Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (634)
アウブ・ダンケルフェルガーの決断
「とても即断はできぬ要請です」
わたしが口を開くより先に、わたしの背後から水鏡を覗き込んでいたフェルディナンドが答えた。
「グルトリスハイトを手に入れたとはいえ、礎を手に入れたローゼマインはすでにアウブ・アーレンスバッハです。故に、そのような号令は出せません」
「フェルディナンド様は貴族院の重要性をご存じないのか!? 貴族院が余所者に荒らされているのだぞ! 悠長なことを言っている時間はない」
ディートリンデがツェントの立場を求めて貴族院へ行っているのであれば、グルトリスハイトが収められている貴族院の図書館が最も危険だ。今、そこにいるのはソランジュとシュバルツ達だけだろう。アーレンスバッハの貴族街で暴れていたランツェナーヴェの兵士達の姿を思い出せば、図書館をランツェナーヴェの者やディートリンデに荒らされる様子は容易に想像できる。
「フェルディナンド様、貴族院の図書館にはソランジュ先生が……それに、ヒルシュール先生も貴族院にいらっしゃるのです」
ヒルシュールはオルドナンツであちらこちらへ不審者の存在を知らせ、王族や中央の騎士団に救援を求めた。中央騎士団が寝返っているならば、ヒルシュールもかなり危険な立ち位置にいるのではないだろうか。ヒルシュールと一緒に行動しているライムントもだ。
「……何となく、何があってもヒルシュール先生は無事そうですけれど、立ち位置は危険ですよね? ダンケルフェルガーが協力してくれるならば助けに行った方が良いのではないですか?」
わたしが振り返ってそう言うと、フェルディナンドは「一番危険な立ち位置にいるのは君だ、馬鹿者」と冷たく言った。それから、水鏡の中のアウブ・ダンケルフェルガーを厳しい表情で見据え、静かな口調で言う。
「貴族院が荒らされるのは由々しき事態だと私も思います。貴族院の重要性も理解しています。それでも、そのような大それた号令を出すというのは簡単なことではありません。ローゼマインの号令によって王族が救い出された後、もしくは、すでにディートリンデ達がグルトリスハイトと国の礎を手に入れていた場合、ローゼマインは越権行為を責められたり、逆賊と謗られたりする可能性がございます」
わたしが号令を出すことによって救い出された王族が素直に感謝するだけで終わるとは限らない。これ幸い、とグルトリスハイトを手にしているわたしを王族に取り込むために躍起になり、逆賊の誹りを逃れられるように取り計らう代わりに、と親切めかして無茶な要求を出してくる可能性は非常に高い、とフェルディナンドは呟く。今までの王族のやり方を思い出せば、フェルディナンドの言葉に頷くしかない。
「号令を出したことによりローゼマインが不利な立場に立たされた場合、ツェントの剣を自称するダンケルフェルガーはどのような立場に立たれるのでしょう?」
ツェント側に立つ可能性が高いのではないか、とフェルディナンドはアウブ・ダンケルフェルガーに言った。
「フェルディナンド様、いくら何でも失礼ではありませんか? さすがに号令を出してほしいと要請しながら、そのように非道なことはしないですよ」
「だから、君は甘いと言われるのだ」
フンとわたしを鼻で笑いながら、フェルディナンドはアウブ・ダンケルフェルガーに向き直る。
「長い、長い歴史を持つダンケルフェルガーのアウブは自領のために時に非情な判断をしてきたことでしょう。自領を守るアウブとしては甘いことは言っていられないので当然ですが、全ての責任をローゼマインに被せることが可能な状況など、私にはとても看過できません」
「どのような緊急事態であっても、号令がなければダンケルフェルガーから中央へ騎士団は出せぬ。ランツェナーヴェとディートリンデが好きに暴れ、余所者がグルトリスハイトを手にするのを黙ってみているつもりか? グルトリスハイトを持つ次期ツェント候補はローゼマイン様しかおらぬ!」
アウブ・ダンケルフェルガーは「決してそのような非道な真似はしない」とは言わなかった。貴族院を守るとは言ったけれど、ツェントの剣とは言ったけれど、わたしを守るとは言っていない。会話の中で「アウブ・アーレンスバッハのわたし」と「次期ツェント候補のわたし」と使い分けている。
「今、ユルゲンシュミットを救えるのは一人なのだ!」
