Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (64)
フリーダとの契約
雨です。見間違えようもない雨です。
窓の板戸にパタパタと当たる雨粒の音に肩を落としながら、わたしは朝食を食べる。フリーダがニッコリと笑った通り、ベンノが低く唸った通り、雨が降ってしまった。
仕方がない。フリーダの家に行くことが確定してしまった以上、少しでも有益な情報が手に入るように頑張りたいと思う。
ルッツも一緒だから、大丈夫だよね。
咀嚼しにくい雑穀パンを、夕飯の残りのスープでふやかしながら、もしゃもしゃと噛みしめる。パンで皿を拭うようにして、朝食を終えたわたしはぐるりとウチの中を見回して、溜息を吐いた。
「手土産、持っていきたいけど、あの家に持っていける物なんてないんだよね……」
貴族の屋敷にある物をいくつも取り入れているような、何でもあるフリーダの家に手土産として持っていける物がウチにはない。
トゥーリがクピッと水を飲んだ後、わたしの方を見て、首を傾げた。
「カンイチャンリンシャンは? 前に持っていって喜んでもらえたんでしょ?」
「ん~、売り出し始めたから、自分で使う分を作るくらいならともかく、安易に配るなってベンノさんに言われたの」
「そっか。雨だから花も摘みにも行けないし、困ったね」
トゥーリは水瓶から少しだけ水を使って、皿を洗いながらそう言った。皿を洗った後は仕事に出かける準備で忙しそうだ。
もう母は仕事に出かけてしまったし、父は夜勤だったので寝てしまった。わたしもあまり大きな音を立てないように水瓶の水を使って皿を洗う。
「せめて、何日か前に約束が決まっていて、晴れてる日があったら、森で果物を摘むくらいはできたのになぁ……」
ベンノはルッツにも便宜を図ってくれたり、わたしに新商品を考えるためのマイン工房を提案してくれたり、何かと便宜を図ってくれるので、極力怒られそうなことは避けたいと常々思っている。
よくポロッと喋ってしまったり、自分の欲求に負けて作ったりすることはあるが、わざとではない。怒られたくてしているわけではないのだ。
ただ、ベンノの怒りを回避しようとすると、リンシャンはダメ。紙に関するものもダメになる。新しいお菓子のレシピでも持っていけば、フリーダもイルゼも喜んでくれると思うけれど、ベンノには絶対に怒られると思う。
まぁ、見習いになるのは止めたから、お菓子のレシピをどこに流そうがわたしの自由だとは思うんだけど、面倒な事にはなるだろうなぁ。
うんぬぅ、と考え込んでいると、コンコンと誰かがドアを叩く音がした。油や蝋を塗りこんで、できるだけ防水加工した厚手の帆布のようなマントを羽織って、仕事に出ようとしていたトゥーリが顔を上げて、ドアのところへと向かう。
「はーい、どなた?」
ちょっと早いけれど、ルッツが来てくれたかなと思いながら、わたしが洗った皿を片づけていると、トゥーリのビックリした声が家中に響いた。
「フリーダちゃん!? どうしたの!?」
思わぬ言葉に驚いて振り返ると、ドアの向こうにはフリーダが、従者を従えて立っていた。雨だというのに余所行きの服を身にまとって着飾ったフリーダときっちりとしたお仕着せを着ている従者と貧しい我が家の背景があまりにもちぐはぐで、正直ウチの貧しさが際立って見える。
「わたくし、起きた時から楽しみで、待ちきれなくて、マインを迎えに参りましたの」
ニコリと笑って言われた言葉が「逃がしませんよ?」と聞こえて、ぞくっとする。回れ右をしたいけれど、トゥーリを置いて逃げるわけにもいかない。
トゥーリは「雨の中、わざわざ迎えに来てくれるくらい楽しみにしてくれてるよ」なんて、にこにこと笑いながらわたしを振りかえった。
トゥーリ、マジ天使。その純粋さを失わないで。
「雨なので、身体の弱いマインに外を歩かせるわけにはいきませんもの。大通りに馬車を待たせてありますわ」
熱を出すから雨の中を出歩きたくない、と拒まれると考えたのだろう。フリーダの手回しの良さに感心するばかりだ。
「わぁ、馬車だって!? いいなぁ、マイン」
仕事に行くための荷物を持って、無邪気に羨ましがるトゥーリを見たフリーダが、少しばかり首を傾げた。
「あら? マインのお姉様はお仕事?」
「そうなの。そろそろ行かなくちゃ」
