Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (624)
眠れない夜
魔石からすぐにでも離れたくて、わたしは思わず席を立った。側仕えに何の合図もしていなかったので、当然のことながら椅子を引いてくれることもない。ガタンと音がして、同席していた皆がわたしに注目した。
「あ、あの、わたくし……急いで養母様とシャルロッテにお話ししなければならないことがあったことを思い出しました。衣装の仮縫いについて、針子達を集めてもらうようにお願いしなければ。ねぇ、リーゼレータ」
「確かに急ぎの案件ではありますけれど、このような宴の席でお願いすることでもございませんよ」
リーゼレータがそう言いながらわたしの肩をそっと押して、座り直すように指示を出す。けれど、この場にいられない。目眩がするのに魔石から視線を離すことができず、両腕に鳥肌が立っていて、今すぐにこの場を離れろと全身が訴えているのだ。
「でも、わたくし、明日の午後にはアーレンスバッハへ戻りますから、午前中に仮縫いをしなければなりません。急激に成長したせいで、王族と面会するための衣装にも困っているのですもの」
「ローゼマイン様、当日の朝に遣いを出して、当日の午前中に針子を集めるようなことはできませんし、まだ城内に商人達を入れられるような状態ではございません。アーレンスバッハから戻ってから仮縫いを行えば良いと思われますよ」
「ローゼマイン」
リーゼレータの言葉を遮るように、フェルディナンドがわたしの名前を呼んだ。フェルディナンドの方へ振り向いたことで視界から魔石が消えて、ふっと肩の力が抜ける。先程までは機嫌が悪いことを隠すような作り笑顔を浮かべていたフェルディナンドが、今はいつもの仏頂面になっていた。
「何ですか、フェルディナンド様?」
「少し話がある」
あまり人がいないところへ向かうように手で示された瞬間、おじい様が「待て」と軽く手を挙げた。
「フェルディナンド、それは今の宴の状況を見た上で必要なことか?」
「ボニファティウス様のおっしゃる通り、せめて、宴が終わってからにしてくださいませ。今はとても複雑な状況なのです」
おじい様の言葉にレオノーレも同意した。わたしは「とても複雑な状況」がよくわからない。頬に手を当てて首を傾げると、レオノーレとリーゼレータが教えてくれる。
キルンベルガへ向かった時、転移陣を動かすために同行した養父様の側近や騎士達が何人もいた。そのため、わたしがグルトリスハイトを所持していることと、アウブの手で王族からの求愛の魔術具が渡されたことは上層部の知るところとなったらしい。
……三日もあれば貴族街に情報は回るよね。
アウブの手を経て王族の魔術具を渡された時点で、アウブは王族の要求に従うという意思表示をしたことになるそうだ。すでにヴィルフリートとの婚約解消は確定したものとして貴族達に受け取られているらしい。
わたしは、王族に求婚され、アウブが受け入れたことで非公式な王族の婚約者になっていて、正式発表がある領主会議までのほんのわずかな時間、別れが見えている恋に翻弄されて悩む乙女という立場なのだそうだ。貴族の女性達には「儘ならぬ恋も美しいこと」と、生温かく見守られているらしい。
……うぅ……。初恋もしてないのに失恋を哀れまれてるなんて、そっちの方がよっぽど可哀想じゃない?
