Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (46)
早速作ってみた
夕飯を終えるとすぐに、父は朝番なので寝てしまう。父の睡眠を邪魔しないように、台所で静かに作業ができる手仕事は、自分達が寝るまでの時間潰しにもピッタリだ。
父が寝室へ行って、寝る準備を始めたので、わたしはトゥーリと母に冬の手仕事の話を切りだした。
「今日ね、フリーダに作った髪飾りが評判良くて、欲しいって人がいるから、冬の手仕事を前倒しにできないかってベンノさんに相談されたの。トゥーリの髪飾りと同じやつが欲しいんだって」
「……できなくはないけど」
母とトゥーリは一度顔を見合わせた後、疑わしそうに眉を寄せた。できなくはないけれど、冬の手仕事を前倒しにするのは手間がかかりすぎる、と顔に書いてある。
予想通りの反応に、わたしはトートバッグに手を入れて、証拠とばかりにチャリチャリンと中銅貨を2個、テーブルの上に並べた。
「少しだけど前金を預かって来たから、一つ出来たら、ちゃんと料金払うね」
次の瞬間、母とトゥーリがガタリと立ち上がって、少しでも明るい竈の側に二人がテーブルを寄せた。
「え? あれ?」
わたしは、間抜けにも椅子に座ったまま取り残されて呆然とするしかない。
その間に、トゥーリは裁縫箱から三人分の細いかぎ針を取ってきて、母は物置から糸が詰まった籠を運んでくる。
あまりにも息が合った動きに、わたしは圧倒されながら、椅子から下りた。椅子をテーブルのところに移動させようとガタガタ引っ張ると同時に、母の声が飛んでくる。
「マイン、参考にする見本はどこ?」
「え? トゥーリに返したけど?」
わたしの言葉に反応したトゥーリがササッと動いて、自分の木箱から髪飾りを出してくる。
トゥーリが髪飾りを探してごそごそと動く音に「何だ? どうした?」と父の声が聞こえてきたが、「何でもないわ。おやすみなさい、ギュンター」と母の声が台所から飛んだ。
わたしがテーブルのところに自分の椅子を移動させて、よいせっと座り直した時には、すっかり手仕事の準備は整っていた。
「マイン、何色で作ればいいの?」
糸の籠の中を漁りながら母が尋ねてきたけれど、指定された色はない。トゥーリの髪飾りとデザインを揃えろと言われているだけだ。
「お客様の髪の色や好きな色がわからないから、色違いでたくさん作ってほしいって言われてるの。トゥーリの髪飾りと同じになるように三色選んで、花の数も同じで作って」
「わかったわ。白と黄色と赤でどう?」
「可愛くて良いね」
わたしの答えを聞くと同時に母は猛然と編み始めた。トゥーリの髪飾りを編んでいたので、作り方も知っているから、速い、速い。わたしが作ると一つにだいたい15分くらいかかる小花を5分ほどで編み上げるのだ。
それぞれの色で4つずつ小花を作って、ブーケを作ることになる。
「色々あると選べて嬉しいもんね? わたしは白と黄色と青にしようかな? 自分の髪飾りと一緒の色。マインは何色にするの?」
たくさんある色の中から、好みの色を選り分けて、うふふっ、とトゥーリが笑う。わたしが作った髪飾りをとても気に入ってくれているようで、わたしも嬉しい。
「わたしはピンクと赤と緑にしようかな。緑の小花が葉っぱみたいになって可愛いと思うんだよね」
「うん。可愛い。……ねぇねぇ、マイン。どうやって作るの?」
わき目もふらず編んでいる母には聞けないと思ったらしいトゥーリが、ガタガタとわたしの隣に椅子を寄せてきた。見本になっている髪飾りはトゥーリのために作っていたので、トゥーリは作っていないのだ。
「そんなに難しくないよ。こうやって、こうやって……」
トゥーリに編み方を見せながら、小さな花の作り方を教えると、フリーダのバラよりよほど簡単なので、トゥーリはすぐに作れるようになってしまった。
「わかった。ありがとね」
ガタガタと椅子を元の位置に戻すと、トゥーリも静かにもくもくと編み始める。
しばらく編んでいたが、3個の小花を編み終えて、わたしが視線を上げれば、できている小花には圧倒的な差があった。
母はもう少しで1個の髪飾りになりそうな数の小花があり、トゥーリの前には6個の小花が転がっている。
おおぅ、さすが、裁縫美人。
母もトゥーリも手の動きがわたしとは比べ物にならないくらい速い。あっという間にできていく。
