Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (61)
既得権益と会合の結果
わたしが安定を望んだ契約魔術のせいで、人死になんてでませんように。
ベンノの言葉はわたしにとって恐怖だった。ルッツと自分の職業上の安定が欲しかっただけで、誰かに危害をもたらしたかったわけではない。
ガクガクブルブルしながら、わたしはルッツと一緒に家に帰った。鉛でも呑みこんだように胃の辺りが重くて、ぐるぐるしている。
「そんなに心配しなくても大丈夫だって。旦那が何とかしてくれるさ」
ルッツの慰めに頷きながら帰ったけれど、知らない人がいきなり死んだり、何か罰を受けたりしていないか、考えるだけで、不安で、不安で仕方がない。胃がキリキリする。
何が怖いって、何も知らない人を巻き込むのが怖い。
本当は家の中で引きこもっていたかったけれど、「じっとしていたら、変な事を考えそうだ」というルッツに半ば無理やり外に引っ張り出された。紙を作ったり、森に行ったりしながら、ベンノからの連絡を待っていることしかできない現状がもどかしい。
しかし、数日たって森に行くために門を通っても、オットーから何か言われることはなかった。不審な死を遂げた人の話も聞かない。わたしの周りはあまりにもいつも通りだった。
さらに何日か経つと、恐怖よりベンノに対する不信感が募り始めた。本当に人死になんて出るのだろうか。ベンノが大袈裟に言っているだけではないだろうか。
そんな風に考えながら、ベンノの言葉を思い返してみたり、表情や態度を思い返してみたりする。
「……よく考えると変じゃない?」
「何が?」
簀桁
を傾けて、フォリン紙を作っていたルッツが、わたしの言葉に眉をしかめた。
紙床
に漉けた紙を重ねた後、わたしはルッツを振りかえる。
「契約魔術を知らない人にも効力があるってところ」
「なんで? 魔術なんだから不思議じゃないだろ?」
軽い口調でそう言いながら、ルッツが漉き終わった紙を重ねに来たので、今度はわたしが紙を漉き始める。
「魔術だから不思議じゃないってところが、わたしにとっては変だよ。だいたい、基本的な技術とか、ありふれた商品に契約魔術がかかっていたら、あっちこっちで被害が出るでしょ? 遠くの街で契約魔術が使われていても、こっちには全然わからないわけだし……」
「まぁ、確かにそうだな」
わたしは紙を漉きながら考える。契約魔術に特許権のようなシステムが組み込まれるとしたら、特許庁のように管理する場所があるはずだ。この商品にはこういう契約魔術が付いてるよ、とみんなに知らせなければ、危険すぎる。
「わたし達が知らないだけで、契約魔術にも範囲や条件があると思うんだよね。それに、そんな危険な魔術ならもっと厳しく取り締まりとかありそうじゃない?」
「遠回しに色々言っているけど、結局、マインは何が不安なんだ?」
「不安って……」
ルッツの言葉に思わず手が止まった。ルッツが横からわたしの簀桁を取り上げて、続きを漉き始めた。
「マインが自分の気持ちを誤魔化したい時は、早口になるんだ」
ルッツはくっと少しだけ顎を上げて、「溜めこまれてもオレにはわからないから、全部吐き出せ」と促した。
「……契約魔術を知らない人が危険に巻き込まれるのが怖い。ベンノさんの冗談か嘘だって思いたい。今は誰も危ない目に遭ってないよね? わたし達を怖がらせようとしただけだよね?……そう思いたい」
「まぁ、旦那の冗談だったらいいけど、何のために? 旦那がオレ達を騙して一体何の得があるんだよ?」
「うっ……。い、今までだって、いっぱい騙されてきたもん。またベンノさんに誤魔化されたり、隠し事をされたり、試されたりしてるような気がする」
わたし達を遠ざけて、何かするつもりなんじゃ……と言いかけたところで、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「あれ? ベンノって意外とマインちゃんに信用されてないんじゃないか?」
誰もいないと思っていた倉庫の中で、背後から声が聞こえたことに驚いて、わたしとルッツがバッと振り返る。
「オットーさん!?」
「どうしてここに!?」
