Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (557)
閑話 望みと出口
「やっと終わりましたね」
領主会議が終わったその日の夕食は母親のマグダレーナと一緒に摂ることになっていた。未成年で参加できなかったヒルデブラントが奉納式の様子を教えてほしいと頼んだためである。
本当は自分の側近に参加させて、その様子を尋ねることができればそれでよかったのだが、留守番をするヒルデブラントから護衛を離すことはできない。そして、皆が奉納式に参加して手薄になる中央の留守番に人数を割く方を優先させられたのだ。
「母上、奉納式はどのような感じだったのですか? やはり光の柱が立ったのですか?」
王族として王と並んで立つのではなく、中央の貴族として奉納式に参加していたマグダレーナを見つめ、ヒルデブラントはわくわくしながら尋ねる。貴族院の奉納式も、領主会議の最初の星結びの儀式も、ローゼマインを神殿長として行われる神事は、聞いたことがないような儀式になるのだ。
マグダレーナはカトラリーを動かし、若鳥の香草包みを一口食べた後、ゆっくりと周囲を見回す。ヒルデブラントがあまりにも楽しみにしているせいだろうか、給仕をしている側仕えや背後に立っている護衛騎士達も興味を持った顔でマグダレーナの答えを待っていた。
「冬に参加した王族の皆から聞いていたような赤い光の柱は立ちませんでした」
「え? そうなのですか?」
ローゼマインが儀式を行えば何かしら変わったことが起こると思っていたヒルデブラントにとって、それは何とも拍子抜けのする答えだった。
「シュタープで神具を作るのか、神殿にある神具を使うのかで変化があるし、本来奉納式は冬の儀式なので季節が違うせいもあるでしょう、とローゼマイン様はおっしゃいました」
「赤い柱を見てみたいとおっしゃっていたのに、母上も残念でしたね」
前回は執務を行うために王宮に残らなければならなかったため、マグダレーナは奉納式に参加できなかった。参加した王族の話を聴いて、一度自分の目で見てみたいと言っていたのだ。
「残念なことに、冬の貴色である赤い光の柱は見えませんでした。でも、聖杯が貴色の赤に輝き、ゆらゆらと赤い光が上に向かってゆっくりと上がっていく光景はとても幻想的で美しい光景でしたよ」
悪戯っぽく赤い瞳を細めて笑ったマグダレーナにヒルデブラントは「やはり変わったことが起こったのですね」と痛快な気分になった。
「もっと詳しく教えてください、母上」
冬に貴族院で行われた奉納式と違って、今回の奉納式では赤い光の柱は立たなかったけれど、最初はバラバラだった祈りの言葉が段々と揃ってくるにつれて、神事に参加している皆の気持ちが一つになってくるような一体感と、後ろからどんどんと流れてくる魔力の流れに身を任せる心地良さは話に聞いていた通りらしい。
楽しそうに話をするマグダレーナを見ていると、未成年で神事に参加できなかったことがヒルデブラントには悔しくて仕方がなかった。
「あれだけの人数で行う神事は初めてでしたから、何とも言えない恍惚とした気持ちになりました。終わった後の疲労感も心地良いと思える程度でしたし……」
貴族院の奉納式では倒れる者も続出したそうだが、今回はローゼマインが早めに切り上げたようで、魔力が減りすぎて倒れる貴族はいなかったそうだ。
「中央神殿の青色神官や青色巫女は倒れていましたね。あまりにも魔力の流れが早くて、ちょうど良い頃合いに切り上げることができなかったそうです。魔力差が大きいと一緒に儀式を行うことはできないとイマヌエルには予め教えたのに、とローゼマイン様が困惑したお顔でおっしゃっていました」
魔力圧縮をしたこともない青色神官や青色巫女と、領地を支える各地のアウブとその側近では魔力量に大きな差があるのは当然のことで、エーレンフェストの神殿でもローゼマインは他の青色神官と別に奉納式を行っているらしい。
「中央神殿は貴族と共に奉納式を行うことなどなかったでしょうから、仕方がないのでしょうね」
