Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (546)
次期ツェント候補
頼もしいマグダレーナに全てを任せて書庫に戻ろうとしたら、ハンネローレが「あの、マグダレーナ様」と恐る恐るという様子で呼びかけた。
「何かしら? ハンネローレ様?」
「書庫で作業を続けるより、隠れるというか、ディートリンデ様とわたくし達が顔を合わせないようにした方が良いのではありませんか? その、未成年であるわたくし達がここでお手伝いをしていることはあまり知られない方が良いのでしょう?」
昼食の時の話を例に出したハンネローレの言葉に少しマグダレーナが考え込む。
「ディートリンデ様がどのくらいの護衛を連れていて、どのような目的でこちらにいらっしゃるのかわからないので、書庫に入っているのが一番安全ではあるのですけれど、ハンネローレ様のお言葉ももっともですね」
どれだけの騎士を連れていても、書庫の中にはディートリンデ一人しか入れない。書庫の中が一番安全ではあるけれど、最初から存在を知られないようにできるならばそれが一番だ。
「階段で鉢合わせするのが一番危険だと思いますが……」
レオノーレの言葉に皆が言葉に詰まる。その時、オルドナンツが飛んできた。白い鳥はマグダレーナの手首に降り立ち、口を開いた。周囲を気にしているように少し潜めたソランジュの声でオルドナンツが話し始める。
「ソランジュでございます。これから執務室でアーレンスバッハのディートリンデ様の入館登録を行うことになりました。未成年者が貴族院にいる姿を見られない方が良いのであれば、閉架書庫の奥にお隠れくださいませ。後で別の出入り口から外へ出られるようにお手伝いいたします」
わたし達が昼食も地下書庫で食べていることを知っているソランジュがわざわざ伝えてくれたことだ。時間稼ぎをして、外へ出してくれているならば、それに越したことはない。
「マグダレーナ様もあまりお姿を見られない方が良いのですよね? 一緒に閉架書庫に隠れましょう」
わたしはそう声をかけたけれど、マグダレーナは「いいえ。こちらの書庫が開いているのに、誰もいないのも不自然です」と首を横に振った。
「それに、わたくしはディートリンデ様がいつ誰からの情報でこの書庫の存在を知ったのか、調べなければなりません」
政変後に残っている王族が知らなかった書庫の存在をディートリンデが知っていたはずがない。もしも知っていたのならば、学生時代に図書館登録をしていないということはなかったはずだ、とマグダレーナは言った。
……そう言われてみればそうかも。
「今はまだ昼食を終えた方々が移動を終えていないくらいの時間帯です。ソランジュ先生の誘導で外に出られたとしても、中央棟には近寄らないでくださいませ。ディートリンデ様が図書館を出たらオルドナンツを飛ばします」
マグダレーナの言葉に頷きながら、わたしは自分が現代語訳した文章をまとめてマグダレーナに手渡し、筆記用具を片付けて外に出られるように準備をする。今日は一日中書庫に籠っていられると思っていたので、ちょっと残念だ。
そして、昼食の片付けに行っている自分の側仕え達に状況を知らせるオルドナンツを飛ばし、連絡があるまで図書館へ戻らないように伝えた。
「ヒルデブラントは皆の迷惑にならぬようにするのですよ。わたくしはここでディートリンデ様とお話をしますから」
マグダレーナはニコリと笑って護衛騎士達にヒルデブラントを託すと、早く閉架書庫へ行くように急かした。わたし達は急いで階段を上がる。閉架書庫と地下書庫の間にある扉の鍵は側仕え達が出入りできるように開けられているので、閉架書庫に入ることは問題なくできた。
閲覧室から入ってくる扉の前に立ったコルネリウス兄様がどこに隠れれば見えないのか確認しながら指示を出していく。
「ヒルデブラント王子は一番奥の本棚の後ろに隠れてください。ダンケルフェルガーはその手前でお願いします。そして、ローゼマイン様はこの本棚より手前に出ないように気を付けてください」
側近が多いハンネローレとヒルデブラントを奥に行かせて、わたし達は手前の本棚の後ろに陣取る。貴重な書物が置かれている閉架書庫の本棚は背板が付いているので、本棚の奥に隠れれば見えることもないだろう。
「……まだでしょうか?」
完全に隠れたのにディートリンデがやって来ない。ソランジュが時間を稼いでくれているのかもしれないが、少しも動かずにじっとしているのはとても苦痛だ。
