Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (654)
顔色の悪い王族 その3
フェルディナンドが焦った声を上げるのとほぼ同時に、自分の視界の端にいる者達が胸元を抑えて顔を歪め、あちらこちらから呻く声が聞こえ始める。目に映る光景は自分が威圧している時と同じだ。けれど、今、わたしは頭が真っ白になる程の怒りを感じているわけではない。怖いという感情が膨れ上がっただけだ。
「違……こんなつもりではなくて……」
自分の中で膨れ上がった恐怖という感情が他人を苦しめている現状を目の当たりにして、自分の中にある女神の御力に対する恐怖はいや増していく。
「感情を抑えなさい、ローゼマイン」
わたしに皆の様子を見せないように、皆を女神の御力から守るために、フェルディナンドがわたしの肩をつかむ。フェルディナンドもまた苦しげに眉を寄せ、脂汗を垂らしながら、真剣な目でわたしを見下ろしていた。あのフェルディナンドが表情を取り繕うことさえできていない。
「フェルディナンド様、離れてください。近い程、影響が……」
わたしにとってフェルディナンドはとても大事な人だから、わたしの力で傷つけたくはないのだ。肩に置かれている手を叩きながら、わたしはフェルディナンドが離れてくれることを願う。
次の瞬間、フェルディナンドが咳き込んだ。コフッという異音に記憶が刺激されて、平民時代の洗礼式後に神殿で同じように向かい合った記憶が途切れ途切れに浮かんでくる。
わたしはあの時、誰かを守ろうと必死になって、当時の神殿長と神官長と対峙していた。今は誰を守っているわけでもない。ただ傷つけているだけだ。できることならば、すぐにでも止めたいし、自分の内にあるはずの力なのに、どのように扱えば良いのかわからない。
「その力を正しく使って、街を守ってくれ」
「……に怒られるような使い方はしない。約束するよ」
不意に誰かと交わした約束が脳裏で響く。大事な約束だったはずだ。それを破ってしまった悔しさに泣きたくなってきた。これ以上感情的になってはいけない、と理性が警告を出しているのに、どうすれば抑えられるのかわからない。
「フェルディナンド様、お願いですから離れて。わたくし、どなたかと約束をしたのです。守るために力を使う、と」
フェルディナンドの顔色を見れば、漏れ出る女神の御力が更に増えているのがわかる。何度か咳き込んだフェルディナンドの口の端から、記憶と同じ赤い血が滴った。
「離して!」
わたしを抱きしめるように伸ばされたフェルディナンドの手を思い切り振り払って、わたしはその場から逃げ出した。勢いよく立ち上がったせいでガタンと椅子が倒れる音が響く。
……どこまで離れたら大丈夫なんだろう?……
わたしは逃げ場を探して部屋の中を見回した。中央棟と繋がる扉はテーブルを挟んで反対側で、そこまでたどり着く前に皆がもっと苦しい思いをする。寮に戻る扉は自分の背後にあるけれど、寮に戻れば傷つける人数が増えるだけだ。
フェルディナンドが振り払われた自分の手を見た後、すぐさま口元の血を拭って養父様へ視線を向けた。
「アウブ・エーレンフェスト、ハルトムート達に入室許可を!」
「入れ、ハルトムート」
養父様が片手で胸元を押さえながら、もう片手でオルドナンツを飛ばす。
ハルトムートの腕の上でオルドナンツが「入れ、ハルトムート」と喋っているくらいに早く、寮と繋がる扉が開いてハルトムート、クラリッサ、マティアス、ラウレンツ、グレーティア、ローデリヒの六人が入ってきた。
「失礼します」
「ハルトムート、貴方達もわたくしに近付いては……」
「大丈夫です、ローゼマイン様。我々は常にローゼマイン様の御力をまとっているので、お力が増えたことやその神々しさは感じ取れますが、大した影響はないのです」
ご安心くださいと笑いながらハルトムート達男性陣がわたしを囲むように立って、会議中の皆との間に壁を作る。壁ができれば少しは女神の御力も遮られるのか、苦痛を堪えるような呻き声は聞こえなくなった。それだけで少し恐怖が和らいで心が軽くなる。
……ハルトムート達は本当に苦しくないんだ。
ハルトムートやラウレンツがわたしを安心させるように笑みを浮かべている。マティアスとローデリヒは「役目を果たさなければ」という真剣そのものの表情だけれど、取り繕ったり苦痛に耐えたりしているような顔ではなく、ごく自然なものだ。
