Ascendence of a Bookworm: I'll Stop at Nothing to Become a Librarian RAW novel - Chapter (76)
閑話 私と旦那様
ギルベルタ商会で旦那様の補佐をしておりますマルクと申します。確か37歳になったばかりですね。この年になると自分の年齢などはっきりとは覚えていないものなのです。
私はギルベルタ商会に先代の頃から仕えておりまして、見習い期間から考えますと、30年もお世話になっています。私がこの店にダルアとして見習いに入った年に旦那様がお生まれになったのですから、月日がたつのは本当に早いものです。
商人や職人の見習いには二種類ありまして、ダルアとダプラと区別されています。簡単に説明しますと、ダルアは店長との雇用契約で、ダプラは将来的に店や業務を任せるための徒弟契約という違いがあります。契約金や契約内容に大きな違いがあるのですが、ここで詳しい説明は必要ないでしょう。
ギルベルタ商会では、基本的に他のお店の子弟をダルアとして預かっています。商人の子供は一定期間、余所の店で修業するのです。この期間は店と子供の親との協議で決められます。3年から4年が多いでしょうか。
視野を広げるため、使われる立場を知るため、甘やかされがちな立場から引き離すため、次代の店長となる者たちとの交友を持つため、色々と理由はありますが、彼らは店と店を繋ぐ架け橋であるのです。
私も元々は雇用期間を終えたら、実家の店へと戻るダルアとして契約しておりました。しかし、父が亡くなり、後を継いだ長兄とは商売に対する姿勢があまりにも違いすぎたため、何度かダルアとして契約更新した後、15歳の成人式を期にダプラとして契約し直したのです。
ダプラの見習い期間は8年。本来ならば、他店でダルアとして修業した後、およそ10歳から12歳くらいの間にダプラとして契約することになります。20歳になった頃には旦那様の代わりに店を任されるようになるのです。
私は契約するのが遅かったため、成人してから8年間が更に修業期間として足されることになりました。
修業期間とは言っても、すでにダルアとして8年も仕事をしており、ギルベルタ商会での仕事を理解しておりました。先代の旦那様の計らいにより、一般的なダプラと違い、見習いとしての給料ではなく、成人雇用者に与えられるのとほぼ同じ金額のお給料をいただいていたので、8年の修業も特に辛いと感じることはありませんでした。ダルアの頃より待遇が良くなったことを喜び、仕事に励む毎日だったのです。
しかし、困ったことに、私がダプラとしての修業期間を終える寸前に、先代がお亡くなりになりました。旦那様は成人したばかりで、まだ店長としては頼りないことこの上ない状態でした。先代と契約していたダルアは、旦那様との契約更新を拒んで店を去る者も少なくありません。
私はまだ修業期間が終わっておりませんでしたので、引き続きギルベルタ商会で働くため、実家に援助を申し入れてみました。ところが、店を継いでいた長兄は援助どころか先代の死を嘲笑い、ギルベルタ商店との縁を切ると宣言したのです。
あの時の怒りをどう表現すればいいでしょうか。実家との決別を決心させ、何が何でもギルベルタ商会と旦那様を守り抜き、見返してやろうと心に誓ったあの瞬間を、私は今でも鮮やかに思い出すことができます。
旦那様にはダプラとしての修業期間が終わった時に、実家に戻るかどうか尋ねられましたが、実家と決別している私に行く場所などありませんし、私をどこより必要としているのがギルベルタ商会でした。
店に残ることを伝えた後、私は旦那様と共に無我夢中で働いて、店を立て直しました。すぐに勢いを取り返し、更に店を大きくしてきました。私が裏で手を回して、店を立て直すために実家を踏み台にしたことも、今となっては時効の話でしょう。
先代の末娘であるコリンナ様はご結婚されましたが、長兄である旦那様はリーゼ様を亡くされた後、結婚そのものに対する興味を失ってしまったようです。私も気付いた時には婚期を逃しておりました。なかなか思うようにはいかないものですね。
仕事が充実しておりますし、店の後継ぎはコリンナ様のお子様と旦那様が決めていらっしゃいますので、今のところ店の存亡にかかわるような大きな問題はない毎日だと言えるでしょう。
