Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (43)
ルッツの教育計画
ベッドの中でゴロゴロしているうちに、ルッツの予測通り熱が上がってきた。疲れから来る熱で、微熱くらいなので身体全体がだるいだけだ。食われそうになる身食いの熱とは違うので、おとなしくしていたらそのうち治るだろう。
そう思って3日がたった。
下がらない熱に苛々してくるが、勝手にベッドを出たら叱られるので、寝すぎてだるくてもベッドの中でいるしかない。
……あああぁぁぁ、暇。
今日は豚の解体日だ。去年と違って、今年は一人で留守番させる程度の信用は得られているようで、朝早くに家族は出かけていった。
お昼に食べられるサンドイッチと家族全員分のカップに水を入れて、寝室に置いてくれているので、お腹が空きすぎてどうしようもなくなることも、喉がカラカラに乾くこともなさそうだ。
シーンとしている部屋の中、動こうと思えば動けるけれど、熱が長引くだけだとわかっているので、ベッドでおとなしくしているしかない。でも、話をする相手もいないので、暇で、暇で、仕方ない。
本があればなぁ……。
失敗作の紙を結構大量に持って帰ってきたが、まだ手つかずで、わたしの服が入っている木箱の底に丁寧に重ねて詰めこんであるだけだ。試作品が出来上がった後、忙しかったというのもあるし、第一作目となる本は気合を入れて作りたいというのもある。
何より、失敗作の紙なので、品質はバラバラ、大きさもバラバラだ。ほぼ成功に近い紙もあれば、完全に失敗でビリビリボロボロの破片のような紙もある。向こうが見えそうなくらい薄くて、触るのが怖い紙もあれば、力を入れ過ぎると割れそうな堅い紙もある。
張り付ける時によれてしまっただけというほぼ成功の紙はまだ使いやすいけれど、乾かした後で剥がすのに失敗して大きな穴が開いた紙は、わたしがもうちょっとナイフを上手に使えるようにならないと、使える部分だけを切りだすのが意外と難しい。刃が細くて小さいカッターみたいに扱いやすくて鋭い切れ味の刃物が欲しい。
そんな紙で本を作るためには、じっくりと向かい合う時間が必要だと思う。今年の冬はとても充実した時間が持てそうだ。
……あ! そういえば、本はないけど、ベンノさんの板があったね。
熱を出す前に「帰ったら目を通しておけ」とベンノに言われた板があることを思い出した。ベッドで寝転がったまま、これを読むくらいなら大丈夫だろう。
わたしはもそりと起き上がって、自分の服が入っている木箱の蓋を開けると、A4サイズくらいの大きめの板をトートバッグの中から取り出した。
ごろりとベッドに寝そべったままで読んでいく。
「……これ、新人教育の課程表だ」
新しく入った見習いに最低限これだけのことを教えると決められた内容がそこに載っていた。書かれている内容を大まかに分けるとだいたいこんなところだ。
身なりを整え、挨拶ができること。
基本文字と数字が全部書けること。
計算機が使えること。
金勘定がある程度できること。
取り扱っている商品を覚えること。
出入りする業者の名前を覚えること。
「うーん、冬の間に二人で勉強できるのは、文字と計算と金勘定かなぁ。下の項目は新人教育の間に、みんなが覚えていくことだから、後回しでもいいと思うんだけど……」
独り言を零しながら、わたしは冬の勉強計画を立てていく。
さて、ルッツは基本文字と数字をどれだけ覚えているだろうか。教えてもらっても、使わなければ忘れるものだ。それを確認して、忘れたところをもう一度教える。
例文代わりに、発注書や面会予約票の書き方を教えるのはどうだろうか? 仕事をするようになっても使う単語ばかりだから、覚えておいて損はないだろう。
ぶっちゃけ、わたしも仕事関係の単語しかあまり知らないんだよね。ここって、辞書ないし、文字を教えてくれたのは、予算のためにわたしを鍛えたかったオットーと商人のベンノとマルクだから、仕事に関する単語は結構覚えたと思う。でも、一般名詞や動詞がわからない。
「計算機の使い方は、足し算と引き算ならわかるけど、掛け算と割り算のやり方はマルクさんにでも聞いてみないとわからないなぁ……」
石板で筆算すれば計算はできるけれど、わたしも計算機が使えるようにならないとダメだ。見習いの間で悪目立ちしないように、なるべくみんなと同じようにできた方がいい。
「ルッツには小学校の1~3年くらいの算数を教えたいんだけど、教科書も問題集もなしじゃあ、教えるのは大変かもねぇ。優先順位としては、数の数え方と大きい数をお金に換算できるようにするのが一番で、一桁の足し算と引き算を徹底させる。それから、掛け算と割り算の概念だけでも……って、冬の間だけじゃ無理か」
さすがに、数字だけに内容を絞るにしても、3年かけてやることを、冬の間に全部やるなんて無理だ。