軽く片方の眉を上げて、おどけたような顔をした私服のオットーがひらひらと手を振っていた。
「ベンノからの伝言を持ってきたに決まってるだろ?」
「伝言!?」
確かにベンノからはオットーを通じて連絡すると言われていたが、門を通りかかった時にでもそっと連絡されるのかと思っていた。こんな風に倉庫にやってくるとは思っていなかった。
「やっと終わったってさ」
そんな簡単な伝言では何もわからない。少ない情報の中で胃をキリキリさせていたわたしはオットーに情報を求めて飛びついた。
「何が終わったんですか!? どう終わったんですか!?」
「それはもう、色々大変だったみたいだよ」
「色々って何があったんですか!?」
オットーは軽く肩を竦めるだけで、答えらしい答えをくれることはなかった。本当に知らないのか、知っているのに知らないふりをしているのか、全くわからない。
「ベンノは説明してなかったのか?」
「ほとんど聞いてません。契約魔術を知らない人が勝手に紙を作って売ったら大変なことになる。製法を伏せるためにも羊皮紙協会との話が終わるまで店に出てくるなってことだけです」
わたしがベンノから聞いたことを説明すると、オットーは軽く顎を撫でた。
「ふーん、一応必要最小限は聞かされているんじゃないか」
「契約魔術のせいで、知らない誰かに被害はなかったですか? それが一番心配で……」
「そうならないように、製法を伏せたんだろう? 被害は全く出てない。それ以上はベンノに直接聞いた方が良いだろうね。作業が一段落したら、一緒に行くかい?」
「はい!」
被害者はいなかったという言葉に胸のつかえが取れた。一気に身体が軽くなった気分で、わたしはせっせと紙を漉き始める。
「これで紙が作れるの? これ、何?」
「企業秘密です」
「何かドロドロしてるけど、何が入っているの?」
「企業秘密です」
興味深そうに紙漉きを見ては色々と質問してくるオットーに少しも答えず、作業を続ける。
「俺とマインちゃんの仲だし、教えてくれてもいいじゃないか」
「ほいほい喋ったらベンノさんに怒られるんです。ね、ルッツ?」
わたしがルッツに水を向けると、ルッツは肩を竦めてニッと笑った。
「マインは考え無しだって、よく言われてるからな。ちゃんと口は閉じておいた方が良いんだ」
「ハハハ……。考え無しに喋っているんだ? 青筋を立てて怒るベンノが目に浮かぶな」
「青筋っていうよりは、呆れ果ててるって感じの表情が多いですけどね」
道具の片付けを終わらせた後、三人でベンノの店に向かう。路地を抜けて通りに出るより早くオットーがこめかみを押さえながら、わたしを見下ろした。
「……いつもこんな速さで歩いているのか?」
「……そうですけど?」
「ぅわぁ、すごいな、ルッツ。ちょっと尊敬する。俺には耐えられない。……というわけで、ちょっと失礼」
「ひゃあっ!」
耐えられないと言ったオットーに、よいしょっと担ぎあげられた。オットーはそのままスタスタと歩きだす。そういえば、ベンノにもマルクにも最近は抱き上げられてばかりだ。
どうやら、大人にとってわたしのスピードは、抱き上げずにはいられないほど遅いらしい。ショックだ。
ベンノの店に着くと、マルクが出迎えてくれた。
「マイン、ルッツ、こんにちは。それから、この度は何から何までお世話になりました、オットー様」
「たまにはいいんだよ。面白かったし。ベンノ、奥にいる?」
頭を下げるマルクに軽く返して、オットーはさっさと奥に入っていく。片手でわたしを抱き上げたまま、もう片手で奥の部屋のドアを開けた。
「ベンノ、水の女神の到着だよ」
意味不明のことを言いながら、オットーが部屋に入った瞬間、ベンノから殺気を含んだ実に迫力のある眼光が飛ばされる。
オットーに抱き上げられているせいで、とばっちりを食らったわたしの方がビクッとした。
「黙れ、オットー。コリンナと離縁させられたいのか?」
コリンナの父親代わりであるベンノには離縁させる権限があるらしい。オットーは婿同然だと言っていたし、一族の長のような立場なのだろう。
ベンノの眼光と低い声に本気成分がかなり含まれていると判断したのはわたしだけではなかったらしい。コリンナを世界の中心に据えているオットーは慌てて弁明し始めた。
