Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (665)
金粉作りと帰還
「退室するので、其方等は一旦下がれ。邪魔だ」
入ってこようとする養父様達の側近達を押し退けるようにしてフェルディナンドはわたしを抱きかかえたまま部屋を出た。部屋の外にはわたしやフェルディナンドの側近達もいて、抱きかかえられて出てきたわたしの姿に目を剥いた。
「フェルディナンド様!? ローゼマイン様に何か異変があったのですか!?」
一番に駆け寄ってきたのはハルトムートだが、わたしが想像していたような破廉恥を咎めたり、からかったりするような響きは全くなく、もっと切実で切羽詰まった感じの焦りを帯びた声に思えた。コルネリウス兄様も質問したそうな顔をしているけれど、それは決して今の状況を咎める顔ではない。
……あれ? もしかして、この状態を妙に意識しちゃってるの、わたしだけ?
「少しでもローゼマインの体力の消耗を抑えることを念頭に置き、一人で歩き回らせないように気を付けてほしい。場合によっては、今後回復薬が使えぬ可能性がある」
「薬が全く使えないのですか? 体力を大幅に回復させるお薬も、ですか?」
ハルトムートの質問に側近達が食い入るような目でフェルディナンドを見た。
「あれは体力を回復させる効果が強いが、全く魔力が回復しないわけではないのだ。今はほんの少し魔力が回復しただけでも神々の御力は大きく膨れ上がって、ローゼマインにとっては体の負担になるようだ。私はできる限り使いたくないと思っている」
フェルディナンドは腹立たしそうに「魔力が全く回復しない回復薬を研究する時間もない」と言いながら、アンゲリカにわたしを渡す。
「ローゼマイン様は大変なことになっているようですね」
わかっているのかわかっていないのか微妙な口調でアンゲリカに慰められて、わたしは少し視線を逸らした。皆が考えている「大変」と、わたしが考えている「大変」に結構ズレがあるようだ。
……エグランティーヌ様に破廉恥なことを口走っちゃってどうしよう!? なんて考えている場合じゃないみたい。
フェルディナンドだけでなく周囲の側近達は、わたしが誰に抱えられていても別に気にしていないようだ。あまりにも皆が普通の顔をしているので、恥ずかしいと思う自分が恥ずかしくなってきた。
よくよく考えれば、わたしは麗乃時代からずっと色恋沙汰には縁遠かったのだ。今になっていきなり色恋沙汰が起こるわけがないし、起こりもしないことで動揺する方がおかしいだろう。
……わたしなんて本と恋愛していたらいいし、中身が変わらなきゃ妖怪本スキーがまともな恋愛なんてできるわけないし、そもそもフェルディナンド様が恋愛なんてあり得ないし、変に意識するなんて自意識過剰にも程があるよ。うんうん。
自分に言い聞かせて、わたしはゆっくり深呼吸する。エグランティーヌに対する失敗は痛かったが、わたしが気にするほど周囲はフェルディナンドとの接触を咎めていないようだ。
……あれ? でも、ほんの少し前までは距離感を大事にって言われてたのに、なんでだろう? 非常事態だから? いや、でも、あの頃も非常事態だったよね?
何だか不思議に思ってわたしが質問しようと顔を上げた時、フェルディナンドは側近達をぐるりと見回して口を開いた。
「本日の金粉作成で今夜中に魔力枯渇まで魔力を使うことができれば良いが、今までの消費率を考えると楽観視はできぬ。また、一晩寝れば魔力が多少とはいえ回復してしまう。どの程度ローゼマインの魔力が回復するのか調べる必要はあるが、全く回復しないということはなかろう。そのため、明日中にアーレンスバッハを魔力で満たす旅へ出発できるように準備は整えておきたい」
急すぎる予定に反論する側近はおらず、むしろ、「そこまで時間がないのか」と焦りを含んだ顔になった。
「アーレンスバッハへの同行許可を得ている側近達はこれから寮内の荷物をまとめ、アーレンスバッハへ戻って祈念式の出発準備をするように。アーレンスバッハ領内は不作だったため、料理人と食材の手配には特に配慮が必要になる。いざという時には体力を大幅に回復させる薬を使えるように、ローゼマインが使う薬の類は私が準備する。ハルトムート、其方は神殿長の衣装のまま神殿へ赴き、神具を借りてくるように。貴族が祈念式を行うと言えば、文句は言われまい」
