Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (461)
プロローグ
ヒルデブラントが緊張しつつも領主会議でお披露目を終えたのは春のことだった。各地のアウブ夫妻とその側近達がずらりと並ぶ貴族院の講堂で洗礼式を終えた王族のお披露目は行われる。父と母に挟まれて壇上に上がって皆の前に立ち、覚えさせられた長い挨拶を行った後、神々に音楽の奉納を行うのだ。
「ヒルデブラント、音楽の奉納を」
「はい、父上」
フェシュピールの演奏が上手くできたことに彼はそっと息を吐き、少しだけ緊張を解く。貴族の子ならば誰もが行うことだとは聞いていたけれど、値踏みするような大勢の目の前で演奏するのは予想外に緊張するものだった。
「では、ここで重大な発表を行う」
彼が安堵するのと同時に、会ったことも聞いたこともないアーレンスバッハの領主候補生レティーツィアとの婚約が発表された。予め、母親から話を聞かされてはいたけれど、驚きに目を見張るアウブ達に向かって笑顔を絶やさずに頷くためには自分の心を押し殺さなければならなかった。
……アウブの配偶者ということは、私は王族ではなくなるのです。
ヒルデブラントは自分が臣下となるように育てられていることは理解していた。けれど、中央で王族として妻を迎え、異母兄のアナスタージウスのように王族として役に立つのだと思っていた。見たこともない土地にアウブの配偶者として向かうことになるとは考えてもみなかった。
成人すると完全に王族ではなくなり、自分を取り巻く環境が全く違う物になるというのがどのようなことか想像できない。わからないからこそ一層不気味で怖いものに感じられる。
「ご婚約おめでとうございます」
「これでアーレンスバッハも安泰ですね」
アウブ達が口々にお祝いを述べるが、ヒルデブラントには何がおめでたいのか全くわからなかった。ただ、この場で笑顔を崩してはならないと言われていたので、不満は心の中に押し込め、笑って祝辞を受け取るだけだ。
……私も自分で結婚相手を選びたかったです。
今、中央ではアナスタージウスとエグランティーヌの熱烈な求婚話が光の女神に捧げる曲と共に語られている。二人の仲睦まじい様子を見るにつけ、王族の専属楽師達が二人の恋物語を歌にするのを聞くにつけ、想い合う者と結ばれるのがとても良いことに思われた。
アナスタージウスとエグランティーヌの恋物語から作られた数々の新しい曲を聴きながら、ヒルデブラントの母親も自分の望む結婚を得るためにどうしたのか、面白おかしく教えてくれた。そのような話を聞いていると、父親の命令で一生を共にする相手を一方的に決められるのではなく、自分にほんの少しでも選択の余地があれば、と彼も思わずにはいられなかった。
……私が選べるのだったら……。
そう考えた時にヒルデブラントの脳裏に浮かんだのは、さらりと落ちる夜空の髪に文字を追うために伏せられた長い睫、ページをめくるためにゆっくりと動く白い指先。図書館の魔術具であるシュバルツとヴァイスの主で、本をこよなく愛するエーレンフェストの領主候補生ローゼマインだった。けれど、彼女にはすでに婚約者がいる。同じエーレンフェストの領主候補生であるヴィルフリートだ。
……親に婚約者を決められたローゼマインもきっと同じような気持ちなのでしょう。
王命だから逆らうわけにはいかないことはヒルデブラントにもわかっている。それに逆らうような教育は受けていない。それでも、気持ちが沈むのだけはどうしようもない。
笑顔のままで自室にたどり着き、社交場に出るための豪華な衣装から普段着へ着替えれば、自ずと緊張は解けていく。代わりに、浮かべていた笑顔は鳴りを潜めて、不満顔が浮かび上がって来た。
「ずいぶんと落ち込んでいらっしゃいますね、ヒルデブラント王子。けれど、王命ですから」
そんなわかりきった言葉は聞きたくなかった。ヒルデブラントは側仕えのアルトゥールを不満たっぷりの目で睨む。王族らしく振る舞うように何度も言われ、皆のお祝いに笑顔で答えたのだから、今は放っておいてほしい。
「アルトゥール、私は隠し部屋にしばらく籠ります」
「かしこまりました。夕食にはお呼びいたします」
それから数日後、中央の騎士団長ラオブルートからの面会依頼が来た。王からの伝言があるという内容だったので、あまり誰かと会う気分ではなかったヒルデブラントも拒否することはできない。
「ご婚約おめでとうございます」
「恐れ入ります、ラオブルート」
「……そのお顔ではあまり喜ばしいことではないようですね」