残念だけど、とトゥーリが言うと、フリーダは何かを考えるようにほんの一瞬視線を上に向けた後、パンと手の平を合わせて意味ありそうな笑みを浮かべた。
「でしたら、途中までお送りしますわ」
「え!? わたしもいいの!? 馬車に乗れるの!?」
パァッとトゥーリの顔が輝いた。馬車なんてわたし達みたいな貧民は一生乗れないような乗り物である。トゥーリのテンションが上がるのは理解できる。急いで外出の準備をするしかなさそうだ。
「トゥーリ、ルッツを呼んで来なくちゃ」
「あ、そうだね。わたし、行ってくるよ」
「あの、でも、ルッツさんが来られると、お姉様の乗る場所が……」
トゥーリが荷物を置いて駆けだそうとしたところを、申し訳なさそうにフリーダが止める。わたしが外出する時は、ルッツのお目付が付くことになっている。ルッツが来てしまうと、トゥーリが乗れなくなるなら、トゥーリは身を引くしかなくなる。
「え? え?……じゃあ、わたし、ダメなの?」
一度期待を持っただけに失望は大きくなる。今にも泣きそうな顔でトゥーリがしょぼんと項垂れた。
何と言って慰めればいいのかとあわあわしているわたしの前にフリーダの手が入ってくる。そのままトゥーリの手を取って、それは、それは、優しそうな笑みを浮かべた。
「マインのお姉様、今日はわたくしが責任を持って、ルッツさんの代わりにマインを送り迎えいたしますわ。マインが倒れないように気を付けると約束します。ですから、馬車で一緒に参りましょう?」
「……馬車で移動すれば、マイン、疲れないし、雨にも濡れないよね? ルッツいなくても大丈夫だよね?」
大丈夫じゃないよ!
そう言いたかったけれど、トゥーリのすがるような視線に、わたしは負けた。
ルッツがいないと困るから、トゥーリは歩いて行けなんて言えない。馬車に乗れるとはしゃいでいたトゥーリの顔を見ているだけに、無碍になんてできない。一人でフリーダの家に行きたくないけど、断れなかった。
「……大丈夫。トゥーリ、一緒に行こう」
「ありがとう、マイン。わたしがルッツに伝えてくるから、マインは準備してね」
トゥーリがうきうきで足取り軽くルッツの家へ出ていった。トゥーリの足音が小さくなってくると、聞こえるのは雨の音だけだ。
うまくトゥーリを使ってルッツを排除したフリーダをわたしはじとっと睨む。
「フリーダ……」
「お姉様、嬉しそうでしたわね?」
「そうだね。……ハァ、仕方ないなぁ。選んだのはわたしだし」
トゥーリを切り捨てられなかったのはわたしだから、フリーダをこれ以上責めても仕方ない。ルッツとベンノにまた考え無しだと怒られそうだと思いながら、わたしはトートバッグを準備する。
「実はね、手土産が準備できてないんだよ」
「あら、今日一日、マインの時間をいただくのですもの。マインがわたくしとお話してくださるだけで十分よ?」
嬉しそうにふんわりと笑った顔はお友達が遊びに来るのが嬉しくて仕方ない幼女のものだが、フリーダは無邪気なだけの幼女でないことはよく知っている。
「マイン、カルラおばさんに伝言してきたよ。さぁ、行こう。遅れちゃう」
わたしとフリーダの間にあった重苦しい雰囲気が、足取り軽く飛び込んできたトゥーリの笑顔で霧散する。
「では、行きましょう」
戸締りをして、外に出る。厚手のマントとつばの広い帽子がここの雨具だ。もちろん、完全に防げるわけではなく、大雨や長時間当たっていると染み込んでくる。今のように細い路地を抜けて大通りの馬車に入るまでなら、染み込むような心配はないけれど。
「さぁ、早く乗って」
大通りで待機している馬車に急いで乗りこむと、マントと帽子を取って端の方に置いた。従者は御者の隣に座るので、中に入ったのはわたし達だけだ。
「へぇ、馬車の中ってこんな風になってるんだ?」
「さぁ、座って。中央広場の近くでよろしいの?」
「うん、職人通りの中でも一番中央広場に近いんだよ」
馬車の中を見回してはしゃぐトゥーリにフリーダが座るように促し、わたしを真ん中に並んで座る。大人が二人乗れるように作られた馬車も子供なら三人座っても少し余裕があった。
馬車が動きだすとやはり結構揺れるけれど、ギルド長やベンノと乗った時と違って、きちんと席に座れているので、席から飛び出すほどではない。
「もうじき洗礼式でしょう? マインはどんな衣装かしら?」