せっかくなので全ての神具を神々の御力で満たしてしまえ、とフェルディナンドが言った。祈念式で聖杯の魔力は使ってしまうので、残っている青色神官達の魔力の受け皿は聖杯だけで良いらしい。
「リヒャルダ、後で騎士達が金粉にするための素材を運んでくるはずだ。エーレンフェスト側の側仕えか文官を玄関口に待機させておいてほしい。それと、アーレンスバッハ向けの雑務はこちらで引き受けているが、今日の儀式を行ったことでローゼマインに直接オルドナンツが飛ぶことも考えられる。他領のアウブや王族との面会依頼などは全て断ってほしい」
神々の御力を使い切る以上に緊急の用件などないので、領主会議の場で話し合えば十分だそうだ。フェルディナンドの言葉に、リヒャルダは「かしこまりました」と了承する。
「ローゼマイン、私はこれからなるべく大きさを揃えた騎獣用の魔石を虹色魔石で準備するので、君の魔力で染めて全ての石をくっつけて大きくし、今の魔力で使える騎獣を作りなさい」
貴重な虹色魔石をいくつもくっつけて騎獣を作ったところで、魔力を染め変えたら使えなくなる。フェルディナンドならば何かに調合に使えるのかもしれないが、金粉にもなっていない他人の魔力で染まった騎獣用魔石の使い道がすぐには思い浮かばない。
「……すぐに使えなくなるので、虹色魔石をたくさん使うのは勿体ないと思いますよ?」
「勿体ないかもしれぬが、何日も続くことが予想できる旅で君や旅慣れない側近に休める場所がないと困るではないか。ギーベの館に出入りすれば無駄に体力を消耗するので、立ち入る予定はないのだ。騎士ならばまだしも、側仕えは農村の冬の館で過ごしたり、野営をしたりしたことがないであろう。少しでも安全で快適に休める場所は確保しておくべきだ」
わたしはポンと手を打った。確かにギーベの館を借りることにすると、長ったらしい挨拶から始まって、食事も共に摂らなければならないため、時間ばかりが無駄に過ぎていく。そもそもフェルディナンドから回復薬の使用を可能な限り避けるように言われたわたしには、見知らぬ土地の見知らぬ貴族との社交を連日行える体力などない。
それに、騎士でもない普通の貴族女性ならば、野営の経験者はいないと思う。側近達のためにもレッサーバスは重宝するはずだ。
……レッサーくんのすごさがやっとフェルディナンド様にもわかってもらえたよ!
「君は騎獣の魔石作りをした後、部屋に運び込まれる素材を次々と金粉化して少しでも魔力を消費しておきなさい。一晩寝ることでどの程度魔力が回復したか、明日の朝に尋ねるので魔力量を常に意識しておくように。それから、絶対に余計な体力を使うようなことや大きく感情を揺らすようなことはせず、おとなしく届けられる素材を金粉にしていなさい」
わたしの命の危機はわたしに名を捧げた者全員にとっても危機である、とフェルディナンドは厳しい顔で何度も念を押した。ゴクリと息を呑む音が周囲から聞こえてくる。命の重みがずっしりと圧し掛かってくる。
「離宮の貴族達はこれから順次アーレンスバッハへ帰していく。其方等も準備が整い次第、離宮へ移動するように。リヒャルダ、ローゼマインを頼む」
「かしこまりました」
指示を出すだけ出すと、フェルディナンドはユストクスとエックハルト兄様を連れて速足で去っていく。その様子を見送るでもなく、ハルトムートが踵を返して階段を上がり始めた。
「我々も準備を急ぎましょう」
アーレンスバッハへ一足先に戻る側近達が多く、皆が忙しなさそうにバタバタと動き回る中、シャルロッテとその側近達がエーレンフェストの採集場で騎士達が採集してきた素材を運び込んできた。
「神々の御力の影響が体の負担になるため、少しでも早くその影響を消し去らなければならないとお母様から簡単な事情説明を受けました。こちらの素材があれば、少しは負担が減るでしょうか? 今はお姉様のためにカルステッドが採集場所へ騎士を率いていきましたよ」
シャルロッテは自分の側近に素材の入った袋を運ばせながら、忙しなく立ち働く側近達の動きに目を留めた。来客を迎えるよりも出発準備を優先している側近が多い部屋の様子を見回し、わたしはリヒャルダに視線を向ける。素材を運び込んでくるのは文官や側仕えだと思っていたので、シャルロッテを迎える準備は全くしていなかったのだ。
「リヒャルダ……」
「このような有様ですから、シャルロッテ様の入室はご遠慮いただきたいと申し上げたのですけれど、どうしても姫様にお話をしたいと押し切られたのでございます」
