Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (669)
記憶 その1
暗闇にゆらゆらと漂う意識の中で一番に感じたのは、口の中が甘いということだった。グレーティアにうがい液を準備してもらわなきゃ、と思っていると、どこからかわたしを呼ぶ声が聞こえてくるようになってきた。何度も繰り返し、繰り返し呼びかけている声は耳に馴染みがある。
「……フェルディナンド様、ですよね?」
「遅い。もっと早く答えなさい」
呼びかけに答えたらいきなり文句を言われた。理不尽だと思うのはわたしだけだろうか。
「これでも一応気が付いた時点で答えたので、これより早く答えるのは無理です。……姿が見えないのですが、フェルディナンド様はどこにいらっしゃるのですか?」
辺りを見回してみるが、黒一面の視界の中にフェルディナンドの姿は見えない。それが何とも不安に思えて仕方がない。
「記憶を見る魔術具を使って意識を繋げているだけだ。落ち着きなさい」
「そうでした。魔力を染め終わったら記憶を繋げる予定でしたね。こうして意識が繋がったということは、もうフェルディナンド様の魔力に染まったのですか?」
「君に魔力を流してみたが、ほとんど抵抗がない。完全とは言えぬが、ほとんど私の魔力に染まっていると思われる」
それはよかった。もうあの神々の御力に振り回されることもないし、元の魔力に戻ったということである。口の中が甘かったのは、魔力を染めるために飲まされた薬のせいだということにやっと気付いた。
「ローゼマイン、これから私が覚えている限りの、君にとって大事な者達の記憶を見せる。だが、私に与えられるのはきっかけだけだ。君にとっての家族が誰で、どのような存在だったのか、どれほど大事にしていたのか、今の自分と当時の君とどれほど違うのか……。思い出しなさい」
命令口調のフェルディナンドの声には懇願が交じっていた。声は普段通りに淡々としているのに、何とも言えない焦りとわたしが記憶を取り戻すことを切望している気持ちが伝わってくる。
「あの、前に同調した時はわたしの記憶を見たフェルディナンド様がわたしの感情に振り回されたとおっしゃいましたが、今回はわたしがフェルディナンド様の感情に同調するということですか?」
「非常に不本意だが、そういうことだ」
ものすごい拒否感と躊躇いと諦めが伝わってきた。できることならば見せたくないとフェルディナンドが考えていることがわかる。普段あまり感情を見せないフェルディナンドが一体何を考えて、どんな記憶を見せてくれるのか不謹慎ながらちょっと楽しみになってきた。
真っ暗だった視界が突然神殿になった。まるで神殿に転移してきたみたいだ。神殿の廊下を歩いて神殿長室へ向かっているところだとわかるけれど、背が高すぎるフェルディナンドの視界から見る神殿の光景は自分の目で見る神殿の風景を少し違ってとても新鮮だ。きょろきょろと周囲を見回したいけれど、フェルディナンドの視界が固定されているために自分の見たいところは見えない。
「フェルディナンド様、あちこちを見たいです」
「記憶をそのまま流し込んでいるので無理だ」
神殿長室の前には見覚えのない灰色神官が立っていて、アルノーが取次を頼んでいる。部屋の中へ通されると、ボテッとした大きなお腹の前神殿長が視界の中で動いていた。好々爺そうな表情の中に抜け目のない嫌らしい目がギラギラとしていた。
「前神殿長は嫌いな人ですけれど、こうして見ると何だか懐かしいくらいですね。……あ、わたしが来ましたよ!」
ギルベルタ商会の見習い服を着たわたしが見覚えのない男女と一緒に部屋へ入ってきたのがフェルディナンドの視界に映る。この視点から見ると、平民時代のわたしの頭はフェルディナンドの腰くらいの位置にあり、袖に隠れて見えなくなる身長だ。
「ちっちゃい! わたし、めちゃくちゃちっちゃかったんですね! フェルディナンド様から見たら、こんな感じだったのですか。うわぁ、うっかり踏みそうだと思いませんでしたか?」
「自分を見た感想が、踏みそうとは……。それより、君が注目すべきは過去の自分ではなく、共にいる者達だ。彼等は君の両親で、名前はギュンターとエーファ。ギュンターはエーレンフェストの門番で、エーファは君の専属の染色職人だ」
あ、と思った。下町の記憶がほとんどないのは家族の記憶がないからだ、とようやく気付いた。ベンノやマルクと交わした契約や商売関係の記憶はあるのに、下町で生活をしてきた記憶がほとんどない。
……彼等がわたしの両親?
