Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (606)
ツェントとグルトリスハイト
「王族はそこまで愚かで恥知らずだったか……」
フェルディナンドがフッと唇を怖い笑顔の形に歪めてゆらりと体を揺らしながら立ち上がる。「王族の皆様、今すぐ逃げて!」と叫びたくなったところで、フェルディナンドの目がわたしに向けられた。
「君もだ、ローゼマイン」
「た、大変申し訳ございませんっ!」
なんで怒っているのかよくわからないけれど、とりあえず謝っておかなければならない気分にさせられる威圧的なフェルディナンドの視線にわたしは全力で謝罪する。もちろん、そんな中身のない謝罪は完全に見抜かれていて、更に怒りを煽ることになる。
「ローゼマイン、どうやら私は君に感謝せねばならぬようだ」
「あ、あぅ……」
強い感情によって揺らいでいる厳しい目に加えて、ひやりとした空気を感じる凄みのある低い声で言われて、言葉通りに感謝されていると受け取れる人間が一体どれだけいるだろうか。
……感謝はそんな顔ですることじゃないと思いますっ!
「君の言動で色々なことに気付かされた」
ここはもう三十六計逃げるに如かず。無言でじっと見下ろされながら、わたしは必死に逃げ道を探した。幸いにも今は非常時だ。立ち上がれるくらいに回復しているならば、外で待っている側近達に現状報告をしなければならない。
「あのっ! アーレンスバッハも今は大変な状況なわけで、ランツェナーヴェが暴れてて、ですね。さらわれたお嬢様もいらっしゃるようですから、わたくし……」
「ふむ。ひとまずアーレンスバッハを滅ぼして更地にするのが先決か。ランツェナーヴェが暴れているならばちょうど良い」
王族とわたしに怒っているはずなのに、フェルディナンドの口から出てきた言葉が「アーレンスバッハを滅ぼす」である。実に魔王らしいけれど、繋がりがわからない。
「待ってくださいませ、フェルディナンド様。どうしてアーレンスバッハを滅ぼすことになるのですか? ランツェナーヴェが……」
「アーレンスバッハがあると、私が動きにくい。どちらもまとめて潰せば問題なかろう」
「問題ありありじゃないですか!? ダメです!」
わたしは両手を広げてフェルディナンドの前に立ち塞がって睨み上げた。途端にフェルディナンドの威圧感が増して、魔王から逃げたかったはずなのに何をしているのか、と自分の行動に泣きたくなる。
「何故君がアーレンスバッハやランツェナーヴェを庇うのだ?」
「そっちじゃないです。今、アーレンスバッハに攻撃したら、わたくしに敵対しないという契約魔術に反してフェルディナンド様が死んじゃうかもしれません。だから、絶対にダメです」
フェルディナンドの表情はあまり変わらないけれど、目から怒りが少し薄れていつもの薄い金色の目に戻り、代わりに、警戒の色が強くなった。
「……君は一体何をした?」
「ここに手っ取り早く入るために礎を染めました。今、魔力的な意味合いではわたくしがアウブ・アーレンスバッハなのです」
「手っ取り早く……?」
「わたくしが思いついた中では最速の手段でした」
フェルディナンドが目を見開いて止まった。処理落ちしたフェルディナンドを久し振りに見た気がする。つまり、わたしはそのくらい非常識なことをしてしまったということだ。
「一体何をしているのだ、君は? 一番手っ取り早いのはアウブを捕らえ、脅しを使ってでも拷問をしてでも登録用の魔石を奪い、契約させる方法ではないか。私を助けるために礎を染める馬鹿がどこにいる?」
「ここにいます」
フェルディナンドが力を失ったように、その場にしゃがみこんだ。もうこれ以上息が吐けないのではないかと思うくらいに深い溜息を吐いて、フェルディナンドがしゃがんだままわたしを見上げた。
「本当に君は大馬鹿者だ」
「だって、そんな絶対に人が死ぬような怖い手段は思いつきませんでしたし、思いついてもわたくしには実行できませんでした。それに、わたくしはディートリンデ様のお姉様のお顔も名前も存じませんし、ご不在だった場合はいたずらに時間が過ぎていくではありませんか」
礎を染めるよりアーレンスバッハでディートリンデの姉を探して回る方がよほど効率は悪いと思う。
「そういうわけですから、アーレンスバッハの後始末はわたくしに任せて、フェルディナンド様はエーレンフェストに戻っても大丈夫ですよ。自分でしたことの責任は取りますから」