ハァ、と溜息を吐くと、身体の奥で熱がうごめいた気がした。出てこようと圧力をかけてくるような感触に、わたしはこめかみ辺りに力を入れて、歯を食いしばる。
出てくるな、お呼びじゃないの。
きつく蓋をするイメージで押し込めて、ふぅ、と息を吐く。
それほど長い時間ではないけれど、身食いの熱と押し合いをしたせいで、お腹が空いてきた。家族が置いて行ってくれたサンドイッチを手にとってバクッと噛みつき、むぐむぐと咀嚼しながら、わたしは身なりと挨拶について考える。
「一番の問題はこれだよ。身なりを整え、挨拶ができること。身なりを整えるってどの程度なのか、商人独特の挨拶や言い回しがあるかどうかは、わたし達じゃわからないもん」
働くための服を買わなければならないのは、ベンノの店や商業ギルドの3階で働く人達を見ていればわかる。
その服が一体どれくらいの値段なのか、ベンノに確認してみなければならない。
あと、挨拶に関しては、わたしも教えてほしい項目だ。ここで頭を下げる挨拶をしないのは知っているが、正しい挨拶の仕方を知らない。初対面の相手には笑顔で誤魔化しているだけだ。
でも、ベンノもギルド長も、これといって特徴的な挨拶はしていなかった気がする。
ベンノから借りた板を見て、考えているうちにうとうとしていたようで、次に目を覚ました時には家族が帰って来ていて、冬支度部屋に今日作った豚肉の加工品を運びこんでいた。
「おかえり」
「ただいま。起きたのね? 熱はどう?」
「……多分、下がった」
起きた時にずいぶんとすっきりしていたので、熱は下がったはずだ。明日は多分様子見のために、一日家の中で過ごすことになるだろうけれど、明後日には動けるようになるだろう。
次の日、森に行く予定だったらしいルッツが、籠を背負った出かける格好のままでお見舞いに来てくれた。熱が下がっているのに、ベッドの中でいなければならない日なので、わたしとしてはほんの少しの時間でも話相手ができたことがすごく嬉しい。
「よぉ、マイン。熱が下がったんだって? さっきトゥーリと下で会った時にそう言っていたんだ」
「うん、昨日の夜に下がったの。今日一日は様子見で、明日は動けそうだよ」
「そっか。久し振りに熱が長引いたから、心配したぞ」
しばらく何日も続く熱を出していなかったので、家族にもルッツにもかなり心配をかけたようだ。
「マインは今年も豚肉加工に参加できなかったな」
「あ~、この季節は仕方ないね」
肉屋や鳥肉の解体には多少慣れてきたけれど、まだ家族のように「よし、やるぜ。一年に一度の楽しみだ」なんて思えるほど、参加したいとは思えない。熱で寝込んでいる間に終わってラッキーと思ってしまったくらいだ。
「わたし、昨日はベンノさんが貸してくれた板を見て、勉強計画を立ててたの。明日はベンノさんのところに行って、この板を返すのと、計算機を買えないか相談したいんだけど」
「……そういえば、何の板だったんだ?」
ルッツはベンノに借りた板の存在を思い出したように手を打って、身を乗り出す。完全に話を聞く体勢だ。
「見習い教育に関するものだった。ルッツは文字や数字ってどのくらい覚えてる?」
「教えてもらった分は全部覚えてるけど?」
当たり前のように小首を傾げながら、ルッツが答えたけれど、まさか全部覚えているとは思っていなかったわたしはぎょぎょっと目を見開いた。
「え? ホントに!? 普段使わないのに、忘れてないの!?」
「……オレ、そういうの、教えてもらえることって滅多にないから、せっかく覚えたことは忘れたくなくて、地面や壁に指で書いたり、石板を買ってからは石板に練習したりしてる」
「ルッツ、すごい!」
ルッツは予想以上の努力家だった。いや、教育を受けるのが当たり前、欲しい情報はいくらでも手に入るのが当たり前だったわたしの考え方が甘すぎるのか。
せっかく覚えたことを忘れたくないなんて思ったことがない。忘れたら、また本を読めばいい。どんな本に書かれていたかを覚えていれば、いつだって欲しい情報は手に入った。全ての内容を暗記する必要なんてなかった。
「すごくねぇ。大きい数字も全部読めるマインの方がすげぇよ」
「じゃあ、大きい数字の読み方を教えるよ。石板取って」
一、十、百、千、万……と大きくなっていく単位を教える。百の位までは、市場でも使うので、簡単に読めるけれど、そのあとがわからなかったらしい。
わたしが石板を押さえながら、位を数えていくと、ルッツも一緒になって、数え始めた。何度か位の読み方を練習した後、わたしは石板に適当な数字を書き連ねる。
「さて、問題です。78,946,215なら、どう読むでしょう?」
「えーと、一、十、百、千、万、十万、百万、千万だから……」
かなり真剣な顔で取り組むルッツは、あっという間に千万の位まで読めるようになった。集中力の差か、記憶力の差か、どちらだろうか。予想以上にルッツのスペックが高い。冬の勉強でかなり力を付けそうだ。
これで頭も良かったら、わたし、ルッツに勝てる要素が全くなくなっちゃうよ?