「ぅわぁっ! 嘘だって! ちょっとした冗談じゃないか!」
「笑えない冗談は冗談じゃないんだ」
じゃれついているのか本気なのか判別しにくい表情で、ベンノがギリギリとオットーの頭を締め付け始める。オットーに落とされそうで怖いので、止めて欲しい。
「ベンノさん、なんかご機嫌斜めですね?」
「こいつのせいだ」
じろりとベンノがオットーを睨むが、オットーは気にした様子も見せずにわたしをそっと床に下ろしてくれた。
「ベンノって、意外と信用されてなかったよ。マインちゃんがぶーぶー文句言ってたぜ。またベンノさんに誤魔化されたり、隠し事をされてたり、試されたりしてるような気がするって」
ベンノが怒っているのがわかるような気がする。絶対にオットーが余計な一言を言ったのだ。相手が怒ることを解って言っているに違いない。
「オットーさんは余計なこと言わないで!」
オットーの言葉を聞いたベンノが気を悪くするかと思って、わたしはそっとベンノの様子を伺う。しかし、気分を害した様子はなく、ベンノはわたしを見て、疲れたように溜息を吐いた。
「ハァ……。マインは勘が良いのか? それとも、疑い深いのか? 性格が悪いのか? せっかく俺がわざわざ面倒事から遠ざけてやったんだから、おとなしくてしていればいいのに……」
「でも、他人の言葉を鵜呑みにしないっていうのは商人として大事だから、言葉や行動の裏を読もうとするのは正解だろ?」
オットーがニヤッと笑って、親指をぐっと立てた。
「まぁ、いい。質問には答えてやろう。座れ」
いつものテーブルに向かって席に着くと、わたしは開口一番、気になっていたことをベンノに尋ねた。
「契約魔術って、本当に関係のない人も巻き込むんですか?」
「内容によっては巻き込むこともある。今回は下手したら巻き込む可能性があった。そう説明したはずだが?」
確かに、そう言われた。説明はされたけれど、納得できなかったのだ。
「でも、基本的な技術とか、ありふれた商品や技術に契約魔術がかかっていたら、あっちこっちで被害が出るでしょ? 外国で契約魔術が使われていても、こっちには全然わからないわけだし……何か効力を発する条件とか、範囲があるんじゃないですか? あと、契約魔術を管理しているようなところとか……」
わたしが考えたことを述べると、ベンノは軽く目を見張った後、頷いた。
「あぁ、契約魔術が効くのは、基本的に契約を交わした街だけだ。街の中で起こった小規模な魔術が街を囲む外壁に張り巡らされた魔術結界を通り抜けることはない」
「魔術結界!? 何ですか、それ!?」
初めて聞くファンタジーな設定に胸が弾んで、思わず身を乗り出して質問したけれど、じろりとベンノに睨まれてしまった。
「街の基礎だが、今はどうでもいいことだ。今回のことに関する質問と説明は終了でいいのか?」
「あぁ、ダメです! 契約魔術って、本当に知らない人にも影響があるなら、すごく危険なものじゃないですか。そんなものをほいほい使えるなんておかしいじゃないですか」
不愉快そうにベンノが眉を片方だけ上げて、わたしを睨んだ。
「契約魔術はほいほい使えるようなものじゃない。必要な魔術具は認められた商人にしか与えられない上に、目玉が飛び出るほど高価だ。それに、お前も考えたように、契約者以外にも影響を及ぼす契約魔術は必ず領主様への報告が必要になる。報告なしに被害が出たら、罰されるのはこっちだ」
「え? じゃあ……」
報告を忘れていて、被害が出そうになって慌てていたのか、と思った瞬間、ベンノが軽くデコピンした。
「ふきゃん!」
「勘違いするなよ。領主様にはとっくに報告済みだ」
口に出す前にバレた。
わたしが額を押さえて唸っていると、ベンノはフンと鼻を鳴らして、勝ち誇ったように唇の端を上げた。
「領主様に報告した時に、新しい商品に関する契約魔術として商業ギルドにも報告と登録をしておくように言われた」
「……ということは、商業ギルドにも報告はしたんですよね?」
「もちろん行ったさ。契約魔術の報告と登録。それから、協会の新規立ち上げの許可を取りにな」
「はい?」
協会の新規立ち上げって何ですか? 何するつもりですか? もしかして、ものすごく余計な事をしようとしてませんか?
