Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (372)
グレッシェルの貴族と印刷業
その日の夕食はギーベの館で摂ることになった。ギーベ・グレッシェルはレシピ集を買って研究させているのか、スープにはきちんと旨味がある。おいしいかどうか、と言うと、もちろん、フーゴの食事の方が圧倒的においしいけれど。
……わたしも離れで皆と食べたかったな。
わたしが気安くグーテンベルク達と会話することができなくても、ルッツ達が楽しそうに話しているのを聞いているだけでも、少しは下町気分と和気藹々とした雰囲気が楽しめただろう。
こちらでも食事で上がる話題は、ハルデンツェルやグレッシェルの印刷業に関することだけれど、お互いに探り合いをしているような貴族の遠回しな会話に入るのは、疲れるし、気を遣う。食事くらいはあまり頭を使わずおいしく食べたいものである。
探り合いのような食事が終わると、今度はグレッシェルの印刷業と製紙業について、きちんとした報告が行われることになった。
食後のお茶を飲みながら、ギーベ・グレッシェルに任命され、印刷業を任されている文官の報告を、ギーベを始め、視察に訪れた文官達が頷きながら聞いている。
「グレッシェルの印刷業は特に問題なく動き始めているようです。試しに、と印刷された本を見ましたが、城で購入された物と特に変わりありませんでした」
「特に問題なく動いているのでしたら、グレッシェルの職人は優秀ですのね」
ハルデンツェルでは鍛冶職人の合格が出なかったことを知っているお母様は、感心しているけれど、グレッシェルの文官の報告はグーテンベルクから聞いた報告とずいぶん違った。
……あれ? 問題点って、結構あったよね?
わたしが思わず首を傾げると、隣に座っていたハルトムートが自分の手元のメモに視線を落として、軽く息を吐いた。
「私がローゼマイン様と一緒に聞いていたグーテンベルクからの報告とずいぶん違うようですが……」
「どういうことだ?」
ギーベ・グレッシェルの表情が訝しげなものになり、文官とハルトムートを見比べる。ハルトムートは自分のメモを見ながら、グーテンベルクの報告を簡潔に述べた。
「ハルデンツェルと同じく、鍛冶職人は金属活字に合格が出ていません。色インクもこの周辺では材料が簡単に手に入らないようで、こちらの素材で要研究とのことです。それから、グレッシェルの水が良くないため、紙を作ることはできるけれど、品質が良くないと聞いています」
できていない、という報告を聞かされたギーベ・グレッシェルが不快そうに顔をしかめた。
「グレッシェルの平民は無能ということか」
……いやいや、どう考えても適当な報告をした文官の方が無能だよ。
心の中では間髪入れずにツッコミを入れるけれど、領主の養女であるわたしが、それを言ってしまうと、文官の将来がその瞬間に消えてなくなるに違いない。
さて、何と言って、貴族と平民の間を取り持てばよいだろうか。このまま放置しておけば、全部平民のせいにされるのは確実だ。
「ギーベ・グレッシェル。グレッシェルの平民は別に無能ではございません」
わたしが発言したことで、一斉に視線がこちらへと集まった。その視線のほとんどが「平民を庇うのか?」というもので、一部は「余計なことを言うのではありませんよ」とわたしを牽制するものだ。
「見所があっても、時間が足りないだけですわ。冬の間、エーレンフェストへ鍛冶職人を連れて行って、教育することはできると、わたくしのグーテンベルクから申し出がございます。滞在費はギーベ・グレッシェルに持っていただきますけれど、時間をかけて教育すれば、鍛冶職人の問題はなくなるはずです」
わたしの提案にギーベ・グレッシェルが眉間に深い皺を刻んだ。
「これ以上、平民にお金をかけるのですか……」
印刷業の誘致にかなりのお金がかかっているのは、最初に始めたわたしが一番よく知っている。これ以上お金を払いたくないという気持ちはわからないわけではないけれど、ここで渋ったら、今までの投資が無意味なものになる。
「金属活字は消耗が激しいので、作れる職人がいなければ、ずっと金属活字を買い続けることになります。長い目で見れば、グレッシェルの職人が作れるようになった方が良いと思いますけれど、それはギーベ・グレッシェルのお考え次第ですね」