「マインの衣装はわたしのお直しだけど、お直しとは思えないくらい豪華なんだよ」
フリーダの言葉にトゥーリが自分のことのように胸を張って答える。冬にお直しをしてからも時々トゥーリと母が手を入れているようで、ちょっとずつ装飾が増えていた。
「……豪華?」
「説明するのが難しいんだけど、ちょっと変わった感じになってると思う。母さんが頑張ってくれたから、可愛いよ」
ウチを見た後では、豪華な衣装を思い浮かべるのは難しいだろう。フリーダが不思議そうな顔をしているけれど、嘘は言っていない。そして、ここでのお直しと、わたしがしたお直しが違うので、説明するのも難しいのだ。
「フリーダちゃんの衣装もすごくふわふわしていて素敵だったよね。わたしもあんな服着てみたい」
「まぁ、ありがとうざいます。では、新しい髪飾りも作ったのかしら?」
トゥーリの言葉に嬉しそうに笑ったフリーダが髪飾りに話題を向けた。フリーダに作った髪飾り以外は、どれも色が違うだけでデザインは同じだ。けれど、わたしが自分のために作るのが他と同じだとは思えなくて、気になるのだろう。
「マインへのお祝いだからね。わたし、頑張って作ったんだよ。フリーダちゃんに作ったのと同じ大きい花を3つね」
「では、マインの髪飾りはわたくしとお揃いということかしら?」
フリーダが少し疑わしそうにわたしを見ながら首を傾げる。トゥーリは何と説明すればいいのかわからないようで、困ったようにわたしの袖をつかんだ。
「色も白だし、揺れるし、大きな花は同じだけど、お揃いとはちょっと違うよね、マイン?」
「生成りの糸だから、クリーム色っぽいけど遠目に見ると白だね。小さな小花を付けたけど、フリーダの髪飾りとはまた違う感じだよ。どんな髪飾りかは当日のお楽しみ。ね、トゥーリ」
「全部話しちゃうと当日の楽しみがなくなっちゃうもんね」
トゥーリがそう言って口元を覆うと、秘密だよと悪戯っぽく笑った。フリーダもつられたように笑顔を零す。
「まぁ、本当に楽しみね。わたくし、外まで見に行くわ」
洗礼式の話をしているうちに、工房が立ち並ぶ一角にあるトゥーリの仕事場が見えてきた。馬車を止めてもらったトゥーリはマントを羽織って、帽子を被る。道具の入ったバッグを持って、ちらりと心配そうにわたしを振り返った。
「ご心配なく。マインはわたくしが責任を持ってお預かりいたしますわ」
「トゥーリ、お仕事頑張ってね」
「馬車に乗せてくれてありがとう、フリーダちゃん。わたしは行くけど、迷惑かけないようにね、マイン」
大きく手を振って、工房へと駆けていくトゥーリを見送った後、馬車はまたゴトゴトと動き始めた。
「いらっしゃい、マイン。よく来たね。カトルカールを焼いて待っていたよ。是非、感想を聞かせておくれ」
フリーダの家に着くと、料理人のイルゼが待ち構えていた。
応接室に通されて、お茶とカトルカールがテーブルに並べられる。一口食べて、わたしは相好を崩した。しっとりとした生地に程よい焼き色で、オーブンの癖をつかんだのか、以前よりずっとおいしくなっている。
「おいし~。前よりずっとおいしくなってる。焼き加減が絶妙ですね」
「そう言ってもらえてよかったよ。何か改善できるところがないか、気になっていたんだ」
「改善点?……うーん、十分おいしいと思うけど?」
パクリと口に放り込んで、甘いお菓子を味わいながら、わたしは考え込んだ。
皿に盛った時の見た目を豪華にするとか、ドライフルーツを入れたり、柑橘系の皮をすりおろして混ぜて、違う味を楽しむとか、思い当たることはあるのだが、これがベンノに怒られる情報提供になるのかどうかわからない。
うーん、何してもベンノさんには怒られそうだし、シンプルに食べてもおいしいから黙っていても問題はないんだけど、やる気になっている職人さんは応援したくなるんだよね。
「改善点って程でもないんだけど……お砂糖一袋と引き換えなら、教えるよ?」
前に厨房で見た1キロくらいの砂糖が入っている袋を思い出して、わたしがそう交渉すると、イルゼは決定権を持つフリーダに視線を向けた。
「砂糖一袋……。マインに渡してしまってもいいですか、お嬢様?」
「えぇ、いいわよ」
「お嬢様からの許可は頂いたよ。さぁ!」
食らいついてくるようなイルゼの迫力に、ぅひっと息を呑みながら、わたしは口を開いた。