「側仕え達が出入りできるように鍵は開いているのです。いつ入って来るのかわからないので、おとなしくしていてください」
……ここにある本が読みたいよぉ。
目の前に読んだことがない本があるのに、本棚の前で本を読むこともなく、じっとしているのはとても苦痛だ。
……静かにしてるから読んでいいかな? ダメだよね。わかってるよ。わかってるけど、読みたい。
口に出したら怒られることを考えながら、わたしはディートリンデがやって来るのを待つ。カチャリと音がして扉が開き、明るい光が閉架書庫に差し込んできた。
「まぁ。では、ディートリンデ様がこちらへいらっしゃったのは、そのお手紙で……?」
ソランジュの柔らかな声が閉架書庫に響いた。ソランジュがわたし達に聞かせるために図書館来訪の理由を尋ねているのがわかる。
「えぇ、そうなのです。差出人の書かれていない不思議なお手紙が届いて……。わたくしが次期ツェントになれるように心ばかりのお手伝いがしたいと書かれていたのです。貴族院の図書館にはツェントになるために必要な知識が眠っている、と。あれはきっと神々からわたくしへ贈られた物でしょう」
……ちょっと待って。差出人不明のそんな怪しい手紙を信じて図書館へ来ちゃったの!? ディートリンデ様の行動って、領主候補生としてあり得ないくらいに迂闊じゃない!?
ディートリンデも色々と叱られることが多いわたしには言われたくはないだろうけれど、わたしが同じことをしたら絶対にフェルディナンドから雷を落とされるような行為だと思う。何より、普通は側仕え達が手紙を仕分けするので、そんな怪しい手紙が自分の手元に届くかどうかさえ定かではないくらいだ。
……領主候補生としてはあり得ないのに、正解をつかんでいるディートリンデ様にビックリだよ。
フェルディナンドは「魔力が足りていなくて魔法陣は起動しなかった」と言ったけれど、本気で次期ツェントを目指すならば地下書庫にある文献を読まなければならない。
「領主会議の間は図書館が開いていると書かれていたので、足を運ぶことにしたのです。どんどんと会食やお茶会の予定が入りますから、今日を逃せば次はいつ足を運べるのかわかりませんもの」
領主会議が始まった初日から予定がぎっしりと詰まっていることは少ない。最初の数日はアウブ夫妻が全員集められる会議があり、その合間にお誘いや予定のすり合わせを行う。そのため、始まってすぐはまだ時間の余裕があるけれど、だんだんと忙しくなるそうだ。
他領からほとんどお誘いがない底辺領地だった頃のエーレンフェストは、早く切り上げて帰りたくなるくらいに予定がなかったそうだけれど、今は初日から予定がびっしりだと養父様から聞いた。
「ジギスヴァルト王子が星結びの儀式の時に魔法陣を光らせましたし、領主会議の時に王族は地下書庫に出入りするのでしょう? 先に候補になったわたくしが後れを取るわけにはまいりません。そう思わなくて?」
オルタンシアが苦笑気味に「……そのようなおっしゃり方は王族に不敬だと思われましてよ」とたしなめる。けれど、ディートリンデ様はクスと笑った。
「グルトリスハイトも持たない王族を王族と呼ぶのはおかしいでしょう? 神々に選ばれ、真のツェントになるのはわたくしですもの」
どうすればそれだけの自信が持てるのか知らないけれど、閉架書庫にディートリンデの高笑いが響く。
「ディートリンデ様は次期アウブ・アーレンスバッハではございませんか」
「それはそうですけれど、わたくし、きっとアウブになる前にグルトリスハイトを手に入れられるはずです」
側近達が何も言わないのは、ディートリンデの言葉を正しいと思っているのか、それとも、抗うのが面倒で流しているのだろうか。このままでは冗談抜きでフェルディナンドが連座になりそうだ。
「ディートリンデ様、一つお伺いしたいことがあるのですけれど……」
オルタンシアがコホンと咳払いして、ディートリンデの高笑いを遮った。そして、まるでこの場にいるわたし達に聞かせるようにおもむろに切り出し、心持ち大きな声で尋ねる。
「シュラートラウムの花は今年も美しく咲くのでしょうか?」
「何の花かしら?」
「ディートリンデ様はご存じありませんか? アーレンスバッハでしか手に入らない、わたくしの夫が好きな花だそうです。ゲオルギーネ様に伺ってみてくださいませ」
オルタンシアがそう言いながらディートリンデとその側近を連れて階段を下りていく。
……シュラートラウムの花って何? ディートリンデ様は知らなくて、ゲオルギーネ様に尋ねたらわかる花? オルタンシアの夫って中央騎士団長のラオブルートだったよね?