警戒を露わにした男女がわたしを庇うようにして、「マインを差し出せ」と言う前神殿長と対峙している。
「お断りします。孤児と同じ環境ではマインはどうせ生きられない」
「そうです。マインは身食いでなくても、非常に虚弱です。洗礼式で二度も倒れ、その後何日も熱が引かないような子供なんです。神殿で生活などできません」
男女の返答に、その後の展開が容易に想像できたわたしは血の気が引くのを感じた。平民が前神殿長に反抗するなんて一体何を考えているのだろうか。
……処刑されてもおかしくないよ!?
息を呑んだ途端、案の定、平民に反抗されて激昂した前神殿長が「神官に手を上げたら、神の名の元に極刑にしてやろう」と灰色神官達を部屋に招き入れて、幼いわたしを捕まえるように命じた。さすがに男女も諦めてわたしを差し出すのかと思ったが、予想は覆された。
「マインを守ると決めた時から、それくらいの覚悟はできている」
突然視界の中で灰色神官達が殴る蹴るの暴力にさらされ、思わず一歩引きそうになった。その途端、フェルディナンドの声が響いてくる。
「相手が神殿長であろうが、他領の貴族であろうが、どんな脅しにも一切の迷いを見せず、娘を守る男が君の父親だ。……君達家族を見た時の私の驚きがわかるか?」
フェルディナンドの声には懐かしさと羨望が交じっている。感情を隠すことに長けたフェルディナンドには珍しい感情の発露にわたしは目を瞬いた。
「わたしは今現在形で驚いています。ビックリするほど命知らずですよね」
「誰に何を言われても私の命を諦めず、ダンケルフェルガーまで巻き込んでアーレンスバッハに殴り込みをかけた君の父親らしいであろう?」
クッとフェルディナンドが笑う。怖いはずの暴力を振るっている男なのに、フェルディナンドの目で見ると、その光景はひどく眩しいものだった。我が子を守って上位者に盾突く男女の姿に驚愕と称賛の入り混じった感情が向けられている。
……ここまで子を愛し、守る親がいるのか。
そんなフェルディナンドの心情が掠めると同時に、ちらりと別の男女が視界に映った。養父様によく似た容貌で、もっと年上のもっと優しげな男が「時の女神の御導きだ」と少し困った顔で告げ、淡い色合いの髪をふんわりとまとめた穏やかそうな女性が「グリュックリテートの試練でしょうか」とそっと溜息を吐く。自分の視点が二人を見上げているので、フェルディナンドの幼い時の記憶だろうか。
ん? と思った次の瞬間には神殿の光景に戻っていた。気のせいと流すには、やけにはっきりと見えた。あれもおそらくフェルディナンドの過去の記憶に違いない。
「……先代のアウブ・エーレンフェストですか?」
「今は目の前の光景に集中しなさい。君の記憶を取り戻すためだぞ」
あからさまに質問への回答を避けて、フェルディナンドが意識を今の光景に戻していく。
「君もギュンターと同じで、家族に降りかかる理不尽を呑み込める子供ではなかった」
「わたくし、これでも結構理不尽を呑み込んできたと思うのですけれど……」
そう反論した途端、幼いわたしが前神殿長を威圧し始めた。瞳は油膜がかかったように変色し、ゆらりと体全体から淡い黄色の靄のような物が見え始める。わたしが自分の両親らしい男女を庇って全身で怒りを表していた。
「ふざけるなはこっちのセリフ。父さんと母さんに触らないで」
……父さんと母さん。
その呼び方が頭の中でこだまする。その呼びかけを知っているはずだ。ひどく懐かしいと感じる響きに胸が痛くなるのに、記憶が繋がらない。
前神殿長を相手にしても躊躇いなく立ち向かってくらいに大事にしてくれる両親がいて、二人を庇って虹色に目を光らせている幼い自分を見つめているのに、わたしには当時の自分の感情が理解できないのだ。むしろ、何故ここまで敵対して家族を庇うのか、と疑問に思う。自分から家族と離れた方が結果的には家族を守れるはずなのに、と考えてしまう。
