Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (562)
カルステッド宅でのお話 後編
恥ずかしかった公開告白を終えると、アンゲリカ、リーゼレータ、レオノーレが帰宅しなければならない時間になったため、話し合いは終わりだ。三人をコルネリウス兄様とおじい様が手分けして送っていくのを、わたしは玄関で見送った。
「お母様、わたくしも自室に戻りますね」
「待ってちょうだい。少し貴女の部屋でお話をしましょう」
お母様はそう言ってわたしの自室へ向かう。この家の自室を使う期間は本当に短かったけれど、いつでも使えるように整えてくれていることが素直に嬉しい。
「ローゼマインはここで隠し部屋の登録をしていなかったでしょう? こちらへいらっしゃい。ローゼマインの年になれば隠し部屋は親と使う物ではないのですけれど、一度くらいは一緒に使いましょう。貴女が自分の子供と一緒に登録する時にその方法を知らなくては困りますからね」
……フェルディナンド様と一緒に神殿の隠し部屋の登録をしたことがあるので大丈夫ですよ、とは言わない方が良いよね。どこからかメモ帳が出てきそうだもん。
お母様が目を輝かせる様子があまりにも簡単に思い浮かんだので、わたしは「ありがとう存じます」とお礼だけを言って、余計なことを言わずに隠し部屋の登録を行う。寝台の奥にある扉の魔石に手を重ねて一緒に魔力を流しながら、お母様は懐かしそうに目を細めた。
「本当は洗礼式前……新しい家に連れて来られた貴女が精神的に不安定になった時に、母として準備してあげようと思っていたのです。けれど、フェルディナンド様が二日か三日おきに様子を見に来てくださったおかげで、貴女は見知らぬ家に来て、見知らぬ者を家族と呼ぶことになったのに、特に不安定な様子を見せなかったでしょう? 母になったばかりのわたくしと隠し部屋を使うより、フェルディナンド様といる方が安心するように見えたので、作りそびれてしまったのですよ」
自分の手に重ねられたお母様の手が温かい。何となく面映ゆい気持ちで魔力の線が走り、隠し部屋が作られていく様子を見つめる。わたしがこの家に来たばかりの頃もお母様は本当に娘として受け入れるための心構えをしてくれていたのだな、と改めて思った。
できたばかりの殺風景な隠し部屋に椅子を二脚とテーブルを側仕えに入れてもらい、お茶の準備をしてもらう。隠し部屋での二人だけのお茶会だ。
「何から話しましょうか。……そうね、先程は話さなかったダームエルとフィリーネについての話から始めましょう」
「ダームエルとフィリーネですか?」
あの場で敢えて話さなかった理由がわからなくて首を傾げると、お母様は微笑んだ。
「あの場でわたくしが話してしまうと、決定になると思ったのです。側近のことを決めるのは主の役目ですからね。わたくしはただ自分の要望を伝えるだけなので、貴女は自分で判断なさい」
少し砕けた口調でそう言うと、お母様は「ダームエルとフィリーネはエーレンフェストに置いて行ってくれないかしら?」と言った。
「理由はいくつかありますけれど、二人に共通する理由としては、中央に下級貴族はほとんどいないので、身の置き場がない状態がエーレンフェスト以上になるのです」
お母様によると、上級貴族や中級貴族が連れていく側仕えの中には下級貴族もいるけれど、騎士や文官として中央へ行った下級貴族の話は聞かないらしい。まして、王族の側近となれば皆無だそうだ。
グーテンベルク達を移動させるのも中央の状況を見てから、と考えているのだから、下級貴族の二人を移動させるのも様子を見てからにした方が良いらしい。
「それから、下町と上手く連絡の取れる者、貴女のやり方を体得している者を少しでも長く残してほしいのです。ローゼマインが欠けることで貴族の意識が昔に戻るのではないか、という懸念が大きいのですよ」
下町と上手く連絡が取れて、わたしのやり方を理解している貴族はまだ多くない。この一年で引継ぎを、と思っているけれど、貴族達の意識をすぐに切り替えるのが難しいし、アウブの第二夫人となるブリュンヒルデだけでは下町と頻繁に連絡を取るのは厳しいというのがお母様の見解のようだ。
「神殿の引継ぎについても同じことです。最も貴女の間近で長い時間フェルディナンド様の仕事を手伝っていたダームエルとフィリーネが余分に残るのと残らないのでは大きく違うでしょう。今のままではメルヒオール様とその側近に負担が大きすぎます」