わたしの主張にフェルディナンドは立ち上がり、ぐにっとわたしの頬をつねった。先程と違って握力が少し戻ってきていて、相応の痛みがある。
「いらいれふ」
「まだわかっていないようだが、君は言うべき言葉を間違っている」
フェルディナンドの笑顔がちょっと怖くなってきた。わたしは涙目になりながら自分の頬をつねっているフェルディナンドの手を軽く叩く。
「何を言えば良いのか、教えてくださいませ。その通りにしますから」
「私に助力を請え。ディートリンデが外患誘致の上にツェントへの反逆、姉はそれに加担、母親はエーレンフェストへ侵攻、レティーツィアは殺人未遂。君がアーレンスバッハの後始末をするうえで、最もアーレンスバッハの事情に通じているのは私になる」
フェルディナンドの口から出てきたアーレンスバッハの現状に一瞬意識が遠のいた。ひどい状態だ。事情を知らずに巻き込まれる貴族や平民はたまったものではないだろう。
「わたくしとしてはフェルディナンド様が助けてくれるならば非常に心強いですよ。でも、フェルディナンド様はエーレンフェストに帰りたいのですよね? 良い思い出があるようには思えないアーレンスバッハへこれ以上縛りつけるのはどうかと……」
わたしがフェルディナンドを心配しているのに、今度は耳をぐいぐいと引っ張られた。
「私が教えた通りに君が言うとそうなるのか。君は自分で口にした言葉を覚えていないのか? それとも、私が教えた言葉は聞こえなかったのか?」
「助けてくださいっ! お願いします! フェルディナンド様だけが頼りですぅっ!」
「よかろう。君を野放しにする方がよほど怖いからな」
……魔王を野放しにするより怖くないよ! いきなりアーレンスバッハを滅ぼすなんて、わたしは言わないもん!
耳を押さえながらわたしがせめてもの反抗として睨んでみたら、睨み返された。怖い。
「それで君はどうするつもりだ? アウブになればツェントにはなれぬ。二つの礎を同時には染められないからだ。それは知っているであろう?」
同時に礎を染められない。だから、昔はまだアウブではない神殿長からツェントが選ばれたし、アウブがツェントになる時は次代に領地の礎を継承させてからツェントになっていた。
「ですから、他の方にアーレンスバッハの礎を染めてもらって、わたくしがユルゲンシュミットの礎を染めるか、王の養女になって地下書庫にあるグルトリスハイトを手に入れて王族に譲るつもりです」
ユルゲンシュミットという器だけを存続させるならば、誰かにアーレンスバッハの礎を染め変えてもらい、わたしが国の礎を染めるのが一番早い。ただし、王族や領地間の
柵
を考えると、後々非常に面倒になることは目に見えている。
「地下書庫の奥にあるグルトリスハイトの魔術具を手に入れて譲るのが、一番周囲への影響は少ないと思うのです。王族はそうやって相続していましたよね?」
メスティオノーラの書を取り込むのは大変だ。取りこぼしもある。そのため、これさえあれば執務はできるというツェントのマニュアル本的なグルトリスハイトが作られた。誰にでも使える物ではないように地下書庫の奥に収められる。
次期ツェント候補は魔力を増やし、祠を回って魔法陣を完成させ、メスティオノーラの書を得た後、足りない部分に関しては地下書庫の奥のグルトリスハイトの内容を自分の聖典に写していた。
時代が下ると、エアヴェルミーンのところへ行かなくなった。図書館の女神像に魔力を注ぎ、グルトリスハイトの魔法陣を頭に刻めばグルトリスハイトの形を手に入れることができる。時代が下るごとに新しい知識が増えるため、取りこぼしが多くなるのにわざわざエアヴェルミーンのところへ行かなくても地下書庫の奥で必要な知識が得られるではないか、と気付いてしまった候補がいたのだ。
そのうち、祠を巡らなくても全属性であれば図書館の女神像に魔力を注いでグルトリスハイトの形を、地下書庫で知識を得られることに気付く。メスティオノーラの書を得るための努力は次第に敬遠されるようになっていく。けれど、これは神事をたくさん行っているので、祠を巡らなくても神々の御加護を得られた時代の話だ。
ある時、自分の血族にツェントの座を譲るために一族として登録した者以外は奥の書庫に入れないようにしたツェントが出た。各地のツェント候補が次代のツェントを目指して代替わりの度にひどい争いを起こして何人も死人が出たり、聖地が荒れたりするので、候補になれる人数を限れば良いと考えたのだ。
