Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (494)
閑話 聖女の儀式 後編
ハルトムート様の声に合わせ、ゆったりとした優雅な足運びでローゼマイン様が歩き始めました。祭壇に向かうように歩くため、わたくしの位置からはローゼマイン様を正面から見ることができます。
色とりどりの領地のマントの中、お一人だけ白をまとったローゼマイン様は非常に目立ちます。静謐という言葉が非常によく似合う雰囲気で、跪く皆の間をゆっくりと進んできます。その視線は祭壇を見つめていて、他の何も目に入っていないように見えました。
衣装の白を更に引き立てるのは、さらりと揺れる夜空の色の髪。そして、そこには婚約者からの愛の証とも言える虹色魔石の髪飾りが星のように輝き、揺れています。あれほど素晴らしい魔石の連なった髪飾りを見たことはございません。
……わたくしもいつかあのように素敵な魔石を贈ってくださる殿方に巡り合いたいものです。
お姉様にはふわふわした夢を見ていないで現実を見なさい、と言われますが、最終的に親の意向による相手と結婚することになることくらいはわかっています。夢を見ていられるのが今だけなのですから、今くらいは夢に浸っていても良いではありませんか。
……そんなわたくしの言葉に同調してくださるのがミュリエラ様くらいなのですけれど。
二人で恋物語について語り合う楽しい時間に思いを馳せている間に、ローゼマイン様は中央の少し空けられた場所の前に到着していました。そして、わたくしの背後にある祭壇を見上げながら、神々に祈りを捧げるようにふわりと天に向かって両手を上げていきます。
神に祈りを捧げるために両手を上げ、左足を上げるのは、少しでも高く亭々たる大空を司る最高神に近付くため、感謝を捧げる時に地面に手を付けるのは広く浩浩たる大地を司る五柱の大神に近付くためだと聞いたことがあります。聞いてもよく理解できなかった祈りの形でしたが、ローゼマイン様のお姿を見ると少しだけ理解できる気がいたしました。
「エールデグラール」
高く上がっている右手にシュタープを出したローゼマイン様が金色の瞳でじっと祭壇を見つめながら幼く高い声で唱えると、シュタープが大きな聖杯に変化しました。祭壇でゲドゥルリーヒが抱えているのと同じ聖杯です。
ローゼマイン様では持てないだろうと思われる大きな金色の聖杯には大きな魔石が埋め込まれているのが見えます。その魔石の色が透明で、複雑な彫刻までそっくりそのままの聖杯に皆が息を呑みました。
「ゲドゥルリーヒの聖杯……」
部屋が静寂に満ちていたため、誰かの小さな呟きが殊の外大きく聞こえます。
わたくしはローゼマイン様と同学年で実技を共にしていたため、ローゼマイン様は神殿育ちのため、武器や防具は神具以外に作れないとおっしゃるのを耳にしましたが、まさか武器だけではなく、聖杯まで作れるとは考えもしませんでした。
……聖杯は武器でも防具でもありませんよね? 一体どこで変化させるための呪文を知ったのでしょう? 神殿では知ることができるのでしょうか?