「もしかしたら必要になるかもしれない、とフェルディナンド様に言われて待機していたのですよ。女神の化身の溢れ出る魅力は下々の者にとって辛く感じることもあるでしょうから」
ローゼマイン様のお世話をする側仕えのお仕事も一度してみたかったのです、と鼻歌でも歌い出しそうに楽しそうなクラリッサが手にしていた銀色の布を広げた。クラリッサの明るい笑顔に何だか胸が軽くなる。今のわたしが近付いても大丈夫な人がいることにホッとした。すっと孤独感や恐怖が薄れていく。
「ローゼマイン様、王族やアウブの方々の目に触れるのに布を掛けるだけでは見苦しいから、とリーゼレータ達がマント状に整えてくれたのですよ。せっかくの衣装が見えなくなってしまうのは残念ですけれど……」
グレーティアがフード付きマントに形を変えた銀色の布をわたしに被せて、不格好な皺ができないように整えながら、さりげなくわたしの目元を拭ってくれる。普段はほとんど口を利かずに黙々と仕事をするグレーティアが、今はわたしの気分を和ませようと頑張って言葉を選んでくれているのがわかって、心がほっこりしてくる。
「ありがとう存じます、二人とも」
「あら、ローゼマイン様。お礼には及びません。思わず見惚れてしまう程にお美しいローゼマイン様の魅力に気を失う者が続出しては会議にならなくて大変ですもの。それというのも、ローゼマイン様が全ての神々より寵愛を得ていらっしゃるメスティオノーラの……」
「フェルディナンド様、いかがでしょう? これくらいの露出でしたらお顔も見えますし、女神の御力を感じつつ、強すぎない程度に抑えられたと思います」
クラリッサの賛美を遮るようにグレーティアが前に進み出て、フェルディナンドに声をかける。フェルディナンドが銀色のマントをつけられたわたしを見て、「問題ない。助かった」と頷いた。
「ローゼマイン様、気の利く臣下への褒美だと思って、女神の化身による癒しを見せてくださいませんか?」
ハルトムートが茶目っ気を見せたウィンクで、女神の化身の力をまとったわたしの癒しを見たいとねだる。一見ふざけているようにも見えるハルトムートの表情だが、橙の瞳はじっとわたしの反応を探っていた。おどけた表情も口調も、わたしが断りたければ容易に断るための理由にできるようにという配慮だろう。
「ハルトムート、ありがとう存じます」
「恐れ入ります」
わたしは「シュトレイトコルベン」と唱えて、フリュートレーネの杖を手にする。
「水の女神 フリュートレーネの眷属たるルングシュメールよ」
ルングシュメールへの呼びかけだけで、杖の先にある緑の魔石から癒しが部屋中に降り注いでいく。席に着いていた人達の顔色が明らかに良くなって安堵の息を漏らしている。癒しはきちんと効果があったようだ。
「何と美しい……。全ての神々より神具を使うことを許されたメスティオノーラの素晴らしき……」
「其方等は下がれ。話し合いを続けたい」
養父様が軽く手を振りながら興奮しているハルトムートを連れて下がるようにわたしの側近達に命じると、マティアスとラウレンツがすぐさまハルトムートを連行していく。二人に挟まれて連れ出されるハルトムートには先程のできる側近の面影が全くない。
養父様はハルトムート達の代わりに側仕え達を入れて、お茶を淹れ変えさせる。側仕え達が動くことで部屋の中から緊迫感が拭い取られ、少しばかり穏やかなものに変わった。
「ローゼマイン様もお席に着かれますか?」
グレーティアが倒れていた椅子を整えている様子を示しながらクラリッサが声をかけてくれたので、わたしはコクリと頷き、クラリッサにエスコートされて自分の席へ向かう。
「あ……」
席の前に立っているフェルディナンドと目が合った。助けようとしてくれたところで手を振り払ってしまったので、どのように声をかければ良いのかわからなくて少し気まずい。
「あの、フェルディナンド様。痛いところはございませんか? その、わたくし……」
「ルングシュメールの癒しがあったので問題ない。君もせっかく落ち着いたのに不用意に感情を揺らすものではない」
フェルディナンドはクラリッサからわたしの手を取り、クラリッサとグレーティアに下がるように指示を出すと、わたしを椅子に座らせる。わたしは本当に問題がないのか、じっとフェルディナンドの顔を見つめた。女神の御力が辛いのに、無理させているのではないだろうか。
