Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (668)
魔力散布祈念式 後編
夜中に目が覚めた。冷たい汗で背中がじっとりとしていて、ひどく嫌な目覚めだ。何か夢を見ていたはずだけれど、思い出せない。繋がっていない記憶が繋がりそうで繋がらない苛立ちに顔をしかめていると、不寝番をしてくれていたらしいレオノーレが天幕を開けて顔を覗かせた。
「ローゼマイン様、お顔の色が良くありませんね。神具をお持ちしましょうか? お目覚めの時に神具へ魔力を流すと不快感が軽減することをリーゼレータから伺い、神具の魔力は全て使っていますから」
レオノーレによると、夕食の後にわざわざ護衛騎士達が神具の魔力を空にしてくれたそうだ。その心遣いが嬉しくて、わたしは神具を持ってきてもらうことにする。
……お腹は空いているし、寝起きは最悪だし、体はだるいし……。
重たい頭を抱えるようにして寝台の端に座り、レオノーレが持ってきてくれた神具に魔力を流し込んでいく。グレーティアが緩く髪を束ねただけの状態で慌ただしく入室してきた。レオノーレに起こされたのだと思う。名捧げをしたグレーティアでなければ、銀色の布を外したわたしに触れられないので、どうしてもグレーティアの負担は大きい。
グレーティアはわたしの寝汗がひどいことに気付き、すぐに着替えの準備を始めた。
「お風呂の準備はしなくてもヴァッシェンで十分です、グレーティア。その辺りにある魔石を利用してくださいませ」
わたしが魔力を込めた魔石は大量にある。グレーティアに使用許可を出しながら、わたしはレオノーレが差し出す神具に魔力を流し込んでいく。
グレーティアのヴァッシェンですっきりとした気分になり、別の寝間着に着替えたところでレオノーレがシュツェーリアの盾を差し出した。これが最後の神具だ。それにも魔力を注いでいく。不意に何かの気配を感じて、シュツェーリアの盾に手を触れたまま、わたしは周囲を見回した。
「どうかなさいましたか、ローゼマイン様?」
「下の方……。方角的には食堂か居間の辺り何かがいる気配がします。ジェルヴァージオが祭壇の奥から出てきた時に似た、何かが近くにいるような感じの……。まさかジェルヴァージオではありませんよね? そういえば、わたくし、あの後彼がどうしたのか報告を受けていないのですけれど……」
わたしが気配のある方向を探りながらそう言うと、レオノーレは何か合点がいったように頷く。少し考えるように視線を上に向けた後、クスと小さく微笑んだ。
「ここはローゼマイン様の騎獣の中ですから、許可もない何者かが侵入できるとは思えません。居間でお仕事をするとおっしゃったフェルディナンド様でしょう。お気になるのでしたら確認に向かいますか? 神具に魔力供給をしても顔色がまだ優れませんから、少し見ていただいた方が良いかもしれません」
レオノーレがそう言いながらグレーティアを振り返る。
「グレーティア。悪いけれど、ローゼマイン様のお召し替えを。そのままでも横になれる締め付けの緩い部屋着がいいでしょう。こちらに戻った後はローゼマイン様にそのままお休みいただくので、貴女は部屋に下がっても大丈夫ですよ」
「恐れ入ります」
部屋着に着替えさせられ、かっちりではないけれど髪をまとめられた。銀色のマントを羽織らされ、レオノーレと一緒に部屋を出ると、アンゲリカが「遅くなりました」と駆け寄ってきてスッとわたしを抱き上げた。
「ローゼマイン様、わたくしがお部屋に到着するまでお待ちくださいませ。極力歩かせるな、と命じられています」
キリッとした顔でアンゲリカに注意されて、わたしは小さく笑いながらおとなしくアンゲリカに身を委ねた。
一階の居間から明かりが漏れている。近付くと、エックハルト兄様が顔を出した。
「入りなさい、とフェルディナンド様がおっしゃっている」
「わたくしが来ていることがわかったのですか?」
「それだけ神々の御力を放っている者が移動してわからぬはずがなかろう」
……神々の御力って猫の鈴みたい?