そう言ってマグダレーナはクスッと笑った。古い神事を再現し、次期ツェント候補を選ぶことができるようになった、と大きな顔をして王族に次々と新しい要求を突き付けてくる中央神殿には思うところが色々とあったようで、溜飲が下がった顔になっている。
夕食を終え、部屋を食堂から談話室に移してアルトゥールに食後のお茶を準備してもらうと、ヒルデブラントは人払いをした。王族にとっては激動の領主会議だったため、他の者に聞かれてはならない話題が多すぎる。何を話すにしても、人払いと盗聴防止の魔術具は大事だ。
手渡された盗聴防止の魔術具を握りこみ、ヒルデブラントはマグダレーナを見つめる。ゆっくりとお茶の香りを楽しんでいる母親に、魔術具を持っていても少しばかり声を潜めて尋ねる。
「今回の奉納式でローゼマインを聖女として印象付け、王の養女になるのに相応しい人材として特別に見せることは成功したのですか?」
「えぇ。奉納式だけでも十分に特別に見えたでしょうけれど、その後に皆が少しでも回復薬を楽に作れるようになれば、と何度も繰り返してフリュートレーネの祝詞を口にしながら聖杯を緑に光らせていた姿は、誰の目にも特別に見えたことでしょう。エーレンフェストで独占していても良い人物ではない、という思いを抱かせることには成功したと思いますよ」
こちらの予定にはなかったけれど、非常に都合が良かった、とマグダレーナは語る。ローゼマインは不思議な現象を起こす神事を当たり前のような顔で行い、採集地の回復をするための祝詞を諳んじていて、皆に教える過程で聖杯を緑に光らせていたらしい。その姿は神々とのやり取りに慣れた聖女と呼ばれるのに相応しいものだったようだ。
「グルトリスハイトの一件がなくても、彼女は中央に迎えるべき人材です。エーレンフェストにとっては痛手でしょうが、王の養女にすることになっても反対する者はほとんどいないでしょう」
神事に関する豊富な経験と情報があり、次期ツェントに相応しい魔力量を持っている。現代語訳してきた石板の情報を見れば、祠を巡ることができたローゼマインが全属性であることも推測できる。たとえ次期ツェントになることができなくても、王族の次代のためには確保しておきたいそうだ。
「本当に……。とても求婚の条件に図書室を作るように言った者と同一人物とは思えませんでした」
マグダレーナは溜息を吐いた後、ゆっくりとお茶を飲み始める。ヒルデブラントはマグダレーナと同じようにカップを手に取り、「ローゼマインはジギスヴァルト兄上と結婚したくないだけですよ」という言葉をお茶と一緒に呑み込んだ。
地下書庫の中、ジギスヴァルトと二人だけで話していたローゼマインは途中で涙ぐんでいた。悲しそうにジギスヴァルトを見つめて、震えていたのだ。そして、とても準備できないような条件を出してきたのだから、ジギスヴァルトと結婚したくないという心の現れに決まっている。
「アウブ・エーレンフェストが図書室の却下に同意してくださって、本当に助かりましたね」
「……父上はそれで良いとおっしゃったのですか? その、ヴィルフリートとローゼマインの婚約が解消されてしまうのですが……」
ツェントの命令は絶対だ。ヴィルフリートとローゼマインの婚約もツェントの言葉によって決まっていたはずである。それなのに、婚約を解消させ、新しく婚約をすることを許せるものなのだろうか。それが可能ならば自分の婚約も解消できるのではないか。
色々と考えながらヒルデブラントが尋ねると、マグダレーナはカップを置いて少し肩を竦めた。
「それが一番安全で良い形に収まるのですから、反対はなさいませんでした。エーレンフェストにもっと力があればヴィルフリート様を王配とすることも可能だったのかもしれません。けれど、その器ではない、とアウブ・エーレンフェストはおっしゃいました」
人材が不足しているエーレンフェストからこれ以上有力な貴族が流出するのは避けたいのでしょう、とマグダレーナは呟く。エーレンフェストが急激に順位を上げてきたのは、基本的にローゼマインの功績で、優秀な者は若手に多いと分析されているらしい。