ラオブルートが苦笑すると、頬の傷が少し動く。幼い頃からの知り合いで、自分の部屋にいるせいで顔に出てしまったらしい。ヒルデブラントは背筋を伸ばして表情を引き締めた。頑張って王族らしくあろうとする彼に微笑みながら、ラオブルートは小さな箱を差し出した。
「では、気鬱の王子にこちらをどうぞ。少しは気が晴れるでしょう」
ラオブルートが持ってくる玩具は箱を開けると何やら飛び出してきたり、正しい手順通りに動かさなければ開かなかったりと面白い物が多い。ヒルデブラントは笑顔になって、背後に控えているアルトゥールを振り返った。側仕えである彼はラオブルートが差し出した箱を手に取り、危険な物ではないか確認した後、ヒルデブラントに渡してくれる。
「恐れ入ります、騎士団長」
「いや、王子の塞いだ顔はあまり見たくはないからな」
ヒルデブラントを見ながら笑うラオブルートに同意するようにアルトゥールが小さく頷いた。
「では、王子。本題に入ってもよろしいでしょうか?」
ラオブルートが王からの言葉を伝え始める。
それは、エーレンフェストのローゼマインからグルトリスハイトに関する情報を得てほしいというものだった。エーレンフェストのフェルディナンドが貴族院の図書館にいたこと、二人が昔の司書の資料を探っていたことなどから考えても、あの図書館には何かあるに違いないと考えられているらしい。
「ローゼマイン様は王族の魔術具を乗っ取った領主候補生で、その黒幕として動き回っていたのはフェルディナンド様です」
「ローゼマインは偶然魔術具の管理人になってしまっただけで、善意でシュバルツ達に魔力供給をしているのですよ、ラオブルート」
ローゼマインは本が好きで、図書館にいる時間が何よりも幸せで、シュバルツ達にもとても好かれている。図書館の魔術具が動かなければ、ソランジュが困るし、図書館が利用しにくくなるから魔力を注いでいると言っていた。
「……善意だけで魔力を供給する者などいません。仮にローゼマイン様が善意だとしても、その背後にいる者の思惑が別であることはよくあることではありませんか。フェルディナンド様には警戒が必要なのです」
ラオブルートの言葉にヒルデブラントは頷いた。彼にはローゼマインの善意は主張できてもその背後にいる者のことまではわからないからだ。思慮の浅い子供が利用されることは多い。だからこそ、王族や領主候補生には側近が常に付いている。
「アーレンスバッハからの要望もあり、フェルディナンド様をエーレンフェストから引き剥がすことには成功しました。ローゼマイン様の魔力供給が本当に善意なのかはこれから判別できるでしょう」
「そうですか。それはよかったです」
ヒルデブラントは彼女の瞳に本以外の物が映らないことを知っている。図書館にいる時の金の瞳は本だけを映していて、ずっと字だけを追っているのだ。顔を上げることもなく、王族であるヒルデブラントの姿さえ目に入っていない状態だ。裏で操るような人物がいなくなったのならば、彼女が疑われることはなくなるだろう。
「今年は上級貴族の司書を派遣することになっています。その者に快く管理者としての権利を譲ってくだされば、ローゼマイン様の疑いは晴れるでしょう。善意の協力者ならば、管理者の立場に固執しないはずですから」
「その上級貴族が女性ならば良いのですけれど」
彼が協力者となった経緯には、「ひめさま」と呼ばれるのが嫌だったというものがある。王命で「ひめさま」呼びが確定するのは少し可哀想だ。そんな彼の呟きにラオブルートが驚いたように目を瞬いた。
「アナスタージウス王子の強い要望により女性が派遣されることになっていますが、ヒルデブラント王子も女性をご希望ですか」
「私はシュバルツ達にひめさまと呼ばれるのが男では可哀想だと思ったのですが……」
貴族院の司書にアナスタージウスが女性を希望する理由がわからなくて首を傾げるヒルデブラントにラオブルートが内緒話をするように声を潜めて教えてくれた。
「エグランティーヌ様の周囲をなるべく女性で固めたいだけです。実は、エグランティーヌ様を領主候補生コースの講師として貴族院に派遣し、ローゼマイン様からの情報収集に関してご協力いただくことになっています。ヒルデブラント王子もローゼマイン様と親交があるでしょう? 王族と図書館の関係や開かずの書庫についての情報収集をよろしくお願いします」
「ローゼマインはあれ以上知らないから、私に質問したのですよ? それに、私が貴族院内を動けるのは学生達の社交が始まる頃までですから、あまり接触できる時間はないと思います」
今年からローゼマインは三年生で専門の講義も始まる。去年と同じようにはいかないとアルトゥールに言われて肩を落としたのはそれほど昔のことではない。