多分、何かのヒントだと思う。大っぴらにはしたくないとか、無関係を貫きたいとか、わかる人にだけわかれば良いとか、そういう時に貴族が使う暗号のような言葉に違いない。
……フェルディナンド様にお手紙で相談すればわかるかな?……うぅ。でも、相談してもいいのかな?
接触を控えるように言われた直後に、手紙を出してもいいのだろうか。けれど、自分一人で抱えているには重すぎる。エーレンフェストを狙うゲオルギーネとフェルディナンドの簒奪を疑ってアーレンスバッハへ向かわせたラオブルートの二人の名前が同時に出ているのだ。不穏なことはわたしにだってわかる。
……ゲオルギーネ様関連なので、養父様にとりあえず相談するつもりだけど……。
養父様がラオブルートを知っているかどうかわからない。わたしがラオブルートと個人的に接触したのは貴族院で呼び出しを食らって聖典を見せた時と図書館へやって来てアダルジーザの実であることをフェルディナンドに確認した時だ。
……アダルジーザの実のことを隠しながら上手く説明できたらいいんだけど。
わたしの考えごとはソランジュが地下へ続く扉を閉めた音で打ち切られた。ソランジュは一度扉に鍵を閉めると、くるりと振り返る。
「皆様、いらっしゃいますか?」
「えぇ、ソランジュ先生」
「こちらから外へ出られますよ」
ソランジュはそう言って、わたし達を非常口のようなところから外へ出してくれた。暗い閉架書庫から突然明るい外へ出ると、目が眩んで視界がチカチカとする。
「ここは図書館の裏側です。中央棟とはちょうど逆になるので、騎獣に乗らない限りは人目には付きにくいと思いますよ。……ディートリンデ様がお帰りになるまで少しお散歩をしてみてはいかがですか? 一日中地下に籠っているのも体に良くないでしょう?」
ソランジュはそう言うと、地下書庫の扉の鍵を開けるために中へ引き返していく。ディートリンデと顔を合わすことは避けられた。けれど、ディートリンデが帰るまでずっと散歩をするのは、わたしには無理だ。
……せめて、本を借りてくればよかったよ。
後悔先に立たず。わたしは図書館の裏庭で呆然とする。ハンネローレも困ったように裏庭を見回した。
「これだけお天気が良いのであれば、ピクニックにちょうど良いのですけれど、お茶を淹れる道具もお茶菓子も地下書庫に置いてきましたものね。どのように時間を過ごしましょう?」
「ハンネローレ様、確かにピクニックも良いのですが、万が一のことを考えると少し移動した方が良いかもしれません」
ヒルデブラントの側近であるアルトゥールは緊張した面持ちで周囲を見回している。
「では、あちらをお散歩してみませんか? 森の中であれば、人目にも付きにくいと思うのです」
わたしは庭の南側に広がる森を指差した。木漏れ日がちらちらと地面に複雑な模様を描いている森の中は、頭がくらりとするくらいにさんさんと日が当たる図書館の庭よりも過ごしやすそうに見える。
「そうですね。ローゼマイン様は一人用の騎獣を出して、少し森に入った方が良いでしょう。あまり日差しに当たりすぎると体調を崩しますから」
「これでも少し丈夫になったのですけれど……」
オティーリエの言葉にわたしは唇を尖らせる。二回目のユレーヴェに浸かってから、わたしはかなり丈夫になったのだ。貴族院でも離れていたし、エーレンフェストに戻ってからも神殿で過ごすことがほとんどだったわたしの体調をオティーリエは把握できていないのだと思う。
「ローゼマイン様が少しずつ丈夫になっていることは存じていますが、油断は禁物です。体調を崩すと、しばらく書庫に行けなくなりますよ」
……それはそうなんだけど、ハンネローレ様とヒルデブラント王子の前で言わないで!
