Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (554)
商人聖女 後編
「まだも何も……奉納式は基本的に王族が魔力を集め、他領が神事についての理解を深めるために行うことで、エーレンフェストにとっては引継ぎと準備のための時間稼ぎができるだけです。エーレンフェストの利益ではありません」
「……ローゼマインが求めたことにもかかわらず、利益に繋がらないのですか? 何故利益に繋がらないことを求めたのでしょう?」
ジギスヴァルトが瞳にやや警戒をにじませて問いかけてきた。けれど、一年の準備期間がどうして利益になると思うのか。わたしはそっと息を吐く。
「ジギスヴァルト王子は緊急なので、すぐに他領に移動してそこで生活をしてください、と言われて移動ができるのですか? 王族のお仕事は引継ぎも何も必要がないほどに簡単だとは思えないのですけれど、移動するための準備期間を利益だと考えられますか?」
「私は成人で、貴女は未成年です。いくら執務をしているとはいっても、責任や負っている執務量に大きな差がありますよ」
にこやかに言われたことで、わたしは引継ぎが必要だと説明した仕事に対する認識が大きく違うことに気付いた。王族は未成年であるわたしの仕事をアウブのお手伝いだと認識しているらしい。
……あぁ。だから、王族の準備さえ整ったらすぐにでもって、考えてるんだ。
「ジギスヴァルト王子、わたくしの引継ぎに時間がかかるのは、わたくしが責任者だからです。印刷に関しても、神殿に関しても、養父様のお手伝いや将来に向けた訓練ではなく、わたくしは今現在事業の責任者として仕事をしているのです」
「ローゼマイン、貴女は未成年ではありませんか。いくら何でも成年の保護者がいるでしょう?」
ジギスヴァルトが引きつった笑みを浮かべながら優しくそう言った。わたしは冷めた笑みで見つめ返す。
「フェルディナンド様はアーレンスバッハに行ってしまったではありませんか。わたくしの保護者を王命で取り上げておきながら何をおっしゃるのですか? 今、神殿にはわたくしの保護者はいません。神殿長と孤児院長がわたくしで、神官長はわたくしの側近です。側近はわたくしの移動についてくるでしょうから、後任の神殿長と孤児院長と神官長をたった一年で育てなければならないのです」
別に成人に引継ぎがされなかったわけではない。わたしと一緒に移動するのが大きな問題になるだけだ。どう考えてもハルトムートがエーレンフェストに残るわけがない。わたしが中央に移動すれば、周囲にどんな無茶ぶりをしても引継ぎをして彼はついてくる。それだけは確信を持てる。
……別にこんな確信を持ちたくないけど、クラリッサも絶対に一緒だよ!
「一年で全ての神事の祝詞を覚えて、神事の進行や準備について把握しておかなければなりません。神事は領地の収穫量に直結しますし、古い文字が読めなければ神殿長の聖典も読めません。引継ぎがそう簡単なものではないとわかりませんか?」
仕事量が多いせいもあるだろうけれど、古い言葉をまだ覚えられない王族を見つめて微笑むと、ジギスヴァルトは言葉の真意を探るように瞬きしながらわたしをしばらく見つめ、絞り出すような声で呟いた。
「アウブ・エーレンフェストは何を考えているのですか? このような幼い子供を本当の責任者にするなど、あり得ないでしょう」
「フェルディナンド様から神官長を引き継いだわたくしの側近が成人ですから、養父様もフェルディナンド様も問題ないと考えたのでしょう。わたくしが成人するまでの間に後継を育てればよかったのですもの。各地から優秀な人材が集まる中央と同じように考えられては困ります」
エーレンフェストは人材不足と言いましたよね? と念を押すと、ジギスヴァルトはわずかに目を伏せた。言葉から受ける認識に大きな違いがあることを今更ながら実感しているようだ。