おかんアート出身のわたしでは、スピードでも出来上がりの美しさでも勝てるはずがない。せめて、髪飾りを二人の物と比べた時に、一目で出来が悪いと思われないように丁寧に作ろうと決めて、かぎ針を動かしていく。
普通の冬の手仕事なら、雪に閉じ込められて、暇で、暇で、仕方ない時にするので、和やかにお喋りしながらするものだ。しかし、今夜はテーブルの上に並んだ現金のせいで、お喋りが口から出ることなく、二人とも一心不乱に編んでいる。
「できた! この後はどうするの?」
喜色に輝くトゥーリの声にハッとして顔を上げると、トゥーリの前には12個の小花が並んでいた。
「トゥーリ、速いね。すごいよ。えーと、この後は端切れに縫い付けて……って、あ、端切れ! 原価計算に入ってない!」
「手仕事の材料なんて、自分で準備するのがほとんどなんだから、ウチにあるのを使えばいいわよ」
母はすでにウチにある端切れで、小花を縫い付けて、ちゃんと髪飾りの形に仕上げていた。
「……後でベンノさんに料金請求するか、布を請求するかどっちかするよ」
「これ一つに中銅貨2枚ももらえるのだから、そこまでしなくていいわよ」
……え? 普段やってる手仕事って、どれだけひどいの。
冬から本格的に始まる手仕事では、端切れの原価も入れて計算し直してもらおうと心に決めると、トゥーリが物置から取ってきた端切れを一つ手に取った。
「母さんが作ってるから参考にして、同じ色の花が固まらないように縫い付けていってね。あまり下の布が見えないように縫い付けていくと、小花が集まって花束っぽく見えるから」
「うん、わかった」
トゥーリが作り始めた髪飾りが完成したところで、今日は終わりにして寝ることにする。
結局、寝るまでにわたしは半分くらいしかできなかったけれど、トゥーリは1個作り上げ、母は2個目が8割方できていた。
「じゃあ、今日の支払いをしまーす」
「わぁい!」
わたしは二人に中銅貨を2枚ずつ支払って、できた飾りはわたしの木箱に片付ける。
「じゃあ、二人とも寝なさい」
「母さんは?」
「この中途半端なものを仕上げてから寝るわ」
八割方終わっている髪飾りを指差して母が困ったように笑う。
母のスピードならすぐに終わるだろう。わたしはトゥーリと二人で父を起こさないように気を付けながら寝室にそっと入った。
なのに、なんで朝起きたら、テーブルの上に仕上がった髪飾りが2個も置かれているんだろう?……夜なべしたね、母さん。名残惜しい気分で寝たトゥーリが怒ってるよ。
「母さんだけ夜中にこっそりやるなんてずるいっ!」
「ごめんね、トゥーリ。気を付けるわ。さぁ、お仕事に行っておいで」
ぷくぅっと膨れるトゥーリに母が謝りながら、仕事に行くように促す。納得できていないような表情のまま、トゥーリは「帰ってきたら、わたしだっていっぱい作るんだから」と言って飛び出していく。
トゥーリが行ったので、わたしは母が作った2個の飾りを片付けて、代わりに中銅貨4枚を取り出した。
「忘れないように母さんが仕事へ行く前にお金を渡しておくね。それから、今日もベンノさんのところに行ってくる。ルッツの簪と合わせて髪飾りを完成させて、お金もらって来なきゃ二人に渡せないから」
「わかったわ。気を付けていってらっしゃい。ベンノさんによろしくね」
中銅貨を財布に片付けた母は、笑顔で「今夜も頑張るわ」と張り切って出かけていった。
バタンとドアが閉まって、鍵が閉まる音がする。足音が小さくなるまで笑顔で手を振っていたわたしは、ハァ、と溜息を吐いた。
まずい。現金の威力、強すぎ。
ここまでスピードアップすると思わなかった。
母さんが夜なべまでするなんて予想外すぎる。
髪飾りを完全に仕上げて売って、現金の補充をしなきゃ、今夜いきなり困るよ。
「まぁ、今日は先にトロンベの皮剥きだけど」
ルッツがいつ迎えに来るかわからないので、いつでも出られるように準備をしておこう。
まず、じゃが芋もどきのカルフェ芋を2個。
それから、蒸している間に勉強できるように石板と石筆と計算機。ベンノのところに行く予定なので、発注書セットも忘れずに入れておいた。
さらに、わたしが作っている途中の髪飾りを完成させるためのかぎ針と糸。出来上がっている小花を7つと端切れ。それから、端切れや簪に縫いつけるための針と糸。