「フェリジーネの皮をすりおろして生地に加えると香りと味が変わっておいしくなります。他にも何か入れることで味は変わります。何をどんな比率で入れたらおいしくなるかは、自分で研究してみてください。これはおまけ情報ですけど、もし、お貴族様相手に出すようなことがあるなら、よく泡立てた生クリームや飾り切りした果物を添えると、見た目が豪華になりますよ」
「っ!? やってみよう」
イルゼは息を呑んだ後、すぐさま立ち上がって部屋から出ていった。残されたわたしとフリーダは何度か瞬きした後、苦笑する。
「ごめんなさいね、マイン。お客様にあんな姿を見せてしまって。イルゼも普段は冷静なのだけれど、新しいレシピには目がなくて……」
「研究熱心なのはいいことだよ。イルゼさんが頑張ってくれたら、それだけおいしいものが増えるもんね?」
勉強熱心で感心な事だ。世界においしいものが広がるのは、わたしにとっても嬉しいことなので、ぜひ色々と研究して新しい甘味を作っていってほしい。
「そういえば、フリーダはどうして商業ギルドで見習いなんてしているの? 将来は貴族街でお店を持つんでしょ? 職員にはならないのに、見習いなんてなれるの?」
成人したら、貴族のところに行くことが決まっているのに、商業ギルドでフリーダが見習いをしているとは思わなかった。
はむっとカトルカールを口に入れながら問いかけると、フリーダはコクリとお茶を飲みながら、答えてくれる。
「わたくしがおじい様にお願いしたの。貴族街で店を持つための勉強と人脈作りよ。貴族街で店を開く時にはわたくし一人ですもの。全て一人でできるようにならなければならないし、人脈をできるだけ広げておかなくてはね」
「全部一人? 誰か、その、ユッテさんみたいな側仕えの人は?」
「わたくし以外に貴族街での滞在は許されてないのよ。あちらに行ってから、先方が用意してくださる側仕えはいるから、生活する上で一人というわけではないのですけれど」
それでも、貴族街に行ってから付けられる側仕えが経済や経営に明るいとは思えない。
いくら何でも成人したばかりの少女にいきなり味方のいないところで一人で店をしろ、というのは、あまりにも酷ではなかろうか。相談相手の一人くらいは付けられないのだろうか。
「お店でも完全に一人というわけでもありませんわ。商品の納入等でわたくしの家族は貴族街に出入りすることを許可されているもの。ずっとそばにいてくださるわけではないけれど、心強いでしょう?」
「……そうだね」
とても心強いなんて思えなかったけれど、真っ直ぐに前を見て自分の運命と戦っているように見えるフリーダに肯定以外の言葉をかけることはできなかった。
大人びた物言いと考え方はフリーダが身に付けている武器であり、防具だ。ひたすら、磨きをかけて、見知らぬ世界で生き抜いていかなければならない。
「わたくしが貴族街で店を始めた後、何が起こっても一通りの対処できるように、今はギルドの見習いと我が家のお店のお手伝いを交互にしているの」
「フリーダは偉いね。先々のことまですごく考えてるのが、よくわかるよ」
わたしの言葉にふっとフリーダの顔が厳しくなった。真面目な眼差しで静かにわたしを見据えて、口を開く。
「わたくしもマインに聞きたいことがあるのだけれど、よろしい?」
「うん、いいよ」
あぁ、本題がきた。
そう思った。フリーダに聞かれることなんてわかりきっている。わたしはニコリと笑ったまま、フリーダを促した。
「一体何を考えているの? マインは、本来ならベンノさんのところを早々に見限って、こちらに付くべきでしょう? わたくし、今までずっと待っていたのよ。マインが伝手を求めて、わたくしのところへ来るのを……」
生きるために貴族への伝手を求めるなら、ベンノよりもギルド長とフリーダを頼った方が良い。それは、オットーにも指摘されたことだった。誰だってそう思うだろう。貴族との繋がりが長く深い店の方が、少しでも有利に交渉できるに決まっている。
歴史と権力に基づいた自信を持って勧誘するフリーダの口調が少しずつ熱を帯び、瞳は何とも言えない焦りのようなものが透けて見える。
「もう夏が来るというのに、マインは何も行動していない。先のことを本当に考えているの? なるべく早く貴族に渡りをつけなくては、このままでは……」