不思議に首を傾げるわたくしの隣で、お姉様が息を呑んでいるのがわかります。わたくしはローゼマイン様が円い盾を出したり、音楽の実技でフェシュピールを引きながら祝福を行ったりしているところも見ているので、少し慣れているのかもしれません。
……わたくしの報告を「大袈裟ですこと」とお姉様はいつもおっしゃいますが、大袈裟でも何でもないということをわかっていただけそうです。
ローゼマイン様には持てそうもない大きな聖杯をハルトムート様が手に取って、丁寧に下へ置きました。
そして、ハルトムート様もローゼマイン様も跪きます。わたくしの視界からローゼマイン様のお姿が消えてしまいました。その代わりに、歌うような祈りの声が響き始めます。
「我は世界を創り給いし神々に祈りと感謝を捧げる者なり」
ローゼマイン様に続いて復唱するように、と言われたことを思い出し、わたくしは慌てて口を開きました。
「我は世界を創り給いし神々に祈りと感謝を捧げる者なり」
復唱する速さや始まりがバラバラだったため、復唱する皆の声が不揃いで少し耳障りにも思えます。全員の声が消え、シンとした静寂が戻ってからローゼマイン様が続きを口にします。
「高く亭亭たる大空を司る最高神は闇と光の夫婦神」
「広く浩浩たる大地を司る五柱の大神」
同じ調子、同じ速度で響くローゼマイン様の声に合わせる形で、次第に復唱する皆の声が合い始めました。部屋の中に響く声がまとまるのと同じように、気持ちがまとまってくる感じがします。全員で同じことをしているという時間や行動の共有感に少し胸が熱くなってきました。
「水の女神 フリュートレーネ」
「火の神 ライデンシャフト」
「風の女神 シュツェーリア」
「土の女神 ゲドゥルリーヒ」
「命の神 エーヴィリーベ」
一柱、一柱の神の名を唱え終える頃には、綺麗に声が合わさり、祭壇へ響いていきます。何とも言えない一体感を覚えていると、皆の体から何かが出てきて揺らめいているように見え始めました。
……え?
直後、突然自分の中の魔力が引き出されました。勝手に魔力が吸い出されるような感覚は初めてのものですが、どうしてよいのかわかりません。手から魔力が吸い出されていくので、手を離すのは簡単ですが、これが儀式なのだとすれば勝手に中断することはできないでしょう。
赤い敷物にぴたりと付けている自分の手から魔力が流れています。動くに動けず、じっと見つめていると、赤い敷物がキラキラとした小さな光を放ち始めました。
そして、皆の中心に据えられた聖杯へ向かって、光の波となった魔力が流れていきます。後ろから流れてきた魔力が自分を通り過ぎて前へ、前へと流れるのが感じられ、その流れに合わせて自分の魔力も引き出されます。どんどんと光の流れる速度が上がっているようで、自分の中から引き出される魔力も多くなってきました。
「息づく全ての生命に恩恵を与えし神々に敬意を表し、その尊い神力の恩恵に報い奉らんことを」
祈りの言葉を終えた途端、突然周囲が明るくなりました。光の流れを見ていた視界に別の光が入ったことに驚いて顔を上げると、皆の中心にある聖杯が光っているのが見えました。
「わっ!?」
「光っている!?」
周囲から驚きの声があがった次の瞬間、聖杯から赤の光が柱のようになって立ち上がり、天井へ真っ直ぐに伸びていきます。それは暖かい炉の色を思わせるゲドゥルリーヒの貴色でした。
「な、何事だ?」
上擦った王の声が聞こえました。皆の気持ちを代弁してくださったような声に、ローゼマイン様は静かな声で返事をします。
「おそらく貴族院のどこかへ魔力の一部が飛んで行くのでしょう。貴族院で儀式を行うといつもなるのです。エーレンフェストではなりませんから、貴族院特有の現象でしょうね」
ダンケルフェルガーの儀式でも同じようになりました、という声に壁際に立っていたレスティラウト様から肯定の声が響きました。
「我等の儀式では青の光が多いが、今回は赤か……」
「聖杯に魔力を込める奉納式ですから。この赤の光は神々に捧げられる皆様の魔力なのです。……美しいと思いませんか?」
ローゼマイン様の言葉にわたくしは何度も頷きます。本当に美しいのです。純粋に魔力だけで立ち上がった赤い光が。
……これが本物の貴色なのですね。