オティーリエの言葉に、わたしはちらりとハンネローレとヒルデブラントの様子を窺う。案の定、お茶会で突然倒れられたトラウマ持ちの二人とその側近達は顔を真っ青にして森を指差した。
「ローゼマイン、森へ行きましょう。騎獣を使っても良いですから。王族のお手伝いをさせて倒れさせてしまうようなことになれば、私は……」
「ヒルデブラント王子の言う通りです、ローゼマイン様。このまま真っ直ぐ南に進めばダンケルフェルガーの寮があるはずなのです。少し森に入れば見えるかもしれません」
ヒルデブラントから許可を出された状態で「健康のために歩きます」など言えるはずもない。わたしは一人用のレッサーバスを出して乗り込むと、皆と森へ向かう。皆が歩いているのに、自分だけ騎獣に乗っている現状がちょっと恨めしい。
……ヒルデブラント王子と同じくらいの速さなら、わたしだって歩けるのに。
コルネリウス兄様がオルドナンツを飛ばし、ダームエルとアンゲリカが合流する頃には森に入っていた。
わたしはちょっと不満を感じつつ騎獣に乗っていたけれど、生い茂る木々に程良く日光が遮られた森の中はマイナスイオンもたっぷりなのか、とても心地が良い。色々と考え込んでいた頭が少し解れていくような感じがする。
「雪景色ではない貴族院が初めてなので不思議な感じですけれど、とても心地良い森ですね」
「えぇ。これほど美しい場所だとは思っていませんでした。白の建物に緑や色とりどりの花が映えてとても色鮮やかですもの」
白に覆われた貴族院しか知らないわたしと同じで、ハンネローレも春の貴族院の美しさに驚いたらしい。周囲の美しさを称賛した後、ハンネローレはマグダレーナがいたために控えていたフェルネスティーネ物語の感想を述べ始める。
フェルネスティーネ物語の二巻は、王子の求婚を受けて幸せになれると思った矢先、王の反対にあったり、義母の陰謀で嫁がされたりという絶望に落ち込んだところで次巻へ続くという鬼畜仕様だった。
「もう本当に続きが気になって、気になって堪りませんでした。これでフェルネスティーネが幸せになれなかったらダンケルフェルガーは……、いえ、わたくしはどうすれば良いのか……」
ハンネローレがぷるぷると震えながらわたしを見つめてそう言うと、同じようにフェルネスティーネ物語を読んだらしいヒルデブラントは笑顔で首を横に振った。
「ハンネローレ、そのように嘆かなくても大丈夫です。王子は必ずフェルネスティーネを助けに行きます。あのように深く愛し合っているのです。諦めるはずがありません」
「そうなのですか、ローゼマイン様?」
希望に満ちた二人の目に見つめられ、わたしは思わず笑ってしまう。
「続きは三巻を読んで、ご自分の目で結末を確かめてくださいませ。今日、お持ちしていますから」
「まぁ、本当ですか? 楽しみですわ。……今度こそ完結で間違いないのですよね?」
ハンネローレがちょっと身構えるようにしてわたしに尋ねた。フェルネスティーネ物語は三巻で完結するので間違いない。わたしが笑顔で頷くと、やっとハンネローレは安心したように笑った。
「……あれは何でしょう? 何か白い建物が見えます」
木の上から先の様子を探っていたアンゲリカの声が降ってきた。わたし達の位置からは見えないけれど、それほど大きくはない建物があるらしい。
「もしかして、ダンケルフェルガーの寮ではありませんか?」
「いいえ、違います。ダンケルフェルガーの寮はもっと遠いですし、あのように小さくはありません。木々に埋もれて、騎獣で上空を飛べば見えないくらいの大きさの建物です」
他の者もアンゲリカの言葉に思い当たるような建物はないようで首を傾げている。各領地の寮は基本的に森の木々より高い。地下室、下働きのいる地階、食堂や多目的ホールがある一階、男子部屋がある二階、女子部屋がある三階、そして、四階というか屋根裏部屋が物置として使われている。とても森の木々に隠れられる高さではないのだ。