「普通のお嫁入りでも身の回りの物を片付け、新生活に必要な物の準備を整え、周囲の方と別れを済ませるのに一年から二年ほどかけるでしょう? 領地を移るならば、一年くらいの準備期間は与えられて当然のもので、決して利益と呼べるようなものではないと思いませんか?」
その当然の時間を与えようとしなかった王族を暗に責めつつ、わたしはこれから先の予定に思いを馳せる。印刷業や秋にならなければキルンベルガから戻ってこないグーテンベルク達との交渉を考えれば、本当は二年から三年くらいは時間が欲しいところだ。
「一年の準備期間だけでは、わたくしがいなくなるエーレンフェストの損失を埋めることは全くできません。わたくしが読書時間を削って、一年の間に神殿長業務、孤児院長業務、印刷業務の引継ぎを行うのですもの。王の養女となることで失うエーレンフェストの損失を補っていただくのは当然のこととして、その上に利益を載せていただかなくてはとても対応できません」
引継ぎ特急料金は高いよ、と思いながらジギスヴァルトを見つめれば、各領地の毟られっぷりを実感した今、王族はどれだけ毟り取られるのか、と戦々恐々としているのがわかった。
「神殿長と孤児院長はわかりますが、印刷業務とは? こちらも責任者なのですか?」
「エーレンフェスト内における印刷業務はかなりわたくしの手を離れたので、業務の引継ぎ自体はそれほど大変ではありません。けれど、中央に印刷を持ち込むのかどうか、わたくしの専属をどのように移動させるのか、専属を連れてきたところで店を持たせることができるのか、工房を作ることができるのか。移動させられる職人や新たに雇う職人の数、教育期間、中央の商人達の関係や店とのやり取りの仕方はどうかなど、中央と調整しなければならないことが多々ございます」
考えたくないほどの仕事量になりますよね、とわたしが同意を求めると、ジギスヴァルトは数秒間真顔になった後、微笑んで「ローゼマイン、それは領主候補生ではなく、文官や側仕えの仕事です」と言った。
「もちろん最終的には任せるようにしますけれど、一度は自分の目で確認しなければならないでしょう? 全てを人任せにはできません。書面と実際は違うことも多いですし、エーレンフェストと中央ではやり方に違いがあるでしょう。文官が全てを正確に報告するとも限りませんもの」
問題だらけの状態でも、自分が無能と思われたくない文官が適当な報告をしていたことを思い出す。一度は現場に向かわなければわからないことは多いのだ。
「なるほど。本当に責任者なのですね、ローゼマインは」
「えぇ。ですから、一年の準備期間では全く足りないのです」
準備期間を延ばしてくれないかな、という思いを込めて微笑むと、ジギスヴァルトも微笑んで首を横に振った。
「事情はわかりましたし、奉納式で得られる魔力量によりますが、こちらも一年以上は待てませんから、一年で準備を終えるようにしてください。そして、エーレンフェストがどのように損失を補いたいと考えているのか伺います。マグダレーナにも一緒に聞いてもらった方が良いでしょう」
一体どんな交渉をされるのか、と深い緑の瞳がわかりやすく緊張しながらマグダレーナを呼ぼうとする。
「あの、ジギスヴァルト王子。エーレンフェストからの条件についてお話はしますけれど、わたくしは間違いやすれ違いが起こらないように自分の意見を述べるだけですし、最終的に決めるのはツェントとアウブ・エーレンフェストです。わざわざマグダレーナ様をお呼びする必要はないと思うのですけれど……」
領地の重要な決定はアウブによって行われる。ここでわたしが何をどのように言おうとも最終的な決定権を握っているのは養父様で、その決定はツェント達との会合で行われるのだ。
「常識や利益に違いがあることがお互いに理解できたのですから、ジギスヴァルト王子はわたくしとエーレンフェストの率直な要望をツェントに伝えてくだされば良いのです。最終的にどの条件をどのように受け入れて合意するのかは、わたくしとジギスヴァルト王子に決められることではありませんもの」