「アウブ・エーレンフェストは命じられたことをそのまま呑み込もうとする下位領地のアウブらしい反応を示しますけれど、若い文官は条件を出してきたり、それとなく反論してきたり、交渉をする姿勢を見せますからね」
ローゼマインを中央神殿の神殿長に、という意見が多くの領地から出され、ツェントとジギスヴァルトがエーレンフェストに要望を出しに行った時、アウブ・エーレンフェストやその側近達が非常に困った顔で、「それは……」と口を閉ざしたところで、若い文官が「とても受け入れられません」と非常に爽やかな笑顔で却下した後、代替案を挙げたらしい。
「エーレンフェストの神殿長にはエーレンフェストの領主候補生が就いています。王族の管轄である中央神殿は王族が就くのが筋でしょう。初代王は神殿長であった時代があるのです。中央神殿にはヒルデブラント王子を入れて、成人までの間、神殿長に就けると良いと思われます。どのような勉強をすれば良いのか知りたいのであれば、次代の神殿長教育を担っている私がお教えいたしましょう」
エーレンフェストの領主候補生を中央神殿に入れたい、と提案した王族には、王族を神殿に入れるつもりか、という反論ができなかったそうだ。
「……私はアーレンスバッハへ向かわされるだけではなく、神殿にも入れられるところだったのですか?」
どのような状況になっても王族として残る兄達に対する対応とずいぶん違うのではないか。そう考えると、ヒルデブラントは父親にとっての自分の価値がとても低いと思わざるを得ない。
「さすがにそのような状況にはわたくしがさせませんよ」
マグダレーナは苦笑しながらそう言って、優しい瞳でヒルデブラントを見つめる。自分を守ってくれる母親の眼差しに、ヒルデブラントは小さく問いかけた。
「……私は本当にアーレンスバッハへお婿に行かなければならないのですか?」
同じように「そのような状況にはわたくしがさせません」という答えを期待したのだが、マグダレーナは「王命ですからね」と淡く微笑んだ。
「ディートリンデが将来の義理の母親だと思うと、とても不安なのです。あのような人物に育てられる姫と私は上手くやっていけるのでしょうか」
地下書庫でほんの少し聞いた声とその内容。奉納式への不参加を告げたアーレンスバッハからのオルドナンツを聞けば、次のアウブ・アーレンスバッハになるディートリンデがどのような人物なのか、すぐにわかる。
王命を拒否する姿勢を見せることはできない。他の誰にも言えない不安を零すと、マグダレーナはハッとしたような表情で席を立った。そして、座っているヒルデブラントの隣に立ち、そっと彼を抱きしめた。
「大丈夫ですよ、ヒルデブラント。貴方が婿入りするまでには必ずディートリンデ様を排除しますから。……普通ならば、ディートリンデ様の結婚相手であるフェルディナンド様がよくよく彼女を見張って、不敬な行動などをしないように気を付けなければならないのですけれど、あの方には期待できそうにありませんからね」
マグダレーナはちょっと強めの口調でそう言い切った。
「結婚してしまえば連座になることはわかりきっているのですから、今の内からきっちりと躾をしておかなければ自分が後で大変な目に遭うというのに、半年ほどの時間があってもあの状態ですもの」
マグダレーナがディートリンデの不敬な態度を挙げつつ、それを許しているフェルディナンドをこき下ろす。母親によると、フェルディナンドは女心がわからず、誰かに対して細やかに手を尽くすことは全くなくて、女性だけではなく、大半の人間と向き合うのさえ最初から拒否しているような人らしい。
「フェルディナンド様は見た目や成績などの外面だけは良いですし、騎士としての強さも素晴らしいものです。遠くから眺めるだけならば、完璧な人物に見えるでしょう。でも、あの方は魔王のようないやらしい立案、脅しめいたやり取り、派閥の調整ができても、それだけなのです。昔から感情面を抜きにした人の配置はできても、個人と個人で向き合わなければならない対人関係がからっきしなのです」
あまりにもひどい人物評にヒルデブラントは目を丸くした。これまでのお茶会や地下書庫の昼食時にローゼマインの口から聞いたフェルディナンドとずいぶん違う気がする。
