Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (399)
帰還
気が付いたら、自分の寝台だった。いつの間にわたしは寝ていたのだろうか。昨日の夜の記憶がないな、と思いながら起き上がり、枕元にあるベルに手を伸ばす。チリンと軽やかな音が響くと同時に、心配そうに表情を曇らせたリヒャルダが天幕の中へ入ってきた。
「姫様、体調はいかがですか?」
「リヒャルダ、今とても幸せな夢を見ていました。わたくし、王宮図書館に行けるのです」
「……夢ではございませんが、王の許可が下りるかどうか、まだわかりませんよ。お元気そうで何よりですけれど」
心配から呆れへ表情を変え、ハァ、と溜息を吐いたリヒャルダが首を振った。そこでやっと思い出した。わたしは本好きのお茶会で王宮図書館にお誘いを受けて、嬉しさと感激で溢れそうになる魔力を制御できずに倒れたのだ。
……のおぉぉ! お茶会の主催者なのに倒れるの、二回目! 王族の前で意識を失うのも二回目!
すぅっと血の気が引いていく。まずい。これは非常にまずい状況ではないだろうか。おろおろしながら、わたしはリヒャルダを見上げた。
「リヒャルダ、あの、お茶会は? お茶会はどうなったのですか?」
「当然中断いたしました。続けられるわけがございません」
せっかく楽しく和やかだった本好きのお茶会が、突然倒れたわたしのせいでサスペンスかホラーに早変わりしたらしい。
「本のお返しに王宮図書館に招待すれば喜ぶのでは? と提案した途端、バタッと音を立てて倒れた姫様を見て、ヒルデブラント王子の側近が狼狽していました。感情を抑えることに長けているはずの中央の上級貴族達を呆然とさせたのですよ、姫様は」
図らずも倒れた原因となってしまったアルトゥールは「なっ!?」と口を開けた状態で立ち尽くして固まってしまったらしい。まだ許可さえ出ていない提案の時点で、嬉しさのあまり意識を失うなんて、普通は考えないだろう。
……うあぁ、アルトゥールさん、ごめんなさい。
そして、リヒャルダが呼びかけても全く動かないわたしを見て、ヒルデブラントは「ローゼマインはどうなってしまったのですか?」と固まったままのアルトゥールを涙ながらにゆさゆさと揺さぶる混乱ぶりを見せていたそうだ。おまけに、「落ち着いてくださいませ」とヒルデブラントに声をかける王子の側近達の声も上擦っていて、戸惑いを隠せていなかったと言う。
……ごめんなさい。ごめんなさい、皆。トラウマを植え付けるつもりなんてなかったの!
「本のやりとりをした段階で魔石が必要でしたからね。王宮図書館に招待となれば、姫様が昂りを抑えられなくなるのはわかります。わかりますが……また王族の前で倒れてしまいましたね。ハンネローレ様も去年の状態を思い出したようで、目を潤ませていらっしゃいましたよ」
もちろん、突然倒れたわたしに狼狽したのはヒルデブラント達だけではない。初めて倒れたところを目撃したソランジュもおろおろし、ハンネローレも同様だったらしい。
「その後はどうしたのですか?」
「即座にヴィルフリート坊ちゃまとシャルロッテ姫様にオルドナンツを飛ばして、救援を頼みました」
ヴィルフリートとシャルロッテが自分の側近達を率いてやってきて、ヒルデブラントやソランジュに「よくあることなのです」と説明をして、事後処理をしてくれたらしい。その間にリヒャルダがわたしを抱きかかえて護衛騎士と退出し、側仕えや文官はその場の片付けを行ったそうだ。
「ヴィルフリート坊ちゃまとシャルロッテ姫様にもお詫びとお礼が必要ですよ、姫様」
「わかっています」
……迷惑かけまくりだ、わたし。
カクンと項垂れていたわたしは、とても大事なことを聞いていないことに気付いた。リヒャルダを見上げて、恐る恐る尋ねてみる。
「リヒャルダ。……あの、お茶会はいつの話かしら? ついさっき? それとも、昨日ですか?」
「二日前です。ヒルデブラント王子とハンネローレ様とソランジュ先生からお見舞いの品物と容体を尋ねるオルドナンツが何度か届いていますよ」