ここでの言葉が決定にはならないことを、わたしは重ねて強調しておく。フェルディナンドがアーレンスバッハ行きを王族と決めてきて、養父様には口を挟むこともできなかったのが去年のことである。今年も同じことが起こらないようにしておくことは重要だ。
アウブの頭越しに決めたとか、勝手なことをしたと叱られないため、そして、わたしが王族から何か揚げ足を取られた時に「決定権はアウブにあります」と言い逃れるための大事な予防策である。
ちなみに、奉納式については提案をしただけで、ジギスヴァルトが最終的に行うと決定したのだから、わたしが勝手なことをしたわけではない。
……提案してちょっと煽っただけ。主催も責任も王族だからセーフ、セーフ。
「あぁ、そうですね。確かに我々に決定権はありません」
ジギスヴァルトはフッと微笑んで「では、養女となるための条件を聞かせてください」と促した。どうやらわたしに決定権がないことを認識してかなり気が楽になったようだ。
……何だか苦手意識を持たれたような感じ? ま、いっか。
「養父様からも要望はあるでしょうが、先に述べておきますね。一年以上の準備期間をいただき、こちらの条件を呑んでいただけるならば、王命には従いましょう。条件に合わないだけで、こちらは別に反逆の意志もなければ、徒に事を荒立てたいわけでもないのです」
わたしもエーレンフェストも別に反逆を起こすつもりもないし、ユルゲンシュミットが滅んでも構わないとも思っていないのだ。そう告げると、養父様達に自分達の提案を却下されたジギスヴァルトは「そうですか」と明らかに安堵した。そこにコココンと釘を刺す。
「けれど、ユルゲンシュミットや王族の事情が最優先で、エーレンフェストがどうなっても構わないとおっしゃる王族とは相容れません。わたくしのゲドゥルリーヒはエーレンフェストで、わたくしは神殿育ちです。わたくしを養女にするならば、そこを理解してくださいませ」
養子になったり、結婚したりして他領に移れば、他領を一番に置くのが当然のことだろう。けれど、養子縁組を終えた途端に「エーレンフェストは他領です」というような態度がわたしに取れるわけがない。自慢にならないことは百も承知だが、未だにわたしは下町もフェルディナンドも離れてしまって関係がなくなったものとは考えられない。自分にとって大事な存在で、危険に晒されたら激怒する自信がある。
「アナスタージウスが言ったように、ローゼマインに貴族の常識が当然のように通用するとは考えない方が良いことは理解しました。それで、エーレンフェストへの補償はどのようなものをお望みですか?」
ジギスヴァルトの穏やかな笑みに促されて、わたしは口を開いた。
「アナスタージウス王子にもお願いしたのですけれど、王命の婚約を解消させてフェルディナンド様をエーレンフェストに返してくださいませ。フェルディナンド様がいればエーレンフェストの問題の大半が解決するのです」
フェルディナンドが戻ってきて一年の時間があれば、魔力不足の問題も、ライゼガングを押さえるのも、後任の育成も、神殿の将来も、フェルディナンドの健康状態も心配がなくなる。わたしがユレーヴェ漬けになっていた二年間、下町の商人達との連携もユストクスを通じて取ってくれていた。
「アナスタージウスも同じように返答したと思いますが、フェルディナンドをエーレンフェストに戻すことはできません、今、アーレンスバッハを潰すことはできないのです」
エーレンフェストにとって一番の提案はツェントに伝えられる前に、ジギスヴァルトによって却下された。
「フェルディナンドの代わりにアーレンスバッハを治められる独身の領主候補生を連れてくることができるのであれば可能かもしれませんが、我々には心当たりがありません。エーレンフェストに心当たりがあるならば、当人を説得した上で、一年以内に連れてきてください」
アナスタージウスと似たような答えが返ってきた。王族はどうあってもフェルディナンドをアーレンスバッハから出す気がないらしい。ちょっとムッとするけれど、ここまでは想定内だ。アーレンスバッハの中核に深く入り込んでしまっているフェルディナンドがそう簡単に解放されるはずがないことはわかりたくないけれど、わかっている。