フェルディナンドが、小さな体で必死に家族を守ろうとしているマインの姿を見つめて感嘆し、自分では庇えないレベルの罪に足を踏み入れることに危機感を覚えている。今のわたしにはフェルディナンドに共感する方がよほど容易い。
「フェルディナンド様、記憶が繋がりません。知っているはずなんです。父さんと母さんという呼び方が懐かしいのに……わかりません」
歯痒くて悔しくて泣きたくなってくる。思い出さなければならない人達だとわかる。できることならば思い出したい。でも、繋がらない。
「……ならば、別の人物も見てみるか?」
フェルディナンドがそう言った途端、神殿長室から神官長室に景色が変わる。神官長室は見慣れているけれど、部屋の中は見慣れた家具の配置ではなくなっていた。テーブルを真ん中に、椅子が四角に設置されている。正面には見覚えのない金髪の男の子がいて、左右にラルフの両親とベンノとマルクがいた。
「これは一体何の集まりですか?」
「ここにいる者は全て記憶にあるか?」
「目の前の男の子だけがわかりません。他は知っていますよ」
ベンノとマルクはわかるのか、とフェルディナンドが呟いた。ベンノとマルクはわかる。下町で商品を売り込んでいった記憶があるのだ。
「彼の名前はルッツ。右手に座っている男女が彼の両親だ」
「ラルフの両親だということがわかるのにルッツだけわからないってことは、わたしにとって大事な相手なのですね」
「……あぁ。君の代わりに紙を作り、ベンノの店で勤め、神殿の工房に出入りして孤児達を森へ連れ出し、グーテンベルクとしてエーレンフェスト内に印刷を広めてきた者だ。印刷に関しては君の手足であり、君にとっては非常に大事な、家族同然の存在だ」
「家族同然?」
フェルディナンドが「見なさい」と言った。目の前では口下手なディードが言葉を探しながら一生懸命に自分の発した言葉の意味を説明している姿がある。
「自分の夢を否定され、行動を縛られ、家から逃げ出した彼を君が庇った。できれば彼を家族と和解させたい。和解できなければ孤児院で一旦引き取り、ベンノと養子縁組をさせたいというのが君の希望だった」
「どうしてフェルディナンド様が関わっているのですか?」
平民の家族問題にフェルディナンドが首を突っ込んでいるのが不思議で仕方がない。
「孤児院長である君が幼いため、ベンノが養子縁組を行うならば私が手を貸す必要があった。職務の一環だ」
フェルディナンドの口はそう建前を教えてくれたけれど、別の感情も流れ込んでくる。マイン家族以外の平民の家族について知りたかったという動機もあったらしい。
話し合いの間、フェルディナンドはじっとディードとカルラを見ていた。ぶっきらぼうで粗野な言動の端々から息子に対する思いが感じられる。それがルッツには見えていないことがフェルディナンドにはすぐにわかったようだ。
ルッツに向けられる感情は「これだけ親に心配され、愛されているのに一体何が不満だ?」という呆れと妬みが大半を占めていた。フェルディナンドは親側の心情がなるべく歪まないようにルッツに届くように思いやりながらその場を取り仕切っている。
話し合いが進むにつれ、ルッツの顔が強張った表情から力の抜けた表情へ変わっていき、話題はルッツの養子縁組関することになった。ベンノの申し出をディードはハッキリと断る。
「アンタは経営者としては立派だろうし、商売人としても有能だろうよ。ルッツのことで面倒をかけても、それに付き合うだけの度量も寛大さもある。だが、親にはなれん」
ベンノに対するディードの言葉にフェルディナンドの心に少し波が立った。親にはなれないと断言されるベンノへの警戒心、平民の親子関係への興味が交じっている。
「ベンノが親になれないというのはどういう意味か説明しなさい。何か悪い評判でもあるとでも言うのか?」