あまりにも予想外な言葉に、わたしは軽く目を見張って首を傾げる。そんなわたしを見て、ベンノは腹が立つようなしたり顔で得意そうに胸を張った。
「植物紙は一大事業になりそうな商品だろう? だから、羊皮紙協会のように植物紙協会を作って、他の街にも事業を広げていくことにした」
「……初耳ですけど?」
ひくっと顔を引きつらせたわたしに、ベンノは当たり前だと頷いた。
「今初めて言ったからな」
「ちょ、ちょっと待ってください。それって、既得権益に正面から喧嘩売ってるじゃないですか!? 話し合いなんて穏便に終わるわけがないですよ!」
なんでここまで強気でGO!GO!できるのか、全くわからない。根回しとか、譲り合いとか、落とし所がどこにも見当たらない。
「穏便に終わらなかったのは、俺のせいじゃない。あのくそじじいのせいだ」
「責任転嫁ですか?」
うぅ~と唸ってベンノを睨むと、ベンノの隣に座っているオットーが腹を抱えて笑い始めた。どこに笑いのツボがあったのか、わからないので、ベンノと二人で一瞥しただけで放置する。
「責任転嫁でもない。登録するために商業ギルドへ行ったんだが、契約魔術を結んだ時点では現物がないので、登録不可能だと言われてな。試作品ができた時点で、登録に行ったんだ」
「はぁ」
「だが、俺が新しい協会を作るということが気に入らないギルド長がうだうだ言いやがって、申請したのに最終的な処理が季節を越えても終わってなかったらしい」
そういえば、自分達の仮登録にもギルド長が口出ししていた。髪飾りの取引がしたいギルド長が仕方なさそうに仮登録の許可をくれたけれど、かなり渋々だった記憶がある。
「わたし達の仮登録の時もそうでしたけど、ギルド長の私的な理由で登録を引きのばしたり、却下したりできるんですか?」
「一応もっともらしい理由がつけられる。仮登録の時は俺の血縁ではないことが理由だっただろう? 今回はすでに羊皮紙という紙があるから、植物紙の協会を新たに作る必要が感じられないそうだ」
心底嫌そうなベンノの顔に、二人が顔を合わせていた時の雰囲気が脳裏に蘇ってきた。険悪で、始終揚げ足の取り合いをしていたような気がする。
「何か二人のやり取りが想像できました」
「秋に申請済みだったから、まさか登録されていないなんて考えずに今回紙を売ったんだ。確かに俺の注意も足りなかったが、これは責任転嫁か?」
じろりと睨まれて、わたしは慌てて首を振った。
「えーと、商業ギルドの怠慢だと思います」
「そうだ。登録されていない紙を売ったことで、羊皮紙協会が文句を付けてきたんだ。くそじじいも自分の所業を棚に上げて、最初から向こうの肩を持ちやがって……」
どうやら、ベンノの敵は既存権益の羊皮紙協会ではなくて、ギルド長だったらしい。
「商業ギルドに登録するように領主様から言われていたのに、契約魔術の登録が終わっていない状態で、知らない人に被害が出た場合、どうなると思う?」
登録するように言われていたのにやっていないのは、かなり心証が悪いだろうし、重罪になると思う。
「領主様からすごく怒られると思います」
「あぁ、契約魔術に必要な魔術具は取り上げられるし、以後、貴族との取引は制限されるし、領主様から契約者に対して罰が与えられる。そうなったら、くそじじいに絶好のネタを与えることになるからな。登録が終わるまでは紙の製法を知られるわけにはいかなかったんだ」
「なるほど」
ギルド長に対する警戒だったとすれば、厳重さにも頷ける。
「だが、面倒すぎる大人の駆け引きにお前達を巻き込むわけにはいかんだろう? 何より、マインは周囲への影響を深く考えずに、顔見知りで命の恩人だから、と大した警戒もせずにぺらぺらと重要な情報を喋りそうだからな」
