Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (672)
名捧げの石と婚約の魔石
「……あ」
居心地の良い温もりに身を委ねているうちにハッとした。神々の御力が消えたら、人がいないところで早めにしておかなければならないことがあったのだ。
「フェルディナンド様。名捧げの石、お返ししておきます。神々の御力が消えたので、もう必要ないですよね?」
神々の御力をまとっているわたしに触れられないのは困るという理由で、フェルディナンドはわたしに名を捧げていた。あれは返しておかなければならない。ごそごそとフェルディナンドから預かっている名捧げの石を取り出す。
白い繭のようになっている名捧げの石を差し出したけれど、フェルディナンドはそれを手に取ろうとはせずに、少しだけ視線を逸らした。
「……私の名は必要ないのか?」
どことなく落ち込んだ雰囲気を感じて、わたしは内心で焦る。必要ないという言い方はまずかったらしい。
「必要ないというか、フェルディナンド様の名はわたくしが持っているべきではないのですよ」
「何故だ?」
「家族関係の中に主従関係が入るのは嫌じゃないですか。家族は対等でなくちゃダメなのです」
いずれ夫婦になるのだとすれば、尚更名捧げなんて必要ないと思う。フェルディナンドは名捧げの石とわたしを見比べるだけで、受け取ろうとはしない。
「何かご不満ですか?」
「……別に私の名を返さなくても、対等になれる方法はあるはずだが?」
フェルディナンドにそう言われて、わたしは首を傾げた。何かあっただろうか。うーん、と考え込んでレオノーレの言葉を思い出した。確かヴェローニカ派の子供達の名捧げを受け入れるかどうかについて話をしていた時に、「愛する方に名を捧げ、捧げられ、永久の想いを誓うことには憧れます」と言っていた。
「わたくしもフェルディナンド様に名を捧げれば、ということですか? 確かに対等にはなれるでしょうし、ロマンチックかもしれませんけれど、現実的ではないでしょう? レオノーレはそう言っていましたし、わたくしも同じように思います」
「現実的ではない、か」
「はい。だって、残される者が困るでしょう?」
「残される者とは誰の話だ?」
よくわからないというようにフェルディナンドが眉間に皺を刻んで先を促す。
「残される者というのは……えーと、その、わたくし達がいずれ……結婚したら、ですね。こ、子供が、生まれる可能性も、全くないわけではないでしょう?」
まずい。何だろう。「結婚」とか「子供ができる」ということを考えたり、それをフェルディナンドと話をしたりすることがどうにも恥ずかしい。自分に全く関係がないと思っていた事柄が急に身近になったせいだろうか。
……うぅ、平常心。平常心。
「わたくしはアウブですから、血を分けた子ができなくても養子縁組などで跡継ぎは必要になるでしょうし……まぁ、そういう感じの、そう、図書館都市を守っていってくれる子達のことですよ。レティーツィア様も入るでしょうか? 王命を利用してわたくし達が婚約するのでしたら、王命の養子縁組も行いますよね?」
わたしの言葉にフェルディナンドがフンと鼻を鳴らした。
「王命だからな。レティーツィアを領主候補生として置いておくためには先にアーレンスバッハの慣習を廃する必要があるが、君との星結びの儀式の後で養子縁組をする予定だ。ランツェナーヴェ戦で孤児になった貴族の子という意味ではレティーツィアも同様なので、養子縁組を終えるまでは基本的な生活を神殿でさせるつもりだが……」
フェルディナンドの言葉にわたしはホッと胸を撫で下ろした。被害者であるフェルディナンドの判断に任せることにしていたが、レティーツィアの罪を隠すことに同意してくれただけでわたしは安堵する。利用されたとわかりきっている子供にきつい罰を与えずに済んでよかった。
「……それで、子供と我々の名捧げに一体どんな関係があるのだ?」
「ですから、その、わたくし達はふ、夫婦になるわけですよね? 片方がはるか高みに向かった時に名を捧げていたことで、もう片方まではるか高みへ向かうのですよ? 残された子供はとても苦労すると思います。片親を亡くしただけでも大変なのです」
麗乃時代のわたしは父を交通事故で亡くしている。母親が仮に名を捧げていて一緒に亡くなっていたらと考えると、とても怖いではないか。こちらの世界でもベンノ、ギーベ・イルクナー、養父様のように親を亡くして苦労している者は少なくない。