リヒャルダの言葉に、わたしはシャルロッテに視線を移す。シャルロッテは困ったように眉尻を下げた。
「リヒャルダに無理を言ったのですけれど、わたくしがお話する前からすでに出発の準備が始まっているのですね。少し安心いたしました。わたくし、お母様から説明を受けた時に、お姉様はできるだけ早く貴族院を離れた方が良いと思ったので、進言しようと思っていたのです」
シャルロッテは安心したと言いながらも、気遣わしそうに藍色の瞳を揺らしてわたしを見つめる。わたしが気付いていないことにシャルロッテは気付いているように思えてならない。
「ねぇ、シャルロッテ。できるだけ早く、とはどういうことでしょう?」
「お姉様がお言葉や行動で示してくださったではありませんか。神事を行えば光の柱が立つ貴族院はユルゲンシュミットで神々に最も近い場所だと……。その分、神々の影響が大きい可能性が高く、神々の影響を抑えるならば早く離れた方がお姉様のお体には負担が少なくなるのではないでしょうか」
シャルロッテの説明にわたしは目を瞬いた。言われてみればその通りだ。わかっていたけれど、わかっていなかった。わたしはできるだけ早く貴族院を離れた方が良い。
「叔父様が準備を整えてくださっているならば安心です。お姉様は他者の命をとても大事にするのに、御自分の命を軽んじるところがございますから」
「……そのようなことはありませんよ。わたくしは図書館都市を造って、本に囲まれて過ごすのですから」
少し答えを躊躇ってしまったのは、「女神の図書館へ行けるんだったら死ぬのも怖くない」と考えたことがあるからだ。出入り禁止されてしまったので、今はメスティオノーラからお許しが出るまで死ねないと思っている。
「お姉様の図書館都市へわたくしも遊びに行きたいと思っています。ですから、必ず神々の御力を消してくださいませ。わたくしはこれで失礼しますね」
側近達の邪魔になるから、とシャルロッテはすぐに退室していく。もう少し話をしたかったが、今はゆっくりともてなす余裕のもないのだ。仕方がない。
持ち込まれた袋の中に手を突っ込んで、わたしは中に詰まっている素材を次々と金粉にし始めた。ぐりぐり掻き回して、固形物がなくなったら次の袋に手を突っ込む感じだ。神々の御力がなくても金粉にするのは苦労しなかったくらいなので、神々の御力がある今はいくら金粉を作っても魔力を使っている気がしない。金粉作りはあまり効果がないと思う。
……エーレンフェストと自分の図書館都市のためと思って頑張るけど、魔力は減らなそう。
エーレンフェストの素材を金粉にしているうちにアーレンスバッハからも素材が届く。それも金粉にしていく。
夕食の時にはフェルディナンドから革の袋にいっぱいの虹色魔石が届けられた。わたしは夕食後それに魔力を注いで染めると、「まるまれ。くっつけ」と念じながら騎獣用の魔石を作成していった。神々の御力のせいだろう。いつもの見慣れた淡い黄色のような色合いではなく、虹色のレッサーくんができあがった。
……おおぅ、あまり望んでいない方向にレッサーくんが進化したよ。虹色って微妙過ぎる。
でも、大量の虹色魔石を扱ったことで少し魔力が減った気がする。ちょっと嬉しくなって、わたしは就寝時間までせっせと金粉作りをしていた。
次の日、朝食を終えると、わたしは神殿長の儀式服に着替えさせられて多目的ホールへ運び込まれた。そこでギリギリまで金粉作りをしながらフェルディナンドがやって来るのを待つ。
「ローゼマイン、一晩でどの程度の魔力が回復した?」
「……そうですね。虹色魔石で騎獣を作った分と金粉作成に使った分は完全に回復していますね」
騎獣作成で魔力枯渇まで一歩進んだのに、寝て起きたら二歩下がっていたくらいの気分だ。わたしが唇を尖らせると、できあがっている金粉の量を見ていたフェルディナンドがこめかみを押さえた。
「一晩寝るだけでそこまで回復するのか。神々の御力による苦痛や影響などは?」
「魔力が回復した分だけ大変になりますけれど、魔力自体が四分の一くらいですから今はまだ大丈夫です」
立っていられないとか、呻く以外に何もできないというような苦痛はない。精々ちょっと発熱して頭がぼうっとするとか、体が少し重いような感じがするだけだ。わたしの発言にフェルディナンドは表情を険しくした。
「回復薬を飲まなくても、それだけの魔力が回復するのか。……本当に時間はなさそうだな」