皆を気遣わせてしまったことに頭を抱えていると、天幕の向こうで「ローゼマイン様が目覚められたのですか?」という声がした。護衛騎士から連絡が入ったようで、女の子の側近が部屋に集まり始めたようだ。
「姫様、魔力が落ち着いて御気分が悪くないのでしたら、まずはお食事にいたしましょう。そろそろお昼ですから、シャルロッテ姫様も講義から戻ってきます。お元気な姿を見せて差し上げてくださいませ」
眠っている間にずいぶんと魔石に魔力を移してくれたらしい。道理で起きた時からスッキリしているわけだ。リヒャルダの言葉に頷いて、わたしは寝台から降りる。天幕から出ると、自分の側近達が揃って安心したように表情を緩ませた。
「皆、心配かけてごめんなさいね」
「ローゼマイン様が謝ることではございませんけれど、とても心臓に悪いですわ」
顔を洗って、衣装を整えてもらう間にブリュンヒルデが悔しそうに唇を尖らせた。
「あれだけ念入りに準備を整え、打ち合わせもしたにもかかわらず、またローゼマイン様を倒れさせてしまうなんて、わたくし、側仕えとして失格ではないでしょうか」
わたしの暴走を抑えるためにクッキーやお茶での暗号や指示を考えたり、魔石を渡すタイミングを打ち合わせたり、側仕え達は頑張った。側仕え達の努力が足りなかったわけではない。わたしの方が悪いのだ。
「ブリュンヒルデ達ではなく、二度も王族の前で倒れてしまうわたくしが貴族失格なのですよ」
わたしが肩を落とすと、レオノーレが静かに首を振った。
「今回はローゼマイン様の責任とも言い難いですね。ローゼマイン様の弱いところを的確に攻めてくる手腕が優れていただけです。さすが王族の側仕え、とわたくしは感心いたしました。フェルディナンド様からもある意味では助かった、と連絡が来ています」
「……え? 助かったというのはどういうことでしょうか?」
わたしが目を瞬くと、フィリーネが言いにくそうに口を開いた。
「ローゼマイン様が意識を失わなかったら、保護者達に相談もなく即答で了承していたに違いないため、ある意味では意識を失ってくれて助かったのだそうです」
……危なかった。神官長の言う通り、意識があったら即答してた。相談が必要だなんて咄嗟には考えなかったよ。セーフ。
「姫様が意識を失っている間に帰還日になったのですが、王族や大領地へお詫びや挨拶もせずに帰還させるわけにはいかないので、アウブ・エーレンフェストに許可を得て貴族院に滞在しています」
ヒルデブラントとハンネローレとソランジュに謝らなければ帰還できないし、帰還命令が出たことをドレヴァンヒェルのアドルフィーネにも伝えなければならない。
……帰還前に魔力を込めた魔石をソランジュ先生に渡すのも忘れちゃダメでしょ。他にも何か忘れているような気がするんだけど……。
帰還までに済ませることを指折り数えながら、着替えを終えたわたしは食堂へと降りていく。階段のところでコルネリウス兄様が待っていて、「目覚めて良かった。本当に心臓に悪い」と言いながら頬を軽く撫でてくれた。
食堂へ入ると、すでに昼食を摂っている学生達が大勢いた。わたし達に気付いたシャルロッテが「お姉様!」と声を上げた瞬間、彼らが一斉にこちらを振り返る。王族を招待したお茶会で、わたしがぶっ倒れたことは周知されているようだ。
カタリと席を立ったシャルロッテがわたしの顔を覗き込んで、不安そうに藍色の瞳を揺らした。
「意識が戻ったとは聞きましたけれど、まだ休んでいなくて大丈夫なのですか?」
「今回はとても調子が良いようです。心配をかけましたね、シャルロッテ」
頬や額に触れるシャルロッテの手に軽く触れて笑って見せると、ようやく安心したようにシャルロッテが表情を緩めた。
「ローゼマイン」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、ヴィルフリート兄様」
「意識が戻ったのならば良い。体調は良いのだな?」
わたしが頷くと、ヴィルフリートは食事を再開しつつ、お茶会の後の惨状について話してくれた。リヒャルダと護衛騎士がわたしを連れて寮に戻った後、ヒルデブラント達に説明を始めたらしい。ハンネローレと同じように洗礼式で引っ張って倒れさせたことや雪玉数個でダウンした昔話をして「お気になさらず」と言ったところ、「か弱い姫になんという酷いことを!」とヒルデブラントからお叱りを受けたらしい。