ルッツが来るまで、小花を作りながら待っていようと、ちまちまかぎ針で編み始める。
小花が2つできたところで、ドンドンとドアを叩く音がして、「マイン、いるか?」とルッツの声が響いてきた。
「おはよう、ルッツ。ねぇ、簪部分って、できてる分ある?」
「一応5つ作ったけど?」
「それ、全部持ってきて。わたし、針と糸を持って行くから。蒸している間に完成させて、ベンノさんのところに売りに行かなきゃダメなの」
昨夜のうちに4つはできちゃったんだ、と呟くと、ルッツが目を見開いた。
「ちょ、速すぎないか!? あの花って、作るのが大変で時間がかかるって……」
「ん、まさかここまで速くなると思ってなかったから、実はわたしが焦ってる」
「……わかった。簪部分だけ持ってくればいいか? 他にいる物は?」
今日、ルッツが絶対に忘れてはいけない物は一つだけだ。
「バターは? 準備できてる?」
「聞き間違いじゃなかったのか……。取ってくるよ。戸締りして下に向かっててくれ」
どうやら準備していなかったらしい。危うくじゃがバターを食べ損ねるところだった。
ルッツが身を翻して階段を下りていくのを見送って、わたしは準備していた荷物を持って、外に出た。
「寒いねぇ」
人の気配がない倉庫はキンキンに冷えていて、外の方が太陽の光がある分暖かいと感じるほど寒い。倉庫の中には火を使えるような場所はないので、倉庫前で鐘一つ分ほどトロンベを蒸して、黒皮を剥く作業をすることになる。
荷物を倉庫に置いて外に出ると、ルッツは石を積み上げて、鍋の準備をしていた。
わたしは蒸し器にトロンベを並べていく。蒸し器の中はあっという間にいっぱいになった。
「ルッツ。蒸し器、もう一段いるみたい」
「持ってくる」
前に作った時は試作品だったので、それほど多く蒸す必要なかったが、今回はここにある素材を全部蒸してしまわなければならない。最初から二段で蒸せるように蒸し器は準備してあったので、ルッツに倉庫からもう一つを持ってきてもらう。
「もう鍋を置いていいか?」
「うん、木を並べるのはすぐに終わるよ」
ルッツが鍋を固定している間に残りのトロンベを並べる。
そして、持ってきた芋も火が通りやすいようにナイフで十字に切り込みを入れて、一緒に並べて蓋をした。これで20分くらい蒸せば、おいしいじゃがバター――正確にはじゃがではないけれど――が食べられるはずだ。
鍋の前で火にあたりながら、わたしは小花を作り始めた。わたしが髪飾りの小花を作るのに、大体15分くらいかかるので、片付ける時間も考えると、じゃがバターの待ち時間に丁度いい。
「ルッツは倉庫に残ってる竹で細い竹ぐし作っててね。先を尖らせたヤツ」
「は? なんで?」
「なんでって、『じゃがバター』ができたか確認するのにいるから」
「え? マイン、お前、何やってんの?」
「蒸し器使うなら食べたいなって……ルッツはいらない?」
「食うに決まってるだろ! ジャガバターって食い物かよ!?」
あぁ、そうか。じゃがバターじゃ通じなかったんだ。
芋のバターソテーみたいな料理はあるから、普通に食べられるだろうけど。
蒸し器の中に食べ物があるとわかった途端、ルッツが張り切って竹ぐしを作りだした。
「なぁ、マイン。そのジャガバターってうまいのか?」
「わたしは結構好きだよ。ルッツも多分食べ慣れた味だと思うけど?」
鍋が大きいので湯気が出始めるまでに予想以上に時間がかかったので、わたしは2個の小花を作り上げることでだいたいの時間を計った。
そろそろ芋の様子を見てみよう。
「いいよ、ルッツ。蓋、開けて!」
ラルフが作った何かの失敗作を台にして立ち、できたての竹ぐしを右手に構え、左手には菜箸をつかんで、わたしはルッツが蓋を開けるのを待つ。
「マイン、顔をあんまり近付けるなよ!」
ルッツが蓋を開くと同時に、ぶわっと白い湯気が一気に飛び出してきた。熱くて白い湯気をやり過ごして、視界が開けると、トロンベの中に少し黄色が濃くなった芋が湯気を立てている。
わたしは右手の竹ぐしをそっと芋に刺してみる。スッと通って形も崩れないし、いい感じに仕上がったようだ。
右手の竹ぐしと左手の菜箸を入れ替えて、今度は菜箸を構えた。
「ルッツ、お皿がいる!」
「そんなもん、ここにあるか!」
「そこの平たい板でいいから取って。それから、バターの準備がいるよ」
「飾り作るより先に準備しておけよ!」
「ぬぅ、面目ない」