「アーレンスバッハの救出劇が物語のような美談として盛り上げられているのは幸いです。ですが、これ以上の醜聞は必要ありません」
わたしからフェルディナンドに対する一方的な懸想で、儘ならない恋だったと割り切って王族に嫁ぐのが外聞を考えると一番良い。そうするためにはフェルディナンド側から関わらないでほしい、とレオノーレは暗に告げた。フェルディナンドは同席している皆とその側近達、それから、さりげなくこちらに注目している小広間の人々を見た後、腕を組んでゆっくりと息を吐いた。
「ローゼマインの健康状態は、周囲の視線よりよほど緊急かつ重要な用件だと私は思っている。だが、ローゼマインを守る其方等が、噂や外聞から守る方が重要だと判断するならば、そちらの意見に従うつもりだ」
「そうか」
フェルディナンドが引いたことで、おじい様や同席している者達に安堵の空気が漂う。わたしは逆に不安になってきて、思わずフェルディナンドを見つめた。
「……私が去って一年半が経っているのだ。すでにローゼマイン専属の主治医もいるであろうし、私とて他人の領分を侵すつもりはない。まさか専属医がいないとは言うまい?」
その瞬間、養父様やお父様がそっと視線を逸らした。フェルディナンドが二人をじろりと睨んだ後、「助けが必要だと思えば呼びなさい」と呟きながらゆっくりと立ち上がる。
「いや、ローゼマインを助けるのは私だ!」
対抗するおじい様を一瞬面倒くさそうに見下ろしたフェルディナンドは、くるりと踵を返した。遠ざかっていく背中に妙な焦燥感が増していく。少なくともわたしに新しい主治医はいないし、体調がおかしい自覚はあるのだ。
「レオノーレ、わたくし……」
「ローゼマイン様、せめて、宴が終わるまでは……。今は人目が多すぎます。ご自覚があまりないようですが、成長されたローゼマイン様はただでさえ注目を集めているのです」
レオノーレは座り直すようにわたしを促しながら、小声で付け加えた。
「コルネリウスが情報を得るために向かいましたし、フェルディナンド様もハルトムートのところへ向かっています。ここで動くのはお待ちくださいませ」
主を守る護衛騎士としての意見に、わたしはそれでも首を横に振った。ここにはいたくないのだ。養母様やシャルロッテ、お母様と話がしたいからと理由をつけて席から離れる。
フェルディナンドから様々な指示が出ているのか、側近達が出たり入ったり忙しなく動く様子を感じながら、作り笑顔で切り抜けた宴は終わった。宴が終わった後で話をしたかったのに、フェルディナンドはずいぶんと前に図書館へ戻ったと言われて、わたしは仕方なく自室へ戻った。
夢を見た。今日経験したばかりのゲルラッハの戦いの夢だ。
周囲は盾を掲げた青いマントの騎士ばかりで、はためくマントに視界を塞がれて、自分が今どの辺りを進んでいるのかわからない。わからないまま進む。パッ、パッと不意に周囲が眩しくなり、怒号が響き、矢が飛び交う。
自分の心臓がバクバクと激しく脈動を繰り返し、耳がキーンと鳴っている。呼吸が苦しく、すぐにでも逃げ出したい恐怖の中、体はハンドルを握った状態で固定されている。まるで自分が魔石になってしまったかのように動けない。
虹色の強い光が見えた後は様々な物が飛んでくるようになった。大音声に武器の交わる音が響き、視界には赤い飛沫が次々と飛んでくる。誰かの腕が当たった。体勢を崩した騎士がドンと当たって弾かれる。カツン、カツンと魔石の当たる音がした。全ての衝撃はハンドルを握る手を通じて伝わってくる。
体が冷たくなった。歯の根が合わない。息が苦しくて、勝手に涙が零れてきた。
怖いと感じる余裕もなくなって、記憶にうっすらと靄がかかったような状態だった部分がいやに鮮明な夢となり、薄れるのを許さないと言わんばかりに繰り返し、繰り返し何度も続く。
助けに来てくれて感謝します、と礼を述べていた男が、次の瞬間、魔石になって落ちてきた。飛び込んだ部屋に倒れていたのは、魔石化を始めたと言われたギーベだ。
胃の辺りが冷たくなった。奥歯を噛みしめれば、砂でも噛んだように口の中がじゃりじゃりして苦い気がする。冷たい汗がどっと吹き出してきた。
彼等を嘲笑いながらグラオザムが黒い魔石の塊のような義手で皆の攻撃を吸収していく。耳障りな笑い声が高く低く何度も繰り返された。青い炎をまとった腕が振り回されると、広範囲で炎が燃え盛る。