彼女はエアヴェルミーンの下へ導く役目を負った金のシュミルに似せた白と黒のシュミルを図書館に配置し、ツェント候補の行動を監視して、地下書庫の奥には一族として登録されている者以外は入れないようにする。抗議した者はツェントの権限によって次々と粛清された。ツェントは襲撃してくる者を防ぐため、居住地をエアヴェルミーンのいる聖地から別の場所に移し、聖地と転移陣を刻んだ扉でしか行き来できないようにした。
たまに地下書庫の内容からメスティオノーラの書を得た者が現れてもツェントが手を下すことで、グルトリスハイトを手に入れられるのは王族だけになった。それでも、全属性の王族が神事を行っている間はツェントの質が落ちることはほとんどなかったので、しばらくは特に問題が起こらなかった。
けれど、グルトリスハイトを手に入れることができなくなり、下手に手を出せば粛清されるとなれば、各地のアウブや次期アウブである神殿長が聖地に足を踏み入れて神事を行うことが減っていく。王族だけで大規模な神事を行うことは難しくなり、次第に神事は小規模になっていった。
王族でツェントを相続するのが当たり前になった頃、ツェント候補が非常に少なくなる事態が起こった。兄弟間でツェントの座を争い、相打ちになったのだ。残ったのがひ弱な子供だけになったツェントは、ひ弱でも神事を行えるように自分達の居住地の近くに中央神殿を作り、そこで神事を行うことにした。
幸いにもひ弱なツェントは元気な子を残してくれた。けれど、次代のツェントが立ったのは、神事を聖地ではなく中央神殿で行うようになって何十年もたってからのことだ。聖地で神事を行う様子を知らないツェントは、ひ弱な親がしていたように中央神殿で神事を行い続けた。
聖地で神事が行われなくなり、シュタープの取得を目的とする各地の子供達への教育だけが行われるようになり、貴族を輩出するための貴族院と呼ばれるようになる。
王族登録をした者しか対象でなくなっても、王族の居住地が聖地から移動しても、グルトリスハイトを手に入れるのは地下書庫の奥であることに変わりはなかった。変わったのは、ある女王が一人の子供を溺愛してからだった。
女王は何人かいる子供の中で一人だけを溺愛した。少々出来が悪くても、一つ属性が足りなくても、最も可愛い子をツェントの座に就かせたかった。属性が足りず、お祈りによって属性を増やす努力もできない子はいくら女王が溺愛していてもツェントになることはできない。周囲の人間は高を括っていた。
女王は母親としての情や子供に対する愛情の注ぎ方がおかしいという点で、人としてどうかと思う人格の持ち主だったが、魔術具を作るという点で非常に優秀だった。彼をツェントにするためだけにグルトリスハイトの魔術具を作り上げたのだ。属性が一つ足りなくても使えるグルトリスハイトを。
そして、溺愛された子はツェントになった。グルトリスハイトを手に入れたということで周囲も認めざるを得なかった。
「持ち主が死んだ時、このグルトリスハイトは地下書庫の奥へ返ります。グルトリスハイトはグルトリスハイトのところにあるべきですから」
母親の言葉を胸に刻み、溺愛されたツェントは自分が死ぬ前にシュタープの魔力を通し合うことで溺愛する息子にグルトリスハイトの魔術具を継承させた。息子は全属性だったので、別に魔術具である必要はなかった。溺愛された子は母親がくれた物を我が子に残したかっただけだ。だから、母親の言葉は伝えなかった。
グルトリスハイトの魔術具が親から子へシュタープで魔力を通して継承する物だと息子は考えた。そのため、奥の書庫には行かないまま、自分の子にも魔術具のグルトリスハイトを引き継がせる。自分はそうしてツェントになったからだ。
けれど、魔術具としての現物があるため、それを奪えば自分が次期ツェントになれると思う者が出ることも不思議ではないだろう。グルトリスハイトの魔術具を病床の父親から継承した第二王子は殺された。そして、持ち主の死と同時にグルトリスハイトの魔術具は消えた。地下書庫の奥、王族登録がなければ入れない書庫に戻ってしまったのだ。
「王位継承の歴史を参考にすれば、地下書庫の奥にあるグルトリスハイトの魔術具でシュタープによる引継ぎができると思うのです。わたくしが王族と血縁関係にないので魔力を合わせるのに時間はかかるでしょうけれど、王族がツェントになる方が周囲への影響は少ないでしょう?」