「一人ではありません」
わたしは思わず振り返った。確かにメスティオノーラの書を持っているのはわたしだけではない。わたしからコピペしたことで、ツェントの業務をこなせるようになったツェントに相応しい人がここにいる。
……でも、フェルディナンド様は……。
ツェントになりたいとは全く思っていないはずだ。アーレンスバッハでの研究三昧を希望した。それをまた自己犠牲の精神で潰すのかと思って、わたしはフェルディナンドの胸元をつかんだ。
「フェルディナンド様、待ってください。それは……」
「貴方が次期ツェントになるのです、アウブ・ダンケルフェルガー」
「え?」
「……は?」
フェルディナンドの言葉に頭が真っ白になる。ポカンとフェルディナンドを見上げていると、フェルディナンドはフッと口元を歪めた。
「ハンネローレ様から報告を聞いたとおっしゃいませんでしたか? ローゼマインはグルトリスハイトを失ったユルゲンシュミットに再びグルトリスハイトと神への祈りをもたらすメスティオノーラの化身。女神の化身はこれと思う者にグルトリスハイトを授けるのが役目であって、自らがツェントになることはございません」
いけしゃあしゃあとそんなことを言いながらフェルディナンドは挑戦的に薄い金色の目を閃かせる。
「アウブ・ダンケルフェルガー、貴方が女神の化身に己が力を見せつけることは、ローゼマインからグルトリスハイトを得ることと同意になります。中央騎士団が敵方にいる今、王族を救うことができなかった場合、貴方がグルトリスハイトを授けられて次代のツェントになるのです。ローゼマインへの号令の要請は、全ての責任をダンケルフェルガーで背負う覚悟をした上でお願いします」
アウブ・ダンケルフェルガーが目を見開いてフェルディナンドをじっと見つめる。フェルディナンドは目だけを挑戦的に光らせ、うっすらと社交的な微笑みを浮かべたままだ。
「私はアウブ・ダンケルフェルガーだ」
「ローゼマインはアウブ・アーレンスバッハです。ダンケルフェルガーがローゼマインに責任を被せた状態で大義名分を得て暴れたいだけなのか、たとえ後に自分がツェントに任命されることがあってもユルゲンシュミットの危機を収めたいと望むほど真摯な思いなのか……。号令を出すように要請したダンケルフェルガーの意図を示していただきたいものです」
ダンケルフェルガーが自領を守るための前提を欲するように、こちらもローゼマインとアーレンスバッハを守るための手段を準備するのは当然だとフェルディナンドが笑う。
「時と場合によっては、貴方が次期ツェントになりうるのです。第一夫人ともよく話し合った方が良いでしょう。一人で決断して良いことではありません。それに、ダンケルフェルガーの独走を快く思わない領地もあるでしょう。知らせは済んでいますか?」
質問の形態ではあるけれど、フェルディナンドは明らかに「自分達で根回ししておけ」と言っている。
「何より、ローゼマインはエーレンフェストから戻ったばかりで休息が必要です。とても戦いの場に出せるような体調ではありません。それに、ダンケルフェルガーの騎士を戻すことを最優先にしたため、アーレンスバッハの主だった騎士達はまだビンデバルトより戻っていません。要請があっても号令を出せないのです」
エーレンフェストの遠征から戻ってきていない騎士達の存在について述べながら、フェルディナンドはそっとわたしの手を取った。
「ダンケルフェルガーの決断は、明日の三の鐘に伺います」
フェルディナンドは通信を切っても良いか、わたしに小声で問いかける。わたしはコクリと頷き、混乱から立ち直っていないように見えるアウブ・ダンケルフェルガーに「ごきげんよう」と微笑みかけて目を閉じ、通信を切ってもらった。
「ひとまず一晩は時間を稼ぐことができたが、今夜中に完成させる必要がありそうだな」
通信が完全に切れたのを確認してフェルディナンドが息を吐き、「安易に他領からの要請に乗るのではない」とわたしを睨んだ。
「君はアウブ・アーレンスバッハになると決めたのだ。次期ツェント候補という言葉はもっとも警戒すべき言葉で、聞き入れてはならぬ」
「でも、貴族院の図書館は心配ですよ。ソランジュ先生と連絡が取れないそうですし……」
ダンケルフェルガーからの要請云々は置いておくとしても、貴族院の様子は気になって仕方ない。体力や魔力が万全であれば、すぐにでも向かいたいくらいだ。ダンケルフェルガーが助けてくれるならば、それに乗った方が勝率は高い。
