Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (577)
収穫祭とグーテンベルクの選択
グレッシェルのエントヴィッケルンが無事に終わった。わたしは城の供給の間に籠って魔力を込めるだけだったが、グレッシェルでヴァッシェンを行った側近達がグレッシェルの様子を教えてくれる。
「大人数でヴァッシェンを行ったのですが、一瞬でグレッシェルが美しくなりました。空に数多く浮かぶ魔法陣から一気に水が降り注ぐ様はなかなか壮観でした」
「これからは美しい街並みを維持するためにギーベから命じられた兵士達や二号店に荷物を運び始めた商人達が目を光らせるようになるそうです。木工工房の荷物を載せた第一陣の馬車がエーレンフェストを出発したとブリュンヒルデが言っていました」
「領主一族の側近の上級貴族達が集合したのですから、ギーベ・グレッシェルはとてもお喜びだったようです。指示を出したアウブに好感が寄せられているように思えました」
コルネリウス兄様が広域ヴァッシェンの、レオノーレがブリュンヒルデの報告を、オティーリエはギーベ・グレッシェルや周囲の貴族達の反応を教えてくれる。
「私はグレッシェルに降りてみました。取引を終えて各領地に戻る商人達は往路と全く違うグレッシェルの様子に、来年の商取引に対する期待を口にしていましたよ。戻った商人達が報告を上げると、貴族院でも話題に上がるかもしれません」
なんとハルトムートとクラリッサは綺麗になった町をうろうろとして色々と見て回ったらしい。扉も窓枠もない店が立ち並ぶ一角が面白かったそうだ。
「クラリッサ、ありがとう存じます。町全体の洗浄は補助の魔法陣があるとないでは大違いなのです。ダンケルフェルガー籍の貴女には無理を言ってしまいましたが、とても助かりました」
「いいえ、お役に立てて何よりです。今回の件で、わたくし、きちんとローゼマイン様の側近として数に数えられたようで嬉しく思ったのです」
ハルトムートが神官長職に就いているため、ダンケルフェルガー籍から抜けることができない。そのため、普段は領地に深く関わる仕事が回されることはないのだ。わたしのお手伝いをしているけれど、神殿にも入れず、領主会議も終わって、自分が本当に役に立てているのか不安に思っていたそうだ。
「わたくしはクラリッサが魔紙の調合を手伝ってくれるだけで十分助かっているのですけれど……」
それでも、他の者からわたしの側近と認められるのはまた別らしい。遠出することになったのだから、クラリッサ自身が得られたものがあってよかったと思う。
商人達がそれぞれの領地に戻る季節は収穫祭の時期でもある。今回の収穫祭ではシャルロッテが祈念式で回ったギーベのところを回り、ヴィルフリートとわたしとメルヒオールで手分けして直轄地を、青色神官達がギーベのところを手分けして回ることになっている。
「ハルトムートには春にヴィルフリート兄様が向かったライゼガング系の貴族を任せることになっていますが、よろしくお願いしますね」
「ローゼマイン様は直轄地に加えて、小神殿の引継ぎとキルンベルガ周辺のギーベも担当していらっしゃいます。ご無理のないようにお願いします」
わたしはハッセの小神殿の守りや隠し部屋をメルヒオールに引き継ぎ、キルンベルガでグーテンベルクを回収してこなければならないので結構忙しい。
収穫祭はいつも通りダームエルとアンゲリカを護衛騎士として連れていく。後は神殿の側仕えと専属達だ。彼等が慣れた作業として収穫祭の準備をするのを横目で見つつ、わたしはお留守番の側近達に仕事を割り振っていく。収穫祭から戻ってきたアンゲリカやダームエルと交代できるようにゆっくり休暇を取る者もいるし、フィリーネのように神殿の留守番を任されて張り切っている者もいる。主がいないこの時期は未成年の側近にとっては貴族院の予習に最適の時期なので、今のうちにしっかり勉強することも勧めておいた。
孤児院の交代要員を連れていく馬車と護衛の兵士の手配をお願いする。孤児院では冬支度の準備を進めるように指示を出し、工房で作られた不燃紙はプランタン商会を通して買い取り、図書館へ運んでもらう。そんなふうに収穫祭の準備をしつつ、図書館へこまめに通って、わたしはできるだけフェルディナンドの魔紙の作成に時間を割いていた。