別に鍛冶職人を育てなくても、金属活字を買い続ければ、印刷機があるので印刷はできる。どちらにお金をかけても良いですよ、と選択肢を示すことで、安易に職人を潰すという選択肢をそっと外してみた。
「ふぅむ……」
「グレッシェルの製紙業に関しては、綺麗な水を引き込んでくるか、汚れた水を綺麗にするか、どちらかが必要になると思います。けれど、これは職人にはどうしようもない問題です。大規模な水の浄化には魔術具の設置が必要になるとフェルディナンド様がおっしゃったので、貴族の役目でしょうね」
考え込むギーベ・グレッシェルにわたしは製紙業の問題点についても、妙な無茶振りをされる前に、決して平民のせいではないのだ、と刷り込んでおく。
「グレッシェルをどのように導いていくのかは、ギーベ・グレッシェルがお考えになることですから、これ以上の差し出口は控えますね」
どこまで言っても大丈夫なのかわからないので、わたしは平民を擁護しつつも、あまり口を出さないように気を付けておいた。どんな一言が貴族のプライドを潰すのか、わからないのだ。
……言えるものなら言いたいけどね。「グレッシェルはギーベである貴方の土地なんだから、館でふんぞり返って、平民に責任を擦り付けていないで、もっとしっかり見て、きちんと手入れしなよ!」とか「イルクナーやハルデンツェルを見習って、平民とちゃんと向き合ったら?」って。
食事を終えたわたしは自分に与えられた客間に戻る途中で、ハルトムートに今日のグーテンベルクからの報告をまとめておくように頼んでおく。お母様にグレッシェルの現状を報告して、貴族の矜持を傷つけないように上手く印刷業を進めていってもらわなければならない。やりすぎラインの見極めが得意ではないわたしよりも、貴族に詳しいお母様に任せた方が良いだろう。
「かしこまりました」
部屋に戻ると、ブリュンヒルデに世話をされながら、風呂に入り、寝る準備をする。わたしの髪を乾かし、鏡台の前で丁寧に梳りながら、ブリュンヒルデが思い切ったように口を開いた。
「ローゼマイン様は神殿でお育ちですから、わたくし達とは考え方が違います。だからこそ、お伺いしたいのですけれど、ローゼマイン様は何故それほど平民を庇うのでしょう? 平民であるグーテンベルクからの報告よりも、貴族である文官の報告が重用されるべきではありませんか」
鏡越しに見る飴色の瞳は本当に不思議そうで、自分の発言を正しいものと考えているのがわかり、わたしは驚きを隠せなかった。
夕食時はギーベ・グレッシェルの矜持を潰さないように、わたしなりにオブラートに包んで、言いたいことの半分も言わずに済ませたつもりだ。けれど、彼等にとっては、文官の報告よりもグーテンベルクの報告を優先した時点で、不可解だったらしい。
「……わたくしは印刷業を成功させるためにグーテンベルクを派遣したのですから、成功させるためにどうすればよいのか、考えているだけです。グレッシェルの下町で実際に働いたグーテンベルクの報告を、下町に下りることさえない文官の言葉より重用するのは当然ではありませんか」
「グーテンベルクは平民ですよね?」
「えぇ、平民です。けれど、グーテンベルクはイルクナーやハルデンツェルで製紙業や印刷業を広げてきたわたくしの手足です」
……あぁ、ダメだ。わたしの製紙業や印刷業とグレッシェルの土地柄は合わない。
長閑な田舎で、民との距離が近いイルクナーでは新しい紙が次々と生み出されるくらいの成功を見せ、上級貴族であるギーベ・ハルデンツェルが管理する土地でも上手くいった。だから、わたしは貴族街の貴族達とは噛み合わなくても、ギーベの治める土地ならば、成功するだろうと何となく考えていたが、そうではなかったようだ。
「……ブリュンヒルデの考えがグレッシェル貴族の平均的な考え方だとすれば、製紙業や印刷業をグレッシェルに取り入れない方が良かったかもしれません。神殿育ちのわたくしの考えは、この地にはそぐわないでしょうから」
製紙業を止め、必要な道具を自分達で作るのではなく、全て買って、印刷だけすれば、しばらくは何とかなるだろう。けれど、自分の土地で賄えるのに比べると、印刷にかかるコストが段違いだ。周囲に印刷業が広がれば、割高になるグレッシェルの印刷物はすぐに衰退するに違いない。そして、平民が「無能」と罵られ、最悪の場合、濡れ衣で断罪される。
……平民への被害を軽減させる方向で、何か対策が必要になるかも。
最悪の事態を想定して、わたしが考え込んでいると、ブリュンヒルデがコトリと櫛を置き、その場に跪いた。