「養父様も早くアウブを告ぐことになって苦労されたのでしょう? 成人していても苦労するのに、その子が未成年だったらどうなりますか? アレキサンドリアにはおじい様のような引継ぎのできる成人の領主一族がいません。今のところはわたくし達だけですよ。レティーツィア様を入れても三人です。碌に引継ぎもできないまま、アウブ夫婦が共に亡くなる危険性は排除しておかなければならないと思いませんか?」
フェルディナンドが意外そうなというか、考えていない部分を指摘された時の顔でわたしを見下ろす。
「なるほど。君の言いたいことは理解した。正直なところ、図書館が関わらぬ自分の将来など全く関心のなさそうな君が、そのように将来を見据えた発言をするとは思わなかったので少々驚いた」
フェルディナンドはひどいことを言いながら、わたしに立ち上がるように促す。そのくせ、名捧げの石を手にしようとしない。わたしは「早く立ちなさい」と言うフェルディナンドを軽く睨みながら立ち上がった。
「フェルディナンド様、名捧げの石を……」
フェルディナンドは軽く手を振りながら立ち上がると、周囲に散らばっている薬入れや様々な器具を見下ろし、「片付けは明日だな」と呟いた。
「フェルディナンド様」
「こちらへ来なさい。体調はどうだ? 魔力は落ち着いているか?」
わたしの額や首筋に触れて健康診断を行う。睡眠前にどの薬を飲ませるのが適当かと思案し始める様子を見れば、名捧げの石を受け取る気が全くないことは嫌でもわかる。
「フェルディナンド様!」
「……二年ほど後に返してもらうので、それまでは持っていなさい。君がシュツェーリアの盾を手放す必要はなかろう」
そう言いながらフェルディナンドは当たり前のようにわたしを横抱きにして歩き始めた。
「え? シュツェーリアの盾? 名捧げの石で作れるのですか?」
頭の中に疑問符が生えてくる。首を傾げてみたけれど、フェルディナンドはそれ以上何も言わずに礎の間を後にした。
「ローゼマイン様、フェルディナンド様。なかなかお戻りならないので心配しておりました」
「魔力が枯渇した後、ローゼマインの意識がなかなか戻らなかったのだ。今はもう心配ない」
アウブの自室には側近達が集まっていたようで、急ぎ足で駆け寄ってきた。ハルトムートとクラリッサはいかに古代魔術の再現が素晴らしかったのか教えてくれる。夜空に次々と光る魔法陣が出現する様子はまさに女神の化身に相応しい大魔術だったそうだ。
「境界門へ行った騎士達はまだか?」
「そろそろシュトラール達が戻ると思われます」
「そうか。……アンゲリカ、ローゼマインを部屋へ」
フェルディナンドはわたしをアンゲリカに渡すと、側仕えに指示を出し始めた。
「グレーティア、リーゼレータ。ローゼマインにはブレンリュース入りの回復薬を飲ませ、ゆっくりと休ませることを最優先にしてほしい。今日は入浴させずにヴァッシェンで済ませ、体調を見た上で明日以降にするように。ゼルギウスは私が戻り次第、休めるように準備を。ハルトムート、クラリッサは文官達を集めよ。ユストクスは明日以降に調合室を使えるように整えておくように」
次々と指示を出すフェルディナンドには疲労の色が濃い。わたしは思わず手を伸ばした。
「フェルディナンド様、シュラートラウムの……」
「ローゼマイン、頼むから今日くらいは神々に祈るのを止めてくれないか?」
「……わかりました。明日にします」
わたしはアンゲリカに抱き上げられたまま、部屋へ運ばれていく。
「畏怖を感じる神々の御力は完全に消えたようですね。銀色の布がなくても近付けます」
「ほんのりと光り輝いていらっしゃったローゼマイン様はとても神々しかったのですけれど、こちらの方が落ち着きます」
リーゼレータ達にそう言われて、わたしはやっと神々の御力が消えたことを実感できた。
朝起きたら気分爽快だった。よく眠れたし、魔力が回復しても苦痛がないのだ。最高である。髪を結うリーゼレータの手付きには震えもない。何というか、人間に戻った気分だ。
「ローゼマイン様。朝食を終えたらフェルディナンド様が体調を確認したいそうです」
「わかりました、グレーティア。今日は読書の時間が取れるかしら?」
「どうでしょう? ローゼマイン様の体調次第と思われますが、たくさんの予定が詰まっていますから……」
