Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (376)
入寮と忠誠
黒と金の魔力に満ちた光が交錯する。軽く眩暈のするような感覚と目の前がぶれる気持ち悪さに、わたしは思わずぎゅっと目を閉じた。
「貴族院エーレンフェスト寮へようこそおいでくださいました、ローゼマイン様」
声をかけられたことで寮に着いたことがわかり、ゆっくりと目を開けると、二人の騎士が守る転移陣の部屋だった。次に転移してくるヴィルフリートのために、早くその場を空けなければならない。
リヒャルダに促され、魔法陣がある転移の部屋を出ると、わたしの側近達が揃って待ち構えていてくれた。フィリーネだけは同じ学年なので、今は側仕えと共に部屋を整えているのか、姿が見えない。
「お待ちしていました、ローゼマイン様」
「では、姫様。多目的ホールでしばらくお寛ぎくださいませ。わたくしはお部屋を整えて参ります」
下働きの男達が荷物を運んでいく様子を見ながら、リヒャルダがそう言って、側近達に目配せする。すぐにリヒャルダは荷物を片付けるために動き出し、わたしは騎獣を出して乗り込むと、側近達と共に多目的ホールへと移動した。
「久し振りの貴族院の寮ですけれど、あまり懐かしい感じがしませんね」
「城と雰囲気や内装が似ているからでしょう。わたくしもあまり移動した気がいたしません。だからこそ、一年生はあまり身構えず、寮に慣れることができるのですよ」
ユーディットがニコリと笑いながらそう言った。
親がギーベ・キルンベルガに仕える騎士であるため、ユーディットは洗礼式をキルンベルガで行い、冬のお披露目で初めて城に入ったらしい。
「ギーベ・キルンベルガの夏の館とは規模が違う、広くて大きな城に最初は緊張しましたよ。見知らぬ貴族がたくさんいますから。けれど、冬の社交界の間、毎日子供部屋に通うことで、段々と城に慣れてきます」
三年間、そのような冬を過ごすと、毎年の恒例行事となるので、特に緊張もなく城に入れるようになったそうだ。
「貴族院への移動も、新しい生活が始まるということで、やはり緊張していました。でも、城と似たような造りと内装ですし、半分以上は子供部屋で共に過ごしたことがある顔ぶれですから、安堵することができました」
上級生は貴族院へと移動する数日間しか顔を合わせることがないけれど、それでも全く見知らぬ者というわけではないので、緊張の度合いが違うらしい。
顔馴染みを作り、貴族社会に慣れさせるためだけではなかった子供部屋の役割に、わたしは感心しながら、ユーディットの話を聞いていた。
「子供部屋は予想外に大きな役目を持っていたのですね」
「ローゼマイン様とヴィルフリート様が子供部屋に入ってからは、カルタやトランプ、賞品のお菓子など、楽しみがたくさんになりましたし、お勉強もしっかりとするようになりましたから、子供部屋の役目はもっと大きくなっていますよ」
そんな話をしながら多目的ホールに入った。人がほとんどいないガランとした多目的ホールで一番に目に付いたのは、真新しい本棚だった。まだ一冊も本が入っていない状態で、多目的ホールの一角に存在感たっぷりに置かれている。
領主の所有する貴族院の寮に置かれるのに相応しい重厚な本棚で、細かな彫刻がされている。近付いてよく見れば、艶を出すためのニスのような物が塗られて、磨きこまれているのだろう、艶のある木目にわたしの顔が映った。
ほぅ、と感嘆の息を吐き、わたしは大きな本棚を見上げる。うきうきわくわくとした気分が広がっていく。皆が集う多目的ホールに準備された真新しい本棚はまだ何の本も置かれていない。ここを本で埋めていくのだ。
「早く本を入れたいですね」
「では、わたくし、リヒャルダを手伝って荷物を整理し、本をお運びいたしますね」
ブリュンヒルデと共にお茶を準備していたリーゼレータがそう言って、スッと静かに多目的ホールから退室していく。
本棚に頬擦りしたい気分で見ていると、ブリュンヒルデに「こちらからでも本棚は見えますわ」と声をかけられた。