「どのようなところか見てきてください。建物の周囲が開けているならば、そこで少し休憩したいですから」
わたしの言葉にアンゲリカが身体強化を使って、枝から枝へ軽快な動きで移って先へ進む。ダンケルフェルガーの護衛騎士の二人もハンネローレの言葉を受けて、アンゲリカを追いかけていった。
「扉には鍵がかかっていて閉まっていました。ずいぶんと汚れていて、もう十年以上使われた形跡がないように思える建物です」
「我々も知らない建物ですから、休憩しても人目に付くことはないと思います」
偵察隊からの報告を聞いて、わたし達はその建物へ向かう。報告された通り、森の木々に囲まれた中にひっそりと白い建物がある。周囲の草の生い茂り方や手入れのされていない建物の状態を見れば、誰もここを訪れていないのがよくわかる。
「管理して魔力を注ぐ者がいれば、白の建物は劣化しませんもの。本当にここを訪れる者がいないのでしょう」
「本当に小さな建物ですね。森の管理小屋でしょうか?」
ヒルデブラントの言葉にアルトゥールが「管理小屋はもっと小さいですよ」と言葉を返す。寮や城と比べれば小さいけれど、東屋や森の管理小屋よりは大きい。窓が見つからないので、中の様子を見ることはできない。変わった建物だけれど、扉を挟んで左右に石像が並んでいる雰囲気が、何となく下町から神殿に入る門の様子を思い出させた。
「……もしかしたら、祠かもしれません」
「え?」
「昔、わたくしのおじい様が宝盗りディッターの最中に貴族院の辺鄙なところにある祠を壊したことがあるそうなのです。それに、貴族院のあちらこちらにある、神をまつった祠で悪戯ばかりする悪い生徒がいたという二十不思議をソランジュ先生から伺ったでしょう? こちらがその祠かもしれません」
扉の左右に配置された石像が神殿の門と似ている話をして、わたしはレッサーバスから出て、その建物に近付く。神々が祀られた祠がこんなふうに汚れているのを放置しておくわけにはいかない。
「ローゼマイン様?」
「とりあえず、綺麗にしましょう。このままではこちらに座って休憩することもできませんから」
わたしは騎獣に乗っていたけれど、ヒルデブラントもハンネローレも結構歩いている。少し座って休憩したいだろう。わたしは今まで休憩していた分を働くように、腰の革袋から魔法陣の描かれた魔紙を取り出した。
「それは何ですか?」
「クラリッサが研究していた広域魔術を補佐するための魔法陣です。これがあると、とても楽に広域魔術が使えるのですよ」
わたしはシュタープを出し、その魔法陣に魔力を込めていく。ふわりと紙が浮かび、光を放つのを見つめながら「ヴァッシェン」と唱えれば、次の瞬間、建物全体を水が包み込んだ。 数秒後には水の塊が消える。汚れが落ちて、輝きを放つような白の建物になっていた。
「これで綺麗になりましたね」
「た、建物をヴァッシェンで丸洗いするなんて、初めてです」
エントヴィッケルンの後、フェルディナンドが下町全体を丸洗いしていたので、魔力が大量に必要になるけれど、比較的メジャーなやり方だと思っていた。でも、周囲の反応を見れば、どうやら違ったらしい。
「補佐してくれる魔法陣がなければ、さすがにできませんよ。クラリッサのおかげですね。ホホホホ……」
笑って誤魔化してみたけれど、わたしに貴族の常識が足りないのは、もしかして、フェルディナンドのせいではないだろうか。
「せっかく綺麗になったのですから、少し腰を下ろして休憩しましょう。ヒルデブラント王子もハンネローレ様もお疲れでしょう?」
わたしが扉の前の段に座って休憩しよう、と誘うとヒルデブラントが笑顔で駆け寄ってくる。
「ローゼマインのお言葉に甘えますが、これくらいの距離ならば平気ですよ。私も鍛えていますから」