負担がないように、わたしは自分の側仕え達をメルヒオールに残すつもりだし、カンフェルやフリターク達青色神官も結構仕事を任せられるようになっている。神事を行うメルヒオールは大変だと思うけれど、執務は何とかなると思う。わたしの主張にお母様が苦い笑みを浮かべて首を振った。
「ローゼマインは神殿で育っているのであまり気にならないかもしれませんが、貴族の矜持を考えれば領主一族の側近が青色神官に教えを請うのは少し難しいのですよ。下級とはいえ貴族で、同じ領主一族の側近に教えを請うことにはそれほど抵抗はないでしょうけれど……」
元々平民だったわたしには青色神官が教えを請うのも難しいほどの格下だという意識がない。貴族としての意識が欠けていることを指摘され、スムーズに引継ぎをしたいならば、引き継がなければならないメルヒオール側への配慮が必須だと諭される。
「ハルトムートはフェルディナンド様に教えを請ったでしょう? 同じように神官長職にあり、上級貴族で貴族達に睨みを利かせやすいハルトムートを残せないか、とも考えたのですけれど、上級文官はローゼマインに必要ですし、今朝のうちにさっさと名捧げを終えたのですから、もう頼みようがありません」
……まさかハルトムートがお母様より一枚上手だったとは……。
「それだけの理由があっても尚、ローゼマインが二人を自分の側に置きたいのであれば、貴女の成人に合わせて、ダームエルとフィリーネをグーテンベルク達と一緒に中央へ向かわせるというのでどうかしら?」
「え?」
「すぐにはグーテンベルク達を移動させられないのですから、その間、貴女の本当の家族を守るという点でも、貴女の思いを知っている者がエーレンフェストに一人でもいるのといないのでは大きく違うのではなくて?」
さらりと本当の家族という言葉が出てきて、わたしはひゅっと息を呑んだ。そんなわたしの反応を見て、お母様は目を丸くして笑う。
「何という顔をしているのですか? わたくしは貴女を引き取る時から、貴女が平民の娘だということは知っていましたよ。どこの誰の娘というほど詳しくは教えられませんでしたが、貴女が殊更大事にしている平民を調べれば何となく察せるものです」
「え? え?」
誰もお母様に説明しているなんて言わなかった。わたしは貴族らしく振舞おうと必死だったのに、平民だったことを知られていたなんてビックリだ。
「グーテンベルク達と一緒に移動させるつもりなのでしょう? ですから、それまではダームエルに守らせるのが良いと思います」
「……どうして成人までなのですか?」
中央の状況を確認しなければならないのは、お母様の言う通りだけれど、できるだけ早くわたしは中央へ印刷業を移したいと考えている。成人まではまだ三年ほどある。引継ぎの一年を考えても、残りの二年を待つのは長すぎる。
「どうしてって、貴女……。ハァ、ローゼマイン。貴女のこれまでの生き方とアウブ・エーレンフェストの寛大さから忘れられがちですけれど、普通は未成年に大きな事業を任せません。エーレンフェストで好き勝手にしていたように中央で事業ができるとは思わない方が良いですよ」
養父様は元々わたしが始めた事業なので好きにさせてくれたけれど、本来は領地の事業として行うものなのだから未成年に任せられる仕事ではない、と取り上げられるのが普通だそうだ。
「それに、今のところ貴女が最もグルトリスハイトに近い次期ツェント候補だとカルステッド様から聞いています。ならば、印刷業を中央へ移すより先にやらなければならないことがたくさんあるでしょう?」
「あ!」
盲点だった。グルトリスハイトを手に入れたらジギスヴァルトに渡して、フェルディナンドを救うことさえできれば、わたしはわたしのやりたいことをするつもりだったけれど、確かに王族としての教育を受けなければならないだろう。
「ローゼマインが王の養女になっても本当に大丈夫かしら?」
「う、うぅ……」
お母様から疑わしそうな目を向けられて、わたしは肩を落とす。自分でも大丈夫だとは思えないけれど、話だけは進んでいるのだ。どうしようもない。
「成人まで、というのは他にも理由があります。貴女の成人はフィリーネの成人と同じですから、成人してから移動すれば、フィリーネは名捧げをせずに中央へ移動することができるでしょう? 名捧げは中央へ向かうための手段で行うことではありませんし、正直なところ、貴女がこれ以上他人の命を背負うのはどうかと思うのです」