……できれば、貴族院へ行く時に持っていきたいんだよね。前みたいにフェルディナンド様が領地対抗戦でエーレンフェストのお茶会室で泊まることができれば直接渡せるし。
魔紙を作成しているうちに出発の日は近付いてくる。最初に出発するのは、馬車で遠くのギーベの土地へ向かう青色神官達だ。当然、幼い見習いと一緒に向かう者もいる。今までは未成年の見習いを参加させることがなかったので、青色神官達も戸惑っているのがわかる。
「カンフェル、フリターク。初参加の幼い見習いを同行させるのです。色々と大変でしょうけれど、よろしくお願いしますね。それから、見習いの貴方達は貴族として洗礼式を受けているので、彼等より上の立場だと思っている者もいるでしょう? でも、神殿において青色神官の間に差はありません。見習いの貴方達は先輩である彼等の言葉をよく聞くように」
初参加で右も左もわからない子供はお荷物なので迷惑をかけないように、と言い聞かせておく。遠出して、止められる者がいない中で貴族の権力を持ち出されると面倒なのだ。
「徴税の文官達にはあまりひどい扱いをしないように釘を刺しておきましたが、今、徴税に関わる仕事に就いているのはライゼガング系の貴族が多いです。挑発するような言葉や旧ヴェローニカ派に対する嫌味や皮肉があるかもしれませんが、その場で感情を暴走させないように極力気を付けて、わたくしやメルヒオールに報告します、とだけ言うようにしてくださいね」
緊張の面持ちでコクリと頷いた見習い達が「いってまいります」と馬車に乗り込んでいく。荷物をたくさん載せた馬車がゆっくりと出発し始めた。
馬車でギーベのところへ向かう神官達が出発すると、次は本人が騎獣で移動し、馬車で荷物と側仕え達を送り出すハルトムートやシャルロッテの順番になる。先に荷物を送るのだ。
シャルロッテは神殿に出発の挨拶にきて、生まれたばかりの妹の話を少しした後、荷物や灰色神官を載せた馬車を送り出した。シャルロッテ自身は側近達とは明日出発するらしい。
最後は直轄地を回る領主候補生の出発になる。ヴィルフリートを送り出し、メルヒオールの荷物を送り出す。メルヒオール自身は護衛騎士の騎獣に同乗させてもらうそうだ。
わたしはハッセに向かう交代要員の灰色神官達を送り出し、護衛の兵士達に挨拶をする。父さんの首元には革の紐があり、紋章付きの魔石がかかっているのがわかった。
「今回もよろしくお願いします」
「お任せください」
そんな短いやり取りでも父さんと言葉を交わせるのは嬉しい。
ハッセに向かう馬車を送り出した後、わたしはレッサーバスを出して、側仕え達に荷物の積み込みを始めてもらうことになる。
「ローゼマイン姉上の騎獣は便利ですね。私も早く使えるようになりたいです」
「シャルロッテによると、大きさを変化させるのにかなり魔力を使うようです。貴族院に入ってから、魔力圧縮を頑張るところから始めなければなりませんね」
わたしの言葉にメルヒオールは少し不満そうに唇を尖らせた。
「ローゼマイン姉上が中央へ移動してしまうのですから、私はローゼマイン姉上の魔力圧縮方法を教えられない世代になるだろうと父上に言われました」
「まぁ、そうなりますね。フェルディナンド様がいなくなったことで条件が満たせていないので、今年はすでに他の者に魔力圧縮を教えていませんもの。それに、わたくしがエーレンフェストにいられなくなる以上、あの契約はこれ以上広げない方が良いと思っています」
マティアスから聞いたことだが、ゲオルギーネも自力で二段階の圧縮を行っていたようだ。本来は自分でよくよく考えて自力で何とかすることだし、わたしが王族になったら図書館の地下書庫の存在を広めるつもりでもある。そこにある圧縮方法を試すことが可能になるはずだ。
「色々な方にお話を聞いて、自分でよく考えること。それから、古語のお勉強はしっかりしておくこと。今のわたくしにできる助言はこれくらいでしょうか」
「聖典を読むために勉強していますが、先は長そうです」
メルヒオールはハァと息を吐いて肩を落とした。
わたしはレッサーバスで小神殿に向かい、隠し部屋を開けてモニカに部屋を整えてもらい、専属料理人達に仕事を始めてもらう。それから、フランと護衛騎士を連れて、ハッセの冬の館に向かった。
「リヒト、来年からは神殿長が交代になります。今日はその紹介のためにメルヒオールを連れてきました」