「ローゼマイン様はグレッシェルの印刷業があまり明るい見通しではないとお考えなのですね? 何故ですか? イルクナーやハルデンツェルとグレッシェルでは何が違うのですか? 聞かせてくださいませ」
聞かせろ、と言われて、すんなり答えられるならば、夕食の席でギーベ・グレッシェルに全て言ってしまっただろう。言わずに済ませたのに、ここでぶちまけてしまっては意味がない。
「わたくしの正直な感想をそのまま口にすると、貴族の矜持を傷つける可能性が高いのです。グレッシェルの貴族であるブリュンヒルデは、良い気持ちはしないでしょうから……」
「わたくし、グレッシェルが最初の失敗例になるのは避けたいのです。まだ間に合うならば、教えてくださいませ」
わたしを見上げ、じっと見つめてくる飴色の目は真剣だった。グレッシェルで始めた印刷業を成功させなければ、という焦りが見える。
ブリュンヒルデがわたしの側近で、ハルデンツェルとも親戚関係にあるため、グレッシェルは多少情報が多い状態で印刷業を始められている。それにもかかわらず失敗するのもまた、貴族の矜持に関わるのだろう。
……教えてもらわないと、自分のことはわからないからね。
周囲と自分の差は、自分ではわかりにくく、第三者に教えてもらって、やっと見えてくることはある。受け入れられるかどうかはともかく、どう違うのか、知らなければ変われない。常識がわからないわたしが言うのだから、間違いない。
「……グレッシェルの貴族は他の土地と比べると、民のことを考えていない気がいたします」
「そのようなことはございません。お父様は……」
「ギーベ・グレッシェルにとって、平民は守るものではないでしょう? 共に生きていく者ではない。違いますか?」
「平民ですもの。共に生きることはございませんわ」
それを当たり前のことと考えているブリュンヒルデの言葉に、わたしはそっと息を吐く。
「イルクナーでも、ハルデンツェルでも、貴族と平民が共に収穫祭や祈念式を祝っておりました。ギーベにはその土地に生きる平民を守ろうとする土地持ちの貴族の矜持がありました。けれど、グレッシェルにはそれが感じられません。土地を守るギーベではなく、貴族街の貴族にとても近いように感じられます」
「どちらも貴族ですけれど……?」
土地を治めているギーベと貴族街に住んでいる貴族の違いが理解できないようで、困惑したようにブリュンヒルデが呟いた。
「土地持ちの貴族と貴族街の貴族は違う、と聞いています。だからこそ、わたくしは印刷業を担当する文官をその土地の貴族から選出してもらえるようにお願いしたのです。自分達の土地を富ませ、民を導くために、担当文官は真剣になる、とお母様に聞いたからです」
平民とのやり取りに慣れていて、自分達の土地を発展させるために力を尽くす。それを期待して、印刷業の担当文官は選ばれているはずだった。
「けれど、グレッシェルの担当は違いました。事業の進行をしっかりと把握しているわけでもなく、下町に下りて状況を確認するわけでもなく、何か不都合があれば平民に責任を押し付けています」
「ですが、平民は……」
「えぇ、貴族がどのように平民を扱おうと、文句など出ないでしょう。どう考えても無茶な仕事を押し付けようとも、全く罪がなくても罪だと言いきっても、我慢すべきは平民。むしろ、我慢させているという自覚さえありません。それが貴族にとっては当然のことですから」
ブリュンヒルデがコクリと頷いた。平民と貴族の違いをわたしがわかっていて、肯定する言葉を出したことに少し安堵しているようにも見える。
その安堵をわたしは一言で打ち砕いた。
「けれど、それでは印刷業や製紙業は成功しません」
ブリュンヒルデが今度こそ理解不能と言うように、大きく目を見開いた後、何度か目を瞬く。そして、少し青くなった顔で、小さく問いかけた。
「……何故ですか?」
「わかりませんか?」
ブリュンヒルデは「わからない」とは言えずに、唇を引き結んだまま、困ったような顔でわたしを見ている。
「紙を作るのも、インクを作るのも、金属活字を作るのも、印刷機を作るのも、印刷をして本を作るのも、できあがった物を売るのも、全て平民だからです。下町の、印刷業の状況を見ようともせず、知ろうともせず、言われた通りに仕事をしてきた平民に責任を負わせて潰しているようでは、印刷業は決して成功しません。ブリュンヒルデは生粋の貴族ですから、平民の気持ちを理解できないのは仕方がありません。けれど、下町に目を向けず、知ろうともしないのでは、上手くいかないと思います」