お茶を飲みながら、わたしは本棚を中心に多目的ホールを見回した。去年は一年生を歓迎するために、上級生の皆がいて、にぎやかだったけれど、今年は多目的ホールにいる者は非常に少なくて、とても静かだ。
「皆は何をしているのですか?」
「講義の準備です。一年生と違って、上級生は準備する物が多いですから。ローゼマイン様もヴィルフリート様が到着されたら、準備をしてこれから採集ですよ」
「え?」
「調合の実技で使う素材の採集をしなければなりません。……すぐに終わりますけれど」
貴族院の周辺には品質が高い素材が多いそうで、調合の実技に必要な薬草や魔石を取っておかなければならないとレオノーレが教えてくれた。
エーレンフェストで採集した素材もあるけれど、それは講義以外で調合する時のために置いておくものだそうだ。品質や種類を揃えた方が、講義を行いやすいため、貴族院での採集が推奨されているらしい。
「これまでは上級生の騎士見習いがまとめて採ってきて、他の皆に売っていたのですが、今年は守りながら戦う練習をするためにも、皆で採集に行くことになりました。最終学年である私は連日採集ですよ」
コルネリウス兄様がそう言って肩を竦めた。昨日は三年生が採集に行っていて、今日は二年生の番だそうだ。一年生は調合の実技がないので、採集も必要ないので、連日の採集も今日で終わりらしい。
「ローゼマイン様、わたくし、ボニファティウス様の特訓の成果でしょうか。命中率が上がって、魔石を得るのがとても楽になったのです」
ユーディットが強くなったのですよ、と嬉しそうに報告してくれる。「ダームエルに勝ちたいと努力しているユーディットの伸びは素晴らしいですよ」とレオノーレがクスクスと笑った後、わたしを見る。
「わたくしはこれまで勉強してきた作戦を何とかディッターに活かしていきたいと思っているのですけれど、難しいですね。アンゲリカの攻撃力がなくなったのをどのように埋めるかが、今年の課題ですわ」
……座学では足を引っ張っていたけれど、実技では主力だったからね。
そんな話をしているうちに、ヴィルフリートも到着した。側近達に準備してもらったお茶を飲んでいるヴィルフリートに、わたしは真新しい本棚を指差して示す。
「ほら、ヴィルフリート兄様。養父様が準備してくださった新しい本棚ですよ。どのような本をどのように並べますか? 希望があればお伺いいたしますよ」
わたしを見て、側近達を見回して、ヴィルフリートは肩を竦めた。そして、軽く息を吐く。
「其方ほど本棚に思い入れのある者はおらぬ。其方の好きにすれば良いのではないか?」
空の本棚に本を並べていく喜びと自分の好きに分類しておける幸せがぶわっと広がり、本棚が輝いて見える。その効果でヴィルフリートまで一緒に輝いて見えた。後光が差している感じだ。
「ヴィルフリート兄様……!」
今ほどヴィルフリートがカッコよく見えたことはない。こんなふうに本のことを任せてくれるヴィルフリートが婚約者でよかった。
わたしがヴィルフリートに感謝感激していると、周囲がうっと息を呑み、ハルトムートがそっとわたしの肩を押さえる。
「ローゼマイン様、落ちついてください。興奮しすぎです」
「……ごめんなさい。あまり嬉しかったものですから」
本の並べ方についてひとしきり話した後、今日の採集についての話をしていると、採集ができるように騎獣服に着替え、防寒具を着込んだ二年生が一人、また一人と多目的ホールに集まってきた。
同時に、部屋が整ったと側仕えが知らせに来てくれる。
「では、ローゼマイン。着替えて早速行くぞ」
「はい、ヴィルフリート兄様」
わたしが着替えて多目的ホールに戻った時には、二年生が全員、そして、騎士見習いも全員が揃っていた。皆が防寒具でもこもこで、騎士見習い達は魔石の鎧をきっちりと着て、マントを付けている。
……そういえば、騎士の鎧って防寒もできるんだっけ。
「二年生は採集を重点的に行うように。我々は魔獣を警戒する」
騎士見習いの連携を鍛えるために、コルネリウス兄様が主導でこの採集を始めたらしい。
コルネリウス兄様の号令に合わせて、騎士見習いが動き、二年生を間に挟むようにして、部屋を出る。わたしはいつも通りに一人乗りのレッサーバスで移動だ。
……あれ?