「ヒルデブラント王子もかなり混乱されていたから、感情の捌け口にちょうど良かったのであろうが、私は今回ローゼマインの救援に行って王族に叱られるという希少な体験ができた」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ヴィルフリート兄様」
側近がヒルデブラントを諌め、ヒルデブラント達が退室していくのを見送った後、ヴィルフリートはハンネローレのフォローに精を出すことになったそうだ。
「二度目ですからわたくしは大丈夫です、と涙目で繰り返すハンネローレ様はどこからどう見ても大丈夫ではなかった。ローゼマインのせいでハンネローレ様まで意識を失うかと思ったぞ」
ヴィルフリートは去年同様にダンケルフェルガーの寮までハンネローレを送り届け、説明してきてくれたらしい。
「わたくしはソランジュ先生を担当していました。お姉様が倒れた場に入るのも初めてで、実はわたくしも戸惑ってしまっていたのです」
そういえば、シャルロッテの目の前で倒れたことも、その後始末に追われる現場に同席したこともなかった。ヴィルフリートを真似て「よくあることなのです」と慰めていたけれど、シャルロッテにとっても初めてのことで、全く意識がないわたしの姿が泣きたいくらいに怖かったそうだ。
ソランジュ先生を慰め、ブリュンヒルデ達がお茶会の片付けをしているのを自分の側近にも手伝わせてくれたと言う。とても初めてのアクシデント対応だとは思えない。
……シャルロッテがしっかりしすぎだよ。
「皆にお詫びをしたら、エーレンフェストに帰還だ。いいな、ローゼマイン?」
「はい」
わたしが昼食を終えた頃にハルトムートが戻ってきた。そして、自分の昼食よりも先に報告を始める。ハルトムートは午前に調合の実技があり、そこでヒルシュールと話をしていて遅くなったらしい。
「ローゼマイン様、帰還前にライムントが研究成果を渡すため、面会を願い出ています。ヒルシュール先生からも同様です。どうされますか?」
……思い出した。忘れてたの、ヒルシュール師弟だ!
帰還前に声をかけて挨拶しなければならない相手の中で、誰を忘れていたのか思い出して、胸のつかえがとれた。
「わたくし、シュバルツ達のために魔力供給と魔石を渡すため、図書館に行かなければなりません。明日の午前中に図書館でならば会えると連絡してください」
「かしこまりました。オルドナンツを送ってきます」
ハルトムートはそう言って、すぐに食堂を後にした。わたしはリーゼレータに明日の図書館に向かう時、ヒルシュールとライムントに差し入れるための軽食を準備してもらえるように頼んでおく。あの研究馬鹿師弟は間違いなく碌な食事を摂っていないはずだ。
昼食の後はオルドナンツで回復した旨とお茶会のお詫びを伝え、バタバタと帰還する不義理を詫び続ける。ソランジュのオルドナンツだけには「明日の午前中に魔力供給に行きます」と伝えておいた。
アドルフィーネにもお茶会で倒れたことで、エーレンフェストから帰還命令が出たことを伝える。その日の午後はお詫びと帰還準備で終わった。
「ローゼマイン様、お元気な姿を見られて、やっと人心地がつきました」
「申し訳ございませんでした、ソランジュ先生。感情が昂るとよくあることなので、気に病まないでくださいませ」
胸を撫で下ろすソランジュに改めて詫びて、わたしは不在の間に使えるように魔石を一つ渡す。王宮図書館に興奮したわたしからリヒャルダが魔力を取っておいてくれたので、魔力のたっぷり詰まった魔石が、実は何個もあるのだ。
「ヒルデブラント王子とハンネローレ様がいらっしゃるので、魔力が足りないことはないと思いますけれど、念のためにお渡ししておきます」
「ありがとう存じます。こちらよりもローゼマイン様のお体の方が心配です。エーレンフェストでしっかりと休養を取ってくださいませ」
「お気遣いいただけて嬉しいです」
……多分、エーレンフェストに戻ったら、貴族院にいるより忙しくなると思うんだよね。