「……あの、母上。フェルディナンドはローゼマインの師ではありませんでしたか? 別の方のお話でしょうか?」
「同じ人物ですよ。フェルディナンド様ほど誰かを育てるという単語が似合わない方はいらっしゃいません。きっと側近がローゼマイン様の面倒を見ていたのではないか、と思うのですけれど……」
マグダレーナは心底不思議そうな顔で「あの方に幼い子供を育てることなどできません」と言う。あまりにも厳しすぎるので、子供の方が潰れるに違いないそうだ。
「でも、ローゼマインが王の養女となる条件には、フェルディナンドの救済が入っているのですよね? ローゼマインはフェルディナンドを慕っているのではありませんか?」
よほど慕っているのでなければ、そんな条件は出てこないはずだ。ヒルデブラントの言葉に、マグダレーナは腑に落ちない顔のままで「信じられないけれど、そうなのでしょう」と頷いた。
「正直なところ、アウブ・エーレンフェスト以外にフェルディナンド様を家族のように慕う者がいると思いませんでしたから、ジギスヴァルト王子からその条件を聞いた時には本当に驚きました」
王の養女となる条件にローゼマインがフェルディナンドの連座回避と待遇改善を望んでいるということは、つまり、王族に直訴しなければならない程アーレンスバッハにおける待遇が悪いということではないのだろうか。
「……母上、私もツェントになりたいです。そうすれば、アーレンスバッハへ向かわなくても良いのでしょう? ローゼマインが待遇改善を要求するほどアーレンスバッハはひどい場所なのでしょう?」
「貴方がアーレンスバッハで過ごすためにアーレンスバッハを整えられるように母は力を尽くしましょう。けれど、貴方がツェントになることは許しません」
マグダレーナはヒルデブラントを優しく抱きしめたまま、ニコリとした笑顔でハッキリと彼の要求を却下した。
「何故ですか?」
「一つは、貴方がこれから挑戦するとしても時間がかかりすぎるからです。本当は一年間養子縁組を待つ程の余裕さえないことを知っているでしょう? けれど、貴方は属性も足りず、貴族院にも入っていません。貴方が資格を得るまでにどれだけの時間がかかると思いますか?」
ユルゲンシュミットの崩壊はヒルデブラントの成長を待ってはくれない、とマグダレーナは言う。
「それに、もう一つ。こちらは更に重要です。一年後にローゼマイン様を養女に迎え、グルトリスハイトを得ることが叶えば、彼女がツェントです」
二人がツェントになることはできないし、トラオクヴァール王の血を引くヒルデブラントが後からツェントとしての資格を持つと、ユルゲンシュミットを割ることになりかねない、とマグダレーナは説明する。
「自分達が待ち望み、婚約を解消させ、故郷から引き離してまで得た新たなツェントの治世を、今の王族が揺るがすようなことはツェントもわたくしも絶対に認めません」
それは王族であるヒルデブラントがしてはならないことだ、と母親に厳しく言われて、ヒルデブラントは項垂れた。マグダレーナの意見は理解できる。けれど、感情は受け入れられない。
「母上、ローゼマインは体が弱いのです。ツェントのような激務はできません。支える者が必要です。私はローゼマインを助けたいだけなのです」
執務に疲れている父親の姿を思えば、それがローゼマインにこなせるものではないことはヒルデブラントにもわかる。お茶会で倒れるか弱い姫に、ツェントなどさせるものではない。
女性のアウブを支えられるように結婚相手が領主候補生と決められているように、女性のツェントを支えるために結婚相手もツェントの資格が必要なのではないか、とヒルデブラントは訴えてみる。
「ヒルデブラントの心配はもっともです。だからこそ、婚約者として、夫として支えるのはジギスヴァルト王子がやるべきことで、ヒルデブラントが行うことではありません」
「……ジギスヴァルト兄上は、ローゼマインに嫌がられていたではありませんか」
私ならばもっとローゼマインに優しくできるのに、とヒルデブラントが不満たっぷりに唇を尖らせるとマグダレーナは赤い瞳を厳しくした。