「えぇ!? わたし、そんなに信用ないんですか!?」
「今までの積み重ねだ。自分の所業を思い返せ」
「ぅぐぅ……」
ギルド長の家でやらかしたあれこれを思い出して、わたしは言葉に詰まった。確かに、ベンノの立場で考えれば、何をしでかすかわからないわたしは、隔離しておくのが一番だ。
「だいたいの背景はわかりました。それで、羊皮紙協会との会合は大変だったんですか?」
「そっちは根回しだけしておけば、大したことない。面倒なのは、あのくそじじいだけだ」
やっぱりギルド長がラスボスか。まさか既得権益がベンノにとって雑魚だったとは。
胃を痛めながら紙を漉いていた時には思いもよらない展開だ。
おとなしく話を聞いていたオットーがニヤニヤ笑いながら、口を開いた。
「俺も連れ出されて、その会合に行ったんだけど、羊皮紙協会は妥協案で最終的に合意したよ」
「妥協案?」
「紙の用途を分けるってヤツだ」
「あぁ……」
ベンノの言葉に自分が提案したことを思い出して、ポンと手を打った。これで妥協してくれたということは、一応羊皮紙の領分を守りながら、広く紙を普及させることができるということだ。
これはわたしの本作りにとっても一歩前進ではないだろうか。流通する紙が増えて値段が下がれば、それだけ本が作りやすくなる。
やっと紙の心配をせずに本が作れるようになるんだ。
ベンノが工房を作って大量生産が始まれば、紙の心配がなくなりそうだ。次はインクと印刷について考えなければ、と思考を飛ばしているわたしの前では、オットーも何やら楽しそうだ。
「それで、今まで譲ることがなかったベンノの気を変えたのは誰だ!? とうとう水の女神がベンノにも現れたかって噂になったんだよ」
「水の女神って?」
会合の小難しい話から横道にそれたことで、雰囲気が柔らかくなったのか、ルッツが口を開いた。
「雪を溶かす春の先触れ。長い冬に終わりをもたらす女神だよ」
オットーの言葉にわたしはふっと我に返った。そういえば、ここの神話は全く知らない。新春の挨拶に神が出てくるくらいなのだから、生活の中に潜んでいるのかもしれない。
「……その水の神様って、新春の挨拶に使っていた春の女神とは別の神様なんですか?」
「別っていうか……雪を溶かす水の女神や芽吹きの女神や春に関係する女神を全部まとめて春の女神って言うんだよ?」
「へぇ」
多神教というだけで、少し馴染めそうな気がするのはわたしだけだろうか。少なくとも麗乃時代から馴染みのない一神教を強要する世界ではないようだ。洗礼式に対する緊張が少し解けた。
「……それだけ?」
きょとんとした顔でオットーがそう言った。せっかく色々話してくれたのに、「へぇ」の一言では確かに失礼だったかもしれない。
「え? えーと……女神様についてわかって嬉しいです。今度ぜひ他の神様の話もお願いします」
「そういう意味じゃなくて、ベンノの……」
「オットー、追い出されたいのか?」
もどかしそうなオットーにベンノの低い声がかかった。
何となくわたしの察しが悪かったのが原因だったような気がするが、ベンノの怒った顔を見る限りでは、わからなくて正解という感じがひしひしとする。
「そういえば、なんでオットーさんが会合に参加したんですか?」
コリンナと別れさせると言いだしたベンノを止めるために、わたしはオットーに助け船を出してみた。
ベンノの意識をこちらに向けることには成功したようだ。パッとオットーから手を離して、こちらを向いたベンノの隣で、オットーが「助かった」と目で合図してくる。