芋を菜箸で取り出して板の上に乗せると、すぐ蒸し器に蓋をしてもらう。
わたしは台から飛び降りると、十字の切れ込みをナイフでこじ開けて、すぐにバターを挟みこんだ。熱でとろりと溶けていくバターの匂いがたまらない。
がんがんテンションの上がっていくわたしとは対照的に、ルッツのテンションは蒸し器から出てきた芋を見た瞬間から、だだ下がりだ。
「……なんだ、カルフェ芋かよ。マインの料理だから期待したのに」
食べ慣れすぎてガッカリらしい。
この辺りではよく栽培されているので、カルフェ芋は食卓にはよく出てくる食材だ。食べ飽きているのだろう。手の込んだ料理ならともかく、皮までついている状態では、期待できないのはよくわかる。
「うんうん。確かにカルフェ芋をバターで絡める料理なんて、いっぱいあるもんね? ルッツはいらないってことでいい?」
「……食うよ」
むぅっと脹れっ面のルッツは放置しておいて、わたしは上の方だけペロッと皮をめくると、手を火傷しないようにエプロンで包んで、芋を持つ。そのまま、湯気がほこほこと立っている芋に大きく口を開けて噛みついた。
外の冷気で表面だけが程良く冷めているが、中は熱くて、ほろほろと口の中で解けていく。トロンベと一緒に蒸したせいで、まるで燻製のように木の香りがついていて、それがバターの風味に合わさって、家では食べることができない味になっている。
ん~、と頬を押さえて、美味しさに身悶えていると、ルッツが横で溜息混じりの白い息を吐きながら、カルフェ芋にかじりついた。
直後、カッと目を見開いて、芋をじっと見る。騙されているような奇妙な表情でわたしと芋を見比べた後、首を傾げながらもう一口食べる。
「……うまいっ! なんでだ!? 家で湯がいた芋と全然味が違う!」
「蒸したからだよ。蒸すと栄養も旨みもぎゅうっと閉じ込めるからね。今回はトロンベと一緒に蒸したから、まるで燻製みたいな香りまでついて、すごく贅沢な気分になれるよね」
ほくほくうまうまカルフェ芋を食べながら、わたしは昨夜の飾りを作っていた時のことをルッツに話した。
「……そんな感じで、昨日の夜は母さんもトゥーリもすごかったよ。今夜もやる気満々なの。1個も仕上げられなかったわたしの役に立たなさを改めて実感したね」
「威張るなよ」
「ルッツは? どうだったの?」
カルフェ芋を全部食べ終わったルッツは、名残惜しそうに指をなめた後、渋い顔をして頭を振った。
「みんな、オレのやってることに興味なんて全くなさそうで、手伝ってくれないかって、言っても知らんぷりされた」
「そっか。じゃあ、今日はルッツの家に魔法をかけに行こうか?」
「魔法?」
「そ。ベンノさんのところでお金を受け取ったら、ルッツの家に行くから楽しみにしてて」
食べ終わったので、ルッツに井戸から水を汲んでもらい、手を洗って口をすすぐ。
そして、持ってきていた計算機を持って戻り、ルッツの前に置いた。
「えーと、今日出来上がった髪飾りが4つ。昨日、ベンノさんに1つ分前払いしてもらったから、今日もらえる報酬は3つ分で、髪飾りの報酬は1つ中銅貨11枚です。さて、いくらもらえるでしょうか?」
計算機を前に問題を出すとルッツが真剣な顔で、指を使い始めた。
「33枚だ!」
「はい、正解。よくできました! じゃあ、ルッツが作らなければならない簪は20個です。昨日5個作りました。あと何個作ればいいでしょう?」
やはり、繰り上がりや繰り下がりがある計算は、計算機を使ってもすぐにはできないようで、ルッツが困り果てている。一桁の足し算が暗算で反射的にできるようにならなければ、計算機を使うにも時間がかかるので、計算機は一度置いておいて、石板に数字を書いて、足し算の練習から始めることにした。
「これだけは覚えてね。言われたらすぐに答えが返せるように覚えなきゃダメだよ」
ルッツがブツブツ言いながら覚えている横で、わたしは髪飾りを完成させていく。
わたしの髪飾りが完成した時にはもうお昼を過ぎていて、トロンベも程良く蒸し上がっていた。
「ルッツ、お水が入ったら一回退いて」
盥
に張った井戸水の中に、わたしが菜箸で一つ一つ摘まんでトロンベを入れていく。ざっと冷水にくぐらせたら、ルッツが取り上げて横の板に置いていく。川の流水ではないので、盥の水はすぐに温くなってしまう。
「水が温くなってきた。ちょっと待て」