内心ちょっぴり落ち込んでいると、水を汲んで上がってきたトゥーリがルッツの姿を見つけて、大きな声を上げた。
「あれ、ルッツ!? 森に行くんじゃなかったの? みんな、出発しちゃったよ!?」
「うわっ! 悪い、マイン。オレ、行くから。教えてくれてありがとうな」
ルッツが慌てて立ち上がって、走り出す。ルッツの走るスピードなら、門に着くまでにみんなに追いつけるはずだ。
次の日、家族からも外出の許可が出たので、ベンノに余裕ができる午後からルッツと一緒にベンノの店に向かった。
店は出入りするためのドアが閉ざされて、番人が一人立っているだけだった。
「あれ? まだお昼休みみたい」
「中央広場まで戻って、座って待つか? ずっと立ってるの、辛いだろ?」
「そうだね。今日は座れるところがあった方がいいかな」
二人で時間潰しの相談をしていると、番人には完全に顔を覚えられていたようで、手招きされた。
「旦那様に通していいか、伺ってくる。ここで少し待っていてくれないか?」
「ありがとうございます」
番人が一度店の中に引っ込んで、すぐに出てきて、ドアを大きく開けて通してくれた。
窓の板戸が閉められて薄暗い店の中を門番がスタスタと歩いていき、奥の部屋のドアを開けてくれる。奥の部屋は日がさんさんと差し込んでいるので明るいし、暖炉には赤々と火が燃えているのが見えた。
「マイン、熱は下がったのか?」
仕事をしていたらしいベンノがインクを置いて立ち上がった。
「はい。この板、返しに来ました。それで、質問があるんですけど、いいですか?」
「あぁ、いいぞ。俺からも話があるが、先にお前達の話を聞こう」
ベンノがいつものテーブルに着くように手で示しながら、質問を促した。
「この板、ありがとうございました。おかげで冬の勉強計画がある程度形になりました」
「ほぉ?」
「えーと、読んでいて、疑問に思ったことがあるんです。身なりを整え、挨拶ができることが必要なのはわかるんですけど、身なりを整えるってどの程度なんですか? あと、商人独特の挨拶や言い回しがあるかどうかが、わたし達じゃわからないんです」
あぁ、と言いながら、ベンノがわたしとルッツをじっと見る。
「とりあえず、お前達は南門に近い平民なのに、薄汚れた印象が全くないから、必要なのは働くための服や靴だけだ。小銀貨10枚ほどあれば、最低限は揃うから、今から金を貯めておけば、夏までには何とかなるだろう」
「小銀貨10枚……。マインの真似して、貯めててよかった」
ルッツが呆然とした顔で呟く。母が糸を紡いで、服を作るものだったルッツにとっては、小銀貨10枚の服や靴が最低限と言われれば、衝撃だろう。
わたしも衝撃だけど、ここでは服の既製品なんてない。オーダーメイドなら、それくらいはするだろうと思っていた。高いことは高いけれど、春になって、頑張って紙を作れば夏までには貯められる値段だ。
「それから、マインはともかく、ルッツは言葉遣いだな。丁寧な言葉が使えるようにならないと、今のままじゃ客の前には出せん」
ベンノの指摘に、グッとルッツが言葉に詰まった。
周囲に使う人がいなければ、丁寧な言葉を習得することは難しい。わたしは今、自分達の周りにいる人の中で、一番ルッツの参考になりそうな人を考えてみる。
「丁寧語はマルクさんの言葉遣いを参考にするといいよ」
「……う~、何かむず痒い感じがするんだよな」
いきなり話し言葉を変えようとしたら、まるで自分が自分ではないようで、座りの悪い気持ちになるのは何となく理解できる。
でも、それができるようにならなければ、客の前には立てない。特にベンノの店はこれからどんどん貴族相手に商売を広げていこうとしている店だ。上に上がっていこうとすれば、身なり、言葉、作法を覚えていかなければならない。