王族とはいえ、ヒルデブラントはダンケルフェルガーの血を引く男子だ。どうやら結構鍛えられているらしい。このくらいの距離の移動では疲れないらしい。ハンネローレもどうやら別に疲れていないようで、側仕えを寮へ戻してお茶の準備をするかどうか考え込んでいる。
……わたし、騎獣に乗って正解だったかも。
「ここからダンケルフェルガーの寮は比較的近いですから、お茶を準備しましょうか?」
「目立たない方が良いのですから、お気になさらず。騎獣でお茶の準備をする側仕えも大変でしょう」
ヒルデブラントの側近達の言葉にハンネローレは頷き、「では、わたくしも少し休みます」と休憩のためにこちらへ歩いてくる。
「ハンネローレ様はこちらへどうぞ。マグダレーナ様からオルドナンツが来るまでフェルネスティーネ物語の感想を聞かせてくださいませ」
わたしは扉に手を突いて、ハンネローレに呼びかける。次の瞬間、わたしは閉まっているはずの扉に吸い込まれた。
「うぇ!?」
瞬きした途端、わたしの視界は森の風景から神々の像が祀られた祠に変わっていた。窓はないけれど、祠の中心にある石像が持っている透き通った青の石板が光を放って祠の内部を照らしているので、決して暗くはない。
12~13畳くらいの広さの内部にはずらりと13の神々の像が並んでいる。槍と青い石板を持った美丈夫を中心に雄々しい像が並ぶ様子を見れば、ここが火の神 ライデンシャフトを祀っている祠であることがわかった。
「こんな祠、初めて見た」
神殿や貴族院の祭壇に最高神と五柱の大神の石像はあるけれど、眷属が全て並べられた火の属性だけが祀られた祠を見たのは初めてだ。
「うわぉ、なんか成長にご利益がありそう」
わたしはバッと手を挙げて、祈りのポーズになった。そして、ここにある眷属たちに祈りを捧げていく。
「火の神 ライデンシャフト、導きの神 エアヴァクレーレン、育成の神 アーンヴァックス……」
……どうか人並みに成長しますように!
わたしが祈ると、パァッと魔力がライデンシャフトの持っている青い石板に吸い込まれていく。それを見ていると、青い石板がキラリと光り、文字が刻まれているのが見えた。
……何だろう?
わたしは初めて見る青い石板に近付いて、文字を読んでいく。
「其方の祈りは我に届いた。其方を認め、ライデンシャフトよりメスティオノーラの書を手に入れるための言葉を与える……」
そこでライデンシャフトの指に遮られて文章が途切れた。肝心の「メスティオノーラの書を手に入れるための言葉」が一体何なのかわからない。わたしは「こんな持ち方では読めませんよ、ライデンシャフト様!」と石像に向かって文句を言いながら青の石板を手に取った。
「我の言葉だけではまだ足りぬ。次期ツェント候補は全ての神々より言葉を得よ」
最後の言葉を読み終わった瞬間、青の石板が自分の中に吸い込まれていった。自分の中にあるシュタープと同化していく。この青の石板が、これまで自分が捧げた祈りの魔力と「神の意志」が混じり合った物であることが感覚でわかった。同時に、まるで闇の神と光の女神の名前が頭に刻み込まれた時のように、ライデンシャフトから与えられた言葉が浮かんでくる。
「クレフタルク」
「では、わたくしはこちらに座らせていただきますね」
ハンネローレが笑顔で近付いてきて、扉の前に腰を下ろした。全く時間が過ぎていないような奇妙な感覚に、わたしは思わず周囲を見回す。ライデンシャフトから与えられた言葉が口をついて出た次の瞬間、わたしは祠の外に立っていた。まるでライデンシャフトがその言葉を与えることが目的で、わたしを呼んだようではないか。
「ローゼマイン様、どうかなさいましたか?」
「いいえ、何でもないのです」
ハンネローレにニコリと笑い返す。周囲の景色は変わらない。誰もわたしが祠の中に入っていたことさえ気付いていない。けれど、脳裏に浮かぶ言葉は消えていない。
……メスティオノーラの書を手に入れる言葉?
英知の女神 メスティオノーラの書、それはわたしにとって抗いがたい甘美な誘惑だった。