「そのように心配せずとも、こうしておけば女神の御力で他人を傷つけることはあるまい」
「あのようなことになるならば、最初からまとっていたかったです」
わたしが自分の手に触れる銀色の布をぎゅっとつかむと、フェルディナンドは仕方がなさそうな顔でちらりと養父様へ視線を向けた。
「銀色の布はどうしてもランツェナーヴェの者達を連想させるので、王族やダンケルフェルガーとの話し合いで最初からまとっているのは印象が良くない。だが、女神の御力を知った今ならば、それを外せと言う者などこの場にはいまい」
……それはそうかもしれないけど、周知するために自分も痛い目に遭う必要はないと思うよ。
「あぁ、そうだ。ローゼマイン、手を出しなさい。今後の再び女神の御力が暴走した時のためにこちらも持っておいた方がよかろう」
「銀色の布の他にも何か対策があるのですか?」
何かお守りでもあるのだろうか。わたしがフェルディナンドに言われるまま両手を揃えて出せば、ポンと軽く手の上に盗聴防止の魔術具と白い箱が置かれた。何だろう、と蓋を開けようとするより先に魔力が吸い出されるような感触がして、白い箱は白い繭状に形を変えていく。何度も見たことがある物なので、これだけ変化すれば嫌でもわかった。名捧げ石だ。
「フェ、フェルディナンド様、これはどういうことですか?」
「非常事態に私が君に近付けないようでは困るではないか」
「それはそうかもしれませんけれど、今回と同じように彼等を呼べば……」
「黙りなさい」
うにっと頬をつままれて、わたしはフェルディナンドに唇を尖らせる。そんなことのために名捧げを使うのは間違っていると思う。
「こんな騙し討ちのような名捧げ、あり得ません。もっと、何というか、とても大事な誓いではありませんか。エックハルト兄様達から捧げられているフェルディナンド様ならばご存じでしょう?」
わたしの側近達はそれぞれに大事な思いを自分の名前に籠めて捧げてくれたのだ。エックハルト兄様達から忠誠と命を捧げられているフェルディナンドにそれがわからないはずがない。フェルディナンドがわたしを主として欲しているわけではないのに、ただの手段として名を捧げるのは、彼等の誓いが軽んじられているようでひどく悲しい気分になる。
「女神の御力が消えるまでで構わぬ。……それ以上は望まぬ」
「ですから、そのような手段として……」
「女神の御力が消えるまでだ。それほど嫌ならば、私に命じて返却すればよかろう」
「家族同然と思っている方との間に主従関係が発生するのは嫌なのです」
お友達になれるかと思ったフィリーネにも、平民時代を知っているダームエルにも、主従としての線を引かれ、気安い関係にはなれない。わたしはフェルディナンドとの間に主従関係を入れたくないのだ。
「最初に私の命を救う手段として名捧げを利用したのは君だ。今回は諦めよ。どうせ、それほど長い期間ではない」
頑なにそう言い切ったフェルディナンドがわたしの手から盗聴防止の魔術具だけを取って、隣の自席に座る。緊急事態だったとはいえ、先に手段として利用したと言われれば反論の余地もない。わたしはフェルディナンドの名捧げ石を握って、そっと息を吐いた。
「さて、話し合いを再開してもよろしいでしょうか?」
皆がお茶を飲み、側仕え達が退室するのを見届けた上で、フェルディナンドが発言する。ひとまずツェントとして立候補したジギスヴァルトがいるので、ジギスヴァルトをツェントにするか否かを話し合うことになった。
「ジギスヴァルトをツェントにするのですか?……それは、その……」
トラオクヴァールとその第一夫人がひどく心配そうにわたしとフェルディナンドを見る。
「他に立候補する者がいなければ、そうなります。こちらの選択肢としては王族の内のどなたがツェントとなり、神々の要求するユルゲンシュミットへと変化させるということですから、立候補者がいればその方にお任せいたします」
「次期ツェントとしてユルゲンシュミットの貴族達に認められている私が最適でしょう。私がツェントになり、皆を救います。ご安心ください、父上」
ジギスヴァルトがいつも通りの穏やかな笑みでそう言った。王族をなくすためのツェントになることを、それほど誇らしそうな顔で言える心境がどうにも理解できない。
「では、ジギスヴァルト王子には神々からの要求を必ず実行してもらうために、光の女神や秩序の女神 ゲボルトヌーンに契約魔術を使って誓っていただきますね」