グレーティアがそう言いながらクラリッサに視線を向ける。予定はどうやらクラリッサが把握しているようだ。お任せください、と大きく頷いたクラリッサが書字板を開く。
「領主会議まで本当にお忙しくなりそうですよ。まずエントヴィッケルンを行って、次に新ツェントを迎えて罪人の処罰を行い、婚約式を終わらせなければならないそうです。エントヴィッケルンを行う貴族街は大変なことになっていますし、文官達はエントヴィッケルンに向けた設計図の作成に駆り出されています」
「え? 婚約式ですか!? ちょっと待ってください。どうしてそのようなことに……?」
昨夜、礎の間で婚約を了承したけれど、婚約式の話は聞いていない。昨日の今日でどういうことなのか、とわたしが目を丸くすると、クラリッサも青い目を丸くして首を傾げた。
「できるだけ早くエントヴィッケルンを行わなければローゼマイン様の専属であるグーテンベルク達の住まいや戦いの中で生まれた孤児達の居場所に困りますし、ランツェナーヴェの暴れた街並みに新ツェントをお迎えするのは不敬でしょう」
エントヴィッケルンを急ぐ理由はわかった。今日の住まいに困る者達がいるならば、確かに急いだ方が良いだろう。領主会議で正式にアウブが承認されると同時にグーテンベルクと一緒にフラン達も呼び寄せようと思えば、エントヴィッケルンで作った建物に扉や窓をつけて置く必要がある。
「でも、エグランティーヌ様も領主会議の準備でお忙しいでしょう? 今お招きする必要があるのでしょうか?」
「新ツェントの訪れは罪人の処分や引き渡しに加えて、これからお住まいになる離宮と繋がっていたランツェナーヴェの館が確かに消されたことを確認する意味もあるようです。一番重要なのは、ローゼマイン様とフェルディナンド様の婚約を承認することだそうですけれど」
「ツェントによる婚約の承認は領主会議の時に行うことですよね? この忙しい時期に前倒しにする必要があるのですか?」
婚約式を行うには心の準備が必要だよ、と思いながらわたしが唇を尖らせると、側近達が目を見開いてわたしを見た。
「婚約式をしなくて困るのはローゼマイン様ではございませんか? 未成年のローゼマイン様がお一人で領主会議へ向かうのは少々荷が勝ち過ぎていると存じます」
「領主会議前に婚約式を行い、ローゼマイン様の正式な婚約者になっていなければエーレンフェスト籍のフェルディナンド様は領主会議へ同行することができませんよ?」
「他に領主一族がいらっしゃいませんし、ローゼマイン様はアレキサンドリアで一月も過ごしていません。以前のアーレンスバッハの事情の情報に疎く、全ての貴族と顔を合わせたこともないのですからフェルディナンド様のご協力は必須ではございませんか?」
リーゼレータ、クラリッサ、グレーティアから口々に言われて、わたしは息を呑んだ。そんなことは全く考えていなかったが、確かに婚約式をしなければ困るのはわたしだ。大勢の貴族達の前で魔石の交換をしたり、神々の名前が次々と出てくるような壮大な愛の告白をしたりするのが恥ずかしいとか、ちょっと心の準備をする時間が欲しいなんて躊躇っている場合ではなかった。
「予定とその事情を理解しているならば話が早い」
健康診断の後、調合室に入ったのはわたしとフェルディナンドとユストクスとハルトムートとクラリッサの五人だ。フェルディナンドの調合に慣れた者でなければ、下準備の手伝いさえ邪魔になるという理由で名捧げ済みの文官だけが調合室への入室が許された。護衛騎士は調合室の外で待機している。
「婚約式で交換する魔石と領主会議へ同行する貴族達のブローチを調合しなければならないが、君の魔石恐怖症の方はどうなのだ?」
わたしは作業台の上に並べられた素材の中にあるいくつかの魔石を見た。すぅっと頭から血の気が引いていき、体が小刻みに震える。震える指先で魔石をつまんで、へらりと笑って見せた。
「ほ、ほら。へ、平気ですよ。嫌な記憶が怒涛のように押し寄せて一気に繋がったせいでしょうか? 個々の衝撃は少しずつ和らいだ感じですから……」
「腰が引けた涙目で震えながら言われても全く説得力はないが、気を失うことはなさそうな分、確かに以前よりはマシか。どうしようもなければ、私が代わりに作成することも考えたのだが……」
……え? フェルディナンド様が自分で自分用の婚約の魔石を作るってこと?
