Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (508)
ダンケルフェルガーとの社交 後編
「貴女の意見には概ね同意いたしますけれど、色々なところにずいぶんと食い違いがあるようですね。先にそちらを確認させていただきたいと存じます」
第一夫人は額を押さえて軽くハンネローレを睨んだ後、養父様とわたしを見た。
「わたくしに上がってきているディッターに関する報告では、ダンケルフェルガーが勝利した場合はアウブ・エーレンフェストと協議し、婚約解消となった暁にはローゼマイン様をダンケルフェルガーの第一夫人に迎える。ダンケルフェルガーが敗北した場合はハンネローレをエーレンフェストの第二夫人として輿入れさせるというものでした」
「そうですね」
わたしが頷くと、第一夫人は途端に怪訝そうな顔になって背後を振り返った。控えていた文官らしき男性が一歩進み出てテーブルの上に紙を一枚広げると、また下がる。それはダンケルフェルガーに送られてきた報告書のようで、ディッターの条件が記載されている物だった。
「先程ローゼマイン様は、エーレンフェストが勝った場合は最初からハンネローレの輿入れという条件を取り止めるつもりだったとおっしゃいましたが、それはいつ決まったことなのでしょう? こちらの条件には記載がございませんでした」
「ディッターのお話が決まった時です。ハンネローレ様とお話をしている時にわたくしから提案したのですよね?」
わたしがハンネローレに同意を求めると、ハンネローレはこくこくと頷く。
「お兄様の勝手を謝罪した時にローゼマイン様からご提案いただいたのです」
レスティラウトとヴィルフリートがディッター勝負について細かい取り決めをしている時に、ハンネローレとわたしが盗聴防止の魔術具を使ってお茶を飲みながら話し合っていたのだ。ディッター勝負が決まった時の流れを覚えている限りで述べていると、第一夫人は全てを悟ったような顔になった。
「同じ日に同じ部屋の中で行われていた話のようですけれど、盗聴防止の魔術具を使っていたのでしたら、他の者には話が漏れていないと思われます。お二人で話し合った内容について申告されましたか?」
二人だけの内緒話を勝手に公の話にしたのではないかと疑われ、わたしは慌てて養父様に視線を向けた。
「わたくしはその日の夕食の時にヴィルフリート兄様に報告して、エーレンフェストにも連絡しましたよ。ねぇ、養父様?」
「あぁ、細かく経緯が書かれた報告書が届いた」
自分の身の潔白を証明して、わたしは胸を撫で下ろしていると、ハンネローレも「夕食の席でお兄様に申し上げました」と胸を張る。
「ハンネローレ、夕食の席では間に合わないでしょう? 何故その場でレスティラウトに申告しなかったのです? 細かい取り決めが終わった後にそのようなことを言っても、すでに署名を終えている条件を勝手に書き換えられるわけがないではありませんか」
「え? 署名?」
わたしは「勝ったらハンネローレの嫁入りはなしにしよう」とヴィルフリートに報告して許容されたし、ハンネローレも喜んで頷いていたので話は通じていると思っていた。けれど、それは条件を決める場での話し合いではなかった。
ハンネローレはレスティラウトにわたしの言葉を報告したけれど、細かい取り決めを終えて、レスティラウトとヴィルフリートが合意の署名をした契約の後では、正式なものではないと判断されたらしい。
「嫁取りディッターでは必ずこのような契約書を作るのです。ディッターの後で最初の条件を覆されることがないように」
「これはダンケルフェルガーへの報告書ではなく、契約書なのですか?」