「大丈夫。やってみればできるよ。ベンノさんだって、普段はこういう喋り方だけど、お客様相手にはきちんとしているんだから、ルッツも相手を見て切り替えられるようになればいいの」
ギルド長を相手にしても、ベンノが丁寧な言葉を喋っているところなんて見たことはないが、やろうと思えば簡単に切り替えられるはずだ。そうでなければ、商人なんて務まらない。
「別に家族やわたしに丁寧な言葉で喋る必要なんてないんだよ? それに、わたしだって、ルッツに使う言葉とベンノさんやギルド長に使う言葉は別でしょ? 何かむず痒い感じがする?」
「……そういえば、そうだな。マインは普通に喋ってるからあまり気にしてなかった」
さらっと切り替えていると、あまり気にならないものだ。最初は違和感があっても、使っているうちに、すぐに馴染むようになる。
「だから、ルッツも仕事中だけ使う言葉として、マルクさんの言葉遣いを覚えてみたらどう? 最初は、です、とか、ます、を使うところから始めると……いいと思います」
最後だけ丁寧な言葉に直してみると、ルッツは納得したように頷いた。
「あぁ、そうするです」
「違うよ! そうします、って言うの」
「ぶはっ! ははははは!」
わたしとルッツのやり取りを目の前で見ていたベンノが豪快に噴きだして、テーブルを叩きながら笑いだした。目尻に涙を浮かべて、お腹を抱えて、馬鹿笑いしている。
「ぶふっ、冬の間にどれだけ底上げができるかは知らんが、まぁ、頑張ってみろ」
笑いを堪え切れていないベンノを軽く睨んでみても全く効果はない。絶対にビックリするくらい底上げしてやるんだ、と強い決意と共に拳を握る。
それと同時に頼みごとを思い出した。
「あ、そうだ。ベンノさん」
「なんだ?」
「底上げのために計算機が欲しいんです。こればかりは練習しないと身に付きませんから」
マルクなど、頭と指が同時に動いているように計算機が使える。そこまでのレベルには到達できないだろうが、そろばんだって練習が大事だ。
「計算機か……。ウチの店の中古でよければ、大銅貨6枚で売ってもいいぞ? 二人で一つの計算機を使うのでいいのか?」
「はい、お願いします」
ベンノとギルドカードを合わせて、わたしとルッツそれぞれから大銅貨3枚分ずつ引いてもらい、計算機を譲ってもらった。
「これで計算の勉強ができるね、ルッツ」
「あぁ」
「他に聞くことや言うことはないか?」
ベンノに聞かれて、ハッと思いだした。
「あ、春までに契約書サイズの
簀桁
の注文をしなきゃいけないんですけど……」
「発注書だけ書いておけ。もうマルクがわかっているから、マルクに行かせる」
「え? でも……」
発注は責任を持って自分でやらなければ、どんなトラブルが起こるかわからない、と色々なところに発注に行った時にマルクが言っていた。任せてしまうのはダメだろう。
「お前には別件で動いてもらわなきゃいけないからな。ほら、発注書だけ先に書け」
促されたので、わたしはトートバッグから発注書セットを取り出す。発注書にする木札がもうあと1つしかない。
「ベンノさん、この発注用の木札がなくなりそうなんですけど……」
「あぁ、ずいぶん注文したからな。追加を渡しておこう」
「わぁ! ついでにインクもそろそろ切れそうなんです」
発注書を大量に書いたし、試作品を作るにはインクでの試し書きが必須だったので、かなり使った。
わたしの言葉に、ベンノがひくっと頬を引きつらせる。
「……金を取りたいところだが、まぁ、いい。初期投資の方に入れておいてやる」
その言葉でハッとする。オットーは、インクは高いから、子供が使うような物ではないと言っていた。でも、具体的な値段を聞いたことはない。
おそるおそるわたしはベンノに質問してみた。
「つかぬ事をお伺いしますが、お金を取られたら、インクって、おいくらですか?」
「だいたい小銀貨4枚だ」
「ぅひっ!?」
今のわたしとルッツの貯金をかき集めても買えない!