「契約魔術を……?」
「はい。女神の御力が消えた途端、神々の要求を無視したり、あまりにも先延ばしにしたりされては困ります。当然のことながら、新しいツェントには神々と契約していただきます」
これはわたしと交わす契約ではない。魔術を使った神々への宣誓だ。神々と直接契約する魔術なので人間同士の契約に比べると抜け道がほとんどなくて厳しい物になる。違反したら神々から厳しい鉄槌が下るらしい。のらりくらりと神々の要求から逃れるつもりだったのだろうか、契約魔術は怖いのか、ジギスヴァルトの顔色が悪くなった。
「ほぅ、確かに神々の要求に対して神々と契約をするのは妥当でしょう」
「えぇ。グルトリスハイトを得る前に、全てのアウブの前でユルゲンシュミットをどのように導いていくのか誓うようにすれば良いのではございませんか? そうすれば、他領のアウブにも神々の要求がどのようなものかよくわかるでしょう」
ダンケルフェルガーのアウブ夫妻が同意したことで、契約魔術を行うことは決定となった。テーブルの上に出されていたジギスヴァルトの拳がきつく握られる。
神々への宣誓に同意してくれれば、後は継承の儀式をいつどのように行うのか決めることになっている。それから、他の王族の扱いや廃領地になっている土地をどのように分けるのか決めればいい。
……まだ決めること、結構あるな。
わたしがお話し合いの流れを頭の中で思い返していると、フェルディナンドがカタリと立ち上がった。
「ジギスヴァルト王子、先程の事態で実感いただけたと思いますが、女神の化身からグルトリスハイトを賜るツェントが祭壇上で共に並び、始まりの庭へ向かうことができなければ大変なことになります。ツェントになるならば、ローゼマインに名を捧げてください。そうすれば、女神の御力の影響を防ぐことができます」
フェルディナンドの言葉にジギスヴァルトが目を瞬いた。確かに継承の儀式で新たなツェントになる人が女神の御力に当てられて倒れたら大変だ。
……でも、名捧げをそういう手段にはしたくないんだよ。おじい様に叱られた通りの結果になってるじゃない。
「私が名を捧げるのですか? 新たなツェントとなる者が、その後アウブ・アーレンスバッハになる者に? それではツェントの主がアウブということになりますが……」
いくら何でもおかしいのではないか、とジギスヴァルトが顔をしかめた。命を守る手段ではあるけれど、ジギスヴァルトの言う通り、ツェントとアウブの地位を考えればおかしい要求だとわたしも思う。
そんなことを考えていると、苦虫を噛み潰したような顔になったトラオクヴァールがそっと挙手した。
「何でしょう、トラオクヴァール様?」
「ローゼマイン様、御前でのお目汚し、大変失礼いたします」
断りを入れると同時に、トラオクヴァールが立ち上がってジギスヴァルトをシュタープの光の帯で縛り上げた。
「ジギスヴァルト、処刑が当然の我々に生き延びる選択肢を与え、グルトリスハイトを授けてくださる女神の化身に名を捧げて尽くすこともできぬ者にツェントとなる資格などないのだ。神々との契約を厭い、名を捧げることに拒否を示した其方はもうツェントにはなれぬ。いい加減に理解せよ。グルトリスハイトがなくとも王族としてあらねばならなかった我々の生き方が、其方の教育に深く影響していたとはいえ、失った地位にしがみつこうとする姿はあまりにも愚かで見苦しい」
トラオクヴァールが今にも泣きそうに顔を歪めた。第一夫人が静かに目を伏せる。縛り上げられたジギスヴァルトを見下ろし、フェルディナンドはトラオクヴァールに視線を向けた。
「トラオクヴァール様の判断でジギスヴァルト王子にはツェントをさせぬということでよろしいでしょうか?」
「今のジギスヴァルトが神々の要求するツェントになれるとは思えません」
「ですが、誰かがツェントにならなければ、王族は全員が白の塔へ入ることになります。よろしいのですか?」
フェルディナンドの言葉にトラオクヴァールはしばらく逡巡を見せる。自分で縛り上げたジギスヴァルト、自分の妻や子供達を見回した後、ゆっくりとその場に跪く。
「今となっては自力でグルトリスハイトを手にした者こそ、ユルゲンシュミットのツェントに相応しいと心底実感しております。……祭壇に上がり、女神の化身と共に姿を消したフェルディナンド様ならば、お持ちではございませんか?」