「ローゼマイン様と接触する時間が長いことで、貴方がローゼマイン様を慕っていることはわかっていますけれど、自分の立場を超える行動をしてはなりません。貴方はレティーツィア様と婚約しているのです。感情を上手く消化できるようにならなければなりませんよ」
どれほど不満を抱いても、王命はどうしようもない。自分とレティーツィアの婚約も、ジギスヴァルトとローゼマインの婚約も、覆すことができるのはツェントだけなのだ。
……私がツェントになることができれば、体の弱いローゼマインが望まぬ結婚を強いられながらツェントに就くことも、私がアーレンスバッハへ向かうこともなくなるのに。
ヒルデブラントはマグダレーナの腕をそっと払いのける。
「急ぎならば、王族全員で挑戦してみるべきではありませんか?」
「奉納式で魔力を集めることができたけれど、王族の仕事はそれだけではありません。全員で挑戦するような余裕があるはずないでしょう。……それに、いくら挑戦しようとしたところで、貴方がシュタープを得られるのは貴族院の三年生になってからです」
「え?」
「貴族院の講義内容に変更がありました。祠に入るために必要なシュタープをヒルデブラントが得られるのは、ローゼマイン様が成人してからになります」
……それでは全然間に合わないではありませんか。父上はどうして私に挑戦さえさせてくださらないのですか!?
何を言っても聞き入れられないことはわかっている。ヒルデブラントは様々な不満と一緒にグッとお茶を飲み込んだ。お腹の中に不満が積もっていくのを感じながら、ヒルデブラントは母親との食事会を終えた。
王族にとって、そして、ヒルデブラントにとっても激動の領主会議が終わり、日常が戻ってきた。
中央騎士団の騎士団長であるラオブルートと行う剣の稽古も久し振りだ。領主会議中は騎士団が護衛任務に忙しいので、朝食後から地下書庫に向かうまでの短い時間に自分の護衛騎士と少し練習をするだけだったのである。
しっかりと基礎の訓練から始めて、剣を合わせる。ほんの少しの打ち合いをしただけでラオブルートが顔をしかめて、止めるように言った。
「ずいぶんと剣が荒れていますが、一体何がございましたか?」
稽古をつけてくれているラオブルートが呆れたように「これでは稽古になりません。休憩にしましょう」と言って、訓練場の中の休憩場所へ歩き出した。重い剣を持って、ヒルデブラントも後に続く。ヒルデブラントとしては心の内を見せていないつもりだったのに、相手には伝わってしまっているのが何とも歯がゆい。
休憩場所で待機していたアルトゥールが突然の休憩に少し驚いた顔をしながら、お茶を淹れてくれる。アルトゥールからお茶を受け取りながら、ラオブルートが「そのような顔で何をお悩みですか?」とヒルデブラントに悩みを相談するように促した。
「……言えません」
アーレンスバッハへ婿として行きたくないとは言えない。成人したらディートリンデが自分の義母になるのだと思うと憂鬱で、何とか婚約解消をする道がないのか必死に考えているとは言えない。王命を否定することになってしまう。
ローゼマインが次期ツェントに最も近いことも言ってはならないことだ。王族が側近を排して決めたことを口にすることはできない。付け加えるならば、ローゼマインに嫌がられているジギスヴァルトではなく、自分こそがローゼマインと結婚するのが一番良いと思っているということも言えるわけがない。
本当は少しでも早く魔力圧縮をして、父やジギスヴァルトがするようにヒルデブラントも祠を巡って、ローゼマインと同じように次期ツェントの資格を得たいと思っている。ローゼマインが成人するまでに資格を得れば、アーレンスバッハに婿入りすることも、ローゼマインが不満な結婚をすることもなくなるのでは、と考えたのだ。
しかし、貴族院の一年生で取得できるはずのシュタープの取得が三年生に変更された。自分が三年生になった時にはローゼマインはすでに成人している。三年生でシュタープを得てから次期ツェントの資格を得られるように動くのでは遅すぎるのだ。
どれもこれも口に出せるようなことではない。自分の悩みを口に出したくはないヒルデブラントは少しだけ膨れっ面をして見せ、話題を変えることにした。あまり触れてほしくないことばかり尋ねられるのがちょっと腹立たしかったせいもある。