冬の社交界の真っ最中だし、奉納式もある。その前に保護者達からの事情聴取とお説教がある。そう思ったけれど、まだ不安そうにわたしを見ているソランジュに余計なことは言わない。
「ヒルデブラント、きた」
「え?」
ヴァイスの声にわたしが扉の方を見ると、本当にヒルデブラントと側近達が入ってきた。シュバルツとヴァイスには主や協力者が図書館の敷地内に踏み込めばわかるらしい。正確には図書館の敷地内のどこにいるのかがわかるそうだ。
「ローゼマイン、本当に大丈夫なのですか?」
ヒルデブラントが紫の瞳を曇らせて、不安そうにわたしを見てくる。身長がほとんど変わらないので、真っ直ぐに見つめられれば、どれだけ心配をかけたのかが一目でわかった。
……王子の周囲に突然倒れるような人が取り立てられるわけがないから、そりゃ、ビックリしたよね。
自分が寝込むことがあっても、他人が寝込むところを見る経験もなかったかもしれない。そんなヒルデブラントの前で失神である。とんでもない衝撃だったはずだ。
「ご心配をおかけいたしました。……その、わたくし、感情が昂ると意識が途切れることが多いのです。慣れていない方を驚かせてしまうので、なるべく倒れないように工夫はしているのですけれど、驚かせてしまって申し訳ございませんでした」
王宮図書館は少し刺激が強かったようです、と心の中で呟く。提案だけで倒れるのですから、と招待されなくなったら困るので心の中だけだ。
わたしが詫びると、ヒルデブラントがふるふると頭を振った。
「突然のことに驚きましたが、もう大丈夫です。私も驚いているだけではなく、トショイインとしてローゼマインを助けられるように強くなりますから」
……ヒルデブラント王子が頑張って背伸びしてる感じがすごく可愛い。
グッと拳を握って「今度は取り乱しません」と言ったヒルデブラントの瞳が決意に燃えているように見える。強くなるための目標が取り乱さないというところも可愛い。
「わたくしが不在の間、シュバルツ達をお願いします。ヒルデブラント王子が気にかけてくださると、とても心強いです」
「はい」
嬉しそうにヒルデブラントが頷いた時、図書館に色とりどりの光が降り注いだ。講義を終えたライムントが図書館にやって来る時間が近い。
「あの、ヒルデブラント王子。大変申し上げにくいのですけれど、わたくし、これから図書館で人と会う約束がございます」
「あまりお姿を見せるわけには参りません。ローゼマイン様のお元気そうな姿をご覧になったのですから、すぐに戻りましょう、ヒルデブラント王子」
アルトゥールが名残惜しそうなヒルデブラントを促しながらわたしを見て、「我々も安堵いたしました、ローゼマイン様」と言った。
ヒルデブラント達が去ってすぐに鐘が鳴り始め、それから少したつとヒルシュールとライムントがやってきた。今日は研究室から出るからなのか、二人とも外見がさっぱりしている。
……なんかこの二人、親子っぽい。研究に没頭して、人生を謳歌している研究者オーラがすごく似てるよ。
ヒルシュールとライムントが近付いて来るのを見ながら、そんなことを考えていると、ヒルシュールがわたしの前に立って、不満そうに口を開いた。
「今年はずいぶんと早いお帰りですね、ローゼマイン様。わたくし、予定よりも研究が進んでいないのですよ」
「連続して倒れたので、エーレンフェストの皆も気を揉んでいるようです」
ターニスベファレンの後に倒れ、復活直後のお茶会で昏倒である。ターニスベファレンの件は学生に伏せられているので言葉を伏せておいたけれど、ヒルシュールには通じたようだ。「後見人であるフェルディナンド様も気が休まりませんね」とクスクス笑った。
「ローゼマイン様の体調回復を待って、あと数日後には呼び出す予定があるとルーフェンから聞いているのですけれど、帰還では仕方がありませんね。こちらで調整いたします」
「よろしくお願いします」
ルーフェンを始め、数人の先生がターニスベファレンに関する事情聴取をしようと日程の調整中に帰還命令が出たようだ。保護者達に相談できる余裕があるのは正直なところ助かる。
そんな先生方の情報をいくつか流してくれた後、ヒルシュールはライムントに持たせていた資料をいくつか手に取った。