わたしが抱え込んだ孤児院の孤児達や名を受けた側近達に対する対応を見ていると、大事に抱え込みすぎていて心配になるそうだ。
「でも、フィリーネを側近に召し上げたのも、実家から出したのもわたくしです。あの実家に戻れとはとても言えません」
父親と後妻とその子供がいる家にフィリーネを戻すという選択は考えられない。
「フィリーネの父親は元々婿入りした者ですから、本来はフィリーネが跡取りなのです。別に戻しても良いと思いますけれど、戻せないのであればわたくしがミュリエラと同じように保護しても良いのですよ。ただ、中央へ行かせるならばフィリーネを守るための婚約者は必要でしょうね。……ローゼマインはダームエルとフィリーネを婚約させることについてどう思いますか?」
「えぇ!?」
予想外すぎて素っ頓狂な声が出た。目を白黒させているわたしを面白がるように見ながら、お母様は中央へ行ってしまうと周囲に下級貴族がいなくなるため、どうせお互いしか相手がいなくなる、と言った。
「ローゼマインの側近に近付きたい貴族はいくらでもいるので、フィリーネはまだ心配ないのですけれど、このままではダームエルの花嫁候補が全くいなくなると思うのです」
「え? えーと……ダームエルが中級貴族に婿入りするのは無理なのでしょうか? 魔力的には中級貴族の下から中くらいになったと聞いていますから、何とかなると思うのですけれど……」
できれば階級を上げてあげることができれば、と思いながらお母様に尋ねると、お母様は目を瞬きながらわたしを見つめた。
「貴女からの評価と能力は高くても対外的な評価が低く、貴女にいつ切り離されるかわからない傷持ちの下級騎士を婿に取りたがる奇特な中級貴族なんていませんよ。ブリギッテは彼女自身が婚約を破棄され、神殿に出入りしていたという傷を持っていたこと、同僚としてダームエルの人となりをよく知る機会があったこと、ギーベ・イルクナーが貴女との繋がりを欲していたこと、ブリギッテの適齢期に近付く殿方が他にいなかったこと、一族を増やすことを熱望していたことなどから奇跡的に家長が良しとした縁ですよ」
ブリギッテとの関係を元にダームエルの結婚相手を考えてはならないと言われて、わたしはダームエルとフィリーネの組み合わせについて考える。フィリーネはダームエルに親しみを覚えているのは間違いないし、恋に恋する程度かもしれないが、ほんのり淡い想いを抱いているのかな、と思ったこともある。
……でも、ダームエルはねぇ……。
「以前フィリーネが想いを寄せる相手をローデリヒだとダームエルが言っていたので……ちょっと難しいのではないでしょうか。明らかにフィリーネを子ども扱いしていて、とても婚約者という対象には見ていないと思います」
「そうですか。実家と決別し、主を追いかけたいと望む孤独な少女を守るために婚約し、彼女が成人するまで支えつつ、主の思いを共に守る騎士というのも素敵だと思うのですけれど……」
「お母様、それは次回作の構想ですか?」
わたくしの側近をネタにしすぎですよ、と頬を膨らませると、お母様は漆黒の瞳を輝かせながら「思いついたことを忘れないうちに書き留めておくことは重要ですものね」と書字板を取り出して書き込み始める。書きながらお母様は言った。
「ローゼマイン、わたくしからそういう打診があったということを一応ダームエルに伝えてちょうだい。わたくしは花嫁候補を紹介するだけですし、二人の扱いについても個人的な希望を述べただけです。最終的にどうするか決めるのは、わたくしではありません。それぞれが責任を持ちなさい」
お母様の言葉にわたしは考える。フィリーネはお母様が引き取ることもできるらしい。でも、ダームエルを保護することに関しては何の言葉もなかった。
「お母様、わたくしが不在になると、ダームエルの立場が不安定になりませんか? フィリーネと同じようにお母様が保護してくださるのですか?」
わたしが尋ねると、お母様は「フィリーネの婚約者であれば守りますけれど……」と言いながら顔を上げる。
「殿方のことは殿方に頼むのが一番ですよ、ローゼマイン。領主一族の側近という立場を保つために、ボニファティウス様に預けるのはいかがですか? 中央へ行くならば更なる研鑽が必要でしょうし、今まで通りに訓練と神殿の往復をするのであれば、貴族達に心無い言葉を投げつけられることも少ないでしょう」