居間に入ると、普段は食後のお茶を飲んでいるスペースが完全に執務室のような状態になっていた。自室には寝台と着替えなどの荷物を置くくらいのスペースしかないので、城から持ってきた仕事をフェルディナンドは居間で行っているようだ。
「どうした? 眠れないのか?」
「もう覚えていないのですけれど、嫌な夢を見て目が覚めたようです。神具に魔力を注いでいたら何かいる気配がして……」
ジェルヴァージオが祭壇の奥から出てきた時のように、姿が見えていないのに何かがいるような気配を感じたのだ、と答える。
「一体何かと思ったのですけれど、今回感じたのはフェルディナンド様だったようです」
「ほぉ……」
フェルディナンドが自分の隣に座るように、ソファの空いている部分を指差した。アンゲリカが指示された場所にわたしを降ろす。今までは感じなかった妙な気配がフェルディナンドからしているせいか、ちょっと落ち着かない。
「フェルディナンド様、ジェルヴァージオはどうなったのですか?」
「エグランティーヌ様達が捕らえ、記憶を覗いたそうだ。その内、正式な処罰について発表があろう」
捕まっているという報告にわたしはホッと安堵の息を吐いた。
「逃亡していたらどうしようかと思ったので、無事に捕らえられたのであれば一安心ですね」
「エグランティーヌ様やアナスタージウス王子は共に向かった護衛騎士の半数を失ったそうなので、無事に、とは言えぬと思うが……」
「え!? 半数とはどういうことですか?」
わたしは目を瞬いたが、フェルディナンドは興味なさそうな顔で積み上がった資料の中から紙をいくつも取り出し始める。
「新ツェントと彼女を支える夫が乗り越えるべき問題だ。君が余計なことを考える必要はない。それよりも、早急に行わなければならないアレキサンドリアの設計について話をしたい」
並べられた紙類が新しいアレキサンドリアの設計図だと気付いた瞬間、ジェルヴァージオのことは頭から飛んで行った。
「君が語っていた理想の街をなるべく取り込もうと思ったが、あまりにも図書館が中心すぎる」
「そのようなことをおっしゃられても図書館を中心にしなければ、何を中心にするのですか?」
わたしが造る街並みの中心に図書館がなくてどうするのか。わたしが文句を言うと、フェルディナンドが嫌な顔になった。
「貴族街の中心は城と図書館と研究施設で問題ないと思われる。君が頻繁に出入りし、自室の確保まで狙っている図書館だ。城と離れた場所に作るのは不用意な危険を招くことになりかねない。君は城の自室と図書室の自室を転移陣で繋ぐつもりのようだが、護衛騎士が転移陣に乗せてもらえなかった場合、護衛騎士のためにも距離が離れすぎるのはどうかと思う」
あまりにも不特定多数の者が出入りするのは警備の関係上、許可できないらしい。ただ、南北で地位に差が出るエーレンフェストと違って、アレキサンドリアでは街の中心部へ向かうほど地位が高くなるようにすることで各家庭と図書館の距離をなるべく近くしたり、城の図書室と図書館を別に作ることで見習いや洗礼式を終えた子供の立ち入りが簡単になるようにしたり、工夫してくれているらしい。
「でも、わたくしは誰にでも利用できる図書館が欲しいです。……うぅ、わたくしの領地なのですよ。アレキサンドリアでは誰でも本が読めることが大事なのですよ」
「街の将来の方向性としては間違っていないが、平民の識字率を考えると時期尚早だと言わざるを得ない。貴族の反発も大きかろう」
理想の街づくりから外れている気がする。わたしの訴えにフェルディナンドが「他人の話は最後まで聞きなさい」と手を振った。
「アレキサンドリアは女神の化身の新領地なので、平民を含んだ街全体を考えた場合は神殿を中心にすべきだと思う」
せっかく一から作り直すのだから、エーレンフェストの神殿の良いところを取り入れれば良いらしい。工房、孤児院、青色神官達の生活の場、神々に祈りを捧げて儀式を行う礼拝室を設置した神殿を下町と貴族街の間に置くのだそうだ。