「いくら仕事の評判が良くても、養子にする理由の一番に店の利益を上げるようなヤツが親にはなれん。親になるというのは利益で考えることじゃない。違うか?」
ディードの言葉にハッとしたのはベンノだけではなかった。フェルディナンドも軽く息を呑んでいた。その頭の中に蘇って響いたのは「領地のため」「時の女神の御導き」という男の声だ。
誰の声なのかわたしにはわからない。けれど、予想外にディードの言葉が深く刺さり、フェルディナンドの中に諦めと似た感情が広がっていくことから考えれば先代のアウブ・エーレンフェストではないだろうか。
ゆっくりと息をして、わずかに乱れた呼吸を整えるフェルディナンドを誰も見ていない。皆が注目しているのはディードとベンノのやり取りで、親の愛情を確かに受け取ったルッツの涙だ。
「ほれ、帰るぞ、バカ息子」
ゴンとゲンコツを落とされても嬉しそうなルッツがひどく眩しくて羨ましい。自分には絶対に手に入れられないものを生まれた時から手にしている平民の子供をフェルディナンドは羨望の目で見つめている。
疲れた気分で家具の位置を戻す側仕え達の仕事を眺めていたフェルディナンドは自分の隣にも平民の子供がいることを思い出した。見下ろせば、最初に命じた通りにまだ盗聴防止の魔術具を握っているマインがいる。
「あの家族が壊れなくて良かったな。家族と和解させて、ルッツを家に戻す。それが君にとって最良の結末だったのだろう?」
盗聴防止の魔術具を握ってマインにそう言えば、マインは「よかった」と言いながら大粒の涙を流し始めた。感情の赴くままに泣いたり笑ったりするのは優雅ではない。フェルディナンドが泣き止むように注意しても、嬉し涙だからいいのだとマインは笑みを浮かべて泣き続ける。
「ルッツ、よかった……」
まるで自分のことのようにルッツを案じていたマインをじっと見下ろす。赤の他人にここまで肩入れし、血を分けた家族でなくても深い情を交わすことができるマインをフェルディナンドが本気で不思議に思っていることが伝わってきた。
……どうすれば君は……
「ローゼマイン! ルッツのことは思い出せたか?」
「へっ!?」
突然思考を掻き消すような大声で問われて、わたしは目を丸くする。フェルディナンドが何を考えていたのか、わたしが何を考えていたのか一気に霧散した。
「な、何の話をしていましたっけ?」
「ルッツのことを思い出せたかどうかを尋ねている」
「いいえ、思い出せません。ただ、当時のわたしがとても大事に思っていた相手だということはよくわかりました」
より理解したのは、フェルディナンドが家族や親という存在にとても思い入れがあることだ。今のわたしには記憶にないルッツの言動よりも同調しているフェルディナンドの心情の方がよほど気にかかる。フェルディナンドが口にする「家族同然」はわたしが考えていたよりずっと重い意味を持つ言葉なのではないだろうか。
「ルッツに関しては全く記憶にないせいか、どうにも記憶の中にあるマインの心に同調できないのです」
「記憶が全くない? 姿を見ても、声を聞いても思い出さないということか?」
「そうですね。さっきの両親の記憶はもう少しで繋がりそうだったのですけれど、ルッツはあまりそういう兆しもありませんでした」
フェルディナンドの感情に驚愕と困惑とジリジリとした焦燥感が交じり込んだ。「それほどルッツは大事な存在か」という呆れと苛立ちに加えて、どの記憶からならば繋げやすいのか、必死に考えているのが伝わってくる。
「夢の世界の記憶はあったな? あれからならば少しは繋げやすいか?」
麗乃時代の記憶はあるから、別に繋げる必要はないと思う。けれど、フェルディナンドにとっては何か思い入れがあるのかもしれない。フェルディナンドの心情が知りたくて、わたしはその記憶も見せてもらうことにした。