「シュラートラウムの花とは一体どのような花なのか、悩んでいたのです」
「は?」
突然の話題変換についてこられなかったのか、ラオブルートが驚愕の顔でヒルデブラントを覗き込んだ。ラオブルートのビックリした顔に少しだけスッキリして、小さく笑う。
「図書館の書庫でオルタンシアがディートリンデに尋ねていました。ラオブルートが好きな花なのでしょう? アーレンスバッハでしか手に入らないそうですが、どんな花ですか?」
騎士団長で無骨な感じのラオブルートにも好みの花があること、そして、全く接点のなさそうなアーレンスバッハでしか咲かない花を好んでいることに驚いたことを思い出しながら尋ねる。
「……あぁ、書庫でそのようなことがございましたか」
数秒の沈黙の後、ラオブルートはフッと笑みを浮かべる。それは内心の動揺を隠すために貴族達がよく見せる笑みだ。その笑みのまま、ラオブルートはゆっくりと言葉を探すように視線を巡らせる。
「シュラートラウムの花は……甘い匂いのする白い花です。私の好む花ではあるのですが、なかなか手に入りません。ですから、今年は咲いているのかどうか尋ねているのです」
綺麗に咲くことも珍しい花なのだろうか。ヒルデブラントは不思議に思いながら首を傾げた。
「ラオブルートの出身はギレッセンマイアーではありませんでしたか? どのようにしてアーレンスバッハ以外では咲かない花を知ることができるのでしょう?」
その質問にラオブルートは少し遠い目をして、すでに薄くなっている頬の傷を指でなぞった。その傷に関係のあることなのだろうか、とヒルデブラントは何となく思う。すでに失ってしまった何かを、苦いような顔で懐かしんでいる大人の顔だ。
「何か思い出があるのですか?」
「……昔、私がまだ成人してすぐの頃に配属された離宮の主が好んでいた花だったのです。離宮の一角に温室があり、そこに咲いていました。いつ持ち込まれた花なのか、それは主にもわからないそうですが、何代にも渡って大事にしてきたそうです。……五年とせずに私の配属も変わりましたし、今はもう主もなく、閉鎖されている離宮の話ですよ」
ずっと昔、王族に嫁したアーレンスバッハの姫君が離宮に持ち込んだ花なのだろう、とヒルデブラントは納得した。政変の折、粛清された王族は何人もいたし、閉鎖された離宮もいくつもあった、と聞いている。きっとそのうちの一つなのだろう。
「さて、私の思い出を話したところで、王子にも悩みを話していただきます。いつまでもそのような状態では、剣の稽古だけではなく、勉強も手がつかないでしょう」
アルトゥールも心配しています、と言いながらラオブルートがアルトゥールへ視線を向ける。せっかく話題を上手く変えられたと思ったのに、元の話題に戻ってくるとは思わなかった。
アルトゥールも心配そうに見つめてくるし、ラオブルートは「おや、私には尋ねておきながら、ヒルデブラント王子は答えてくれないのですか?」と、まるでやり返すように答えを促してきた。
幼い頃から面倒を見てもらっているラオブルートにそう言われると、何かしら答えなければならない気がしてくる。
アーレンスバッハへ婿としていきたくないとは言えない。ローゼマインが次期ツェントに最も近いことも、王の養女になることも言ってはならない。ジギスヴァルトではなく、自分こそがローゼマインと結婚するのが本当は一番良いと思っているとも口にできない。
結果としてヒルデブラントが口にできたのは、貴族院のカリキュラム変更に対する文句だけだった。
「……今すぐにシュタープが欲しいと思っていたのです。それなのに、父上は貴族院の講義内容を変更してしまわれました。それを少し悲しく思っています」
「今すぐに、ですか……」
目を丸くした後、少し考えるようにゆっくりと目を細めたラオブルートがフッと笑って首を振る。
「ヒルデブラント王子は王族ですから、扉を開けることはできますし、取ろうと思えば取れないことはありません」
「本当ですか!?」