「なるほど。わかりました。ダームエルの返答次第ではおじい様にお願いしてみます」
一応ダームエルのことも考えてくれていたのか、とちょっと安心していると、お母様は黒い瞳をキラリと輝かせ、先程わたしをからかっていたコルネリウス兄様とそっくりの笑顔でわたしを見つめる。
「先程リーゼレータにお願いしたように可愛らしくお願いすれば、ボニファティウス様はすぐに受け入れてくださいますよ」
「お母様!」
からかうように笑ったお母様をわたしはむぅっと睨む。けれど、お母様はクスクスと笑って受け流し、書字板に視線を落とした。
書字板に手早くメモを終えたお母様は満足した笑顔でお茶を飲んで、ゆっくりと息を吐いた。
「……こんなふうに趣味に没頭できる安穏とした日々を送れるようになるとは思っていませんでした。わたくし、貴女には本当に感謝しているのですよ」
「え?」
「貴女が来る前がわたくしは一番大変だったのです。ねぇ、ローゼマイン。少し昔話に付き合ってくれるかしら?」
お母様はゆっくりと話し始める。ちょこちょこは耳にしたことがあるけれど、あまりじっくりとは聞いたことがないお母様自身の話を。
ヴェローニカの嫌がらせから守るための政略結婚から始まり、お互いに義務と役目を一番に置く夫婦関係、第二夫人と第三夫人の争い、エックハルト兄様の名捧げに、フェルディナンドの神殿入り、エックハルト兄様の結婚と妊娠が判明したばかりの妻との死別、主も妻も子も失ったエックハルト兄様が半分死人のような有様だったこと、そんな時に持ち込まれたヴィルフリートの側近打診にまつわる攻防、ニコラウスの誕生と彼をカルステッドの跡継ぎにしようとするヴェローニカ……。
「主に振り回される兄二人を見て育ったコルネリウスは、主など定めたくない、と言って勉強も何もかも程々に済ませる子になっていました。やればできるのに本気で取り組もうとしない姿に、母親としては腹立たしい思いをしていたものです」
……そういえば、最初の頃はコルネリウス兄様も別に優秀者じゃなかったんだよね。
確か「アンゲリカの成績を上げ隊」を結成するまでは、上級貴族として恥ずかしくない程度の成績が取れていればそれで良いというスタンスだった記憶がある。
「先代の死後、ヴェローニカ様がますます権勢をふるう一方、実家のハルデンツェルの状況は厳しくなり、ライゼガングは影響力をどんどん失っていきました。このままわたくしやわたくしの息子達はヴェローニカ様によって潰されるだろうという予想しかできず、毎日を欝々とした気分で過ごしていたのです。……そんな時に突然ヴェローニカ様が失脚しました。この方はヴェローニカ様の傀儡を選択したのでしょう、とほとんど見切りをつけていたジルヴェスター様が動いたのです」
他領の貴族に関する取り決めを発表したと思えば、姿を何日もくらませることが頻発し、アウブの身に何があったのかと貴族街が騒然となったそうだ。そうかと思えば、領主会議の最中に突然戻ってきて、ずっとヴェローニカによって庇われてきた神殿長を更迭し、ヴェローニカの不正を糾弾し、白の塔に幽閉したらしい。
「領主会議に行っているはずのカルステッド様が領主会議の途中でいきなり戻ってきて、エーレンフェストで犯罪者の処理に奔走し始めたのです。話を聞いても、すぐには理解できませんでした」
……こうやって聞いてみると、貴族側からだとマジでわけわからないね。領主会議の最中にアウブが一体何してんの? って、思うよ。
「そんな混乱状態に、ヴェローニカ様失脚の原因になった平民の青色巫女見習いを自分の娘として洗礼式を受けさせるとカルステッド様が言い出したのです。すぐにアウブと養子縁組をするので、わたくしにはそれほどの負担はないと思う、とおっしゃったのですよ」
「えぇ!? いくらすぐに養女に出すといっても、実の親として引き取るのですから、お母様の負担がないわけがないでしょう?」
「本当に。これだから大ざっぱな殿方は困るのです」
けれど、ヴェローニカを排する原因となり、今の魔力不足なエーレンフェストには必要な魔力を持ち、フェルディナンドが庇護する子供で、フェルディナンド本人からも頼まれたということで、お母様は引き受けることにしたそうだ。
「よく決意しましたね。平民を自分の娘にするなんて……」