……だったら、安全と生活環境だけでも勝ち取るよ。
フェルディナンドは他領に行った者だ、と養父様は言っていた。だから、王命の婚約を解消してエーレンフェストに返してくれたら素直に喜ぶだろうけれど、養父様から上がるわたしの養女の条件にフェルディナンドの待遇改善はないはずだ。何とかしたいならば、わたしが行動するしかない。
……アナスタージウス王子も自分で何とかしろって、言ってたからね。
わたしは一度表情を引き締めると、ニコリと微笑んだ。一瞬だけジギスヴァルトの微笑みが引きつったけれど、すぐに元の笑顔に戻る。
「フェルディナンド様の婚約を解消させることが今の時点では難しいことはアナスタージウス王子から伺っています。同時に、グルトリスハイトがあれば、また違う手段が取れるということも……」
アナスタージウスの言葉が王族にとって共通の認識で間違いがないかどうかを尋ねると、ジギスヴァルトはゆっくりと頷いた。
「そうですね。確かにグルトリスハイトを手に入れることができれば解消は可能でしょう」
「では、わたくしがグルトリスハイトを手に入れるまで、もしくは、グルトリスハイトを手に入れることが絶対に不可能だとわかるまで、フェルディナンド様の婚姻を延期させてくださいませ。ディートリンデ様と結婚さえしなければ連座になることはないのですよね?」
……グルトリスハイトを手に入れるまで婚約解消ができないんだったら、婚約状態をずっと続ければ良いんだよ。
まずは連座回避の確約を勝ち取ろうと、わたしが結婚の延期をお願いすると、ジギスヴァルトは腕を組んで少し考え込んだ。
「これ以上星結びの儀式を延期することはできません。貴族院に入った時のレティーツィアの身の振り方を考えると、ディートリンデがアウブになった場合、あの二人の婚姻はどうしても必要になりますから」
礎を染め、領主会議でディートリンデがアウブとして承認されると、アーレンスバッハの決まりによってレティーツィアは上級貴族の身分に落とされる。それを防ぐためには、領主会議の初日の星結びの儀式からアウブ承認までの間に養子縁組を終える必要があるらしい。確かに貴族院へ領主候補生として入るのか、上級貴族として入るのかは大きく違う。
「では、次のアウブが決定すると、他の領主候補生を上級貴族に落とすようなアーレンスバッハの変わった決まり、王族が廃止してしまえばよろしいのではございませんか?」
「……領地の決まりを廃止できるのはアウブだけです。提案はしたのですが、亡くなられたアウブ・アーレンスバッハが廃止しなかった以上、我々にはどうしようもありません」
法律の書に反しない限り、王族はそれぞれの領地のマイナールールを勝手に廃止させるようなことはできないらしい。ダンケルフェルガーにはダンケルフェルガーの、アーレンスバッハにはアーレンスバッハの事情があってできた決まりだから、他領から見れば無駄に思える決まりも、なくなると困ることが多いのだそうだ。
……そういえば、歴史が長いせいでダンケルフェルガーも変な決まりが多いもんね。
「フェルディナンドの連座回避が目的なのであれば、王との養子縁組を少し早める形にすれば対応できると思います」
領主会議の初日に星結びの儀式は行われる。それよりも少し早めにわたしが王と養子縁組をしてグルトリスハイトを手に入れることができれば、フェルディナンドの婚約を解消させることが可能になるらしい。そして、グルトリスハイトを手に入れることができないと確定すれば、フェルディナンドはそのままディートリンデと結婚する。そうすれば、レティーツィアには影響がないらしい。
「ただし、その場合、ローゼマインが提示した準備期間は一年よりやや短くなります。よろしいのですか?」