ルッツが井戸から水を汲んで盥の水を張り直すまで、わたしは座りこんで黒皮を剥きながら待つ。水が入ったら、またトロンベを取り出す。その繰り返しだ。
全部蒸し器から取り出したら、わたしは冷めないうちに黒皮をどんどん剥いでいき、ルッツはその間に鍋や蒸し器の片付けをする。
そして、倉庫の中の釘に引っ掛けるようにして黒皮を干したら、今日の作業は終了だ。
「終わったぁ!」
「よし、片付けも終わった!」
熱い黒皮を剥いでいたので、黒皮を干した後もまだ指先が熱さでヒリヒリしている。冷たい空気が心地良いほどだ。
わたしは肺いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。
「……あ?」
何かに絶望したわけでもない。何かを不安に感じているわけでもない。
仕事が終わった安堵感と解放感を覚えただけだ。
それなのに、身体の中を身食いの熱が暴れようとしている。
わたしは反射的に身食いの熱を押さえようと、身体中に力を入れた。
「おい、マイン!?」
ルッツの前で固まったせいか、ルッツが焦ったように、わたしを揺さぶった。
「集中が切れるから、揺らさないで」と言いたいけれど、歯を食いしばったままでは言葉にならない。
右手を前に出して、ルッツの手をつかむとルッツは両手でわたしの右手を握ってくれる。
「何だよ、これ? いきなり熱が上がったぞ!? マイン、大丈夫か!? 聞こえてるか!?」
きつく握られた手に集中して、何度もしてきたように熱を何とか抑え込もうとした。
周りを包囲して中心に追いやっていくイメージで今までは何とかなっていたのに、今回は包囲網を突破する小さな熱が出てきた。
さっさと戻って!
ちろちろと出てこようとする熱の全てを中心に押し込むのに、今までで一番時間がかかった気がする。
熱が引いた後には口も利きたくないほどの疲労感がどっと押し寄せてきた。力が抜けて立っていられなくなって、その場に座り込むと、手を繋いだままだったルッツも引っ張られるように隣にしゃがみこんだ。
「え? 熱が下がった? 何だよ、これ? おい! マイン、大丈夫なのか!?」
「……身食いだよ。フリーダが前に言ってたでしょ?」
ハァ、と大きく息を吐きながら答えると、ルッツが困ったように眉を寄せた。
「ちょっと待てよ。だって、体調が悪くなる時の前兆が全然なかったぞ?」
「急に来るんだよ。今までは結構激しい感情に左右されてたんだけど、最近は大したことがない感情の揺れにも反応するようになってきちゃって……あぁ、ビックリした」
本当はビックリしたなんて、簡単な言葉で済ませられるような衝撃ではなかったけれど、今にも泣きそうな顔で、未だにわたしの手を握っているルッツを少しでも安心させてあげたくて、わたしは目を細めて唇の端を上げる。
「それ、何とかならないのか?」
「……フリーダが言ってたでしょ? すごくお金がかかるって。ベンノさんも同じこと言ってた」
さっとルッツの顔から血の気が引いて、蒼白になっていく。
「そういうわけだから、ちょっとでも稼ぐためにベンノさんのお店に行こうか?」
これ以上威力が大きくなられると正直きついよ、という本音は胸に秘めて、わたしは笑ってみせる。
ルッツはグッと歯を食いしばって、手を離すと、くるりと背中を向けた。
「店まで背負ってやる。……オレにはそれくらいしかできないから」
「それくらいしかって、ルッツはわたしに色んなことしてくれてるよ?」
「いいから、早くしろよ!」
わたしを急かすルッツの声が揺れて聞こえた。
知らないふりで背中に寄りかかってみたものの、ルッツの肩から前に出しているわたしの腕にポツポツと滴が落ちてくる。
まいったなぁ、と心底思う。
本だけに視線を向けて生きてきた麗乃時代に、こんな風に泣いてくれる友達なんていなかった。なんて声をかければ正解なのか、あんなに本を読んできたのに、わからない。
優しすぎるんだよ、ルッツは。
どんなに役立たずで足手まといでも、一緒にいてくれるし。
わたしが本当のマインじゃないって、知ってるくせに赦しちゃうし。
「もし、身食いでわたしが倒れたとしても、ルッツが責任を感じることないんだからね。これ、本当に、突然来るから。……それに、まだ負けないよ。わたし、本を作ってないから」
ぐすっと鼻をすする音が聞こえたけれど、ルッツは返事をしなかった。