神殿長が交代になることを町長のリヒトに伝えてから儀式を行い、熱のこもったボルフェを見学する。メルヒオールが寝るのはハッセの冬の館だ。次の日の朝に徴税官と徴税の確認をしてからメルヒオールと小神殿に移った。引継ぎの開始である。
「メルヒオール、これが小神殿の守りの魔石です。祈念式と収穫祭の二回、魔力を供給することになります。こうして色が変わるまで魔力を注げば終わりです。……魔力量が心配ならば、魔石に魔力を準備しておくと良いかもしれませんね。後は、シャルロッテやヴィルフリート兄様にも登録をお願いして、協力してもらうようにしても良いと思います」
「ローゼマイン姉上は全て一人で行っていたのですね」
メルヒオールは少し落ち込んだような声を出したけれど、毎日命がけの魔力圧縮をしていたわたしと魔力量を比べてはならない。そんな勢いで圧縮していたら、わたしのように成長不良になってしまう。
「メルヒオールはいきなり全てを一人で行う必要はありませんよ」
守りの魔石に魔力を登録した後は、側仕えやハッセの灰色神官達がわたしの隠し部屋から家具を一切合切運び出している方へ視線を向ける。
「メルヒオールが使う家具はどれですか? この隠し部屋と一緒に家具もできるだけ譲ります。一年に二回しか使わない物にお金をかけるのも勿体ないでしょう? ここに新しい家具を入れるよりは、他に使った方が良いと思うのです」
領主一族がお下がりをもらうことはあまりないので、メルヒオールは一瞬驚いていたが、メルヒオールの会計を握っているらしい側仕えは安堵の表情を見せる。神殿用の予算は付いているけれど、ハッセとエーレンフェストの神殿で別に付くわけではない。新しく部屋を整えるのは想定外のはずだ。
「布団などの布製品は入れ替えた方が良いでしょうが、テーブルや寝台などの木製の家具はそのまま使わせていただきましょう、メルヒオール様。ローゼマイン様のおっしゃる通り、引継ぎに忙しい中、一年に数回しか使わない物のために城で相応しい家具を選んだり、注文したりする時間はございません」
お金ではなく時間が惜しいという側仕えに、メルヒオールは「そうですね。では、ありがたく使わせていただきます」と納得の顔を見せた。
「トール、リック。メルヒオールが使わない物を馬車に運んでください。エーレンフェストの神殿へ持ち帰ります」
「かしこまりました」
わたしは使わない物をエーレンフェストの神殿に運び込んでもらえるように指示を出す。隠し部屋が完全に空になったら、メルヒオールが登録をし直した。そして、また家具を運び込んでいくのである。
「お貴族様の部屋のやり取りは意外と面倒が多いのですね」
礼拝室の扉が大きく開かれ、荷物が行き来する光景を見ていた兵士達がそう言った。鍵を渡すだけで終わる平民の受け渡しとは事情が違うのが面白いらしい。
「魔力登録があるので安全性は高いのですけれど、譲る時には厄介ですね」
「お部屋を後任に譲られるということは、本当に余所へ行ってしまうのですか。ギュンターさんが引き抜かれる家族と移動するから、と引継ぎを始めたので驚いていたのですが……」
家族と移動するために父さんも門で引継ぎをしているらしい。
「あら、わたくしが移動することはまだ他の者には秘密ですよ。他に漏らさないように気を付けてくださいませ」
ちろりと父さんを睨みながらそう言って、兵士達と他愛ない会話を交わしながら荷物の積み込み状況を見たり、小神殿の管理をしているノーラやマルテと足りない物の補充についての話をしたりする。
「そんな心配そうな顔をしなくても大丈夫ですよ、マルテ。わたくしが移動してもハッセとエーレンフェストの神殿で行き来はありますし、ハッセの小神殿がなくなるということはありません」
「はい」
「それに、同行してくださる兵士達へのお礼についても引継ぎをしました。ですから、これからもよろしくお願いしますね」
「はっ!」
兵士達に渡すお金は下町からの情報として養父様に売りつけて得るようにメルヒオールに助言してある。予算がないのではない。お金は引っ張り出して来ればよいのだ、と。貴族院で得た情報を関係各所に売りつけるようなもの、と説明したところ、神妙な顔で聞いていたので、頑張って養父様から引き出してくれるだろう。
ハッセの小神殿で引継ぎを終えたら、メルヒオールは南へ、わたしは東へ向かって出発だ。騎獣で次々と回って直轄地の収穫祭を終わらせ、フーバー、ブロン、グラーツ、ヒルシュのギーベの夏の館を回り、キルンベルガへ向かう。