グルトリスハイトを手に入れたわたしが王族と夫婦になり、魔力を合わせていけばいずれグルトリスハイトを譲ることは可能になる。ダンケルフェルガーが海の女神の杖をシュタープで魔力を通して継承しているような感じで継承できるはずだ。
「……そんなことを考えてジギスヴァルト王子に嫁ぐことにしたのか。シュタープによる継承をしたところで、今の王族には中身が読めぬであろう? 意味があるのか?」
フェルディナンドが馬鹿にするように鼻を鳴らした。フェルディナンドはせっかく忠告したのに古語の勉強をしていない王族にご立腹らしい。気持ちはわかる。グルトリスハイトを譲ったところで使えるようになるのがいつになるのか、わたしにも見当が付かないのだ。
「公務として本を読んで勉強できるなんて最高なのに、それができないくらいに忙しいのでしょう。ツェントはフェルディナンド様みたいに薬の匂いがする時がありますもの。わたくしもこの一年は引継ぎで目が回る程忙しくて碌に読書ができませんでした。きっと王族はそれが日常なのでしょうね。何年も碌に読書ができないなんて可哀想だと思います」
「何を他人事のように言っているのだ? 王の養女となり、ジギスヴァルト王子と結婚すれば、それが君の日常になるのであろう?」
冷ややかな声に現実を突きつけられて、わたしは一度口を閉ざす。現実なんて見たくない。
「……成人したら印刷業に取り掛かって、わたくしが少しでも本に触れる時間を作ります。他に何か良い手段がありませんか? たとえば季節ごとにフェルディナンド様が御機嫌伺と称してわたくしにエーレンフェストの本を届けてくれるように命じておくとか、わたくしへの手土産は王族命令で本に限定するとか……」
わたしが思いつくことを述べていると、フェルディナンドが腕を組んでわたしをげんなりとした顔で見下ろした。
「読書の時間がないというのが問題であって、本の冊数が増えても意味がないと思うが、そのような馬鹿なことに王族命令を使う君は絶対に王族になるべきではないな。王の養女にならずに済む方法を模索し、アーレンスバッハを片付け、さっさとエーレンフェストへ戻る方法を考えるべきだ」
当たり前のように言われたフェルディナンドの言葉が胸に刺さった。わたしはフェルディナンドをエーレンフェストに戻すことは考えていたけれど、自分が戻ることは考えていなかった。わたしがいなくなることを前提に動いているエーレンフェストにもう戻ってはならないと思う。
「何だ、その顔は? まだ何か隠しているのか?」
「そういうわけではなくて、その……。わたくし、もうエーレンフェストには戻れません。あ、一時的に帰るとか里帰りは別なのですけれど、わたくしがずっとエーレンフェストにいるのは難しいのです」
「意味がわからぬ」
フェルディナンドに詰め寄られ、わたしはエーレンフェストの現状を説明する。王との養子縁組の話が出て、ヴィルフリートと婚約を解消することになっていること。たとえ王族との話がなくなっても、やり直しは無理だということ。ヴィルフリートがアウブになりたくないと言ったことで、シャルロッテがアウブを目指し始めたこと。メルヒオールが神殿長になったため、もう神殿にも居場所がないこと。
「わたくしがいなくなることを前提に一年間引継ぎや準備をしてきました。戻ったところで皆は内心はどうあれ顔には出さないでしょうし、快く迎えてくれるとは思います。でも、わたくしがアウブ・エーレンフェストになれない以上、エーレンフェストにはいられないのです。グーテンベルク達も引継ぎや出発準備を進めていますし……」
わたしがフェルディナンドを救うために自分の側近を率いてアーレンスバッハへ来られたのも、いなくなる者として領地の防衛の頭数に入れられていなかったからだ。何に関しても、わたしはもうこれから先のエーレンフェストで頭数に入っていない。
「……そのようなことになっているのか」
「ですから、フェルディナンド様だけでもエーレンフェストに……」
「黙れ」
間違ったことは言っていないはずなのに、また頬をつねられた。
「君の居場所については考えてみよう。ひとまず、目の前の問題から片付けるとしよう。ランツェナーヴェの掃討と境界門の閉鎖だ。行くぞ」
毒で動けない状態だったとは思えないような動きで、フェルディナンドが歩き出す。
「待ってください。登録用の魔石を探すか、作るかしなければフェルディナンド様は出られませんよ」
「この扉を開けるために書箱を退けたであろう? あの中にある。君が礎を染めたならば開くはずだ。すぐに取ってきなさい」
「はい!」