「わたくしも悩んではいたのですよ。けれど、カルステッド様はフェルディナンド様も還俗するとおっしゃいましたし、エックハルトがフェルディナンド様の側近に戻れることを楽しみにしていました。エックハルトの笑顔を久し振りに見ました。フェルディナンド様とエックハルトのため、それだけでも貴女を引き取る理由に十分だと思ったのです。けれど、貴女はそれ以上をわたくしに与えてくれました」
予想通りにエックハルト兄様は活力を取り戻し、喜々として神殿に出入りしながらフェルディナンドに仕えるようになった。ヴィルフリートを廃嫡から救ったことで護衛騎士のランプレヒト兄様も救われた。次々と流行を作り出したことで、女性派閥はほんの一瞬でヴェローニカ派を蹴散らすことができた。コルネリウス兄様はアンゲリカの勉強を見ることによって一気に成績を上げた。
「わたくしは印刷によって趣味にも没頭できるようになりましたし、実家のハルデンツェルにも大きな実りをもたらしてくれました。本当に、貴女が養女になってから突然何もかもが上手くいくようになったのです。……夫婦関係もローゼマインの扱いについて話をするようになって、ようやく義務的ではない心の交流ができたのですよ」
わたしは今日お母様から話を聞くまで、政略結婚でもある程度上手くいっている夫婦だと思っていたけれど、そうではなかったらしい。
フェルディナンドが数日おきに館を訪れることからカルステッドも在宅時間が長くなっていく。そして、自分の子供ならば適当に無視ができても、フェルディナンドから預かって領主の養女となることが決まっている幼い子供の言葉は簡単に無視できない。自分達にとっては当たり前すぎる貴族の常識に関する質問に答えるために、お父様はお母様と話をする時間が増えたそうだ。
「わたくしは貴女に感謝していますし、母として支えようとは思っていました。けれど、貴女は神殿とフェルディナンド様の方が落ち着くようでしたから、無理にしゃしゃり出る必要もないと思っていたのです。城には養母であるフロレンツィア様もいらっしゃいますからね」
どうやらお母様はわたしの最終的なセーフティネットくらいの感覚で見守ってくれていたらしい。フェルディナンドがいれば心配はいらなかった。それなのに、フェルディナンドは王命でアーレンスバッハへ向かうことになった。
「心の支えであるフェルディナンド様が去った後の貴女が心配で、同時に、貴女の年齢的にどこまで手を出してよいのか判別も難しかったのです。フェルディナンド様が出発準備をする期間に上手くお別れができれば、それで良かったのですけれど……」
フェルディナンドが去るとすぐに貴族院だったので、子供達だけで過ごすうちに自力で立ち直れるのか、フェルディナンドの代わりに婚約者であるヴィルフリートが支えとなれるのか、母親として手を出した方が良いのか、見極めなければならなかったそうだ。
「けれど、アーレンスバッハへの出発は前倒しになり、わたくしはフェルディナンド様が根回ししていた粛清時のライゼガングに対する根回しを任されました。冬の社交界が始まり、ライゼガングと接触を始めたところで貴族院からの情報がきて粛清も予想外に前倒しになったでしょう? ライゼガングを抑えるための根回しが終わっていない状態で粛清が始まってしまい、ライゼガングが舞い上がってしまいました」
ブリュンヒルデが第二夫人となることが決まったので、協力し合ってライゼガングを抑えていくことに決めたところまではよかったそうだ。今はまだ粛清が終わった直後でライゼガングの年寄りが興奮して盛り上がっているだけで、時間がたてばある程度は落ち着くはずだった。
けれど、そんな中にヴィルフリートが協力を取り付けようとライゼガングに向かうと言い出した。
「話を聞いてすぐランプレヒトには、全く根回しができていないライゼガングにヴィルフリート様が向かうのを止めなさい、と注意したのですけれど、結局止められずに強行したでしょう?」
火に油を注いで帰ってきたらしい。ギーベ・ライゼガングから「年寄り連中が迷惑なほどに興奮している」と連絡が入って、お母様は真っ青になったそうだ。
ライゼガングをどのように抑えるのか、ブリュンヒルデと話し始めたところで領主会議が始まり、終わった時にはわたしが王の養女になることが決まっていた。
「もう本当に、何が何だかわからないうちにどんどんと状況が変わるのですもの。よくフェルディナンド様は対処できていたものです」