わたくしにとって季節の貴色は衣装や部屋の装いを考える時くらいしか思い浮かべないものでした。成人式で着る衣装の色さえ生まれ季節で決まり、自分で選ぶことができないことを不満に思うものだったのです。このように美しい貴色を見たのは初めてです。赤の属性を持つ魔石でもこれほど美しいと思ったことはございません。
「ここまでです、お姉様!」
突然シャルロッテ様の悲鳴のような声が響きました。皆がハッとして視線を向けると、シャルロッテ様が立ち上がったのが見えました。同じようにローゼマイン様も立ち上がります。
「儀式は終わりです。皆様、床から手を離してくださいませ。そろそろ魔力の厳しい方がいらっしゃるでしょう」
ローゼマイン様の声にわたくしは床に付いていた手を離しました。儀式の時に感じていた一体感がなくなり、夢から覚めて一気に現実に戻って来たような気分です。
同時に、ものすごい疲労感と魔力の枯渇を感じました。体がいきなり重くなって、目眩がして動けません。跪いたままの体勢を維持するのがやっとです。後ろの方では何人かが体勢を崩して倒れた音もしました。
「奉納式、お疲れ様でした。礎の魔術に魔力供給をし慣れている王族の方々や領主候補生はまだしも、上級貴族には大変な儀式だったと思います。貴重な魔力を提供してくださった皆様に奉納式への参加賞として魔力の回復薬を準備しています」
ローゼマイン様の言葉に軽く頷いたハルトムート様が動き始めました。ヴィルフリート様とシャルロッテ様もゆっくりとした動きではありますが、同じように動き始めました。どうやらあまり疲労を感じていないようです。
王族や領主候補生は体勢を崩していませんが、上級貴族は跪くこともできない状態の者が何人もいます。
……王族も領主候補生もこんなに大変なことを日常的にしているのですね。初めて知りました。
領主一族が礎の魔術に魔力を注がなければならないことは知識として知っています。けれど、それがどのようなものなのか、どれほど魔力を使う大変なことなのかはわかりませんでした。
「貴族院で習うお薬よりは魔力が回復しやすいはずです。もちろん毒等をお疑いの方には申し出てくだされば最初から配りません。ご自分で準備された回復薬を使ってくださいませ」
ヴィルフリート様とシャルロッテ様がそれぞれ小瓶を箱から取って、毒見のようにグイッと飲みました。その後、ハルトムート様はローゼマイン様に回復薬を差し出した後、ご自分も同じように箱から小瓶を取って飲み、空になった瓶を別の箱に入れました。
「こちらの回復薬のレシピは他の方に教えていただいた物で、勝手に流出させて良いものかどうかわかりません。ですから、この場で飲むだけにしてくださいませ。勝手に皆様にお薬を配ったことでわたくしが叱られるかもしれません。小瓶は後で回収いたしますね」
ここだけの秘密ですよ、とローゼマイン様が空になった小瓶をハルトムート様に渡しながら悪戯っぽく微笑んでそうおっしゃいます。わたくしが貴族院で教わる回復薬より魔力が回復しやすいという言葉に心惹かれてお姉様を見ると、お姉様は厳しい顔をしていらっしゃいました。
「あの、お姉様?」
「何が混入されているのかわからない物を口にするわけにはいかないでしょう?」
何かの罠かもしれません、と領主候補生の側近をしているお姉様は神経を尖らせています。異物混入の可能性を考えていなかった自分の甘さを指摘され、わたくしは少し項垂れました。わたくしはお姉様と違って側近として気を張って生活することがないので、ふわふわしていると言われてしまうのでしょう。
ハルトムート様は小瓶の入った箱を抱え、エーレンフェストの回復薬が必要かどうか、中心から尋ねていきます。つまり、王が最初です。
側仕えや護衛騎士もいない状態で、王族が他領の者の回復薬に手を付けるわけがありません。断られることを前提にした形式的な質問です。王に尋ねずに他の者に配るわけにはいかないのですから。
ところが、王は驚いたことに「……もらおう」と言って、小瓶の入っている箱に手を伸ばしたのです。当然のことながら、周囲にどよめきが起こりました。
常に襲撃や毒を警戒している上に、ヨースブレンナーのような魔力不足に喘ぐ中小領地と違って中央には余裕があるはずです。エーレンフェストの回復薬を飲む必要などありません。それなのに敢えて手を伸ばすということは、王がエーレンフェストを信用している、と行動で表していることに他ならないのです。