成功しないという言葉に、ブリュンヒルデがビクッと震えた。失敗を恐れ、恐怖さえ感じている表情には見覚えがある。
……あぁ、そうか。新事業の失敗も貴族の汚点になるんだ。それも、個人ではなくて、グレッシェル丸ごと。
そう考えると、ブリュンヒルデの焦りがよく理解できた。同時に、イルクナーは起死回生の手段を探していたとはいえ、成功するかどうかもわからない製紙業によく手を出したものだと思う。
「製紙業や印刷業を成功させるために必要な改善点については、夕食の席でギーベ・グレッシェルにお話しいたしました。わたくしの意見を取り入れるのか、これまでと同じように進めていくのか、選ぶのはギーベ・グレッシェルです」
ブリュンヒルデがきつく拳を握りしめながら、「教えてくださって助かりました。恐れ入ります」と立ち上がる。
わたしを寝台へと向かわせ、眠るための準備をしながらも、ブリュンヒルデは色々と考えているようだ。飴色の瞳が思考の海に沈んでいるのがわかる。
「ブリュンヒルデには、貴族としての矜持があり、グレッシェルの貴族としての誇りに傷が入らないように努力しようとする姿勢が見えます。それはとても好ましいものですが、ブリュンヒルデが守るべきグレッシェルが、貴族だけではなく、グレッシェルに与えられている土地とそこに住まう者全てであることを受け入れてほしいと、わたくしは願っています」
次の日は、徴税官の仕事を見て、特に問題がなければ、グーテンベルクを連れてエーレンフェストへと戻ることになっている。
徴税官の仕事を見張るのは、神殿長としての役目なので、今のわたしが連れているのはモニカとフランだ。それから、護衛騎士の二人。グーテンベルク達は荷物をまとめているらしい。
グレッシェルの夏の館へと運び込まれている物資を、徴税官がチェックして、下働きの男達に転移の魔法陣に並べさせていく。
次々と移動させられる物を見ていると、周囲を窺っていたダームエルから声がかかった。
「ローゼマイン様、ギーベ・グレッシェルがいらっしゃいました」
わたしが振り返ると、ギーベ・グレッシェルとブリュンヒルデがお母様やハルトムートと共にこちらへやってくるのが見える。
何やら決意したらしい顔付きになっているギーベ・グレッシェルがわたしの前に跪いた。
「ローゼマイン様」
「何でしょう?」
「グレッシェルの鍛冶職人を鍛えていただきたく存じます」
印刷業を失敗するわけにはいかない、と言ったギーベ・グレッシェルの後ろで、ブリュンヒルデとお母様とハルトムートが少し安堵したように肩の力を抜いた。多分、皆でギーベ・グレッシェルを説得していたのだろう。
ギーベ・グレッシェルがどのような選択をしたのか、どのように変わっていくつもりなのか、わたしは知らない。けれど、何とか印刷業を成功させようと考えていることはわかる。だったら、印刷業が成功するように、できるだけ協力すれば良い。
「かしこまりました。必ず金属活字を作れるようにして、グレッシェルにお返しいたします」
わたしはすぐに離れのヨハンにギーベの言葉を伝えるように、フランに頼んだ。グーテンベルクと共にエーレンフェストへと連れて行くならば、準備を急いでもらわなければならない。
急ぎ足で離れへと向かうフランを見送り、徴税官の仕事を見ながら、わたしはギーベ・グレッシェルに製紙業と印刷業を成功させるために、行った方が良いことを述べていく。最後にちょっとしたおまけ情報を付け足して。
「貴族が立ち入ることに嫌悪感を抱かないように、エーレンフェスト同様に下町を綺麗に整備できれば、他領の商人が増えている今、街道沿いにあるグレッシェルは交易都市としても発展できそうですもの。ギーベ・グレッシェルの手腕が問われますわ」
思わぬことを言われた、とギーベ・グレッシェルが目を瞬いた。
商人を受け入れる町が足りないのだから、流行を広げたいブリュンヒルデの実家には、ぜひ頑張って街を整備して欲しいものである。
「では、荷物を積み込んでくださいませ」
徴税官の仕事が終わり、昼食を終えたら、エーレンフェストへ戻る。わたしが離れの前にレッサーバスを出せば、グーテンベルク達は慣れた動作でどんどんと荷物を積み込んでいく。
「連れて来ました、ローゼマイン様!」
そんな中、下町の鍛冶工房へと職人を呼びに行っていたヨハンが戻ってきた。背後には二人の鍛冶職人がいる。