多目的ホールを出て、中央棟に向かう扉がある玄関ホールを横切って、少し奥にへと移動していく。どうやら出入り口が他にもあるようで、別の扉を使うらしい。この辺りの会議室は利用したことがあるけれど、更に奥に行くのは初めてだ。
会議室のある一画を抜けて、角を曲がると、もう一つの玄関ホールが出てきた。観音開きの扉を騎士見習いが二人がかりで開けていく。
普通に寮の外に出られる扉だった。大きく開いた扉の向こうには雪が降っていて、森のように木々が茂っているのが見えた。どの木も雪化粧がされていて、周囲は白に覆われている。
肌を刺すような冷たい空気が頬に当たり、わたしは思わず肩を竦めた。
「順番に騎獣を出してくれ。移動する」
先導する騎士見習い達が騎獣を出して乗ると、空中へと移動する。二年生も順番に騎獣を出していった。フィリーネは下級貴族だが、いつも神殿と城を往復しているので、騎獣を出して動くのは慣れている。騎獣を使い慣れていないローデリヒよりもずっとスムーズだ。
……慣れって大事だね。
騎獣で空高くに駆けあがると、寮のすぐ近くにぽっかりと一カ所だけ、円形に木々のない部分があった。あまり遠くになると、雪と紛れてしまいそうだが、今の高さならば淡い黄色が円柱状に光っているのがわかる。
「あそこがエーレンフェストの採集場所です」
わたしの隣を駆けるレオノーレが黄色に光っている場所を指差した。騎獣を駆って降りていくと、まるでマジックミラーの結界を突き抜けたように、一瞬で景色が変わった。淡い黄色の部分には、何故か草が青々と茂っている。円周部分には背丈の高い木々もあり、何かの実がなっている。明らかにその部分だけ季節がおかしい。
「……何ですか、ここは?」
目を丸くする二年生を見て、コルネリウス兄様が軽く笑いながら教えてくれる。
「元々は宝盗りディッターの時には宝を置いておくための円だとエックハルト兄上から聞いています。ディッター勝負に支障が出ないように、ここには絶対に雪が積もらないそうです」
そのため、どの寮の側にもあって、雪が積もらないこの部分では良い薬草が採れるのだそうだ。そして、ここの薬草や木の実を狙って、魔獣がやってくる。これを狩って、魔石を得る。その寮の狩場でもあるらしい。
「他領の採集場所には決して入り込まないように気を付けてください。宝盗りディッター時代の名残でしょうが、このように問答無用で攻撃されます」
コルネリウス兄様がそう言いながら、シュタープを一瞬で剣へと変形させ、こちらに近付いて来てきた一匹の魔獣を切り捨てる。どろりと魔獣が解けるように形を崩し、キラリと光る魔石になって落ちていった。
「この葉が回復薬に必要です。それから、こちらの黄色の実も拾ってくださいね」
三年生の下級騎士見習いが周囲を警戒しつつ、二年生の調合に必要な素材を教えてくれる。わたし達はシュタープを「メッサー」と唱えてナイフに変形させて、採集していった。
「ユーディット、あちらの木の上のザンツェを狩ってください。トラウゴット、右側に二匹います。気を付けて」
身体強化で視力を強化することに成功しているレオノーレが周囲を見回しながら、警戒を呼びかけ、誰がどの魔獣を倒すのか指示を出している。
寄ってくる魔獣は次々と騎士見習いが狩ってくれるので、わたし達は安心して採集することができた。
そして、寮に戻ると、さっき騎士見習い達が狩って、魔獣から取れた魔石を講義に必要な分だけそれぞれが買い取っていく。これは騎士見習いの貴重な収入になるらしい。
「……去年まではわたくし達が採集した素材分の収入もあったのですよね」
「それはそうですが、これは訓練の一環ですから」
コルネリウス兄様は上級貴族でお金に困っていないから、それで良いかもしれないが、下級貴族にとっては貴重な収入源だったはずだ。
文官見習いや側仕え見習いが自分の手で採集する経験は大事だし、守りながら戦うという訓練ができるのも大事なことだけれど、訓練の一環で済ませてしまうと、せっかくの提案が長続きしないだろう。
「では、採集の素材分くらいのお金を、護衛費用として騎士見習い達に払うのはどうだ、ローゼマイン? 皆の成績を上げるための取り組みであるし、増加した予算から出せるのではないか?」
「それは良いですね、ヴィルフリート兄様。少し計算してみましょう」
わたしが口に出すよりも先にヴィルフリートが護衛費用を払うという案を出してくれた。下級や中級騎士の表情がパッと明るくなる。やはり貴重な収入源だったのだろう。