……エーレンフェストがここまでツェント・トラオクヴァールの信用を得ているなんて。
わたくし達も驚きましたが、エーレンフェストの者達も驚いているようでした。ヴィルフリート様とシャルロッテ様が「え?」と言ったまま、目を見開いて王を凝視しています。
ローゼマイン様は特に動じた様子も見せず、「ツェント・トラオクヴァール。そのお薬は魔力が大幅に回復するのですけれど、体調が回復するわけではないのです。ですから、疲労感は残ると思います」とおっしゃいました。ハルトムート様がその言葉に「ローゼマイン様が作られた回復薬だと思えば、疲労など吹き飛びます」と真面目な顔で頷いています。普段通りなのはローゼマイン様とハルトムート様だけではないでしょうか。
王が率先して手に取ったせいか、王族が次々と瓶を手にしていきます。少し躊躇う姿を見せた後、ジギスヴァルト王子が飲み干すのが見えました。
王族が飲んだ物を断れないと思ったのか、クラッセンブルクの文官見習い達は小瓶の詰まった箱を睨みながら考え込んでいます。異物混入を疑えば、手を伸ばさないのが自分の身を守るためには正解でしょう。
「今回の儀式に参加するためにディッターを行ったことで回復薬がたくさん必要だった領地もあるでしょう? それなのに、儀式でも魔力をたくさんいただくことになるのです。その埋め合わせという形で準備させていただきました。毒等を警戒しているのでしたら自分で準備した物を飲めばよいので、早く選んでくださいませ。わたくしは体勢を崩してしまっている中小領地の上級貴族にこそ、この回復薬を届けたいのです」
ローゼマイン様はクラッセンブルクの上級貴族達ではなく、円の外側の方で何とか跪いた体勢を取ろうとしている上級貴族をひどく心配そうに見ています。
……上位領地ではなく、下位領地の心配をするなんて……。
ローゼマイン様の心配そうな顔に急かされたクラッセンブルクの上級貴族達は急いで小瓶を手に取りました。それから先はとても早く薬が配られて行きます。ダンケルフェルガーの文官見習い達は手にすると同時に躊躇いもなく一気に飲みました。
「お手伝いいたします、ローゼマイン様」
やっと動くことを許されたと言わんばかりの顔で、クラリッサ様が空の小瓶を回収するための箱に手を伸ばしました。そして、飲み終わった人達の瓶の回収を始めます。
ハルトムート様はドレヴァンヒェルに配られ、ギレッセンマイアー、ハウフレッツェへ移動していきます。
「……エーレンフェスト、この回復薬はずいぶんと魔力が回復するのが速いのではないか?」
アナスタージウス王子の質問にまだ回復薬を飲んでいない者もそろってローゼマイン様へ視線を向けました。
「エーレンフェストの騎士見習い達もそう言っていました」
「其方が準備した物ではなかったのか?」
アナスタージウス王子の声が少し尖ったように聞こえ、わたくしは他人事ながら震えあがりましたが、ローゼマイン様は困ったように微笑んだだけでした。
「わたくしが日常的に使っている回復薬とは別物なので効力がよくわからないのです。兄妹や側近達と話し合った結果、寮の採集場所で素材が採れ、わたくしが作れる回復薬の中で今回の儀式に最も適当だと言われた回復薬を作っただけなのです」
……それはつまりローゼマイン様は領主候補生でありながら、何種類も回復薬を作れるということではありませんか!?
調合に慣れていることは講義でわかっていましたが、まさか何種類も作れるほど薬学に精通しているとは思いませんでした。
「オルトヴィーン様」
不意にヴィルフリート様の声が響き、ドレヴァンヒェルの領主候補生がビクッとしたのが見えました。
「こちらは今回の儀式のために使った魔力を回復させるための物で、研究素材ではありません」
どうやらドレヴァンヒェルの領主候補生がこっそりと持ち帰ろうとしたようです。ヴィルフリート様がからかうように笑いながら止め、バツの悪そうな顔を見せた後、オルトヴィーン様は回復薬を一気に飲みました。
王族や上位領地のやり取りを見て、たとえお姉様に止められたとしても、わたくしは回復薬をいただくことにしました。ヨースブレンナーの回復薬はディッターでかなり使ってしまったのです。もらえる回復薬はもらっておきたいと思います。
……エーレンフェストのために魔力を使ったのですもの。いいですよね?