そう言いながらフェルディナンドがわたしの護衛騎士に視線を向ける。この寮にいる護衛騎士はダームエルとユーディットだけだ。二人以外はすでにアーレンスバッハで準備している。
「ローゼマインは我々が連れていく。其方等は領主会議後にローゼマインの関係者が速やかにエーレンフェストから新しい領地へ移動できるように尽力せよ」
「はっ!」
フェルディナンドは当たり前の顔でわたしを抱き上げて歩き出す。寮を出たところにはアーレンスバッハの騎士達だけではなく、他領の貴族達もいた。わたしの姿を見て、貴族達が道を塞ぐようにしてザッと跪く。
「女神の化身よ。どうかアーレンスバッハだけではなく、我等の領地にも英知と祝福をお恵みください」
見せかけの祝福さえ躊躇ってしまう状況で、一体どのように返事をすれば良いのかわからなくて、わたしはフェルディナンドの服をつかんだ。フェルディナンドは厳しい表情で首を横に振った。
「今回の騒動の原因であるアーレンスバッハより先に政変の負け組を救済してほしいという訴えだ。無視して構わぬ。政変のいざこざは王族が何とかすることだからな。それより、急がねばならぬ。下がれ」
フェルディナンドは他領の貴族達にそう言いながらアーレンスバッハの騎士達に目配せする。騎士達が他領の貴族達を押し退けて道を作り始めた。
「道を塞ぐのではない。ローゼマイン様が通れぬ」
中央棟の転移扉が並ぶ廊下をフェルディナンドが速足で歩いていく。王族の離宮に繋がる扉より更に奥、今はフェアベルッケンの印が解かれている最奥の扉を騎士が開き、わたしは離宮へ移動した。
離宮に到着すると、窓に格子の付いた建物から隣の建物へ移動する。格子の付いた建物はアダルジーザの姫君や洗礼式前の子供がいたと思われる建物で、もう片方の綺麗に整えられている建物は傍系王族として登録された者達が住んでいた建物だそうだ。
ランツェナーヴェの館と繋がる転移陣があるのは傍系王族の建物なので、フェルディナンドは足を止めようともせずに移動する。ガランとして人の気配がない離宮の中を騎士達がずんずん進んでいく。
「先に我々が行く」
転移陣に乗れるのは三人までだ。わたし、フェルディナンド、エックハルト兄様の三人で転移すると、その先ではわたしの側近達が待ち構えていた。フェルディナンドはわたしをアンゲリカに押し付けるようにして渡すと、すぐに身を翻して離宮へ戻っていく。
「フェルディナンド様が最終確認をして完全に離宮とこの館を閉ざすのだそうです。何かの間違いで離宮からこちらへ侵入されると困りますから」
レオノーレがそう教えてくれた。わたしは「これから新しいツェントが使うのだから、アーレンスバッハの者達が出入りできないようにしておかなければならない」と聞いていたが、他領の者の侵入を防ぐためという名目で閉ざすことになっているらしい。
「出発準備は整っています、ローゼマイン様。先に城へ戻るように命じられているので、騎獣で向かいましょう。少しでも魔力を消費した方が良いならば、ローゼマイン様も騎獣を使われますか?」
新しく作ったのでしょう? とハルトムートに問われて、わたしはコクリと頷いた。アンゲリカに下ろしてもらい、虹色レッサーくんをお披露目する。
「造形は変わらないのですけれど、色が虹色になって、ちょっと可愛らしさがなくなってしまったのです」
しょんぼりへにょんという気分で、わたしが一人乗りサイズにした虹色レッサーに乗り込むと、「そんなことはありませんよ」と皆が慰めてくれる。
……うぅ……。皆、優しい。
「可愛らしくはありませんが、非常に神々しいです。女神の化身に相応しい乗り物だと思います」
「えぇ。このような全属性に輝く騎獣は初めて見ました! 素晴らしいです」
慰めてくれるなんて優しいと思っていたが、どうやら本気で皆はそう思っているようだ。わたしとしては前のレッサーくんの方が可愛いと思うのだが、グリュンのようだとドン引きしていた皆が今は全属性の輝きに歓喜している。
……ごめん。こっちの感覚はやっぱり理解できないみたい。
わたしは女神の化身らしい色合いだと称賛されながら騎獣で城へ戻った。虹色レッサーくんを微妙だと思うのはわたしだけのようで、側近達だけではなく城の者達も全属性の輝きに目を見張っている。
「とても美しい騎獣だと思います、ローゼマイン様」
「新しいアウブの騎獣からは全ての神々からの御力を感じます。なんと尊い……」
……形は一緒なのに! 美しいって!