驚いてよくよく見てみれば、確かにヴィルフリートの署名がされている。予算を割くためにも必要なのだそうだ。
養父様が契約書を覗き込んで難しい顔になった。
「細かい条件を決めたことは知っているが、このような契約書を交わしたという報告はもらっていないぞ」
「わたくしもヴィルフリート兄様から聞いていませんよ」
わたし達がちらりとヴィルフリートの方へ視線を向けると、ハンネローレが「もしかしたら、ヴィルフリート様は契約書だと認識していないのかもしれませんね」と呟いた。
「ダンケルフェルガーにとっては当然のものですし、貴族院の予算を使うために必要なのですけれど、アウブ・エーレンフェストもローゼマイン様もこれを契約書だと思わなかったのですよね?」
わたしと養父様は一度顔を見合わせて頷いた。レスティラウトから何の説明も受けなければ、予算のために必要な書類で契約書だと思わない可能性は高い。
「こちらの説明も足りていないようですね」
第一夫人が少し顔をしかめた後、ディッター勝負の条件を指差した。
「こちらにハンネローレを第二夫人にするという条件が書かれていますけれど、それを解消するという記述はございません」
「……勝ってからアウブ同士のお話の中で提案すれば良いと思っていました」
「それはエーレンフェストが勝ったら条件を勝手に変更するということですか? 先に条件を決める意味がなくなりますよ」
……確かにそうかも。
こんなふうに厳密に契約書まで作って条件を決めていたことを知らなかったが、勝ったら圧力をかけないという話を覆されて怒っていた自分は同じようなことをダンケルフェルガーに求めるつもりだったのだ。反省で肩を落としたわたしに第一夫人が更に追い打ちをかけてくる。
「それから、ローゼマイン様は、エーレンフェストが勝てば婚約解消に関する圧力をかけないというレスティラウトのお言葉を信じてディッターを行った、とおっしゃいましたね? けれど、そのような条件もございません」
「え? 嫁取りディッターは勝敗が決した時点できっぱりと嫁取りを諦めるのですよね? わたくし、レスティラウト様からそう伺いましたけれど……」
目を瞬きながら尋ねると、第一夫人は不思議そうに首を傾げた。
「エーレンフェストはその条件よりもハンネローレを第二夫人として娶ることを優先させたと聞いています。契約書にもハンネローレの件はありますが、求婚を諦めるという項目はございません」
本来の嫁取りディッターではきっぱりと諦めることが条件なのだが、その条件では不服でハンネローレを第二夫人として娶りたいとわたしが言い出した。そのため、諦める必要はなくなった、とレスティラウトには認識され、ダンケルフェルガーへ報告されたらしい。
「……諦めるという条件が勝手に外されていたなんて初耳です」
呆然としながらわたしが呟くと、養父様が深々と疲れきった息を吐いて、コツンとわたしの頭を小突いた。
「其方が別の条件を付けたのだから、元々の条件が消されていてもおかしくはない。これからは細かい取り決めをしている時に別行動をして勝手な話を進めたり、条件の確認を怠ったりしないように気を付けるように」
わたしに注意をしながら、養父様は第一夫人に視線を向ける。
「この契約書によって、ダンケルフェルガーでは求婚の取り止めよりもハンネローレ様を第二夫人として取り込む方を優先させているという認識で動き、エーレンフェストに利をもたらすべく、様々な提案をされたのだ」
ただの口約束よりも契約書がある方が正式な決定だと認識されるのは貴族の世界だけではなく、商人の世界でも当然のことだ。契約書に準じてエーレンフェストに利をもたらすはずの提案がことごとく意味をなさなかったのは、完全にこちらの落ち度である。
……あああぁぁぁ! なんてこと!