その様子を思い浮かべて、わたしは首を横に振った。お守りをあげた時に「もらうことない」と喜びを噛みしめていたフェルディナンドの姿を覚えている。さすがに婚約の魔石をフェルディナンドに作ってもらうのは嫌だ。できる限りのことをしてあげたいと思っている。
「わたくしが作りますよ。自分がやるべきことをしなかったら後で大変なことになるというのは、今までにたくさん見てきたではありませんか。ここで逃げたら女が廃ります」
「口調は勇ましいが、婚約の魔石の作成はそのような戦いに赴く騎士のような覚悟で行うことではないぞ」
フェルディナンドが心配そうな顔をしながら、「手を出しなさい」とわたしの前に拳を差し出した。なるべく魔石を視界に入れないようにしてくれている気遣いを感じながら、わたしは手を差し出した。
「レーギッシュの鱗から取った魔石だ。女神の化身に相応しい大きさの物を選んでいる。元々が鱗だとわかっていれば、多少は恐怖も和らぐのではないか?」
「恐れ入ります」
ほとんど視界に魔石を入れないまま、わたしは震える手に力を入れて、魔力を流していく。この魔石を自分の魔力で染めるのだ。冷たい感触に少し背筋が震える。それでも、手の中にあって見えていないのでまだマシだ。
「あまり無理をせずに取り掛かりなさい」
「わかっています。魔石になんて負けませんから」
わたしが自分の手を睨むようにしながら頷くと、フェルディナンドが一つ溜息を吐いて、頭を軽く何度か叩いた。
「力みすぎだ。魔力を流す前に、魔石に刻む言葉を考えた方が良いのではないか?……あぁ、私に質問してきた例の言葉は避けるように」
「入れませんよ!」
意味を知った上で直接的な閨への誘い文句なんて刻めるわけがない。あの頃の自分の失敗に今更ながら赤面しつつ、わたしはフェルディナンドを睨む。
「ふむ。一体君がどんな言葉を刻むのか楽しみだ」
フェルディナンドはそう言って、ユストクスとハルトムートとクラリッサに命じて、寮へ移動するために必要になる魔石のブローチの作成に取り掛かり始めた。領主会議に同行する者、領主会議前に寮を整える者など何人分も必要だ。
「アウブのお仕事なのに押し付けてしまって申し訳ございません」
「私はそのために婚約者になったのだ。君は君でなければできないことに専念しなさい」
仕事を引き受けてくれるフェルディナンドに申し訳ない気持ちと、婚約の魔石を完璧に仕上げたいという気持ちが溢れてくる。
……フェルディナンド様がビックリするようなすごい言葉、考えるんだから!
魔石を染め終わると、羊皮紙を手に取る。魔石に刻む文字を決めなければならない。講義の時にヒルシュールは「わたしらしく、かつ、相手に喜ばれる言葉」を刻むように言われたけれど、どんな言葉ならばフェルディナンドが喜ぶだろうか。
……「貴方の研究所を建てます」って、わざわざ刻まなくてももう約束してるし、「家族になりましょう」も今更って感じだよね。
「うぐぅ……」
考えても全くいい言葉が出てこない。もう「貴方の光の女神になりたい」くらいのオーソドックスな言葉でいい気がしてきた。
「ローゼマイン様、まだ悩んでいらっしゃるのですか?」
「クラリッサはハルトムートに贈る魔石に何と刻んだのですか?」
「共にわたくし達の女神を崇めましょう、と」
……聞くんじゃなかった。
わたしがガクリと項垂れていると、クラリッサが「他人の言葉など参考になりませんよ」と小さく笑った。反論のしようもない。確かに全く参考にならなかった。
「ローゼマイン様がフェルディナンド様にしてあげたいことでも良いのではありませんか?」
クラリッサにそう言われ、わたしはふっと思いついた言葉を羊皮紙にスティロで書き込む。羊皮紙に書き込む姿が見えたのだろうか。フェルディナンドが近付いて来る。
「できたのか?」
「こっちを見ないでくださいませ。当日まで内緒です」
わたしは羊皮紙を隠して睨むと、フェルディナンドが苦笑しながらわたしが使う調合鍋から距離を取って背を向けた。ユストクスがこちらを見ながらニヤニヤと笑っている顔にパンチしたい。
「お手伝いしましょうか、ローゼマイン様?」
「二年生の講義で行うことですもの。わたくし一人で作ります」
ハルトムートとクラリッサのお手伝いを断り、わたしは調合鍋に魔石を入れて魔力を流していった。わたしもフェルディナンドも全属性なので、特に属性の調整をしなくても良いので早い。
虹色魔石の中に金色で文字が浮かび上がる。
「貴方のマントに刺繍をさせてください」