「ローゼマイン様、騎獣は片付けて、こちらへお座りくださいませ。先に神具へ魔力を籠めてください。それから、こちらの聖杯を使うことができるのかどうか試しておくように、と言われています」
どうにも納得できないまま、わたしはハルトムートが神殿から持ち出してきた神具に魔力をどんどん込めていく。何人もの青色神官達が長時間かけて魔力を満たす神具も、結構すぐに魔力が満ちた。少し減ったが、それでも枯渇には程遠い。
「神具はこれほど簡単に魔力が満ちる物ではないでしょう?」
「なんと豊富な魔力でしょう」
その後、聖杯をつかんで傾けていると、虹色の液体が流れてきた。水の女神に祈る祝詞を唱えなければ自分の魔力の色がそのまま流れてくるようだ。祈念式では緑の液体が流れてくるのを見ていたので、妙な気分になる。
「ローゼマイン様の魔力を直接流す分には問題ないようですね」
「祈念式の時はフリュートレーネの貴色でしょう? これで土地が満たせるかしら?」
「試してみましょう」
ハルトムートが聖杯を手に取って、無造作に城の庭へ撒き散らした。わたしは勝手に動かないように言われているので椅子に座ったままだが、貴族達は庭の様子を見下ろして感嘆の声を上げる。
「見てくださいませ。花が開きましたよ」
「少し緑が濃くなっているのでは?」
聖杯から零れた虹色の液体に周囲の貴族達が「さすが女神の化身だ」と驚きの声を上げる。そんな称賛が少し耳障りに思えてきた。わたしは早くこの御力を消したいのだ。神々の御力を詰め込まれただけで、わたし自身は別にすごくも素晴らしくもない。神々の御力が消えたら元に戻ることを、一体どれだけの人が理解しているのだろうか。
……神々の御力が消えても、この人達はわたしをこの領地のアウブとして認めてくれるのかな?
そんな不安の方がじわりと胸に広がってきた。何だか神々の御力を手放すのが少し怖くなってくる。このまま神々の御力を抱えたままいる方が良いのではないかとさえ感じた。
「ローゼマイン様がこの御力でアーレンスバッハの全てを浄化し、満たしてくださるのですね」
感極まって喜びの表情を見せている貴族達を見回して、ハルトムートがフッと冷たく笑った。
「貴方達は何か勘違いしているのではありませんか? ローゼマイン様は貴方達のために罪に塗れたアーレンスバッハを清め、満たすのではありません。ローゼマイン様のための図書館都市を造るために相応しくないので整えるだけです」
「今のままでは、とてもローゼマイン様のお住まいには相応しくありませんもの。貴方達はアーレンスバッハの貴族だと主張して罪人になるか、ローゼマイン様を崇め臣民となるか、どちらかの道しか残されていないことを自覚するべきでしょう。少し教育が行き届いていないかもしれませんね」
クラリッサが当然の顔でハルトムートの主張に大きく頷いたけれど、そんな狂信者っぽい人ばかりいる領地も正直嫌だ。領民は本好きであってほしいけれど、もっと普通でいい。
「ハルトムート、クラリッサ……」
「ローゼマイン様、実は新しいツェントから文書が届いているのです。領主会議の場で発表するために、新しい領地の名前、色、紋章に希望があれば伝えてほしい、と。フェルディナンド様は祈念式の後で良いとおっしゃいましたが、これから図書館都市の住民になるのだと皆に自覚を持たせるためにも、早く新領地の名を決めませんか?」
図書館都市に相応しい希望の名前がございますか? と問われて、わたしは少し考える。
新しい領地の名前。
本がいっぱいの図書館都市に相応しい名前。
それを考えるだけで、何だかわくわくしてきた。アーレンスバッハの貴族達が何を言っても、わたしはここで自分のための図書館都市を造るのだという気分がもこもこと芽吹いてくる。芽吹きの女神 ブルーアンファに祈りを捧げかけて、思い止まった。
……祈っちゃダメだ。我慢、我慢。
でも、名前を考えたり、紋章を考えたりするだけで図書館都市に一歩近付いたような気分になる。頭の中には貴族院で提出した都市計画が展開中だ。
……薬草園を併設する図書館があった古代都市アレキサンドリアと、印刷が発達した後で書店数が世界一位になるくらいに本が集まる交易都市になったベネツィアのどっちがいいかな? それとも、世界の図書館の名前を取る? ああぁぁ、悩む。
わたしが楽しく悩んでいると、フェルディナンド達が騎獣で戻ってきた。
「待たせた。すぐに出発するぞ」
「フェルディナンド様はアレキサンドリアとベネツィアとどちらが新しい領地の名前に相応しいと思いますか?」
「この緊急時にそれは今すぐ必要なことか?」