期待に思わずラオブルートを見つめたヒルデブラントの声に、アルトゥールのぎょっとしたような声が重なった。
「騎士団長ともあろう方が何をおっしゃるのですか!?」
アルトゥールをラオブルートが少し手を挙げて制する。
「けれど、ツェントはヒルデブラント王子のことを考えて、講義内容の変更を強行したのです。ツェントの親心は理解して差し上げてください」
「え?」
自分のために、と言われても理解できない。ローゼマインの成人までにツェント候補になって、自分の婚約もジギスヴァルトとローゼマインの婚約も解消してしまいたいヒルデブラントとしては今すぐにでもシュタープが欲しい。それなのに、講義内容が変更されてしまったことは邪魔をされたとしか思えなかったのだ。ラオブルートはゆっくりとした口調で講義内容が変更された理由を述べる。
「シュタープを得る前に魔力圧縮をできるだけし、祈りを捧げて神々の御加護を得て属性を増やしておいた方が良いシュタープを得られるため、講義内容に変更があったのです。ツェントがお急ぎになったのは、ヒルデブラント王子が少しでも良いシュタープを得ることができるように、とお考えになったからに違いありません」
ラオブルートの説明にアルトゥールは安堵したような顔で頷いた。
「ヒルデブラント王子、騎士団長のおっしゃる通りです。トラオクヴァール王のお心に沿ってお過ごしください」
できるだけ良い品質のシュタープを……と言われ、ヒルデブラントは少し考える。そういえば、王族だけで話し合う時に、「小さい祠を巡って、全ての眷属からの御加護をいただけば、大神から御加護を得られるそうです」と母親が報告していたはずだ。文字を写すのがそれほど得意ではない自分が写すように任された文献の中には地図もあった。
……小さい祠を巡って、属性を増やせば……?
少しでもお祈りをして、属性を増やすことができれば、王族であるヒルデブラントが次期ツェントになることもできるかもしれない。
……全ての属性を得ることができれば、父上もシュタープを得てはダメだとはおっしゃらないでしょう。
「今はツェントと共に魔力圧縮と属性の増加にお努めください。程良き時に私からお声をかけましょう」
自分が努力して属性を増やすことができれば、父親に一緒に頼んでくれるのだろう。これまでの付き合いからヒルデブラントはそう判断して、明るい笑顔で頷く。アルトゥールも「お世話になります」と穏やかな笑みを浮かべた。
ラオブルートは「大したことはしていない」とアルトゥールに小さく笑いながら、騎士に向かって手を振った。合図を受けた一人の騎士が木箱を運んできて、アルトゥールに手渡す。
「こちらはエーレンフェストから献上された教育玩具だそうです。神々の名前を覚えやすいように工夫された本や玩具が入っています。エーレンフェストが急激に成績を伸ばした秘密の一つだそうです」
これから取引をしている領地には売り出すので、王族にも見本をくれたらしい。側近達によって、不審なものが挟まれていないか、危険物ではないか、と調べるのが終わったため、こちらに運んでくれたそうだ。
「マグダレーナ様はヒルデブラント王子が貴族院に入ってから渡せば良い、とおっしゃいましたが、早くから勉強することは悪いことではございません。これでよくお勉強してください。神々の名は御加護を増やすためのお祈りに必須です」
アルトゥールから手渡されたのは、ヒルデブラントにとっては馴染みのあるエーレンフェストの本だった。パラパラとめくってみれば、美麗な絵とわかりやすい説明が見える。これがあれば、また少しローゼマインに近付けるだろう。
……神々の名前を憶えて、お祈りをして属性を増やして、父上にシュタープを得たいとお願いするのです。
迷い込んでしまった暗闇に光が見えた気がした。向かっていく方向が定まったことが嬉しくて、ヒルデブラントは顔を上げた。ニヤリと笑いながらラオブルートが剣を手に立ち上がる。
「では、ヒルデブラント王子。少しは迷いが消えたようなので、稽古を再開させましょう」
「はい! よろしくお願いします」
アルトゥールに本を返し、剣を取ってヒルデブラントはラオブルートの背中を追いかけた。