ギーベ・キルンベルガに挨拶をして、儀式を行い、翌朝に徴税を行う。全てを確認し、グーテンベルク達を回収したら撤収である。
「今回も長い期間の出張、お疲れ様でした。初めて参加した者も多かったでしょう? キルンベルガはどうでした?」
ルッツとギルの報告によると、ユーディットがずいぶん丁寧に手を回してくれていたようだ。初めての者達はやはり土地の違いに戸惑ったり、体調を崩したりしたこともあったけれど、慣れた者達は気持ちよく仕事もできたし、快適だったらしい。
……中央で準備するのにユーディット達に助言をもらった方が良いかもしれないね。
わたしはグーテンベルク達のキルンベルガでの仕事の様子を聞きながらエーレンフェストの神殿へ戻る。そして、ザームに準備してもらっていた招待用の木札をそれぞれの工房に向けて渡した。
「重要なお話があるので、親方、グーテンベルク本人、そして、グーテンベルクから弟子と認められている者の三人には神殿へ来てもらいます。日時は五日後の三の鐘です」
文字が読めない者のために文面をとりあえず読んでおく。今回は弟子の参加が多かったせいで、貴族からの招待状にビクビクしているのがよくわかる。今度は何だ? という顔をしているルッツやヨハンとは大違いだ。
「……あの、ローゼマイン様。ハイディさんを参加させるのですか?」
恐々とした様子でそう尋ねてきたのは、インク工房のホレスだ。ハイディの言動がフラン達に受け入れられていなかったことやハイディを止めるためにヨゼフが苦労していたことを思い出し、わたしは数秒間考え込んだ後、ニコリと笑った。
「インク工房は夫婦でグーテンベルクですから、どちらかの参加があれば良いということにしましょう。ハイディがお留守番できるのでしたら、インク研究に使えそうな他領の素材を少しお土産としてヨゼフに渡します、と伝えてください」
ハイディが絶対に留守番したくなるように、とわたしが言うと、ホレスが感動したように目を輝かせた。
「助かります! ローゼマイン様は本当に聖女ですね」
……え? ハイディを抑えるって、そんなに感動されること?
収穫祭から戻ってくる青色神官達を迎えている間に招集日になる。今回は下町の職人を招くので、孤児院長室を使うことにした。招く人数が多いため、玄関口のホールで話ができるように椅子を増やして整えてもらい、ニコラにお茶菓子を準備してもらう。
一番慣れているプランタン商会のベンノとマルクとルッツを先頭に、グーテンベルク達と彼等を抱える工房の者達が強張った顔で入ってくる。貴族の場所に足を踏み込むのが平民にとってどんな意味を持っているのかわかっているので、わたしは彼等が少々挨拶をすっ飛ばしても、左右の手足が一緒に動いていても見て見ぬ振りだ。
話を始める前に「貴族と接することがない下町の職人なので、多少の言葉の乱れは特に気にしないし、罰することはありません」と明言しておいた。これは親方達の緊張を解すためでもあるけれど、わたしの側近達に聞かせることが主な目的である。途中でいちいち睨まれたり、話を遮られたりするのは困るのだ。
「他にはまだ大っぴらに言えないことなので、招待させていただきました。これからお話しすることは次の春の終わりまで口外しないようにしてください」
わたしは次の春の終わりにエーレンフェストから出ること、成人したらそちらで印刷を始めるためにグーテンベルク達について来てほしいことを伝える。
「グーテンベルク本人か、弟子に来てもらえるとありがたいと思っています。普通は自分の専属には命令するものですけれど、わたくしはなるべく希望を聞きたいと思っています。結婚や婚約で制約の出る人もいるでしょうから、移住は強制しません。けれど、移住できない時は今までのように長期出張で技術を伝えてもらうつもりですから、長期出張は強制になります」
移住は強制ではない、という言葉に親方達が揃って安堵の顔を見せた。大事に育ててきた跡取りを奪われては困るということだろう。移住の話を知っているベンノは平然とした様子でお茶を飲んでいるけれど、初耳だったらしいルッツは緑の瞳を見開いてわたしを見た。
「エーレンフェストを出ることは決定なのですか?」
「そうですね。覆ることはないと思います」
「グーテンベルクの移動は本当に三年後で間違いないですか?」
……ルッツもベンノさんと同じことを言ってる! そんなに疑わしそうな目でわたしを見ないで!