「オルドナンツが飛ばないと言われたわけではない。まだ問題はなかろう。心配しなくてもダンケルフェルガーは必ず動く。自分に取れる手段がありながら、見ない振りができる領地ではない。根回しにどのくらいかかるか知らぬが、明日という期日に否を唱えなかった。君が休めるのは今夜だけだと思いなさい。今の君に必要なのは休息だ。他人のことよりも自分の心配をするように」
転移陣を何度も使ってダンケルフェルガーの騎士を移動させたのだ。薬だけではなく、本格的な休息が必要だとフェルディナンドが言った。
「……寝たらまた悪夢を見そうなので億劫なのですけれど」
体が休息を求めていても、休息が怖いのだ。わたしの呟きにフェルディナンドが「眠るための薬も必要か」と少し眉を寄せる。
「あの悪夢で目覚めるお薬は嫌ですよ。目覚めが最悪ですし……」
「だが、いくら丈夫になったとはいえ、そろそろ倒れるぞ。夕食のために回復薬が必要なくらいだ。元々最低しかない君の体力を過信しないように」
優しさ入りの回復薬を手渡され、わたしは受け取るしかなかった。
夕食時にはレティーツィアからの報告もあった。ディートリンデから手紙が来るまでの様子や、それに対する対応などについて話を聞く。ランツェナーヴェの扉を向こうから開けようとする者がいたり、貴族院の寮にある転移の間にいる騎士達にオルドナンツで問い合わせがあったりしたそうだ。どのように答えるのか、わたしの意見が必要だったため保留にしていたら業を煮やした彼女から手紙が届いたらしい。
「放置で構わぬから、余計な情報は出さぬように気を付けなさい」
「かしこまりました」
頷くレティーツィアの顔色が悪く、ゆっくりと休めていないように見えた。忙しいだけではないような、朝のメルヒオールと同じような思いつめた顔だった。どう見ても子供の表情ではない。
「あ、このお魚は……」
「ローゼマイン様に救われた漁師達がお礼に、と届けてくださったものです。フェルディナンド様からローゼマイン様のお好みの食べ方を教わって料理させました。お口に合いますか?」
香辛料が多い料理の中に何の魚か知らないけれど、白身の魚の塩焼きがある。本当にシンプルな、ただの塩焼きである。レティーツィアはこんな料理を出しても良いのか、と悩んだようだけれど、思い切って出してくれたらしい。
「わたくし、エーレンフェストでも珍しい食べ方と言われたのですけれど、お魚の味がよくわかって大好きなのです。あまり馴染みのない調理法をレティーツィア様が料理人に頼んでくださったのですね? フェルディナンド様がわたくしの好みの味を覚えていてくださったことも嬉しいです」
わたしはレティーツィアに感謝し、フェルディナンドにニコリと微笑んだ。
「まだアーレンスバッハの食べ物に馴染んでいない君にはこちらが良かろうと思っただけだ」
フェルディナンドの言葉通り、今のわたしの体調には香辛料がふんだんに使われているアーレンスバッハの料理はちょっと刺激が強すぎる。他のは少しずつだけれど、塩焼きだけは食欲がない中でも完食した。
わたしは塩焼きに満足したけれど、レティーツィアのカトラリーの動きも鈍い。笑顔でわたしと会話しているけれど、食事が進んでいるとは言えなかった。
「レティーツィア様、護衛騎士を連れてこちらへいらしてくださいませ」
わたしは食事を終えるとレティーツィアを手招きした。レティーツィアが目を瞬きながら近づいてきて、レティーツィア付きの護衛騎士が何をするつもりか、と少しばかり警戒した顔になる。
「レティーツィア様は大変なことに巻き込まれながら、とても頑張ってくださいました。わたくし達が留守の間も、よくアーレンスバッハを守ってくださったと思います。レティーツィア様に感謝の気持ちを込めて、シュラートラウムの祝福と共に良き眠りが訪れるようにお祈りをさせてくださいませ」
わたしの言葉にレティーツィアが顔色を変えて、首を横に振る。
「わたくしのためにローゼマイン様のお力を使う必要はございません。お気持ちだけで十分です」
「わかりました。では、気持ちだけ……」
辞退しようとするレティーツィアにわたしはシュタープを出して祈る。
「夢の神 シュラートラウムよ レティーツィア様に心地良き眠りと幸せな夢を」
レティーツィアに白い祝福の光が降り注ぐと、レティーツィアの目が眠そうにとろりとなった。数秒後にはふわりと崩れ落ちそうになる。それを彼女の護衛騎士が咄嗟に抱きとめた。