「そして、いつだったか話をしていた神殿教室を富豪相手に行えば、平民の出入りが次第に当然になる。最初は神殿教室の利用者だけという形になるが、平民にも立ち入ることが可能な図書室を設置することはできよう。あまり急ぐ必要はない。大事なのは最初の一歩をいかに受け入れてもらうか、だ」
貴族院の図書館と同じで、本の盗難などを防ぐためには保証金の制度などが必要で、しばらくの間は会員制の図書館になるだろう、とフェルディナンドは言った。でも、それは麗乃時代の図書館の歴史を振り返っても同じことがあった。もっと時代を進めたくて少し歯痒い感じはするが、印刷業が盛んになって本の値段が下がらなければ難しいこともわかっている。
「富豪相手の神殿教室と神殿図書室の開放はとても良いと思います」
富豪の子供が貴族との繋がりを作り、立ち居振る舞いなどを身につける場として神殿教室を開けば、富豪の子供は神殿教室に通うのが当たり前になる。何とか伸し上がろうとする商人達や貴族のパトロンを探す職人も入ろうとするだろう。それらの動きはグーテンベルク達を見れば明らかだ。
「それから、君が言っていた区画整理という視点は実に面白いが、君が整理すると街の機能が図書館と印刷業に偏りすぎる。もう少し現実に合わせた整理が必要だ。まずランツェナーヴェの被害を受けた港、貴族街、神殿、商業ギルドや各協会など平民にとって中心的な建物を先に作り、平民の意見を聞きながら区画整理を行うのでどうであろうか?」
今まで命令しかしていない文官達を鍛える場にすればちょうど良い、とフェルディナンドが微笑む。
「街全体で大掛かりなエントヴィッケルンを行うと、平民の負担になりますから、平民と話をする場を設け、順次立て替えていく形で良いと思います。建物の様式はアーレンスバッハの物を参考にしましょう。気候一つとってもエーレンフェストとは違います。その土地に合った様式が一番良いですから」
「プランタン商会とギルベルタ商会については店の間取りをグレッシェルのエントヴィッケルン時に提出されていた物を採用する予定だったが?」
「こちらの様式の間取りを送り、彼等の判断に委ねてください」
気候には合わせた方が良いけれど、使い勝手の世間取りは個人個人で全く違う。何を重視するのかは本人達が選べばいいと思う。
「住まいや店がなければ移動させられないので、商業ギルドなどが立ち並ぶ下町の中心部にグーテンベルク達の店や工房もエントヴィッケルンで新しく作るつもりだ」
「これだけ細かく気を配っていただいているのですから問題はないでしょうけれど、職人達の家族が住む部分は確保できていますか?」
「……あぁ、もちろんだ」
フェルディナンドが少し目を伏せた後、広げていた紙を手早く片付け始めた。
「もうちょっと見ていたかったのにひどいですよ、フェルディナンド様。もう一度広げてくださいませ」
「君が興奮しすぎて大変なことになりそうなので、今日はここまでよかろう。……そろそろ一の鐘が鳴るぞ。一度眠った方が良さそうだ。少しは気が済んだであろう? 眠れそうか?」
フェルディナンドに問われて、わたしは首を横に振った。
「……眠ると魔力が増えるので今はあまり眠りたくありません。どうしても眠りたくなった時に眠ります」
「空腹感はどうだ? 空腹を訴えていた割には夕食があまり食べられなかったようだが、まだ空腹感が続いているのではないか? むしろ、もっとひどくなっているということは?」
フェルディナンドに問われて、わたしはコクリと頷いた。夕食の後も空腹感は続いているし、今はもっとお腹が空いている。
「……フェルディナンド様のおっしゃる通りです。何か心当たりがあるのですか?」
フェルディナンドは「全くないわけではない」と言った後、周囲を見回す。何か探しているような表情を見せた後、自分の手をヴァッシェンした。
「フェルディナンド様?」
フェルディナンドは自分の指先にほんのりと赤い薬を少し垂らし、薬の付いた指先をわたしの唇に押し当てた。すぐに離れた指先がハンカチで拭われるのを見ていると、フェルディナンドに「苦いか?」と問われた。