平時ならばまだしも、粛清という大きな事を起こした後始末をしなければならない混乱期には、調整役を一手に引き受けていたフェルディナンドが不在になった穴が大きすぎたらしい。
「ヴィルフリート様ではなく、フェルディナンド様と貴女が婚約すれば、アーレンスバッハへ向かうのを避けられたのに、と何度も思ったものですよ」
今になって言ってもどうしようもないけれど、とお母様は悲しそうに微笑む。わたしはコクリとお茶を飲んで、小さく笑う。
「わたくしは自分がフェルディナンド様と婚約をするというのはあまり思い浮かびませんでしたね。アーレンスバッハでフェルディナンド様に何かあった時にどうやって救えば良いのか、そればかりを考えていました」
「その結果が連座回避なのでしょう? 貴女はよくやったと思いますよ」
お母様はそう言いながら腕を伸ばし、わたしの頬に触れた。遠慮がちに優しく触れる指先に、わたしは自分から頬を寄せる。
「連座回避を褒められたの……初めてです」
じんわりと伝わってくる温もりに、わたしはそっと目を伏せた。勝手に涙が落ちる。
「表向きには他領の者に対する施しになるので、誰も大っぴらには褒めないでしょうし、それが必要だと思うものもごく少数だと思います。ですから、わたくしが褒めるのもここだけになるでしょう。……でも、本当に嬉しく思います。フェルディナンド様の連座を回避することで、貴女が助けられる命は三人分なのですから」
フェルディナンドとユストクスとエックハルトの名前をお母様が挙げていく。ラザファムもいるよ、と心の中に思いながら、わたしは何度も頷く。
「彼等を助けることができたのは、貴女が行動したからです。誇りなさい」
「お母様……」
「遠く離され命の危機だと聞かされれば心配するのは当然です。それを表に出すか出さないかは別ですけれど、わたくしはエックハルトやフェルディナンド様を心配していました。リヒャルダはユストクスの心配をしているでしょう」
エーレンフェストでは誰もアーレンスバッハへ向かった三人を心配していないように感じていたけれど、きちんと心配してくれている人がいる。それがわかって体の力が抜けた。
「フェルディナンド様達を心配するなと言われるし、誰も一緒に心配してくれませんでした。わたくし、それがまるでフェルディナンド様達には心配する価値もないと言われているように思えて悲しかったのです。誰も心配してあげないならば、わたくしだけでも心配してあげなければ、と意固地になっていたような気さえします」
お母様はわたしを見つめながら目を潤ませて俯いた。
「ねぇ、ローゼマイン。この部屋を出たら、わたくしは王族になる娘、王族の側近に抜擢された息子を誇る母になります。隠し部屋にいる今のこの時だけは、息子や娘が遠く離れることを悲しむのを許してちょうだい」
「お母様……」
隠し部屋でしか自分の感情を見せない貴族の在り方を初めて見た。自分の思い出を語る時も貴族らしい微笑みを浮かべていたお母様が、ぐしゃりと顔を歪める。
「アーレンスバッハへ向かった彼等も心配ですけれど、わたくしはこんな小さな肩にユルゲンシュミットの将来がかかっている貴女も心配なのですよ」
ほたりと落ちた涙から痛いほどに真っ直ぐにお母様の心配する気持ちが伝わってくる。
グルトリスハイトを手に入れられるかどうか、手に入れた後どうするのかを話し合っていた王族。わたしが抜けた後、エーレンフェストをどのように導いていくのかを話し合っていた領主一族。グルトリスハイトを手に入れるわたし自身を心配してくれた人はどれだけいただろうか。
「お母様……」
わたしはお母様に向かって手を伸ばした。貴族はそのように甘えるものではないと言われていたので、これまでは伸ばしても無駄だと思っていた手を、母さんに甘える時のように伸ばした。
わたしの手はきちんと握り返された。
ここに貴女の思いを受け止める者はいる、とわかるように、お母様はきつく握り返してくれた。
「ローゼマイン、これから先、貴女の肩にかかる重荷をわたくしは一緒に背負ってあげることはできません。ですから、せめて、エーレンフェストのことは気にせずに行けるように助力します。貴女は貴女らしさを失うことなく、進みなさい。グルトリスハイトを手に入れた時に、大きな権力に振り回されるのではなく、自分の望みを勝ち取りなさい。貴女ならばできます。わたくしの娘ですからね」