「この程度の祝福がこれだけの効果を示すなんて、眠りたくても眠れない日が続いたのでしょうね。レティーツィア様をゆっくりと休ませてあげてくださいませ」
「恐れ入ります、ローゼマイン様」
護衛騎士はレティーツィアを抱きかかえて退出していく。レティーツィアの側仕え達が速足で追いかけていくのが見えた。
「ローゼマイン、来なさい」
フェルディナンドがそう言ってわたしに手を差し出した。何か当たり前のようにエスコートしてくれるんだな、と思いながら手を乗せた。もしかしたら、アーレンスバッハにいる一年半の間、ディートリンデに対して毎日のようにしていて身についたのだろうか。そんなことを考えていると、フェルディナンドのもう片方の手がわたしの視界を塞いだ。
「フェルディナンド様?」
「夢の神 シュラートラウムよ ローゼマインに心地良き眠りと幸せな夢を」
フェルディナンドの手で塞がれた視界に白い光が満ちてくる。頭の中が白くなっていく感じがして、体が急に重みを増したように感じられた。足元が覚束ないと思った時には先程のレティーツィアと同じように抱き留められ、抱き上げられる。
「シュラートラウムの祝福に抗わず眠りなさい。今夜は悪夢を見ることもなかろう」
シュラートラウムの祝福のおかげでよく眠れたようだ。ものすごくすっきりとした気分で目が覚めた。
「お目覚めですか、ローゼマイン様? 顔色がずいぶんとよくなりましたね。安心いたしました」
リーゼレータがホッとしたように胸を撫で下ろす。朝食はそれぞれの部屋で食べるので、わたしは朝食を摂りながら側近達から話を聞くことになった。魚が出ている。よほど好きだと思われたらしい。
昨夜、わたしがフェルディナンドによって強制的に眠らされた後、側近達へはフェルディナンドからわたしの状態と対処方法について説明があったそうだ。
「貴族院で変事があり、アウブ・ダンケルフェルガーから要請があったことも伺いました」
「護衛騎士達は出陣の準備をするように命じられています。ダンケルフェルガーからの要請を受け入れた場合、ローゼマイン様には同行していただくしかないそうです」
「キルンベルガの国境門がずっと閉ざされていたので、わたくし達にはあまり馴染みがないのですけれど、ツェントが毎年国境門を開閉するために中央から移動しているので、中央にある国境門へ移動すれば良いそうですよ」
ランツェナーヴェの館から中央へ向かうルートは敵陣の真っただ中へ突っ込んでいくようなものだし、貴族院の寮を経由するにはブローチの作成が必要になるため緊急には使えない。国境門を使って貴族院へ向かう予定らしい。その場合は、わたしが同行しなければ転移できない。
「朝食後は三の鐘までは休息だそうですよ。アーレンスバッハの本を一冊預かっています」
「まぁ! こんな時に読書をしても良いのかしら? フェルディナンド様が良いと言ったから本当に良いのですよね?」
わたしはリーゼレータが執務用の机に置いてくれた本をじっと見つめた。読書なんて久し振りすぎる。
「ダンケルフェルガーから連絡があるまで少しでも休んでおくように、だそうですよ」
そして、三の鐘が鳴った。
ダンケルフェルガーから緊急連絡が入ったことが文官達から告げられ、わたしはフェルディナンドと共に水鏡の前に立つ。水鏡の向こうにはアウブ・ダンケルフェルガーと共に第一夫人の姿もあった。
「アウブ・ダンケルフェルガーの返答は?」
「貴族院を守り、ユルゲンシュミットを守り、王族を救うことが最優先だ。ダンケルフェルガーはツェントの剣。手段があるにもかかわらず、見過ごすことはできぬ。ローゼマイン様の号令を要請いたします」
どのような状況になったとしてもユルゲンシュミットを守るという姿勢を打ち出したダンケルフェルガーにわたしは感嘆の念を覚えた。第一夫人もアウブの選択に否は唱えず、静かにこちらを見ている。
「わかりました。貴族院を、ひいては、ユルゲンシュミットを守るため、ダンケルフェルガーに救援をお願いします」
「ダンケルフェルガーが欲しているのはメスティオノーラの化身の号令です。貴族院にいる者達に一目でこちらに理があることを知らしめなければなりません」
グルトリスハイトを誇示しつつ貴族院へ来るように、と言われて、わたしはコクリと頷いた。
「案ずる必要はございません。わたくし達は国境門から貴族院へ向かいます。こちらにグルトリスハイトがあることは一目で知れるでしょう」