わたしは少し視線をさまよわせる。一年以上の準備期間を作るように指示をしたのはフェルディナンドだ。一年よりやや短くても良いのか、確実に一年を越えなければならないのか、フェルディナンドの狙いを質問してみなければわからない。
「……すぐにはお答えできません。フェルディナンド様が無事に婚約解消できるように、わたくしの養子縁組の時期についてはもう一度よく考えてみます。でも、婚姻も婚約解消もできないままに、フェルディナンド様はアーレンスバッハに滞在することになるのですから、待遇の改善を求めます。隠し部屋を与えるように、ツェントからアーレンスバッハに命じてくださいませ」
わたしがフェルディナンドの婚約解消を諦めたことで肩の力を抜いていたジギスヴァルトが一瞬真顔になった後、微笑んだ。
「婚約者が婚姻するまでの間、客室を与えられ、隠し部屋が与えられないのは貴族の慣例通りです。そのような無理をアーレンスバッハに命じるのは難しいと思います」
わたしが神殿育ちなので貴族の常識が通じない部分だと思ったのだろう。ジギスヴァルトが丁寧に説明してくれる。けれど、それは知っている。おじい様も養母様も「婚約者の立場では隠し部屋は与えられない」と言っていた。
「結婚後は部屋を移って隠し部屋が得られると知っていたので、わたくしもこれまでは諦めていました。でも、延期になりましたもの。他の慣例があることもご存知ですよね?」
今回の領主会議でディートリンデが礎を染めることができていないために星結びの儀式が延期された時点で、ジギスヴァルトが口にした慣例には穴ができている。わたしはニコリと微笑んだ。慣例に照らし合わせて駄目だと言われるならば、こちらも慣例通りに要求すれば良い。
「ディートリンデ様が礎を染め終えるまでの間、結婚が不可能になったのですから、フェルディナンド様が一度エーレンフェストに引き上げることは可能ですよね? 本来は結婚が不可能な状態であれば、婚約解消を申し出ることもできるはずです。それを王命で無理に婚約継続させられているのですから、一旦エーレンフェストに戻って仕切り直すくらいは構いませんよね? 婚約の解消さえしなければ、王命に逆らうわけでもなく、慣例通りなのですもの」
他領から婚約者を招いておきながら結婚ができない状態に陥った場合、婚約者を留めておくことは強制できない。不備があったということで婚約者側は解消を申し出ることもできる。
「フェルディナンドの場合は婚約が王命ですし、すでに執務を始めているので、情報漏洩の観点からも戻れません。領主候補生ならば、それはわかるでしょう?」
「婚約者の立場で抜き差しならないほど執務をさせられていること自体がアーレンスバッハと王族の我儘で、慣例上一時帰郷は不可能ではないと理解しています」
フェルディナンド本人は王命を受け止めて行ったわけだし、エーレンフェストに迷惑をかけないためにも距離を置きたいというようなことを言っていたから、本人は一時帰郷をしたがらないかもしれない。
……でも、そんなの関係ない。大事なのは隠し部屋の確保だからね。
「王族にとって慣例が大事だとおっしゃるならば、慣例通りに一旦フェルディナンド様をエーレンフェストに戻し、礎を染め終わってアウブが確定してからもう一度結婚のためにアーレンスバッハへ向かわせてください。慣例通りにできないのであれば、慣例を破ることになりますが、フェルディナンド様に隠し部屋を与え、夏に行われるアーレンスバッハの葬儀で命令がきちんと実行されていることを王族とアウブが確認してください。婚約解消ができない以上、待遇改善は譲れません」
わたしが選択を迫ると、ジギスヴァルトは笑みを深めて小さく息を吐いた。
「……今、この場で私が決断を下すことはできません。選択するのは父上になります。よろしいですか?」
フェルディナンドが戻って来てくれるのが一番嬉しいけれど、アーレンスバッハの執務をフェルディナンドが握っている状態で、レティーツィアの教育係でもある現状では、慣例と言われても戻せるはずがないと思っている。
……だからこそ、隠し部屋くらいはもらわなきゃね!