フリーダの訴えは同じ身食いであるわたしを心配しての言葉だとわかっている。貴族に渡りを付けてもすぐに契約できるとは限らない。早く、早くと急く気持ちがフリーダの強引さに繋がっているのだとすれば、心配されているのが少し面映ゆいくらいだ。
フッと笑って、わたしもフリーダを真っ直ぐに見詰めた。
「あのね、フリーダ。わたし、自分なりに考えた結果、家族と一緒にいて、朽ちる方を選んだの」
「……え?」
目を見張って、口を軽く開いたまま、フリーダは固まった。小さく震えた唇から、信じられない、と微かな呟きが漏れる。
「半分はもう諦めてるの。トゥーリが泣くから、生きられる方法を探すよって言ったけど、身食いは貴族と契約する以外に生きていく方法はないんでしょ?」
何か方法がないか、フリーダを助けるためにギルド長は、権力もお金も伝手も使える物は全て使って死に物狂いで探したはずだ。いくつも魔術具をかき集め、時間を稼ぎながら、契約以外に少しでも有効な手段がないか、調べただろう。
そのギルド長が知らないなら、何も手段がなかったと諦めるしかなかったなら、より良い条件を持つ貴族を選びだし、フリーダが契約するしか選べる道がなかったなら、答えは決まっている。
「……わたくしは知りません」
「本音としては、どこかでもう1個くらい魔術具が手に入らないかな? とは思ってるけど、貴族と契約したいとは思ってない。魔術具以外に身食いを何とかできる代用品ってないんでしょ?」
「わたくしが知っていれば、とっくに使っているわ」
苛立ったようにじろりと睨まれて、わたしは軽く肩を竦めた。
「だよね? 今日ね、わたしがフリーダに質問しようと思ってたのは、貴族以外の人から魔術具を買うことってできないのかなってことなんだ。もしくは、魔術具を自分で作るとか……できないんだよね?」
無いなら作ってしまえばいいじゃないと思ったけれど、残念ながら、麗乃が読んだ本の中に魔術具の作り方はなかった。ファンタジー小説やゲームの中で、そんな言葉が出てきたけれど、実際の参考になるはずがない。
そして、魔術具を作る工房が、この街には無かった。
「魔術具を作るためには魔力が必要なので、魔力を持つ貴族以外には作れないそうよ。ですから、魔術具の作り方を知っている人が城壁よりこちらにいないの」
「そう。……作り方がわかったら自分で作ろうと思ったんだけど、やっぱり無理みたいだね」
魔力を持つ貴族にしか作れないなら、魔術具の工房は高い城壁の向こうにしかない。作り方がわかれば、資金は潤沢にあるので何とかなるかと期待したけれど、やはり甘かったようだ。
「……自分で作るというのは考えつきませんでしたわ」
「フリーダはお嬢様だから。わたしは欲しいと思った物は自分で作らないと手に入らない環境で生きているから、一番に思ったのは自分で何とか作れないかな……だったよ」
クスクスと小さく笑い合う。リンシャンも、髪飾りも、紙も、煤鉛筆も、菜箸も、わたしが作ったものは必要にかられたから、できたものばかりだ。
「マインはそれほど家族が大事? このまま熱に呑まれて死ぬことが怖くはないの?」
ぽつりとフリーダが尋ねた。
「うーん、なんでだろう。死にたくないとは思うけど、あまり怖いとは思わないんだよね」
一度死んだ記憶を持つわたしにとって、マインの生は神様がくれたおまけのようなものだった。やっと生きることが楽しくなってきたけれど、根本的なところは多分変わっていない。
「……今は周りに本がないから、家族の他に大事なものがないの。死ぬことを選んだんじゃなくて、家族といることを選んだだけなんだよ」
「本?」
「そう。お金が結構貯まったから、一冊くらい買えないかな?」
わたしが首を傾げると、フリーダは困ったように笑った。
「本が欲しいなら、貴族街に行けばいいではありませんか。あちらにはあるでしょう?」
「あ~、契約条項に本読み放題ってあれば、ホイホイついて行ったかもしれないけど、飼い殺しするようなお貴族様が、貧民のわたしにそんな貴重なものを読ませてくれると思う?」
「マインの生活環境から考えると難しいでしょうね」
貴族から見れば、識字率が低いこの街の貧民がわたしだ。たとえわたしが文字を知っていても、自分が持つ高価で貴重な本に触らせたくないと思うのが普通だ。勝手に読んだら、殺されても仕方がない。