わたしは苦くて刺激的な味を想像しながら唇を少し舐めてみる。予想していた味に比べると苦みはほとんどない。舌はまだピリピリするけれど。
「いえ……。それほどではありません」
「ならば、良い。ならば、君が感じている空腹感は魔力が減りすぎていることに起因すると考えられる。魔力が減りすぎたことにより、体が危機を訴えているのだ。確実に魔力枯渇に近付いているといえよう」
普通は魔力が減った時点で回復薬を使う。長期間魔力が減り続け、眠って回復したはずなのにすぐさま魔力を使って回復させないという事態が長期化することはまずないために感じないそうだ。
「私はアーレンスバッハの供給の間で飢餓感を覚えた。一気に魔力を使うのではなく、少しずつ少しずつ削り取られていく時に感じるのだと思われる。……だが、ここから時間をかけると非常に苦しくなる。この後はできるだけ一気に減らしたいところだ」
「これ以上、苦しくなるのですか?」
もう嫌だよと思ったわたしは、思わずフェルディナンドから少し離れようとした。
「一気に枯渇状態へ持っていきたい。神々の御力が減少すれば、染め直すのに苦痛が少なくなることにも確認が持てたからな」
「……そうですか」
フェルディナンドは何やらやる気になっているけれど、この苦痛がまだ続くことを考えると、わたし自身はどうしても及び腰になってしまう。
「君は私に癒しの魔法陣をいくつも描くように言ったであろう? あの魔法陣をコピペとやらで、いくつも同時に行うことはできないか?」
コピペには神々の名前を唱える必要がないではないか、とフェルディナンドが言った。わたしは少し考えて首を傾げる。
「確かに神々の名前は必要ありませんし、癒しの魔法陣を写すだけでしたら、ヴァッシェンなどと違って力加減ができずに津波のような天災規模の失敗が起こる可能性は低いと思います。でも、それほど大きな魔紙がありませんよ。コピペは魔力があるところにしか写せないのです」
「魔力が満ちているところに写せるならば、少々乏しいとはいえ魔力を含んだ土地を魔紙に見立てることはできるのではないか?」
フェルディナンドの言う通り、地面は確かに魔力を含んでいる。貴族院の採集場でも地面に魔法陣が埋め込まれているのだから、できないわけではないだろう。
「外で実験したことがありませんけれど、できないことはないと思います。でも、仮に地面にコピペができたとしても魔法陣の拡大がどれほどできるのかわかりません。拡大や縮小の研究は時間がなくて行えていませんから」
時間がないから拡大や縮小の実験は後回しにしろと言ったのは、他ならぬフェルディナンドである。それを思い出したのか、フェルディナンドも少し眉を寄せた。
「そうか……。貴族院全体を覆っていた魔法陣のように巨大な魔法陣でアレキサンドリア全体を癒しの魔法陣で覆うことができるのではないかと思ったのだが、君の非常識なコピペでも無理そうだな」
「わたしのコピペを非常識だと言う前に、御自分の発想の非常識さを自覚してくださいませ。あれは古代の、現在よりずっと神々が身近だった頃にエアヴェルミーン様と神々が協力して作り上げた大規模魔術ではありませんか」
それをアレキサンドリアで行おうとするフェルディナンドに非常識呼ばわりされたくない。古代のツェントがエアヴェルミーンを通じて神々の協力を取り付け、エアヴェルミーンの魔石を基点としていくつもの魔法陣を組み合わせて貴族院を成立させている魔法陣である。
「あのような規模のことを今の時代に行えるわけが……」
わたしはそこで言葉を止めた。何かが今頭の中で閃いたのだ。
「ある、かもしれません」
「待ちなさい! エアヴェルミーンや神々の協力を取り付けに行くのは却下だ。他の方法を考えよう。君がこの騎獣の魔石をでき得る限り大きく広げ、そこに癒しの魔法陣を写し、クラリッサの広域魔術の補助魔術でできる限り範囲を広げた方がよほど確実ではないか」
自分で言い出したくせに、フェルディナンドはすぐさま却下を出した。わたしはうーん、と考え込んだ後、「グルトリスハイト」とメスティオノーラの書を出して検索する。