とりあえず、ツェントがどちらを選んでもいいや、と思いながら頷いたわたしは、ジギスヴァルトが顔には微笑みを浮かべたまま、深緑の目でじっとわたしを見ているのに気付いた。
「……ローゼマインはずいぶんとフェルディナンドにこだわるのですね」
「えぇ。神殿で育てられている間、フェルディナンド様は虚弱なわたくしに様々なお薬を作り、生きられるように手を尽くしてくださって、貴族社会で生きていけるように教育を施してくださいました。貴族院でわたくしが最優秀をいただけるのもフェルディナンド様のご指導あってのことですもの。恩ばかりが増えて、ちっとも返せていないのです。わたくしの師で、家族同然に大事な方なのですよ」
ニコリと微笑んでわたしはジギスヴァルトを見つめる。このまま連座回避の確約くらいは欲しい。わたしは笑みを深めた。
「ですからね、神殿で工房に籠って研究をするのが好きだった自分の大事な家族が、自領と仲が良好ではない他領へ王命でお婿に行かされ、婚姻する前からツェントと同じような匂いがするほど薬漬けで執務をこなす毎日を送り、星結びの儀式が延期されたのに一時帰郷も許されず、隠し部屋さえも与えられないという状況になれば、一体どれほど心配し、命じた相手にどのような感情を抱くものか、ぜひ王族の皆様には想像していただきたいと思っています」
ジギスヴァルトが笑顔のまま固まった。その顔から血の気が引いているのがわかる。わたしは頬に手を当てて小さく息を吐きながら、更に言葉を重ねる。
「それだけ大変な思いをしながらフェルディナンド様がアーレンスバッハで過ごした果てがディートリンデ様の連座なのでしょう? いくら貴族の常識では他領に行った者を心配はしないものだと言われても、わたくし、とても平静ではいられません。わたくし、昔は感情を抑えるのが下手で、よく魔力を暴走させていたのです」
今暴走させたらどうなるかしら? と首を傾げながらジギスヴァルトを見つめて脅しつつ、本気で疑問に思う。
……いや、ホントにどうなるんだろう? どこまで抑えられるのか、どこから暴走するのかわからないよ。
昔より魔力が増えている。シュタープが成長したので、制御はできるようになっているけれど、暴走した場合はどんな感じになるのか自分でも想像ができない。
わたしが考え込んでいる間、ジギスヴァルトも考え込んでいたようだ。しばらくの沈黙の後、わたしと目が合うと、ジギスヴァルトはニコリと笑った。
「ローゼマインがそこまで心配をしなくても良いように、フェルディナンドが連座を回避できないか、父上にもよく相談してみます。取り計らってもらえるように、私も力を尽くしましょう」
「まぁ、嬉しい。頼りにしていますね、ジギスヴァルト王子」
……よし! 連座回避は何とかなりそう。やったよ、フェルディナンド様! これ、大変結構じゃない?
膝の上でグッと拳を握ってガッツポーズを作ると、わたしは上機嫌で次の条件に移る。自分の中の最低条件をクリアしたことで、いっそ鼻歌でも歌いたい気分だったが、まだ話し合いは終わっていない。表情を引き締めて、わたしはジギスヴァルトに向き直る。
「フェルディナンド様とわたくしが抜けたことで減る魔力を補うために、人材をエーレンフェストに取り込みたいと思っています。エーレンフェストの者との婚姻は五年ほどの間、婿入りと嫁入り、つまり、エーレンフェストに入れる者に限るということにツェントの承認をくださいませ。こちらからは一人たりとも出せません」
これは養母様が提案した条件だ。順位の急上昇と新しい流行の数々でエーレンフェストと繋がりを持ちたい領地は多い。実際に貴族院の学生達は他領の者に言い寄られている数が増えていると聞いている。
毎年十組以上の星結びの儀式があり、半分くらいは他領との婚姻だ。それが全てエーレンフェストに入る形で行われることが可能になれば、手っ取り早く成人貴族の数を増やすことができる。その夫婦の間に生まれた子供は当然エーレンフェスト籍になるので、貴族を増やすためにもかなり有効だろう。
領主一族が絡まない婚姻の許可はアウブ同士が出すものなので、ジギスヴァルトは「承認されるでしょう」と軽く頷いてくれた。
「それから、子供が生まれた時に与えられる魔術具を三十から四十くらいいただきたいと思います。魔術具がないために、貴族になれない子供がいるので、その子達を貴族として育てたいと思っています」