視線だけでお姉様に伺うと、お姉様は諦めたような顔で軽く頷きました。そして、ヨースブレンナーの順番になった時にはお姉様もハルトムート様からお薬を受け取りました。ルストラオネも回復薬をもらっています。
わたくしはハルトムート様が持っている箱を見て息を呑みました。薬の入っている箱は何箱もあり、すでに三箱目になっているのですが、たくさん入っている回復薬に目眩がしました。
これだけたくさんの回復薬を準備しようと思えば、素材の量、作成に必要な魔力量、そして、作成時間は膨大なものになります。
「……これだけたくさんの回復薬をご準備してくださるなんて、ローゼマイン様の慈悲深さにエーレンフェストが潰れてしまう可能性はないのでしょうか?」
わたくしの呟きに、ハルトムート様は少しだけ片方の眉を上げた後、ローゼマイン様に一度視線を向け、得意そうに笑いました。
「エーレンフェストは聖女の慈悲に満たされ、繁栄していくのです。潰れることなどあり得ません」
領主の養女でありながら神殿長としてこうして儀式を行って領地を魔力で満たし、他領の者も加護を得られるように儀式について教え、こうして他人の減った魔力を心配して回復薬を準備するなど、とても普通の者にできることではありません。
……本当にローゼマイン様は聖女なのでしょう。
ハルトムート様のこれまでの情報もきっと大袈裟なものではなく、本当のことが詰まっていたはずです。身を入れてもっとよく聞いておくべきでした。
そんなことを考えながらグッとわたくしはローゼマイン様の回復薬を飲み干しました。
……本当に回復が速いではありませんか。何ですか、これは?
飲んだ直後から魔力が回復していくのがわかります。講義で教えられた回復薬とは比べ物になりません。
「これが……採集場所で採れる素材で作れるのですか?」
「エーレンフェストが魔力に困らない秘密はこの回復薬に違いありません。これだけ回復できるのであれば、領地を魔力で満たすこともできるでしょう」
お姉様の言葉にわたくしは深く頷きました。これほど回復できるならば、回復薬を作るのも、領地を魔力で満たすのも、ずっと容易になります。
「でも、この回復薬、魔力は回復しますけれど、疲労感は抜けませんね」
ルストラオネの呟きにわたしは少しだけ手を動かしてみました。回復薬を飲んだのに、疲れが全く取れていません。
「魔力だけ回復しても疲れて動けないのであれば、普通の回復薬の方が使い勝手は良いかもしれませんね」
「戦っている最中の騎士には重宝するでしょうし、魔力が足りなくて見合わせていた調合を行いながら飲むには最適ですよ」
お姉様の言葉に、何となくこの薬を開発した方が重視したものが見えてくるような気がしました。きっととんでもなく魔力を必要とするような変わった研究をしている研究者でしょう。
回復薬を飲んだ王族や領主候補生はすぐに動き始めました。けれど、中小領地の上級貴族はまだ満足に動けません。それを見ていたローゼマイン様が手を握ったり開いたりし、首の辺りを触り、何かを確認した後、ゆっくりと手を上げました。
「魔力は回復するけれど、疲労は抜けませんよね? なかなか動けないようでは困るでしょうし、わたくしも魔力が回復しましたから」
そう言いながらローゼマイン様はシュタープを出しました。そして、今度は「シュトレイトコルベン」と唱えて、フリュートレーネの杖を手にします。先程の聖杯と違って、今度は最初から魔石が緑に輝いています。
「今度はフリュートレーネの杖?」
次から次へと神具が出てくる様子に皆が唖然としていると、ローゼマイン様は恥ずかしそうに目を伏せました。
「未熟で恥ずかしいのですけれど、大勢に癒しを与えるにはフリュートレーネの杖を使わなければ、指輪だけでは難しいのです」
……恥ずかしがるところが違う気がいたします。
当たり前のように大勢に癒しを与えようとするローゼマイン様に、何も言う気力がなくなりました。普通はこの程度の疲労で他人のために魔力を使ったりしませんし、大勢に一度に癒しをかけようとは考えません。ましてや、そのために神具を持ち出すような方はユルゲンシュミット中を探してもローゼマイン様以外にいないでしょう。
「ルングシュメールの癒しを」
ローゼマイン様の祈りと共に杖の魔石から緑の光が噴き出しました。先程の儀式と同じように一部の光が柱となって屹立し、それ以外が部屋にいる皆に降り注ぎます。温かさを感じる光を浴びていると、すぅっと疲労感が抜けていくような気がしました。
軽く目を閉じて静かにローゼマイン様の魔力を浴びていると、「メスティオノーラ……」という呟きがどこからか聞こえました。それほど大きな声ではなかったのですが、静かにローゼマイン様の祝福を浴びていた部屋の中にはよく通ります。
……メスティオノーラ? ……確か風の眷属だったかしら?