「去年は知らなくても、今年知ったことがあるかもしれませんし、ヒルデブラント王子の活動できる期間や範囲は増えました。婚約が決まりましたから」
将来が決まってしまったので、貴族院の中で多少動いても問題ないのだそうだ。そんな理由を聞かされれば、自由に動ける期間と範囲が広がったところでヒルデブラントは何も嬉しくなかった。
……今更ローゼマインと仲良くできる時間が増えると言われても虚しいだけではありませんか。
失望の溜息を吐きたくなったのを我慢する彼をじっと見ていたラオブルートが魔術具を一つ差し出した。
「ヒルデブラント王子、こちらは隠し部屋に入ってからお一人で聴いてください。王族の機密だそうです。たった一度しか再生できない魔術具で、一度蓋を閉じてしまうと二度と聞けなくなるそうです。聞き逃さぬようにご注意ください」
「これも父上からですか?」
ラオブルートはニコリと笑うと、魔術具を置いて退室して行く。
ヒルデブラントはラオブルートが置いて行った魔術具と玩具を見比べ、玩具に手を伸ばしたい心を抑えながら魔術具を手に取った。
「では、アルトゥール。私は王族の機密というのを聞いてきます」
「かしこまりました。聞き漏らさぬようにご注意ください」
ヒルデブラントは隠し部屋に入って長椅子に座ると、魔術具の蓋を開けて黄色の魔石の部分に手を触れた。魔力が吸われて行き、声が流れ始める。
「これは婚約に気落ちしている王子への助言です」
魔術具から聞こえて来た声は王である父のものではなく、ラオブルートのものだった。それに驚いて一度手を引っ込めた。声が止まる。
このまま聞くべきかどうか少し考えて、ヒルデブラントはもう一度魔石に手を伸ばした。
「アーレンスバッハへ行かずに済む道を進むのであれば、このまま聞いてください。王命を静かに受け入れるならば、蓋を閉じてください」
ヒルデブラントは魔石からもう一度手を離して、思わず相談相手の姿を探した。当然、たった一人しかいない隠し部屋の中に相談相手の姿などない。何より、王命に反するか否かを相談できるはずがない。
心臓がバクバクと音を立て始めた。
このまま蓋を閉めてしまった方が良い、と心のどこかで声がするのを聴きながら、彼は自分にもう一度問いかける。
……王命を受け入れてアーレンスバッハへ行くのか、この先のラオブルートの助言を聞いて行かずに済む道を探るのか。
「私は……行きたくないです」
自分に言い聞かせるように声に出して、ヒルデブラントはもう一度魔石に触れた。
「王命を排することができるのは王命だけ、そして、王になればアウブになることはできない。それはご存知ですね? ですから、アーレンスバッハへ向かいたくないならば、ヒルデブラント王子ご自身が王になるしかありません」
「私が王に……?」
呆然とする彼に構わず、ラオブルートの低い声は語り続ける。「王になれ」と囁き続ける。
「今の王が持っていない、真実の王の証であるグルトリスハイトを探すのです。それを持つ者は誰にも非難できない正当な王になります。グルトリスハイトがないために苦労の絶えない王を救うことにも繋がります」
父親の異母兄、次期王と認められグルトリスハイトを譲られていた第二王子が不審な死を遂げ、第一王子と第三王子が争っている頃にはもう失われていて、グルトリスハイトがあればあのような争いはなかったはずだ、と父は語っていた。
グルトリスハイトさえあれば、王になるための教育も受けておらず、王としての務めが満足に果たせない状態で自分が王になることなどなかったのだ、とひどく疲れた顔で言っていたのをヒルデブラントは知っている。
「……グルトリスハイトを手に入れて本当の王になれば、父上が助かって、私はアーレンスバッハへ行かなくても良いのですか?」
「ヒルデブラント王子が王となれば、今の王命を排し、自分が望んだ女性と結ばれることもできるでしょう」
それはとても甘美な誘惑だった。
グルトリスハイトを持っていない父を助けることもできるし、父が下した命令を排することもできるのだから、自分だけではなく、ローゼマインを意に沿わない婚約から救うこともできる。
皆が喜ぶことではないだろうかと思うのと同時に、心の中で自分を引き留める声もする。臣下として育てられている自分が王位を望むのは、あまりにも大それたことではないだろうか。望んではならない、と自分を戒める声と、欲しいものを手に入れる好機があるのに諦めるか、と唆す声がヒルデブラントの中でせめぎ合う。
「……私のような第三王子が王位を望んでも良いのでしょうか?」
