が三々五々連れ立って去っていく。
少しずつ人が減っていく広場で、わたしはグーテンベルク達を手招きした。ギルが一番に駆け寄ってくる。
「お呼びですか、ローゼマイン様?」
どうやら完全に言葉が崩れているわけでもなさそうだ。わたしは小さく笑いながら、「今夜は離れで泊まるようにね。話が聞きたいのです」と言うと、「すぐに向かえます」と言った。収穫祭でわたしがやってくることを知っていたので、すでに移動の準備はできているらしい。
「では、皆を乗せて騎獣で向かいましょう」
わたしは広場でレッサーバスを出して、乗り込んだ。そして、グーテンベルクが寝泊まりしていた場所を回り、次々とグーテンベルクを回収していこうとした。けれど、灰色神官達がレッサーバスに乗り込もうとしない。
「着替えが終わったら、報告を聞きたいのです。夕食をギーベの館で摂ることになれば、あまり時間がありませんから、早く乗ってくださいませ」
「身を清めて、着替えねば、ローゼマイン様の前に出られる状態ではございません。騎獣に乗せていただくなど……」
灰色神官達がレッサーバスを前に固まってそう言った。下町で過ごしていると、気にならなくなっても、わたしの前では気になって仕方がないようだ。
「……わかりました。時間がありません。全員まとめて丸洗いしましょう」
「はい?」
荷物だけはレッサーバスに積ませ、グーテンベルクを一カ所に集めた。ルッツもギルもザックもヨハンもヨゼフも、皆が眉根を寄せて、何が起こるのか、と周囲を見回している。
「全員、鼻を摘まんで、目を閉じてくださいませ」
わたしはそう言いながら、シュタープを出して、魔力を込める。
「ローゼマイン様、手加減必須ですよ」
背後から巻き込まれることを覚悟しているように鼻を摘まんだダームエルの注意が飛んできた。ダームエルが即座に鼻を摘まんだ様子を見て、グーテンベルクが鼻を摘まむ。
「ヴァッシェン」
今回は上手く手加減できたようだ。グーテンベルクがすっぽりと入る大きさで水が呼ばれて、数秒で消えていく。
突然水に溺れることになったグーテンベルクは鼻を摘まんでいても目や口を開けてしまったようで、数人がゲホゲホと咳いているが、これで全員綺麗になった。ついでに、ヴァッシェンが当たっていた部分だけ、足元がピカピカの白になっている。
「はい。これで問題ないでしょう。乗ってくださいませ」
わたしが促すと、グーテンベルクは狐につままれたような顔でレッサーバスに乗り込んでいく。「下町が綺麗になったのは、これか」というルッツの呟きが聞こえた。大正解である。
離れに戻ると、グーテンベルク達は着替えたり、今夜の寝床をどうするのか話し合ったりとバタバタしている。
わたしはモニカに儀式用の衣装から貴族の衣装へと着替えさせてもらっていた。グーテンベルクとの話し合いが終わったら、オルドナンツでブリュンヒルデに連絡を取れば良いだろう。
「グレッシェルでの活動はどうでしたか?」
エーレンフェストの下町と変わらないので、貴族との接点はほとんどなく、最初にわたしが職人達に睨みを利かせたことでスムーズに作業は進んだらしい。
「問題らしい問題はありませんでした」
「……灰色神官達がちょっと参っていただけです」
「え?」
エントヴィッケルンとヴァッシェンで改造される春までは、ずっと汚い下町に住んでいた職人達は特に問題なく過ごせたけれど、綺麗に掃除された神殿で育った灰色神官達には汚くて臭くて、生活に慣れるまでが大変だったようだ。
イルクナーは人口が少なく、汚物を農地に使っていたため、臭いはそれほど気にならなかったらしい。
「……さすがにもう慣れましたけれど」
少しばかり不満そうに灰色神官達がそう言った。感情をストレートに出さなければ伝わらない下町で揉まれたせいか、灰色神官達の感情や言葉がずいぶんとわかりやすくなっている。
「ハルデンツェルでも無理だったけど、グレッシェルの鍛冶職人も金属活字でヨハンの合格をもらうのは無理でした」