全ての神々の名前を覚えている途中のわたくしはひとまずメスティオノーラが風の眷属であることを思い出しました。記憶が確かならば英知の女神だったと思います。
そのメスティオノーラがどうしたのだろうか、と思っていると、「わかります、ハンネローレ様!」という元気な声が響いてきました。
……わたくしにはわかりません。
思わず目を開けると、ダンケルフェルガーのクラリッサ様が拳を握って力説を始めるところでした。あまりにも驚いたためか、ローゼマイン様の祝福も止まっています。
「以前、わたくしも同じことを思いました! あらゆる神具を自在に扱うローゼマイン様は、神々から神具を使うことを許されたメスティオノーラではないか、と」
わたくしは神学の講義の範囲内しか神々については存じませんが、メスティオノーラにはそのような話があるのでしょうか。同じように疑問を感じた方は多いようです。ハルトムート様が訝しそうにクラリッサ様を見ました。
「神殿の聖典にもそのような話はなかったと思うのですが……」
「ダンケルフェルガーの古い本にはあるのです」
クラリッサ様の言葉に同意したのはダンケルフェルガーの方ではなく、エグランティーヌ様でした。
「メスティオノーラが命の神と土の女神の娘であるというお話でしょう? クラッセンブルクの古い本にも記述がございます。命の神から隠すため、闇の神からいただいた夜空の髪に、光の女神からいただいた金の瞳に姿を変え、最も守りの強い風の眷属に入ったメスティオノーラ……。ローゼマイン様にピッタリですね」
確かにそうかもしれません。豊富な魔力であらゆる神具を使いこなし、連続最優秀を取れる賢さに加えて、ヴィルフリート様のお言葉を信じるならばエーレンフェストの流行を全て考え出されているのですから。
そう思っていると、クスッと小さな笑い声が響きました。
「冗談です、ローゼマイン様。そのような困ったお顔をしないでくださいませ」
「……女神に例えられて困らない者はいないと思います、エグランティーヌ様」
ローゼマイン様は困り果てたお顔でそうおっしゃいました。ローゼマイン様のお気持ちは痛いほどによくわかります。王族から「まるで女神」と言われて、一体どのような反応をすれば良いのでしょうか。
困り果てているローゼマイン様の前にそっとハルトムート様が進み出ました。
「そのようなお話があったのですか……。初めて伺いました。素晴らしいお話をありがとうございます。一度読んでみたいと思うほどに興味深いお話です」
主を救うように前へ出たハルトムート様がエグランティーヌ様にニコリと微笑みながらお礼を述べます。
円満にその場を収めるハルトムート様の手腕に、わたくしは感嘆の息を吐きました。領主候補生の側近たる者かくあるべし、という理想的な姿ではありませんか。
……素晴らしい主の元には素晴らしい側近が集まるのですね。
自分の常識が次々と壊されるような衝撃的な儀式でしたが、魔力も疲労も回復したわたくしはとても満足して寮に戻ることができました。