「服飾の専属であるギルベルタ商会やルネッサンスはわたくしの移動と共に動いてもらいますから、春の終わりに移動することになると思います。それから、プランタン商会も工房を準備したり、店を準備したり、新しい印刷協会を作ったりするために、先に移動するとベンノは言ってくれました」
そう言いながらベンノに視線を向けると、ベンノは軽く頷いた。そして、他の親方達を見ながらプランタン商会のこれからの動きを述べる。
「私は先に動き、グーテンベルクの受け入れ準備を整えます。プランタン商会から移住するのは、私、マルク、ルッツの三人を予定しています。ルッツは未成年のため、親の了承が必要になるので、両親を呼んで話をしてから正式に決定します」
ベンノの言葉にルッツは挑戦的にニッと笑った。
「親は説得してでも一緒に行きます。……トゥーリに後れを取るわけにいかないので」
「馴染みのある者達が一緒に来てくれるのは心強いです。……ただ、わたくしが成人していなければ、他領では自由に動けません。ですから、グーテンベルク達の移動は三年後です」
成人前に好き勝手できるエーレンフェストが特殊だったのですよ、とわたしが言うと、うーん、と何とも言えない声が聞こえてきた。
「未成年がパトロンになるのはエーレンフェストでも普通はあり得ません。受け入れたエーレンフェストは特殊なのかもしれませんが、一番特殊なのはローゼマイン様だと思います」
ヨハンの言葉にグーテンベルク達が揃って頷いた。護衛騎士として扉前に立っているダームエルまで頷いている。何ということだ。わたしの後ろに立っているハルトムートが「特殊ではなく、特別です」と訂正しているが、それはどうでも良い。
「移住する際は家族も移住して構いません。ギルベルタ商会の髪飾り職人は家族ごと、夫婦で専属の料理人は子供やその面倒を見るための母親が同行する、とすでに報告をもらっています」
「配慮はありがたいですが、俺は行けません。この街で自分の工房を持つためにずっと頑張ってきたんで……」
グーテンベルク達が考え込んでいる中、インゴは唸るような声でそう言った。若い親方で仕事を得るのも苦労していたインゴだが、グーテンベルクになった今は街でかなり人気のある工房になっているらしい。ダプラも増えてきたし、新しく入りたいという希望も多いようだ。
わたし以外のパトロンや注文もあり、地縁ができているので、新しい土地へは行けないと言う。家族を移動させることができるのでマシだけれど、わたしも地縁があり、自分の図書館があるここを離れたくないと思っているので、インゴの気持ちはよくわかる。
「わかりました。インゴはここに留まってください」
「ありがとうございます。……ディモ、お前はどうする? 行きたいならダプラ契約を解除してもいいぞ。他の町、面白かったんだろ?」
インゴが隣に座っている自分の弟子のディモを見ながらそう声をかけた。ディモはインゴの声に顔を上げる。
「あの、ローゼマイン様。親方ではなく俺が行った場合、工房は与えられますか?」
「仕事場は必要ですから、工房は与えます。さすがに親方になる資格までは与えられませんけれど、その地に新しい技術である印刷を持ち込むということで資格を得るのは容易になると思っています」
わたしの言葉にディモが嬉しそうに目を輝かせた。ディモは印刷機作りに初期から携わってくれているので、インゴの代わりに来てくれるならば頼もしい。
ディモが「行きます」と決意表明すると、ザックがそわそわとするように少し体を動かした。
「ローゼマイン様、希望すれば命令してくれるのですか? ダプラは命令がなければ簡単には動けません。希望するな、と親方に言われればそれまでです」
おい! とザックの工房の親方が目を吊り上げるけれど、ザックは行く気満々のようだ。灰色の目がらんらんと輝いている。ヨハンと同じようにグーテンベルクの称号が欲しい、と工房へやってきた最初の印象から変わっていない。
「知らない町に行くと面白い物がたくさんあって、発想のきっかけが多いです。それに、俺は別の町に自分の名前がついた物を置いてみたい」
井戸のポンプや馬車の改造など、エーレンフェストのいたるところでザックとわたしの名前を見ることができる。それを他の領地でも行いたいそうだ。なかなかの野心家である。まぁ、一緒に来たいと思ってくれているならば、わたしは連れていく。ザックの発想力と設計力は他に代えがたい。