「お疲れ様、ヨハン。さぁ、乗ってちょうだい。エーレンフェストに戻りましょう」
二人の若い鍛冶職人が、おっかなびっくりレッサーバスに乗り込むのを、やっとレッサーバスに慣れたヨハンが笑いながら見ている。
そんなヨハンをザックが笑う声を背後に聞きながら、わたしはレッサーバスを出発させた。
神殿に戻ると、すぐにいつもの生活が始まる。音楽や奉納舞の稽古に、神官長のお手伝い、午後は神殿と孤児院の冬支度に関する指示を出し、プランタン商会やギルベルタ商会と連絡を取り合う。ダンケルフェルガーの写本もまだ全てが終わっていない。
「……ローゼマイン様は城にいるよりも、神殿にいる方がお忙しいですね」
ほとんど毎日のように神殿へやってきて、文官見習いとしてわたしを手伝ってくれているフィリーネがしみじみとした口調で言った。
「印刷業を広げるためですもの。わたくし、本を増やすためならば、全力を注ぐつもりです」
フィリーネに答えつつ、わたしはむむっと考え込む。
ルッツと二人だけで始めた製紙業は、ローゼマイン工房やハッセの小神殿、ベンノが運営する製紙工房などの量産を経て、イルクナーに広がり、紙の種類が増えてきた。そして、領主預かりになり、エーレンフェスト全体に広がろうとしている。
同様に、神殿の工房だけで行っていた印刷業も、領主が主体で行うことになった。ハルデンツェルだけではなく、グレッシェルの印刷業が軌道に乗れば、興味を示しているギーベが何人もいるのだから、広がっていくのは時間の問題だろう。本はおそらく加速度的に増えていく。
印刷業に関わっているとはいえ、わたし自身にできることは、もうほとんどない。職人に任せ、工房の運営さえ他人に任せる段階に入ってしまった。
「グレッシェルの印刷業が軌道に乗ったら、そろそろ次の段階に移った方が良いかもしれませんね」
ハルトムートがわたしの呟きを拾ったのか、訝しげな表情になった。
「ローゼマイン様、次の段階とは何でしょう?」
聞かれてしまっては仕方がない。ハルトムートはわたしの側近として、印刷業に一生関わっていくことになる。先々の計画について教えてあげても問題ないだろう。
わたしは胸を張って、宣言する。本が増えたら必要な物は一つだ。
「図書館の建設を行うのです。そのための準備が必要ですね」
「……ローゼマイン様、大変恐れ入りますが、私の中でグレッシェルの印刷業と、図書館の建設が結びつきません」
ハルトムートが理解不能と言うように首を傾げているけれど、何故わからないのか、わからない。
「簡単なことではありませんか、ハルトムート。印刷業が広がると、本が増えるでしょう? 本が増えると収納する場所がいるでしょう? ほら、図書館が必要ではないですか」
エーレンフェストの城の図書室はそれほど広くない。数百冊の本を治めることはできるけれど、これから先に印刷される本を全て収納できるほどのスペースはない。どう考えても収納する場所に限りがありすぎる。
「わたくし、領主候補生の課程で、創造魔術を習ったら、ハッセの小神殿を建てた神官長のように、図書館を建設したいと思っているのです」
創造魔術で作るのは、わたしの、わたしによる、わたしのための図書館である。考えただけで心が躍る素敵な計画である。
こちらには麗乃時代にはなかった魔術具がある。麗乃時代に見てきた図書館よりも、もっとすごい図書館が作れるかもしれない。いや、国一番の図書館を作ってみせる。
「完璧な図書館を作るためには、まず、他領ではどのような図書館があるのか、研究したいですね」
「……図書館を研究するのですか? 図書館というのは、資料を置くための場所ではございませんか? 本棚があれば、それで良いのでは?」
フィリーネとハルトムートが顔を見合わせてそう言うのを聞いて、わたしはブンブンと頭を振って否定する。
「図書館はただ資料を置くだけの場所ではありませんよ! まず、なるべく多くの資料を収集して、利用しやすいように整理して、大事に保存し、利用者への適切な提供等を行わなければならないのですから。他領、特に中央ではどのように図書館が運営されているのかを徹底的に調べあげ、最高の図書館を作り上げるのです。一番蔵書が多い中央の図書館にも負けないローゼマイン図書館をエーレンフェストに作りましょう!」
わたしが熱く野望を語っていると、フィリーネが真面目な顔で頷いた。
「フェルディナンド様の許可が必要になりますね」
……のぉっ! 最初の難関を越えられる気がしないっ!