採集が終わると、すぐに夕食の時間になる。わたし達は採集のための騎獣服から、着替えなければならない。部屋に戻って、リヒャルダ達に着替えさせてもらう。
そして、夕食の席では新入生の歓迎について話し合った。お菓子を準備して、上級生が接待をして歓迎するのだ。役割分担を決める場で、わたしとヴィルフリートの役目は一番に決まった。
「ヴィルフリート様とローゼマイン様は座っていてくださいませ」
「領主候補生にお菓子やお茶を持って来られたら、緊張してしまって、とても味わうどころではありません。寮の決まりや、去年はどのように過ごしたかなどをお話してくださればよいのです」
……寮の決まりか。本棚の使い方について、決まりを作った方が良いかもね。
ここで本は本棚に鎖でつながれる程貴重なものだ。エーレンフェストでは印刷でたくさんの本が作られているし、少し値段を下げることができたけれど、まだまだ高い。勝手に持ち出されて、勝手に売られても困る。
「ねぇ、ハルトムート。本棚とそこにある本の扱いについて注意事項や使用方法を作った方が良いかしら?」
「必要でしょう。本棚に置く本はほとんどすべてがローゼマイン様の私物ですから、どのように扱えば良いのか、周知しておくことは大事です」
多目的ホールから持ち出さないとか、読んだ本は必ず本棚に戻すとか、基本的なことだが、明文化することで全員に周知できる。これでよし、とわたしは大きく頷いた。
次の日、新一年生がそれぞれの側仕えと共に転移陣でやってくる。挨拶をして、席を勧めると、上級生が持て成していった。その中で寮の食事の時間や部屋の使い方などの説明を受ける。
最後に領主候補生であるシャルロッテがやってきた。わたしは側近達に囲まれて、お茶を飲むシャルロッテに早速本棚の使用方法や注意事項について話を始めた。
シャルロッテが「お姉様」と言った後、カップを置いて、軽く頭を振る。
「お姉様、人を持て成す時は世間話から始めましょう。突然、本や本棚の使用法を説明されても困りますよ」
アウレーリアにも図書館の蔵書量についてお話していたでしょう? とシャルロッテが言った。染め物コンペでの世間話は染め物や衣装の流行に関する話から始めるもので、今回は貴族院の講義や寮について話をするところから始めるのが一般的らしい。
「……本棚の使い方は寮のことですし、蔵書数や新しい本の話題は挨拶と同じようなものですよね?」
「違います」
シャルロッテには即座に否定されてしまったけれど、わたしにとって「最近、何読んだ?」「面白い本、あった?」「図書館に読みたがってた本が入ったよ」などは「おはよう」や「元気?」に続ける挨拶の一種に分類されている。
「そんな挨拶は聞いたことがないぞ。一体いつ誰に対して使うのだ?」
「わたくしが本好きなお友達にあった時に使うのです」
「全く一般的ではないな」
ヴィルフリートにまでそう言われ、わたしはむぅと唇を尖らせる。ここは本が少ないため、わたしの挨拶が一般的だと認識されないのだ。
……いつか、挨拶にしてやるんだから!
「そうそう、忘れるところでした。ヴィルフリート兄様、シャルロッテ。わたくし、これから旧ヴェローニカ派の子供達を集めて、労いの言葉をかける予定なのですけれど、同席しますか?」
わたしに知らせようとしてくれたので、わたしが一人で労うつもりだったが、これを機会に旧ヴェローニカ派の子供達を少しでも取り込もうとするならば、領主候補生が全員揃っていた方が良い。
「もちろん同席いたします」
「あぁ、私もだ」
わたしはリヒャルダに会議室の準備を任せ、旧ヴェローニカ派の子供達が集まっている一角を見遣る。去年に比べるとかなりマシだけれど、一度エーレンフェストに戻るとどうしても派閥の壁ができるように見えた。
「姫様、準備が整いましたよ」
「ありがとう、リヒャルダ」
わたしがスッと立ち上がると、ハルトムートが声を上げた。
「マティアス、ローデリヒ。例の件に関わった子達と共に、会議室に来てくれ」
マティアスとローデリヒが緊張した顔で周囲にさっと視線を走らせる。「例の件」ですぐにわかったのだろう、他の子供達もコクリと頷いた。三人の領主候補生とその側近が動き出し、旧ヴェローニカ派の子供達ばかりが後について移動する。事情を知らない皆はそれをポカンとした顔で見送っていた。