「わかりました。本人の希望があっても親方が反対する場合は命令しましょう。でも、新婚の奥様に相談してから決めてくださいね」
「あいつは大丈夫です。グーテンベルクの移動にも一緒に行きたいと言っていたくらいなので」
「大丈夫、という言葉は本人から聞くまで安易に言うことではありません。ザックは一度必ず奥様の意見を聞きなさい。わたくしが命令を下すのはその後です」
グーテンベルク達の移動について行っても半年に一度はエーレンフェストに戻ってくる。長期出張と他領への移住は違う。いきなり離婚騒動にならないように話し合いは必須だ。
「ハイディは絶対に行くって言うと思うけど、親方はどうします?」
「……ハイディはまだしも、ヨゼフ、お前はベルーフ持ちの跡取りだぞ?」
ヨゼフとビアスは、うーん、と頭を抱えて唸り始めた。自分の娘のハイディよりもヨゼフがいなくなる方がビアスにとっては問題らしい。ヨゼフが「うーん」と考え込んで、頭をガシガシと掻く。
「ホレス、お前はベルーフの資格、取れそうか?」
「俺ですか!?」
ホレスが素っ頓狂な声を上げた。でも、無理はないと思う。ベルーフは親方になるために必要で、各協会に所属している複数のベルーフから認められるような実績を残すことによって、協会の会長から与えられる資格である。工房だけ準備すれば名乗れる工房長とはまた違う、プロ中のプロに与えられるのである。
ちなみに、印刷協会や植物紙協会は今のところベンノが認めた者に与えられることになっているが、工房の数自体がまだ少なく、教えられたことをするのがやっとなのでベルーフがいない。在職期間が最低十年は必要なので、そのうちイルクナーで新しい紙を発明している面々がベルーフの資格を得るだろうと思っている。
「ハイディを抑えるよりは、ホレスが資格を取る方が簡単だと思うんだよな。それでターナと結婚すれば工房の方は何とかなるんじゃないか、と……」
ターナが誰か知らないけれど、親方であるビアスの血族の誰かだろう。ヨゼフの声の中には何とも言えない諦めが漂っている。ハイディを止めるのはかなりの難題のようだ。ビアスも諦めの顔で頷いた。
「ハイディを止めるよりはその方が現実的だな。インクの作り方はもうわかってるんだ。金食い虫の研究馬鹿はパトロンと一緒にしておいた方がいいだろう」
ものすごい理由で跡取り娘はエーレンフェストから離れてよいことになった。代わりの跡取りに決定したホレスは愕然とした顔をしているけれど、どうか頑張ってほしいものである。
「オレは親方の孫娘との婚約が決まっているから……さすがに移住は……」
ちょっと照れた様子でそう言ってヨハンが首を横に振る。親方は少し微妙な顔でヨハンを見ながら、「ウチの工房から誰を出すのか、ちょっと考えさせてくれ」と言った。
「後でベンノを通して答えをください。まだ急ぎませんから」
「助かります」
後日、ベンノを通して答えがきた。どうやら親方の孫娘はヨハンではなく、ダニロと結婚したいらしい。無口で黙々と仕事をする職人肌のヨハンより、明るくてお喋りが得意なダニロの方が好きなのだそうだ。そして、工房としても、何人ものパトロンを得られるダニロとわたししか大口のパトロンがいないヨハンでは、どちらを外に出すのか考えた場合、ダニロを残したいらしい。
「嬢ちゃん、ヨハンをくれぐれもよろしく頼む、と親方から伝言だそうです。ヨハンはローゼマイン様と一緒に移住したいですって落ち込んでいるみたいです」
ギルがそう報告してくれた。ヨハンを不憫に思いつつ、頭の中でダニロとヨハンを並べてみる。女の子受けするのは間違いなくダニロだ。
……未成年の女の子だからね。ヨハンにはヨハンの良さがあるんだけど。
ハァ、と溜息を吐いていると、ギルが言いにくそうにわたしを見ながら口を開いた。
「ローゼマイン様、オレは……」
下町の職人に囲まれて生活していたキルンベルガから戻ったばかりのせいか、言葉が少し乱れている。それがわたしの側仕えを辞めさせられるのではないか、と不安がっていた昔のギルを思い出させた。わたしは少し懐かしい気分になりながら、引き出しから紋章入りの魔石を取り出した。
「ギルは三年後に来てもらうつもりです。嫌でなければ、これを受け取ってください。わたくしが三年後に連れていく者の印です」
わたしはそう言ってギルに紋章入りの魔石を差し出す。ギルは嬉しそうに笑って受け取ってくれた。