青い炎が剥げ落ちると体は半分ほどが魔石と化していた。肉体に魔石がめり込んでいるような、魔石の上に肉体を被っているような不気味なグラオザムが黒い義手を掲げて駆け寄ってくる。
撃退しようと黒い矢が飛び出す水鉄砲で攻撃しても、顔を魔石化させながら迫ってくる。斑に魔石となった顔には殺意が溢れていて、狂気に満ちた灰色の目がギラギラと光っていた。
どこを見ても魔石、魔石、魔石……。魔石がわたしに襲いかかってくる。必死に叫んだ。
「来ないでっ!」
気が付いたら自分の寝台の上だった。飛び起きたようで、上半身が起き上がっている。寝巻が汗を吸っていて、じっとりとしていて重く、髪と一緒に肌に貼りついていた。春の半ばが近付いているとはいえ、夜はまだ寒い。空気に触れた首元や背中が一気に冷たくなった。まだ心臓が早鐘を打っていて、呼吸が荒いのがわかる。
真っ暗の寝台の中、夢の中の光景がぐるぐると頭の中を回る。キラキラと光る魔石が次々と落ちてくる幻が見えた。片手で嘔吐しそうな口元を、もう片手で胸元を押さえてわたしは必死に呼吸を整える。自分の症状に嫌でも気付かされた。
「……PTSDだ……」
PTSDとは日常生活の中では起こり得ないような強烈なショック体験や強い精神的ストレスによって、心がダメージを負って生活に支障をきたすことだ。戦いのことを思い出そうとした時に記憶に靄がかかったように感じてあまりはっきりと思い出せなかったのは自己防衛が働いたからに違いない。
「フェルディナンド様に連絡を……」
相談できる相手として一番に思い浮かんだフェルディナンドに連絡を入れようとしたところで、わたしは手を止めた。オルドナンツを飛ばすには黄色の魔石のように見える魔術具を手に取らなければならない。
先程の夢で見たように様々な魔石が脳裏に次々と浮かびあがってくる。喉を絞められているように息が苦しくなってきた。オルドナンツだとわかっているのに、手を伸ばすことができず、わたしは手を拳にして握り込んだ。
……どうしよう? このままじゃ助けも呼べないよ。
全身が震えてどうしようもない。わたしは自分の体を抱きしめるように両腕を交差させて二の腕をきつくつかむ。
その時、天幕の向こうで足音がした。わたしはビクッとして、敵に応戦しなければ、と即座にシュタープを構える。
「ローゼマイン様、中に入っても大丈夫ですか?」
「ユーディット、そのような声のかけ方は……」
天幕の向こうから聞こえたのはユーディットとグレーティアの声だった。今日の不寝番はこの二人だったことを思い出しながら、急いでシュタープを消して自分の袖口で首元の汗を拭う。
「フェルディナンド様とハルトムートから指示があったのですよ。騎士が訓練を受ける中で、精神的に不安定になる者が出ることもあるので、今夜のローゼマイン様やハンネローレ様の様子にはよくよく気を付けるように、と。わたくしも人を相手にした戦いは初めてだったので少し怖かったのです。少しご一緒させてくださいませ」
そう言いながらユーディットが天幕の内側に入ってきた。グレーティアも一緒に入ってきたけれど、わたしが寝汗でべったりになっている様子を見るやいなや、すぐに着替えの準備をすると天幕を出ていった。
「本来ならば、このような戦いの場に出るのは成人の騎士なのですよ。今回は敵との人数差があまりにも大きかったので見習いも駆り出されましたけれど……」
ユーディットが暗がりの中で独り言のように話し始めた。わたしはユーディットから質問をたくさんされるのではないか、と身構えていたのでホッとしながらユーディットの声に耳を傾ける。
「今夜は見習い達が精神的に不安定になる可能性が高いので、騎士寮に集められています。上役が話を聞いたり、お医者様が向き合ってくださるそうです。希望者には花が与えられることもあるようですよ。ですから、わたくし、ローゼマイン様が不安的になった時のためにフロレンツィア様にお願いして、温室へ入る許可をいただいていたのです」
綺麗な花を見れば落ち着きますものね、とユーディットはニコニコと笑って得意そうに胸を張って言った。多分騎士達に与えられる花は温室の花ではないと思う。花捧げの意味ではないだろうか。
「綺麗なお花を見ながら優しい香りのお茶でも飲めば、少しは寛げると思いますよ。いかがですか?」
「……このような夜中に出歩いても良いのかしら?」