わたしが会議室で席を勧めると、強張った顔で皆が座り始める。旧ヴェローニカ派の子供達だけでも十人以上いるので、結構大人数だ。
ずらりと並ぶ旧ヴェローニカ派の子供達の中、グッと拳を握ったままローデリヒが何か言いたげにこちらを見ているのがわかる。
「貴方達が勇気を出して教えてくださったおかげで、襲撃は未然に防がれ、アーレンスバッハとエーレンフェストの星結びの儀式を恙なく終えることができました。感謝しています。……エーレンフェストで大っぴらに呼び出して、労いの言葉をかけたら、家族との関係に良くないでしょうから、貴族院で労おうと思っていたのです」
わたしが労いの言葉をかけると、おそらく中心人物なのだろう、マティアスが皆を代表して、「勿体ないお言葉です」と答える。濃い紫の髪が少し揺れた。
マティアスはヴェローニカ派の中でも中心にいるゲルラッハ子爵の末息子だ。中級騎士見習いで、トラウゴットと同じように魔力圧縮の方法を知らないことで魔力の伸びが良くないことを嘆き、成人するまで自分で派閥を選ぶことができないことを悔しがっていた記憶がある。
「ローゼマイン様が報酬として魔力圧縮を教えたいと申し出てくださったことはアウブ・エーレンフェストから伺いました」
「大変な条件が付いた、とわたくしも聞いています」
領主一族の誰かに名を捧げるという条件は、とても厳しい。忠臣でも名を捧げる程の者は滅多にいないと聞いている。エックハルト兄様とユストクスの二人から名を捧げられている神官長がおかしいのだ。
「力不足で申し訳なく思っています」
「いいえ、時がたち、状況が変われば、もっと条件を緩和できる、とアウブ・エーレンフェストからお言葉をいただいております。状況によっては、ずっと教わることができないとも言えますが……」
今の成長期にすぐさま魔力圧縮方法を教わろうと思えば、名を捧げなければならないだけだ。
そう言って、困ったようにマティアスが微笑んだ時、ローデリヒがガタッと立ち上がった。きつく握った拳が震えている。顔が紅潮して、わたしを見ている。ローデリヒが何を言い出すのか、その場にいる全員が悟った。
「……わ、私の名をローゼマイン様に捧げたいと存じます!」
「よく考えてください、ローデリヒ。勢いで決めて良いことではありません」
魔力圧縮方法を得ることは貴族にとって大事なことだろう。けれど、それは自分の命を預ける程の価値はないと思っている。むしろ、わたしにローデリヒに名を捧げられるような価値がない。
「ローゼマイン様のおっしゃる通り、勢いで決めて良いことではない。もう少しよく考えろ」
「マティアス。私は……」
「我々は名を捧げた時点で、親と決別することになる。これまで旧ヴェローニカ派だったのだ。名を捧げて側近入りしても、周囲には裏切り者のような目で見られることもあるし、情勢はどのように変わるかわからない」
マティアスはぎゅっと眉根を寄せて、苦しげな表情を見せた。
「あるところに男がいた。次期領主となることが決まっていた方に心酔し、その方が領主になってからも、ずっと忠臣としてギーベとなり仕え続けるのだ、と希望を胸に名を捧げた。だが、突然状況が変わった。その方は突然次期領主の座を下ろされてしまったのだ」
ゴクリとその場に居合わせた者が息を呑んだ。
それはあり得ない状況ではない。
ヴェローニカが権力を握っていた時代が数十年続いたのに、それが突然ひっくり返ったのだ。あれからたった数年だ。またひっくり返る可能性がないとは言えないだろう。
「ローゼマイン様は去年の貴族院に在学した、たった数ヶ月で王族や上位領地の領主候補生と多くの繋がりを持たれた。その影響力は驚くほどで、エーレンフェストにもたらした多くの恵みを考えれば、名を捧げる価値があると私も思っている」
マティアスがそこで一度言葉を切った。
「けれど、だからこそ、その影響力の大きさがどのように作用するのかわからない。ローデリヒが名を捧げる相手が、アウブ・エーレンフェスト夫妻ならば、私も止めなかった。けれど、ローゼマイン様もヴィルフリート様もシャルロッテ様も未成年で、どのように変わっていくのか、全くわからない。親という後ろ盾さえなくしてしまう我々が勢いで決めるのは危険なのだ、ローデリヒ」
マティアスの言葉にローデリヒが顔色を失い、わたしとマティアスを見比べるように視線を動かす。
「よく考えるんだ……」
苦渋に満ちたマティアスの声は淀みなく、まるでずっと自分に言い聞かせてきた言葉のようだった。