その質問に役目を終えた魔術具は何も答えてくれなかった。
「少し顔色が悪いですね、ヒルデブラント。何か悩み事があって?」
「母上」
洗礼式を機に離宮を与えられてからあまり顔を合わせることがなくなっていた母親との久し振りの夕食の席で沈んだ顔をしてしまっていたらしい。王族らしくない態度だと叱責されるだろうか、とヒルデブラントは少しばかり身を固くした。
けれど、いつもは厳しい母親が少し表情を緩めた。洗礼式を終えたら甘えてはなりませんよ、と言っていた母親が自分と視線を合わせ、ゆっくりと頭や頬を撫でる。
「何か悩んでいることがあるならば、この母に相談しなさい。こうして住む場所が離れてしまって顔を合わせる時間は減ったけれど、わたくしは貴方を一番心配しているのですよ」
そう言われるだけでヒルデブラントは昔と同じように甘やかされている気がした。彼は母を見上げた。自分と同じ色合いの前髪が少し揺れ、赤い瞳が自分の言葉を静かに待っている。
……全ては話せなくても、少しだけ相談してみても良いかもしれません。
母親は自分の背中を押してくれるような気がした。何故ならば、彼女は王族に輿入れするために様々な手を使って家族の持って来た縁談を打ち捨て、自分の望む縁談を勝ち取った人だから。
……自分で自分の結婚相手を決めたいと思う気持ちはわかってくれるでしょう。
ヒルデブラントは母親を見上げたまま、口を開いた。
「……母上、私には今欲しいものがあります。手に入るかどうかわからないものなので、我儘でしかないことは私自身が一番よくわかっています。周囲の者は望むな、と言うでしょう。それでも、自分が欲しいものを望んでも良いのでしょうか?」
彼の言葉を聞いて赤い瞳を丸くした彼女がクスクスと嬉しそうに笑った。
「あら、ヒルデブラントはあの人の血が濃いのだと思っていたけれど、貴方もダンケルフェルガーの男なのですね」
彼女はヒルデブラントを自分の膝の上に座らせて、ゆっくりと優しく髪を梳きながら、語りかける。
「欲しいものを得るために努力を重ねて力を蓄え、何度でも挑戦するのがダンケルフェルガーの男です」
「ヒルデブラント王子はダンケルフェルガーの男ではなく、王族です」
アルトゥールの溜息交じりの反論を笑顔一つで掻き消し、彼女は子守唄のような優しい声で息子に語り続ける。
「ヒルデブラント、自分の我儘を通すことは簡単なことではありません」
「はい」
「まず、周囲に大きな恵みを与えなければなりません。貴方が望む物を手に入れることが周囲にとって利となることならば、周囲は貴方が我儘を通すことに喜んで手を貸してくれるでしょう」
周囲の反対を封じるためには、自分と周囲の両方に利のある状況が必要だと母は言う。そうするためにあらゆる手を使わなければならないのだ、と教えてくれる。
「周囲を味方につけるためにはどうすれば良いのか、よく考えなさい。よく学びなさい。そして、勝ち取るために必要な力を付けなさい。諦めずに何度でも手を変え、品を変え、挑戦し続けなさい。貴方もダンケルフェルガーの男ならば、それができるはずです」
気合を入れるように母親がパンと軽く彼の両頬を叩いた。背中を後押しするような不敵な笑みを浮かべた母につられて、彼も力強く頷いた。
「精一杯努力します」
……グルトリスハイトを手に入れます。そして、私は二つの婚約を解消し、ローゼマインに求婚するのです。
そして、大きな決意を胸にヒルデブラントは貴族院へやって来た。
およそ一年ぶりに親睦会での再会である。小広間の一番奥に座るヒルデブラントの元へ少し背が伸びたローゼマインがヴィルフリートとシャルロッテに挟まれて挨拶にやって来る。
……何でしょう、あのキラキラは?
記憶通りの美しい夜空の髪に、記憶にない物が揺れている。ローゼマインが歩くたびに光を反射して存在を主張して揺れているのは虹色魔石が五つも付いている髪飾りだった。エーレンフェストから流行し始めた花の髪飾りに、揺れる虹色魔石の髪飾りが添えられている。去年は身につけていなかったから、保護者に贈られた物ではないはずだ。
……もしかして、あれを贈ったのはヴィルフリートでしょうか?
そう考えた途端に胸の奥がジリジリと焼けるような嫌な気分になった。ならば、ローゼマインに求婚しようと思えば、あれ以上の魔石を贈らなければならない。そうでなければ、ローゼマインは自分に見向きもしないだろう。
当然のようにローゼマインの手を取って、挨拶を終えたヴィルフリートが去っていく。いつか、あの位置に自分が立つのだ。
……グルトリスハイトに虹色魔石……。
高い目標を見据え、ヒルデブラントはテーブルの下できつく拳を握りしめた。