わたしはさっきの自分の言動を思い出して頭を抱えた。第一夫人に失礼極まりないことを言った。できることならば、第一夫人の記憶を消したいくらいだ。
「契約書とは全く違う主張をして、失礼極まりないことをしてしまい、本当に申し訳ございませんでした」
わたしの謝罪に養父様も続く。
「ディッターを行う前提にずいぶんと齟齬があったようです。確認を怠り、申し訳ございませんでした」
「いいえ、謝罪には及びません。嫁取りディッターの取り決めにエーレンフェストが詳しくないにもかかわらず、説明が杜撰であったり、監視が足りなかったり、こちらの不備も大きかったようです。こちらこそお詫び申し上げます」
王の許可がある婚約に対してレスティラウトが勝負を持ち掛けたこと、ディッターで暴走しがちなダンケルフェルガーの男をハンネローレがきちんと監視していなかったこと、ダンケルフェルガーでは当然の前提で話を進めて条件の確認や念押しなどの説明に不備があったことを第一夫人が詫びる。
「ハンネローレも反省なさいませ。勝手に輿入れの話をされて気落ちした中でも謝罪を忘れなかったことは良いことですけれど、ディッターの話が出たところでは決して男達から目を離してはなりません。自分にとって優位に進めたがるレスティラウトや興奮が高まっている騎士達を抑えて、エーレンフェストに細かい説明をするのは貴女の役目でした。友人関係を大事にしたければ肝に銘じなさい」
貴女もダンケルフェルガーの女として自覚が芽生えたのでしょう? と第一夫人がニコリと微笑めばハンネローレの笑顔が固まった。「そんなの無理です」という声が聞こえてきそうな顔になりながらも、ハンネローレはコクリと頷く。
「気を付けます」
「では、エーレンフェストが今回のディッター勝負に望んだことを正確に教えてくださいませ。ハンネローレを第二夫人に望んでいるわけではないのならば、ディッターは絶対だと言い張るアウブがやって来る前に話を終わらせましょう」
ちらりとダンケルフェルガーの場所に視線を向けた第一夫人の提案に養父様が姿勢を正す。
「こちらとしてはローゼマインへの求婚を諦めていただきたい。それが一番の望みです。それから、こちらはお願いになりますが、二度とエーレンフェストにディッター勝負を持ち掛けないでいただきたい。嫁取りにかかわらず、です」
毎年ダンケルフェルガーにはディッターを挑まれているが、エーレンフェストの負担が大きくて迷惑だ、と養父様が貴族言葉で遠回しに言う。
「今回は特に負けるわけにいかなかったので、魔術具や回復薬も派手に使いました。何度もダンケルフェルガーの相手はできません。エーレンフェストはしがない中領地ですから」
養父様の言葉に「毎年ディッターを行っていますものね。わたくしの目に入る範囲であれば止めましょう」と第一夫人は約束してくれた。
「ただ、エーレンフェストもすぐに勝負を受けないようにしてくださいませ。受けられるとこちらが干渉することができなくなります」
「……はい」
第一夫人によると、毎年宝盗りディッターを受けるエーレンフェストはとてもディッター好きな領地だとダンケルフェルガーに認識されているらしい。ルーフェンからも「虚弱で騎士コースが取れないローゼマイン様だが、フェルディナンド様と同じように宝盗りディッターを好んでいる」という報告書が届いているそうだ。
……全然正確じゃないよ!
「ローゼマイン様はアウブ・エーレンフェストがおっしゃった条件で不服はございませんか?」
「わたくしにとって大事なものはエーレンフェストにあるのです。ですから、良い条件を出されて心が揺れることがあっても、エーレンフェストを出る決断はできません」
わたしがはっきりと言うと、第一夫人は少し表情を緩めた。
「ハンネローレ、貴女が知る中でエーレンフェストの利にはどのような物がありますか?」
「お母様?」
「ディッターを好んでいるわけではない領地に毎年迷惑をかけているのでしょう? これからの領地の関係を良くするために、少しはお詫びの品を準備しなければ。ローゼマイン様個人ではなく、エーレンフェストにとってのお詫びになるものですよ」
第一夫人の言葉にハンネローレは少し考え込んだ後、ポンと手を打った。
「お兄様の絵を差し上げるのはいかがでしょう? その、ディッター物語の挿絵をローゼマイン様もヴィルフリート様も欲しがっていらっしゃいました。けれど、お兄様が印刷の過程で他の方の手が入るのは嫌だとおっしゃって、絵のお話は保留になっています。ですから、どのようにお使いになっても構わないという形で差し上げれば、エーレンフェストの印刷に貢献できると思います」
ハンネローレは第一夫人の反応を見ながら説明した。自分の意見を聞かれて、それが通ったことがないと言っていたハンネローレの赤い瞳が誇らしげに生き生きと輝いている。
「ハンネローレはこのように言っているのですけれど、レスティラウトの絵が本当にエーレンフェストの利になるのですか?」