「……いえ。エアヴェルミーン様や神々に協力をお願いしに行く必要はございません。エアヴェルミーン様の欠片ならばフェルディナンド様が持っていますし、神々の御力もここにありますから」
わたしが自分の手をにぎにぎとして見せると、フェルディナンドが片方の眉を上げた。
「これだけ苦しい思いをしているのですから、ちょっとくらい神々の御力を自分勝手に利用してもいいと思いませんか? それに、古代の大規模魔術の復元、フェルディナンド様は興味があるでしょう?」
ふふっと笑うと、フェルディナンドは「悠長に研究する時間などないぞ」と嫌な顔をした。けれど、何やらブツブツ言いながら新しい紙を取り出すのだから興味は非常にあるようだ。
「貴族院の魔法陣のように複数の属性でいくつもの効果がある魔法陣を重ねて設置するのではなく、癒しの魔法陣だけを広げていくならばそれほど難しくないと思うのです。ほら、フェルディナンド様も見てくださいませ」
わたしは古代の大規模魔術について書かれている自分のメスティオノーラの書をフェルディナンドに見せた。側近達がいるこの場でフェルディナンドが自分のメスティオノーラの書を出すことはできないだろう。
フェルディナンドが少し頭を寄せて覗き込み、魔法陣を睨むように見つめる。
「ふむ。これで範囲を決めているならば、礎に起点を置き、全ての境界門を終点として魔法陣を設置すればアレキサンドリア全体を覆うことができそうだな。基点に設置するエアヴェルミーンの魔石の代わりはアレか……」
「恒常性というか耐久性は落ちるでしょうけれど、神々の御力で魔石化させれば効力は問題ないと思うのですよ」
「いや、一度きりで良いならば別の御力を注ぐより、あのまま利用した方がここ書かれたやり方に沿うはずだ。実験を繰り返す時間も素材もない以上、できる限り元の魔法陣に忠実な形で再現した方がよかろう。失敗はできぬ」
フェルディナンドがそう言いながら、手元の紙にものすごい勢いで何やら書き始めた。単語がダーッと並んでいるので、覚書に近いものだと思う。書く手を止めずにフェルディナンドは口を動かす。
「ローゼマイン、朝食終了後には騎獣を片付けて城へ戻る。城の隠し部屋で基点にするエアヴェルミーンの欠片に魔法陣のコピペを行ってほしい。それ以外の時間は体力の温存だ。私の文官に命じて全てのギーベに通達を、それから、ハルトムートには神具を神殿へ戻させなさい。クラリッサやローデリヒには貴族街の貴族達へ周知をさせよ」
「わかりました」
「レオノーレ、エックハルト。護衛騎士から各境界門へ見張りを出すことになる。その人選を行い、仕事の割り振りを考えるように。それから、側近達へ朝食後に城へ戻る旨の周知と準備を頼む」
「はっ!」
次々と指示を出していくフェルディナンドの声が一瞬遠くなった。熱の広がりを感じて、わたしは急いでメスティオノーラの書を閉じる。長時間使いすぎたようだ。
フェルディナンドが心配そうにわたしの顔を覗き込み、額や手首に触れて顔をしかめた。
「実際に境界門へ赴いて魔法陣の設置を行う部分は私が行うつもりだが、神々の御力を持ち、コピペで時間短縮が可能な君でなければ魔法陣の準備に非常に時間がかかる。どれだけ急いでも魔法陣を起動できるのは夜になるであろう。……あと一日、耐えられるか?」
「いつまで続くのかわからなかった時に比べれば、ずっと気が楽ですよ」
へらりと笑って見せると、フェルディナンドが「妙な強がりは止めなさい」と眉間に深い皺を刻み込む。でも、あと一日くらいならば何とかなると思うのだ。
「せめて、朝食後の移動や調合に備えて部屋で休みなさい。私も少し休みたい」
フェルディナンドは手早く資料類を片付け始めた。エックハルト兄様がそれを手伝い始める。わたしは夕食後から寝ていて眠気があまりないので意識になかったけれど、フェルディナンドはほぼ徹夜状態だ。これで朝食後にまた動き回るつもりだろうか。
……「できるだけ急いでも夜」って言ってたから、休憩するつもりなんてないんだろうけど心配だな。