「大事に使えよ」
「は、はい。もちろんです!」
自分の本作りのためにインクが欲しいなと思ったけれど、買うのは諦めよう。残っている煤鉛筆を使うのが一番だ。
ガリガリと発注書を書いていく。もう手慣れたものだ。木のペン先はすぐに丸くなってしまうので、ルッツに削って尖らせてもらい、ベンノに平均的な契約書を出してもらって、メジャーでサイズを測り、簀桁の発注書を書きあげた。
ベンノはわたしが書いた発注書を見て、軽く眉を上げる。
「不備も誤字脱字も全くないな。これはマルクに回しておく。……マイン、簀桁ができなくて、紙が作れなくて困るのは俺も同じだ。責任持って作るから、心配そうな顔をするな」
「よろしくお願いします」
ベンノが責任を持つと言ってくれたのだから、安心して待っていよう。わたしはゆっくりと息を吐いて、発注書セットを片付ける。
「……これでお前達の話は終わりか?」
「はい」
わたしが大きく頷くと、ベンノがスッと背筋を伸ばして、表情を引き締めた。商売に関係する話になることを察して、わたしとルッツも姿勢を正す。
「では、こちらの話をしたい。マイン、お前が教えてくれた髪を洗う液のことだ」
「はい」
簡易ちゃんリンシャンの作り方は、紙の試作品を作っている途中で、鍵の貸し借りの時に教えたはずだ。わたしは契約魔術で完全に権利を放棄しているのに、今更何の話があるのか全くわからない。首を傾げると、ベンノが困ったような顔で口を開いた。
「お前が使う油はメリルが一番良いと言ったから、この季節まで待っていたんだが……」
「あれ? もうそろそろメリルの季節って終わりですよね? まだ作ってなかったんですか?」
ベンノの言葉にわたしとルッツは顔を見合わせた。
メリルの季節はもうそろそろ終わりだ。ウチでもメリルはたくさん採って、すでに簡易ちゃんリンシャンになっている。利益を追求するベンノのことだから、もうとっくに作って、大量に売りさばいているものだと思っていた。
「いや、収穫されたものを集めて、ある工房で作らせているんだが、お前の言った通りに作っても、同じ物にならないという話が先日上がってきていてな。何か思い当たる原因がないか?」
ベンノの言葉に思わず眉を寄せた。基本的に潰して、搾って、香りを付けるだけだ。失敗するような箇所が見当たらない。
何度か作るのを手伝ったルッツもわたしと同じように首を傾げる。
「……同じにならないって言われても、あれを作るのって、そんなに難しい過程なんてなかったよな?」
「ねぇ?」
材料さえあれば、改善案はいくつかあるけれど、あんなに簡単なものを失敗する理由なんてわからない。トゥーリが作っても、ルッツが作っても、ちゃんと同じような物ができた。
「本当はお前の姿を出したくなかったのだが、あの液が完成しなければ、契約魔術に反することになる。悪いが一緒に工房まで来てもらっていいか?」
「はい」
契約魔術は確か破った罰則がひどく厳しくて、最悪の場合、死ぬこともあったはずだ。我が身可愛さにすぐさま返事をすると、ルッツがわたしの腕をつかんだ。
「マイン、今日は止めておいた方が良いと思うぞ。熱が下がったばかりで、まだ本調子じゃないだろ?」
ルッツの言葉は正しいが、この季節は本調子になれることが少ない。少し油断したら、いつ熱が出てもおかしくない季節だ。熱がないのは元気だと判断しなければ、いつまでたっても行動できない。
「でも、本調子なんていつまで待てばいいかわからないし、ぼんやりしてると雪が降り始めちゃうから、熱がないうちに行った方がいいよ?」
「それはそうだけど、でもさ……」
心配するルッツの頭をポンポンとベンノが安心させるように、軽く叩く。
「ルッツ、あんまり心配するな。マインは俺が抱えていくから、歩かせることはない。俺があの速度に耐えられんからな」
「……それなら、まぁ、大丈夫かな?」
ルッツがそう言ったことで、わたしはまたベンノに抱えられて、移動することになった。
失敗原因って、言われても、今まで失敗なんてしたことないもんね。
ちゃんとわかるかなぁ?