疑わしそうな第一夫人と期待に満ちたハンネローレを見比べて、わたしは「なります!」と大きく頷いた。
「ディッター物語の売り上げ的に素晴らしい提案だと存じます。ねぇ、養父様?」
「……他にもっと有益な物があるだろう」
どうせならダンケルフェルガーの庇護でも願え、と養父様が頭を押さえてぼやいた。それを第一夫人は「そういえば、ダンケルフェルガーの盾はローゼマイン様に壊されましたね」と笑顔で流し、レスティラウトの絵をお詫びにする方向で話をテキパキと進め始める。
「エーレンフェストはありがたいのですけれど、レスティラウト様の絵を勝手に出してしまってもよろしいのですか?」
「自分に関わることを他人から勝手に決められる気持ちをレスティラウトが知る良い機会になるでしょう。輿入れ先を勝手に決められたことに比べればまだ甘いくらいです。……そうですね、あの絵もエーレンフェストに差し上げましょうか」
第一夫人は「寮にはレスティラウトの力作があるのですよ」と何かを企むようにクスと笑った。
……あぁ、第一夫人の笑顔にフェルディナンド様と同じような怒りを感じるよ。レスティラウト様、頑張れ。
ディッター勝負のお話にひとまずの決着がつくと、その後は絵のやり取りの契約から印刷の話になった。歴史本やディッター物語をどのくらい準備するのか、どのように売る予定なのかなどを尋ねられ、わたしは次々と答えていく。
「ダンケルフェルガーの本を印刷するために、できればダンケルフェルガーに印刷機を置きたいと考えているので、いずれ印刷の魔術具を買わせていただこうかと思っているのです」
「残念ながら、印刷の魔術具を売り出すことはできません」
印刷機は魔術具じゃないからね、と心の中で呟いていると、第一夫人はゆっくりと頷いた。
「存じています。レスティラウトの報告によると、技術の流出を防ぐために印刷の技術は外に出す予定がないのですよね? その状態でどのように印刷を広げていくおつもりなのでしょう?」
普通は中央や大領地に売り込んで、上から新しい技術を流していく。エーレンフェストで取り囲んでおく理由が知りたいそうだ。エーレンフェストの考え方は常識で測れないと言われてしまった。もしかしたら、わたしのせいだろうか。
「しばらくは様々な領地から原稿をお預かりして、エーレンフェストで印刷すると決めています。そのやり取りの中で印刷に関する制度がある程度浸透してから広げていく予定なのです」
エーレンフェストの貴族もまだわかっていないのだが、印刷する上での権利やお金の流れを領地内で浸透させ、それを他領にも流していきたいと考えている。
わたしの言葉に養父様が頷いて第一夫人に微笑んだ。
「いずれ、で良いのでしたら、他領に出すことが決まった時は一番にダンケルフェルガーへお話を持ち掛けるというお約束はできます」
「そうですか。それから、こちらが気になっているのはフェルネスティーネ物語のことなのですけれど……」
モデルが誰なのか知っている養父様は深刻そうな顔の第一夫人を前に笑い出したりしないように、さりげなく口元を押さえる。
第一夫人は一巻を読んだ限りでは、わたしがフェルネスティーネのモデルでエーレンフェストに虐げられているように読めると言った。
「貴族院で物語を集め、本の貸し借りを始めたのもローゼマイン様だと知られています。お話に紛れ込ませたローゼマイン様からの救援を求める声と感じられるのです。領主会議で聞こえてくるエーレンフェストの噂は良いものがほとんどございませんから」
フェルディナンドを救い出そうと暴走したダンケルフェルガーが、今度はわたしを救い出そうと同じ過ちを犯さないように手綱を握らなければならない、と第一夫人が言う。
さすがにこの場で「モデルはわたくしではなく、フェルディナンド様ですよ」とは言えない。「王命でアーレンスバッハへ向かうことになって悲嘆にくれたお母様が原稿に激情を叩きつけた結果です」とはもっと言えない。
「二巻を読めばそのような感想はなくなると思いますから、他領にお貸しする時には二巻同時に貸し出すことにいたしましょう。親切なご忠告、ありがとう存じます」
「一巻が途中で終わってしまって残念でしたから、そうされると喜ばれる方も多いでしょう。本当に続きが気になって仕方がなくなるのです」
ハンネローレがどれだけ楽しかったのか、告げながらエーレンフェストの本を褒めてくれる。だが、よく考えてみるとフェルネスティーネ物語が三巻完結のお話であることは伝えていなかった気がする。二巻を楽しみにしているハンネローレにわたしはそっと告げた。
「あの、ハンネローレ様。実はフェルネスティーネ物語は三巻まであるのです」
「そんな……」
頬を押さえたハンネローレが絶望の表情になった。続きが早く読みたいけれど、三巻の完結まで待つ方が良いのかどうかで真剣に悩み始めたハンネローレの隣にいる第一夫人は本の販売方法について養父様と話をしている。
……領地対抗戦は領主会議の前哨戦って前に聞いたことがあるけど、領主会議もこんな感じで話をするのかな?