「こちらの資料がわたくしの研究成果です。フェルディナンド様に渡してくださいませ。それに、ライムントからフェルディナンド様に提出する課題もございます」
ヒルシュールに促されたライムントが少しおどおどとした様子でわたしの側近達の様子を見ながら、一歩前に進み出て、植物紙の束を差し出す。
「いただいていた課題の改良設計図ができました。これをフェルディナンド様に渡して欲しいのです。その、意見をもらってきてくださると嬉しいです」
ハルトムートがライムントから受け取って軽く頷いた。何度かハルトムートとはやり取りをしているようで、緊張していたライムントの肩から強張りが消えていくのがわかる。
「ライムント、わたくしはエーレンフェストに戻りますけれど、ハルトムートは貴族院に残りますから、新しい課題などを届けさせますね。それまでは規則正しい生活をして、講義を終えたり、栄養を蓄えたり、睡眠を取ったり、次の課題に備えるのですよ」
「まぁ、ローゼマイン様はライムントの母親ですか?」
呆れたようにヒルシュールがそう言ったけれど、わたしはムッとヒルシュールを睨み上げた。神官長が工房に籠りきりになる生活に迷惑しているのはヒルシュールではなく、それ以外の周囲だ。
「師匠であるヒルシュール先生が弟子の生活に気を配らないから、フェルディナンド様のような大人になるのです。子供時代の生活は後々に大きな影響を与えるのですから、今、ライムントの生活が大きく崩れるのを黙ってみているわけにはいかないでしょう。このままではフェルディナンド様二号になります」
「本当ですか!?」
「生活が破綻しているという意味ですから、嬉しそうにしないでくださいませ、ライムント」
ライムントを叱って、わたしはリーゼレータに準備してもらっていた軽食を差し出す。
「わたくしとの約束の時間になるギリギリまで今日も研究していて、食事を摂っていないでしょう? 資料は確かに預かりましたから、今日は食事と睡眠を取ってくださいませ」
「ローゼマイン様は本当に聖女ですね。わたくし、感動いたしました」
ライムントではなくヒルシュールが軽食の入った籠を手にして、歓喜に打ち震えている。やはりヒルシュールはダメダメ師匠だ。
「ヒルシュール先生は講義を忘れないでくださいませ。師匠を仕事に送り出すのも弟子の大事な仕事と心得てくださいね、ライムント」
軽食と共にヒルシュールのお目付けを押し付けて、わたしはライムントとの面会を終えた。
「もう忘れていることはないでしょうか?」
寮に戻ったわたしは、やることリストの最終確認をしながら転移陣のある部屋へと向かう。見送りの側近達、ヴィルフリート、シャルロッテも一緒だ。
「そこに書いたことを全て終えているのならば問題なかろう。エーレンフェストに帰って、父上達に叱られてくるといい。王族と距離を置かせるつもりで帰還を命じたはずなのに、お茶会で倒れて、王族への印象を強くしたことに頭を抱えていたようだぞ」
「あぅ……」
今回連れて帰るのはコルネリウス兄様だけだ。コルネリウス兄様もわたしを送り届けた後はすぐに貴族院にとんぼ返りするらしい。最後の貴族院を謳歌するのだそうだ。今回はあまりにもわたしの帰還が早くて、レオノーレやユーディットもまだ全ての講義を終えていない。
「エーレンフェストにはダームエルとアンゲリカがいるので、護衛は問題ないのですけれど……一人だけ帰るのは寂しいですね」
「奉納式が終わった後、なるべく早く貴族院に戻ってくださいませ」
シャルロッテがそう言って微笑んだ。
今年、ロジーナの事は異性のヴィルフリートではなく、シャルロッテに頼んである。自分が不在にする時に同性の領主候補生がいると心強い。
「ローゼマイン、こちらのことは心配いらない。シャルロッテがいる分、去年よりずっと心強い。少なくとも女性ばかりのお茶会に駆り出されることはないからな」
ヴィルフリートがそう言って肩を竦めた。シャルロッテがクスクスと笑い、わたしも一緒に笑う。
「行きましょう、リヒャルダ、コルネリウス」
わたしはリヒャルダとコルネリウス兄様と一緒に転移陣の上に乗る。転移陣が黒と金の光を発し、視界がぐにゃりと揺れた。