「植物紙協会が動き始めたら、手伝ってもらうつもりだからだ」
「え? それって、オットーさんが商人になるってことですか!?」
コリンナとの結婚のために商人の道を諦めたオットーが再び商人になれる日がやってきたということだろうか。
喜ばしいことだと思ったわたしに、ベンノは軽く頭を振った。
「いや、オットーはあくまで兵士。それ以外の時にこき使うだけだ」
「ええぇぇ!? ひどくないですか!?」
兵士の仕事が終わってから、ベンノに商人としてこき使われるなんて、さすがに可哀想だ。声を上げたわたしの横でルッツも頷いている。
しかし、ベンノはフンと鼻を鳴らして、オットーを見るとニヤリと笑う。
「コリンナのために家賃分働くのは当然だ。なぁ、オットー?」
「家賃分以上働かされていると思うけど?」
黒い笑顔で睨みあう二人の視界にわたしとルッツは入っていない。
いつまで続くかわからない睨みあいに飽きて、わたしはトントンと机を叩いた。
「ベンノさん、続きが聞きたいです。ギルド長とは結局どうなったんですか?」
ベンノはオットーから視線を外して、こちらに向き直った。肩を軽く竦めた後、勝利の笑みを浮かべる。
「妥協点を出すことで、羊皮紙協会が植物紙協会の設立に合意したんだから、渋々ギルド長も認めたさ」
「認めさせた、の間違いだろう?」
オットーの横やりが入ったけれど、これは多分オットーが正しいと思う。なるほど、と頷いたわたしとルッツを見て、ベンノがチッと舌打ちした。
「きっちり揃えた書類の数々、羊皮紙協会との和解、被害者も何も出ずに済んだのに、このまま登録を長引かせるのは、商業ギルドの怠慢だ」
「あぁ、それはそうだねぇ。でも、耄碌して書類が読めなくなっているなら、引退を考えた方が良いんじゃないか? とか、なんだったら俺が代わってやろうか? っていうのは、必要ない言葉だったと思うよ?」
オットーの暴露にわたしはひいぃっと息を呑んだ。
「そういうことを言うから! 生意気だと目を付けられて、面倒なことになるんですよ! ギルド長、怒ってたでしょう?」
「顔を真っ赤にして怒ってたよ。人の顔ってあそこまで赤くなるんだね」
呑気な声でオットーは追加情報をくれたけれど、全く嬉しくない情報だった。
ベンノも「あれは見ものだった」なんて言って、オットーと頷き合っている。
「あんなくそじじいい、いくらでも怒らせておけばいい。今回はアイツの嫌がらせで、しなくて良い苦労をしたんだからな」
今回のことで、ギルド長とベンノの間の溝はさらに深く、そして、広くなったようだ。
「とにかく、今度こそ登録完了が確認できた。これからは紙をがっつり作って売る。まずは、この街の工房を決めないとな」
ややこしい問題が解決したので、紙を量産する工房を決めたいとベンノが言い始めた。
「夏の洗礼式に合わせて工房での大量生産を始める」
「なんで?」
オットーが不思議そうに首を傾げた。
「綿密な利益計算の結果、洗礼式が終わってルッツが見習いになった後の方が良いと判断した。二人に払う金が必要なくなる。それに、どうせ工房を決めて、道具を作らせて、原料を確保して、作り方を学んで、と準備していたら、洗礼式の頃になる」
「そうですね」
わたし達も道具の確保が大変だった。大量生産するための大きな道具をいくつも準備するのは時間がかかるに違いない。
「そういうわけで、マインとルッツ。工房を決めるための参考に、紙の作り方を洗いざらい吐いてもらうぞ」
どうやら、ベンノにとっての本題はここかららしい。
わたしはルッツと顔を見合わせて、疲れた溜息を吐いた。