朝食を終えると、城へ戻った。それぞれが指示のあった通りに動いていく。わたしはフェルディナンドの隠し部屋にいた。フェルディナンドにエアヴェルミーンの白い枝をランツェナーヴェのナイフで少し削って平らにしてもらい、そこに癒しの魔法陣をコピペで刻み込んでいくのだ。
「結構縮小しなければ枝に魔法陣が入りきらないので、最初は縮小の研究から始めなければなりませんね」
「君は馬鹿ではないか? そのような時間はない。諦めて元になる魔法陣を小さく描けばよかろう」
魔紙の上で縮小と拡大の実験をしようとしたら、フェルディナンドに冷たい目で睨まれた。そういうフェルディナンドは大量の魔石やら金粉やら貴重そうな素材を次々と投入しながら何かを作っている。「細かく描くの、苦手なので描いてください」とはとても言えない雰囲気だと思っていると、魔紙が一枚飛んできた。
「この魔法陣を写せるか試してみなさい」
わたしはフェルディナンドが描いてくれた魔法陣をコピペしていく。癒すの魔法陣や枝を魔法陣の基点とするための魔法陣など、言われた通りに準備した。今の状態ではほとんど魔力も減らないので、魔法陣のコピペはすぐに終わる。
「終わりました、フェルディナンド様」
「では、神々の御力を込めた魔石の準備をしなさい」
わたしは全属性の魔石ばかりを集めて丸めてくっつけて円柱状にすると、エアヴェルミーンの枝をガスッと刺した。本来はこの上に魔石を置くのだが、枝なので安定する形を模索した結果、突き刺すことにしてみた。意外と安定感がある。この魔石が神々の御力を受ける受け皿になるのだ。
小さい方が境界門の終点を示す物で、虹色レッサーくんだった魔石はすでに一度潰されて大きめのお盆のような形にされ、エアヴェルミーンの枝が突き刺さっている。
底に魔法陣を刻み込んだら完成だ。
「できました。神々の御力の魔石に枝を刺して固定してみたのですが、いかがでしょう?」
「とても古代の大規模魔術を再現しようとしているとは思えぬ気軽さと、君らしい非常識なやり方だ。私ではとても思いつかぬ」
「お褒めに預かり恐縮です」
褒められたことにしておく。それが精神衛生上一番だ。
「準備が終わったのであれば、少し休んでいなさい。自覚があるのか無いのかわからぬが、顔色は良くない。できれば君の自室へ戻らせて寝台で休ませたいところだが、今は側近が足りぬであろう?」
わたしがフェルディナンドの隠し部屋に籠って作業をすることで、側近達には少しの間休憩を与えているのである。二人がまとまって隠し部屋にいれば、扉の前を守る最低限の護衛騎士だけいれば、他の人は休憩できる。
「フェルディナンド様こそ休憩が必要だと思いますよ」
「君の魔力が枯渇した後の準備を整えなければならないことを考えれば、今は休めぬ。このまま問題なく準備が進めば、魔法陣を起動させる前に鐘一つ分は休めることになっているので問題ない」
……問題ないわけがないと思うんだけど。
「フェルディナンド様はどうしてわたくしのためにそこまでしてくださるのですか?」
じーっとフェルディナンドを見ていると、何となく口をついて疑問が出た。
「……どうして、とはどういう意味だ?」
「だって、フェルディナンド様はハルトムート達と違って、主としてのわたしに心酔しているわけでもありませんし、マティアス達のように処刑から逃れるために主を選んだわけでもないでしょう? このような状況ですもの。返せと言われればすぐに名を返すのに、フェルディナンド様は一度もわたくしに名を返すように言わないではありませんか。フェルディナンド様にこれだけのことをしてもらえる意味がわからないのですよ」
フェルディナンドは「意味か……」と少し考え込む。
「意味を問われると困る。私は君の家族同然なのだから当然ではないか。それ以上の理由が必要か?」
「え? でも、本当の家族でもそこまでしないと思いますよ。騎士団長であるお父様は養父様のため、エックハルト兄様はフェルディナンド様のためならば何でもしそうですけれど、わたくしのためにはそこまで奔走しないでしょうし、コルネリウス兄様やお母様も親身にはなってくれますけれど、貴族としてできないことの方が多いでしょう?」