周囲の文官達の様子を見ながらそんなことを考えていると、軽やかな声が割って入って来た。
「ずいぶんと楽しそうなところ失礼ですけれど、ご挨拶だけさせてくださいませ」
フェルディナンドとディートリンデがやって来た。まさに今話題になっているフェルネスティーネのモデルの登場に養父様の口元がニヨッと動く。いつもならば「何を企んでいる?」と言いそうな養父様の表情にも何も言わず、フェルディナンドは作り笑顔でディートリンデの半歩後ろにいる。
……顔色、悪っ!
フェルディナンドの顔色が明らかに悪くて、寝不足の顔になっている。作り笑顔なのに、隠れていない。穏やかそうに見える作り笑いが怒っているようにも見えるのは、ディートリンデが機嫌を損ねるようなことをしたのだろうか。
「婚約者との挨拶で全領地を回らなければなりませんの。わたくし、忙しくて、忙しくて……こちらにダンケルフェルガーの第一夫人もいるなんて都合が良いですわ」
……あぁ、フェルディナンド様の笑顔が深まった。
ディートリンデはわたしや養父様ではなく、ダンケルフェルガーの二人と話を始めた。共同研究に関する話だ。
「ダンケルフェルガーとエーレンフェストの共同研究も非常に興味深くてたくさんの人が集まっているようですけれど、フェルディナンド様の弟子によるアーレンスバッハの研究も素晴らしいのですよ。ぜひ見に来てくださいませ」
ディートリンデが共同研究のアピールをしているのをちらりと見た後、フェルディナンドがわたしと養父様の方へやって来る。わたしは養父様に一言断って席を立つと、できるだけ優雅を心がけながら速足で近寄った。
「フェルディナンド様、お久し……いらいれふ!」
再会と同時に頬をぐにっとつねられる理由がわからない。わたしはまだ怒られるような報告をしていないはずだ。
久し振りの痛みに涙目になりながら頬を押さえて見上げると、フェルディナンドの笑顔が消えていた。冷え冷えとするような眼差しで見下ろしてくる眉間にはくっきりと皺が刻まれている。
「君に言いたいことは山ほどあるが、ここでは控えておこう」
「では、頬をつねるのも控えてくださいませ」
「ふむ。以後、考慮する」
「……考慮するだけではないですよね? 実行もしてくださいね」
わたしがムッと睨むと、フェルディナンドがフンと鼻を鳴らした。絶対に次からもつねられる気がする。
「ダンケルフェルガーがこちらにいるのを見て、来たのだ。ローゼマイン、あのマントは持って来ているか?」
「もちろんです」
わたしは振り返ってリヒャルダを見ると、すぐに青いマントが取り出された。フェルディナンドがそれを手に取り、第一夫人の背後に控えている騎士達のところへ向かって歩いていく。
「ハイスヒッツェを呼んでくれないか?」
騎士の一人がオルドナンツを飛ばすとすぐにハイスヒッツェがやって来た。ディッターをするわけでもないのに興奮気味で非常に嬉しそうな顔をしている。
「フェルディナンド様、この度はご婚約、おめでとうございます。神殿より出られたことを伺い、こちらまで嬉しくなりました」
婚約を祝うハイスヒッツェにフェルディナンドはとても柔らかな作り笑いを浮かべた。
「あぁ、これ以上ない環境を得られるようにダンケルフェルガーを始め、たくさんの者が協力してくれたと聞いている。ダンケルフェルガーの奮闘のおかげで私はヴェローニカ様の孫娘であるディートリンデ様との縁を得たのだ。とても言葉にはできない思いでいっぱいだ」
「まぁ、フェルディナンド様ったら、わたくしのことをそんなふうに褒めてくださるなんて」
照れた顔になるディートリンデに、周囲からはお祝いの言葉がかかる。
そんな中、ハイスヒッツェは一人だけ真っ青に表情を変えた。