そして、わたしはある意味で自分をよく知っている。本を前にして理性が保てるはずがない。本に飛びついて、殺される自分が容易に想像できてしまう。
「……だから、死ぬまでに何とか本の量産体制を作ろうと思っているけど、難しいだろうね。身食いについては寿命だと思って、半分は諦めてる。家族に迷惑いっぱいかけてるから、今のうちにたっぷり稼いで、残してあげたいとは思うけどね」
わたしが冗談めかしてクスッと笑うと、フリーダはきらりと茶色の目を光らせた。
「では、わたくしがカトルカールのレシピを買いましょうか?」
完全に商人の目になってしまったフリーダを見て、わたしはうーんと唸った。
カトルカールは基本的なお菓子なので、期間限定の独占販売くらいなら別に構わないが、ベンノのリンシャンのように全ての権利を独占されるのは困る。お菓子の発展を阻害するに違いない。
「……小金貨5枚で一年間はフリーダが独占販売する権利なら売るよって言ったらどうする?」
「もちろん、買いますわ」
迷いなど一瞬も見せない即答だった。
「……もちろん、なんだ? もしかして格安ってこと?」
「まぁ、そうですわね。カトルカールや植物紙のように前例のない物の独占販売権は大金貨を越えることは珍しくないもの」
「大金貨……」
どうやら、わたし、ベンノさんに激安で知識と情報をバラまいていたようです。
「値段を吊り上げます?」
「ううん、いいや。一年間だからね。独占販売権を小金貨5枚で売るよ」
一度出した値段を吊り上げていく気にはなれず、わたしは首を振った。
「では、契約書を作りましょう」
「え? もしかして、契約魔術!?」
また血を見たり、知らない人の安否を気にしたり、怖い展開になるのだろうか。わたしが思わず身体を震わせると、フリーダが呆れたように溜息を吐いた。
「……あのね、マイン。契約魔術というのはそう簡単に使うものではないの。魔力や権力を持つ相手で、自分が圧倒的に不利な状況にある場合に、高額の魔術具を使ってでも利益を確保するために使うものなのよ。わたくし達の間では、正式な契約書である羊皮紙で普通の契約をすれば十分でしょう?」
「そうなんだ」
最初の契約が契約魔術だったので、わたしの感覚が少しおかしくなっているようだ。
しかし、フリーダの言うことが正しいなら、魔力や権力を持つ相手でもないわたし達を相手に、何故ベンノは契約魔術を使ったのだろうか。不思議だ。
「それにしても、滅多に使うものではないのに、マインはいつどこで契約魔術なんて知ったの?」
「……ベンノさんに怒られそうだから、秘密」
「あら、少しは学習してるのね」
ふふっと笑いながら、フリーダが棚の上にあるベルに手を伸ばした。チリリンと鳴らすとユッテがほとんど音を立てずに入ってくる。
「契約書の準備をお願い」
ユッテが準備してくれた羊皮紙にフリーダが羽ペンを使って契約内容を書きこんでいく。わたしが買った木製のペンより、豪華で見栄えはするけれど、使いにくそうに見えるのは気のせいだろうか。
契約書作りは商業ギルドで見習いをしているフリーダにとっては、普段している作業で、わたしにとってもここしばらくの間に見慣れたものだった。
内容に間違いがないか確認した後、フリーダとギルドカードを合わせて精算する。
「一年というのはどうしてですの?」
「一年あれば、カトルカールの元祖はフリーダの店ってみんながわかるでしょ? それに、他の人にも砂糖が行き渡っているかもしれないから、新規参入の余地は残しておきたいの」
「新規参入?」
「レシピを公表すれば、色々挑戦する人も増えて、どんどん新しいお菓子ができるかもしれないでしょ? おいしいお菓子って、幸せな気持ちになれるから、色んな人が作って、いっぱい広がるといいと思ってる」
「ハァ、自分の利益を度外視するマインは商人に向いていませんわよ」
公式の契約書となる羊皮紙に、わたしとフリーダがサインする。これで、わたしがフリーダにカトルカールの一年間の独占販売権を与えるという契約が成立した。
「でも、まぁ、レシピ公表は一年後にわたしがいたら、の話かな? いなかった時はレシピの公表はフリーダに任せるよ」
「わたくしは自分の利益を最優先しますから、一年後、必ず自分で公表してくださいな」
ツンと顔を逸らしたフリーダの顔は泣きそうに見えた。