貴族の家族はそういうものだ。神々の御力で触れられないのは困ると名を捧げたり、神々に喧嘩を売ったりしない。フェルディナンドは後見人だから、家族同然でも家族からかなり遠いと思う。わたしが首を傾げると、フェルディナンドはひどく苦い顔になった。
「ローゼマイン、君の家族は……」
「何ですか?」
「……いや、今はいい」
何かを言いかけたフェルディナンドが言葉を呑み込んで首を横に振った。その横顔がひどく傷ついているように見える。
「あの、フェルディナンド様?」
「私はここ二、三日の間、君の魔力消費量と回復量を見ていたが、アレキサンドリア全体を覆う魔法陣を起動すれば間違いなく枯渇する。あまり眠ることを恐れる必要はない。自室で休みなさい」
フェルディナンドは魔術具で自室の護衛騎士と連絡を取り、アンゲリカを呼んでもらう。そして、わたしを部屋へ連れていくように命じた。どうしてフェルディナンドが傷ついているように見えるのかわからない。隠し部屋へ戻っていくフェルディナンドに手を伸ばしたくなったけれど、何がいけなかったのかがわからなくて手を伸ばせないまま、わたしは目を閉じた。
起きると苦痛に苛まれることが嫌で仕方ない。体の内で膨れ上がっている神々の御力に辟易としながら、わたしはグレーティアに着替えさせてもらった。夕食を摂ったらすぐに大規模な癒しの魔術を行うことになっている。
わたしが今いるのは、アーレンスバッハの礎の前だ。アウブが使う部屋からアウブが持つ鍵で入れる小部屋を経由してやってきた。フェルディナンドに抱き上げられて。
「本来はアウブ以外入ってはならないのですよね?」
「……まぁ、そうだが、魔力が枯渇することがわかりきっている今の君を一人にするわけにはいかぬし、ディートリンデからこの鍵を取り上げたのは私だ。付け加えるならば、今の礎は魔力的に私をアウブと認定している」
「わたくしではなく、フェルディナンド様御自身がアウブ・アレキサンドリアになることは考えないのかな? と……。研究施設、好き放題に作れますよ?」
すでに設置されている白い枝の前に跪きながらそう言うと、フェルディナンドはわたしのすぐ隣に座って薬品類を準備しながら鼻で笑った。
「自分で作らずとも、君が作ってくれるのであろう? 私がアウブになる必要はない」
「フェルディナンド様って本当に欲がないですよね? 欲深さだけ見れば、わたしの方がよほど魔王っぽいですよ」
「そうか? 我ながら最近はかなり欲が深くなっていると思うぞ」
クッと魔王のような笑みを浮かべて言っているが、とてもそうは思えない。
「フェルディナンド様は図書館都市を建設して印刷される全ての本を自分の図書館に納め、いずれはどの領地の図書館の蔵書も写して印刷してわたくしの本にしてくれるわ。ほほほほって野望もないでしょう?」
「そのような野望を抱くのは君くらいであろう」
……全図書館制覇は人類の夢だと思うけどね。
わたしは自分の野望を諦めるつもりがないので、手始めに王宮図書館から貴族院の図書館へ移動される書籍を写本させてほしいとエグランティーヌに頼み込むつもりだ。
「野望を手にするためにも、その神々の御力を消し去らねばならぬ。始めよう」
「はい」
わたしは虹色に光っている盆状の魔石に手を触れる。魔力を注いでいくと、盆状の魔石の中に水が溜まっていき、水鏡のようになった。水は溢れる寸前で止まり、今度は真っ白だったエアヴェルミーンの枝が虹色に染まり始める。
エアヴェルミーンの枝から全属性の光が真っ直ぐに上へ上がっていく。礎の間にいるわたしからは外の様子が見えない。そう思っていたが、全属性の光が建物を突き抜け、外へ出た瞬間、水鏡に外の様子が浮かび始めた。
「フェルディナンド様、これ……」
「そのまま魔力を注ぎなさい。まだ魔法陣は完成していない」
「はい」