「子供に与える魔術具を三十から四十、ですか? それはずいぶんと数が多いのではありませんか?」
作成が大変で高価だからだろう、ジギスヴァルトの笑みが濃くなった。
「あら? これから五年間婚姻に条件を付けるので、ずいぶんと控えめに計算した結果ですけれど。わたくしとフェルディナンド様の魔力量と執務量は中級貴族三十から四十人分では足りないくらいの価値がございます。王族はそれだけの損失をエーレンフェストに与えていることを自覚してくださいませ」
一年の猶予に加えてこれだけが手に入れば、わたしが中央に移動してもエーレンフェストの魔力の問題は何とかなるはずだ。
「あとは、中央に出ているエーレンフェスト出身の貴族に一度里帰りするように命じてくださいませんか?」
これは養父様からの要望だ。今の状況では中央や他領の情報が全く入って来ない。今まではどこからかユストクスが手に入れてきていたようだけれど、今は本当に情報が入りにくい状況になっているそうだ。クラリッサが頼りにされている状態で、そのひどさを察してほしい。
……わたしも一度は中央へ行く前に顔合わせくらいはしておきたいし、ちょうどいいね。
断られたとはいえ、王族が養父様に出した要求は「わたしが中央で動きやすいようにエーレンフェストの人材を送れ」というものだった。自分の派閥を作るために出身領地の者を側近に取り立てるのが普通なのだろう。
そう考えた時に「あれ?」と思ったのだ。ヴェローニカ最盛期のエーレンフェストしか知らず、中央へ行ったエーレンフェスト貴族と、ヴェローニカ失脚後に洗礼式をしたわたしで認識は合うのだろうか、と。どう考えても話が通じると思えない。先に顔を合わせるくらいはしておかなければ、側近を選ぶことさえできなそうだ。
この要望はジギスヴァルトも「それはこちらも望んでいたことです」と喜んでくれて、快諾してくれた。故郷に帰りたがらない彼等に、王族も困っていたらしい。建前ができたので、冬は故郷に戻るように命じてくれるそうだ。
「最後に、エーレンフェストではなく、わたくしから個人的な条件がいくつかあります。様々な事情があって、わたくし、未成年の側近から名を受けています。年齢、階級にかかわらず、連れていく側近は全員受け入れてください」
「それは成人してからではいけないのですか? 未成年は何をするにも親の許可が必要ですし、貴族院の所属を思えばエーレンフェストにいた方が良いと思えますが……」
ジギスヴァルトは不思議そうに首を傾げる。わたしは「親がない子もいるのです」と答えながら、ツェントに伝えてもらえるようにお願いする。
「名を受け、命を預かっている以上、わたくしは彼等の親よりも権利を持っています。彼等は何をするにも、わたくしの許可が必要ですし、他領の者に名を捧げた者を今のエーレンフェストには置いておけない理由もあるのです」
理由については養父様に尋ねてください、と流し、一度呼吸を整える。これから要求することは絶対に勝ち取らなければならないことだ。わたしが姿勢を正すと、つられたようにジギスヴァルトも姿勢を正した。穏やかな笑顔の中だが、姿勢はやや身構えている。わたしは気合いを入れてジギスヴァルトを見据えた。
「これはわたくしにとっても最も大事で譲れない条件です。そして、わたくしを娶ることを望むならば、ジギスヴァルト王子にとっても大事な条件になると思います」
「何でしょう?」
「地下書庫以外の情報収集のためにも中央にある全ての図書館や図書室には出入り自由とし、全ての文献を読む権利を要求します。それとは別に、わたくしの離宮に図書室を準備してくださいませ」
力の入ったわたしの要求にジギスヴァルトが三秒ほど沈黙し、ぎこちない笑みを浮かべる。
「……離宮に図書室ですか? 王宮図書館とは別に、でしょうか?」
「実はわたくしがエーレンフェストの第一夫人となるための条件は、エーレンフェストの図書室と神殿図書室を自由にすることでした。わたくしの結婚には図書館が必須なのです。夫になるのでしたら、ジギスヴァルト王子はわたくしに与えられる離宮に図書室を作ってくださいませ。わたくし、貴女のためにこれだけの図書館と本を準備しました、と求婚されるのが夢なのです」
ジギスヴァルト王子はわたくしとの結婚をお望みなのですよね? と微笑むと、ジギスヴァルトは引きつった笑顔で「私との結婚を前向きに考えてくださるようで嬉しいです」と言った。
……顔、引きつってるよ?