「もうちょっとだから、冬の間、ウチの工房で預かりたいと話をしているのですが、ギーベに許可をとっていただけますか?」
鍛冶工房へと出向いていたザックとヨハンの言葉に、わたしは軽く頷く。
ハルデンツェルでの教訓を胸に、会話を増やすことをヨハンが頑張ったことと、ザックが上手く間を取り持ったことから、グレッシェルの職人達とは信頼関係が上手く築けたらしい。
「木工工房には印刷機の作り方を教えてきました。もちろん、鍛冶工房との共同作業になりますが、こちらの方は特に問題がありません」
インゴはそう言った。木の種類、切り出し方、組み立て方などを教えればスムーズにできたらしい。印刷機は二台、作られたそうだ。
「インク工房はどうでしたか?」
「はい!」
ハイディが元気よく答えようとすると、ヨゼフがハイディの口を塞いで、わたしへと向き直る。
「頼むからハイディは黙っていてくれ。……インク工房では、黒のインクを作るのは問題がなくても、色のインクを作ろうと思うと、材料が周辺で取れない物もありました。グレッシェル周辺のいくつかの素材で試して、色の研究が始まっています」
「ありがとう、ヨゼフ」
黒のインクが問題なくできたので、印刷自体はできたらしい。あとはここで研究してもらうしかなさそうだ。
「あとは、製紙工房かしら?」
「……製紙業はあまり良くありません」
ルッツが少し肩を落としてそう言った。ギルや灰色神官達も視線を交わし、ゆっくりと溜息を吐く。そして、グレッシェルで作られた紙を取り出した。エーレンフェストで作られている紙に比べると、確かに品質が良くない。一見、藁半紙のように見える。
「どうしてですか?」
「……水が汚いのです。綺麗な紙に仕上がりませんでした」
エーレンフェストは西を流れる太い川はかなり汚いけれど、森を回って合流する細い支流は綺麗だ。紙はそちらの川から引いた水で作っている。
イルクナーは田舎のおかげだろうか、とても水が綺麗だった。水質など気にする必要がなかった。
「綺麗な水を引き込んでくるか、汚れた水を綺麗にするか……これは職人にはどうしようもない問題ですね。ギーベ・グレッシェルにお話をしておきましょう」
ざっと一通りの話を終える。話し合ったメモの確認をしていると、ルッツとギルが顔を見合わせたのがわかった。その後、一度ニッと笑って、二人がこちらへ向いた。
「こちらをローゼマイン様に献上したく存じます」
「印刷の仕方を教えるために作成したグレッシェルの本です。薄くて、内容が少ないですし、貴族向けの売り物にはなりませんが、ローゼマイン様にはお喜びいただけるでしょう」
エーレンフェストから持ち込んだ紙で作っているので、紙の品質は悪くない。いつも見ている本と同じだ。ただ、ずいぶんと薄っぺらいけれど。
わたしは「売り物にならない」という言葉に首を傾げつつ、パラリと捲った。すっと目を通して、その内容を斜め読みして、驚いた。
バッと顔を上げて、わたしはルッツとギルへ視線を向ける。二人が得意そうに笑っていた。
その本に載っているのは、グレッシェルの職人達から二人が聞いた話をまとめた下町に伝わる物語だった。
確かに貴族が購買意欲をそそられるような内容ではない。けれど、グリム計画として各地のお話を集めようと思っていたわたしにとっては、とても大事で、嬉しいサプライズプレゼントだ。
「こうして印刷業を広げた先でお話を集めるようにすれば、各地のお話が集まりますよ。いつの日か、平民でも自由に本が読めるようにするのですよね?」
ルッツがニッと笑う。「欲しかっただろ?」とその顔が言っている。「ほら、喜んでくれた」とギルが胸を張っている。
間違いなくわたしを喜ばせてくれる二人に、わたしも自然と笑み崩れていった。
「素晴らしいです、ルッツ、ギル!」
「物語を集めるのに使ったお金は、請求しますよ。……半分だけ」
いつかプランタン商会で印刷するので、半分でいいです、と言うルッツに、わたしは大きく頷く。
……いいよ、全額だって払っちゃうよ! どんと来い!