水鏡に映る光景は大勢の貴族達がシュタープを光らせて振っているところから、明かりが多い貴族街を経て、平民達の下町へ移動し、真っ暗の海を写すようになった。真っ暗とはいっても虹色の光に照らされて水面が揺れているのはわかる。国境門前の境界門で警備に就いているシュトラール、その他の騎士達の姿が映った。驚きの表情で見上げている。
「夜空に魔法陣が描かれていく様子を見ているのであろう。間抜けな表情だ」
「わたくしがその場にいたら、もっと間抜けな顔だと思いますよ」
「さもありなん」
……そこは否定してほしかったよ。
水鏡に映る光景は騎士達の驚き顔から境界門にあるエアヴェルミーンの枝になった。その後はまた上空へ向かった。
魔力がどんどんと魔法陣に吸い取られていく。少し熱が引いてきた気がした。
「今度はどこでしょう?」
「ダンケルフェルガーとの境界門であろう。陸地が近い」
ダンケルフェルガーの境界門で空を見上げているのはエックハルト兄様と何人もの騎士だった。境界門に詰めている青いマントのダンケルフェルガーの騎士達が何故か一緒に興奮の眼差しで空を見上げて騒いでいる。ダンケルフェルガーの騎士達がエアヴェルミーンの枝に触れないようにエックハルト兄様が必死に守っているのがわかる。
……ここの守りが一番大変かも。
フフッと笑っている間にまた次の境界門へ向かっていく。
魔力がぐんぐんと吸い取られていき、空腹状態が飢餓状態になってきた気がする。少し頭がくらくらとし始めた。
次の境界門にいたのはラウレンツ達、数人の騎士だけだった。旧ベルケシュトックとの境界門である。フェルディナンドがエアヴェルミーンの枝を置きに行く時に閉ざしたようで、領主会議の後、トラオクヴァールがアウブとして赴任してから両方のアウブの力で開けることになるそうだ。
熱が下がってきたのではなく、自分の体内で熱が作れなくて体が冷たくなってきているのではないかと思った時にフレーベルタークとの境界門に到着した。
ここにいるのはマティアスと騎士達だ。フレーベルタークの騎士達もいたが、ダンケルフェルガーのような祭り騒ぎにはなっておらず、ただただ圧倒されたような表情で上空を見上げているだけだった。
フレーベルタークの境界門とエーレンフェストの境界門はかなり近い。あっという間にエーレンフェストの境界門の光景が映るようになった。エーレンフェストの境界門にいるのはコルネリウス兄様のはずだ。
「……おじい様?」
何故かおじい様が境界門にいて、コルネリウス兄様を振り回している様子が見えた。
「昼間にジルヴェスターへ連絡したところ、貴族院の継承式を見に行くことができなかったのだから、境界門へは絶対に行くと言い張って飛び出したらしい。間に合うとは思わなかったが、コルネリウスを向かわせて正解だったな。他の者では相手できまい」
フェルディナンドの呆れたような声にわたしは小さく笑う。少し目眩がして、意識してゆっくりと呼吸しなければならないほど呼吸が浅くなってきた。
「もう少しだ、ローゼマイン」
すぐ隣にいるはずのフェルディナンドの声が少し遠く聞こえる。暗い海を通って水鏡に映る風景がこの城に戻ってくるまで耐えきらなければならない。何度か「大丈夫」と答えているけれど、声に力が入らず、盆状になっている魔石をつかんでいた手から力が抜けてくる。
「ローゼマイン、体の力を抜いて私にもたれかかっても構わぬから手は離すな」
隣に座っていたフェルディナンドがわたしの手を上から押さえ、力が抜けてきた体を抱え込む。普段は冷たく感じるフェルディナンドの手が熱いくらいだった。
「癒しと変化をもたらす水の女神 フリュートレーネよ 側に仕える眷属たる十二の女神よ 我の祈りを聞き届け 聖なる力を与え給え……」
フェルディナンドが早口で祝詞を唱え始めた。魔法陣は無事に完成したようだ。フェルディナンドの祝詞を聞いても、神々の御力は動かない。魔力がほぼ枯渇したのだろう。体が冷たくなって動かないのに、わたしの中は「やっと終わった」という安心感が広がっていく。
……フェルディナンド様、後はよろしくお願いします。
祝詞を聞きながらわたしはゆっくりと目を閉じた。