「ところで、その図書室は……一体どのような規模なのでしょうか?」
「本当はエーレンフェストの図書室を超える規模で……と言いたいところですけれど、フェルディナンド様の図書室を越えてくださればそれで構いません」
「フェルディナンドの図書室ですか?」
ジギスヴァルトにわたしは大きく頷いた。
「えぇ。保護者であるフェルディナンド様はアーレンスバッハへ向かう際にご自分の館と所蔵していた本をわたくしに相続させてくださいました。せっかく王族の夫ができるのですもの。保護者以上を望んでも罰は当たりませんよね? エーレンフェストの領主候補生の私物を越えるくらいならば、王族には簡単でしょう? うふふん」
わたしが広さや最初に本棚に並んでいた冊数について喜々として説明をしているうちに、ジギスヴァルトから段々と笑顔が消えていく。
……あれ? もしかして、王族なのに難しい?
「あ、あの、どうしても離宮に図書室を準備するのが難しければ、王宮図書館をわたくしの離宮にしてくださっても構いませんよ。図書館に住むのも夢だったので、大歓迎です。わたくしの夫という立場を望むジギスヴァルト王子がどのような図書館を贈ってくださるのか楽しみにしていますね」
おねだりの意味も込めてニッコリ笑うと、ジギスヴァルト王子は半ば呆然とした顔で「私が、貴女の夫になるのですか?」と呟いた。
……ん? そう言ったのってジギスヴァルト王子だよね? あれ? わたし、何か聞き間違えてた?
首を傾げつつ、わたしはジギスヴァルトに確認を取ってみる。聞き間違えならば、恥ずかしいではないか。
「王族としてはそれが最善なので、わたくしと結婚したいとジギスヴァルト王子は先程おっしゃいましたよね?……もしかして、わたくしの聞き間違いでした?」
「聞き間違いではありません。少し、想定と違ったと言いましょうか……。最善……。そうですね。最善だったはずです。けれど、ローゼマインは本当にそれで良いのですか?」
今更だが、わたしの意見を聞いてくれる気になったようだ。どうせこの場でなければ、自分の率直な気持ちを伝えるのは難しくなるだろう。わたしは本音を伝えておくことにした。
「わたくしは自分が祝福を与えた夫婦の新郎と結婚したいとは全く考えていないのですけれど、王の養女としての義務ならば、仕方がないので受け入れようと思っています。だからこそ、わたくしの心の平穏を守れる図書館くらいは準備してくださいませ」
ヴィルフリートと婚約した時と同じだ。保護者が望むならば受け入れるしかない。わたしの我儘が通る環境でないことくらいは理解しているのだ。
「……図書館くらいは、ですか」
ジギスヴァルト王子が何故か遠い目になった。あれほど熱く語っていた自分の希望が叶って喜んでいる顔には見えない。何故だ。解せぬ。
よくわからないけれど、わたしは自分の要求は伝えた。
「ひとまず、エーレンフェストとわたくしからの率直な意見や条件は以上です。どのような選択をするのかはツェントと養父様にお任せしましょう。わたくしが快く王の養女となって王族の皆様と末永く仲良くするために、よく話し合ってくださいませ」