アーレンスバッハへ同行してくれた護衛騎士達は少しでもゆっくりできるように、今日はそれぞれの実家へ戻っているはずだ。扉の外を守っているダームエルを護衛に付けると考えても護衛騎士の数が少なすぎると思う。
「今日の城の中には大勢の騎士が詰めていますから、騎士団に連絡を入れれば大丈夫です。もう話を通して、手配は済ませていますから」
……あ、騎士達もユーディットの勘違いを訂正できなかったっぽい。
純粋にわたしを心配して温室の手配をするユーディットに、誰も本当のことは言えなかったに違いない。わたしも訂正するのは止めておいて、ユーディットの厚意に甘えようと思う。
「ありがとう存じます、ユーディット。……夜の温室が楽しみです」
「各所へ連絡をしてきますね」
ユーディットは嬉しそうに笑いながら天幕を出ていった。代わりに、グレーティアが心配そうな表情で入ってくる。
「ユーディットは張り切っているようですけれど、ローゼマイン様はよろしいのですか? 寝台でゆっくりした方が良いのではございませんか?」
「……実は嫌な夢を見て起きてしまったのです。今夜はシュラートラウムの祝福が届きにくいようですし、少し寝台から離れたい気分なので、ユーディットの申し出はありがたいと思います。……それに、このような夜更けにわたくしがフェルディナンド様へ助けを求めるよりは夜の温室へ向かう方が外聞を考えると良いのでしょう?」
そうでなければ、ここまでお膳立てがされているわけがない。昔ならばフェルディナンドが呼ばれて、全部フェルディナンドに丸投げして終わったはずだ。わたしがおどけたように尋ねると、グレーティアは「ご要望にお応えできず、申し訳ございません」と悲しそうに眉尻を下げた。
「気にしなくても良いのです。それが貴族社会というものですから」
グレーティアは天幕の中に明かりを灯し、お湯の入った小さめの盥を持ち込み、外出するための衣装を持ってくる。全ての準備を整えると、わたしの寝間着を脱がせ、硬く絞ったタオルで汗を拭っていく。
「……成長するということは良いことばかりではありません」
グレーティアがポツリと言った。
「周囲の目が変わります。今までできていたことができなくなり、許されなくなることの方が多くなります。わたくしは早熟だったので、同じ年の子供には許されているのに自分には許されないことが何度もありました。非常に理不尽に思えたものです」
自分は特に変わっていないつもりなのに、周りの反応が完全に変わる。グレーティアはそんな経験をしてきたらしい。だから、急激に成長したことでフェルディナンドとの関係や距離感を見直すように言われたり、周囲から好き勝手な憶測をされたりして戸惑うわたしの気持ちが少しはわかるのだそうだ。
「ローゼマイン様、ハンネローレ様もよく眠れないそうです。バルコニーに出て、外の空気を吸いたいと不寝番の側仕えに申し出があったと連絡がきました。温室へお誘いしてみてはいかがでしょう? 同じような経験をした者同士で騎士達は話し合うのですから、今夜はローゼマイン様とハンネローレ様のお二人で過ごす時間を作るのも良いかもしれませんよ」
騎士寮で恐怖や憂さを晴らすために集まっている騎士達の中に、彼等に命じる立場である領主候補生は入れない。わたしと同じ立場ならばハンネローレしかいないとユーディットが力説する。
ハンネローレはダンケルフェルガーの領主候補生で戦いに慣れているように見えたけれど、もしかしたらわたしと同じで練習試合のようなディッターに参加したことはあっても、実際に人死にが出るような戦いは初めてだったのかもしれない。同じような気持ち悪さを抱えて夜を過ごしている可能性はある。
「……ユーディット、不寝番の側仕えを通してお誘いしてみてくださいませ。決して押し付けにならないように気を付けてくださいませ」
「かしこまりました」
ユーディットやグレーティアと話をすることで少しだけ和らいでいるけれど、気分の悪さが消えてなくなったわけではない。目を閉じれば浮かんでくるのは様々な色の魔石だ。悪夢を避けたくて、わたしは夜の温室へ逃げ込むことにする。夢も見ないくらいに眠れれば良いのに、と思っていると、ハンネローレからも夜のお散歩に出たいという返事があった。
オルドナンツが黄色の魔石に戻る。受け取り損ねた黄色の魔石が足元に落ちて、全身に鳥肌が立った。