さて、本日は大店の店主ばかりが集まる会議のため、旦那様が不在です。そうすると、重要な判断を要する案件が次々と私の元へとやってきます。
「マルクさん、リンシャンの納品が遅れそうだと連絡が入りました」
「今回はレーブの入荷が遅かったので、仕方ありませんね。完成した分を先に納品してもらって、残りはなるべく急ぐよう親方に伝えてもらうように」
「あの、マルクさん。ブロン男爵令嬢からコリンナ様への依頼が届きました」
「あの方が夏に依頼されるのは珍しいですね。お急ぎでしょう。すぐにコリンナ様に届けてください」
普段より少々忙しい時間を過ごしておりますと、旦那様がマインを抱えてお戻りになられました。
「マルク、話がある。来い!」
旦那様はずんずんと奥へと向かっていきます。目を輝かせ、やる気に溢れた旦那さまと困り果てたような顔のマインとぜいぜいと息を切らせながら二人を追いかけてきたルッツを見て、またもや無理難題が降りかかってくる予感がいたしました。
リンシャンを作るための工房準備に原料の仕入れ、職人の確保に販路の開拓と奔走したり、植物紙を作るマインとルッツのために道具の材料を求めて街中を歩き回ったり、羊皮紙協会との軋轢の緩和に尽力したり、植物紙の工房の開設を丸投げされたり……。思い返せば、およそ一年の間にかなり無茶を押しつけられた気がいたします。今度は一体何でしょうか。
「マルク、菓子職人の育成をするぞ! 準備しろ!」
菓子職人の育成? 今までの業務と全く関係のなさそうな言葉が飛び出してきました。とても嫌な予感がいたします。この唐突さはマインが関わっていると考えておいて間違いなさそうです。
旦那様の様子を伺えば、やる気に満ちたギラギラした目で、色々な木札を取り出しては、何やら確認しておられます。旦那様がお元気そうで何よりですが、周りへの影響が大変なことになりそうです。
「菓子職人とおっしゃいますが、一体何を作らせるおつもりですか?」
「マインに聞け」
あぁ、やはりマインですか。どうやら、また難題が持ち上がってきたようです。
元々ギルベルタ商会は旦那様の曾祖母であるギルベルタ様の服飾工房から始まった店で、妻が工房で服を作り、夫が売るという形で基本的に発展してまいりました。店長は常に夫の名前で登録されていますが、実質店を担っているのは女系というのが実情です。
街の富裕層を相手に商売してきたギルベルタ商会ですが、旦那様の母君のデザインが下級貴族の目に留まったところから、少しずつ貴族社会にも切りこんでいくことができるようになりました。貴族階級と商いをするようになったのは、ここ10年ほどのこと。つい最近のことなのでございます。
コリンナ様のセンスも貴族社会では一定の評価を得ているようで、ギルベルタ商会は安泰と申せましょう。
つまり、ギルベルタ商会が取り扱っているのは、服飾品はもとより、装飾品、美容関係に関するものなのです。
マインが持ち込んだリンシャンは美容関係の品物としては、かなり良い商品となりましたし、これから先コリンナ様の工房で作ることになっている髪飾りもすでに装飾品として街では一定の人気を得ております。
糸の品質やデザインを考慮すれば、貴族の奥方や令嬢にも受け入れられるだろうとコリンナ様は良い権利を手に入れたと心から喜んでいます。
しかし、一方でマインが持ち込んだ製紙業は、ギルベルタ商会にとって少し横道に逸れた業務ですし、菓子職人を育成するというのも、今までの業務とはかなり毛色の違う仕事となります。
旦那様は一体何を考えておられるのでしょうか。
「だーかーらっ! 砂糖がなかったら無理だって何度も言ってるのに!」
「砂糖がなくてもパンは焼ける。オーブンを使う練習が先なんだろう?」
「でも、街の中にパン工房はすでにいくつもあって、パン職人の協会があるんだから、また既得権益とぶつかるじゃないですか! ただの練習で! しかも、ベンノさんはパン工房に職人の引き抜きをかけるつもりなんでしょ!?」
「既得権益が怖くて、新しい事業ができるか!」
椅子に座った旦那様と、椅子の上で膝立ちをして視線の高さを合わせたマインのやり取りは、旦那様とリーゼ様のやり取りを彷彿とさせます。喧嘩するほど仲が良いと言いますか、気軽に言い合いができるくらい信頼感が育っていると言いますか。
商売のことについてマインと喧々諤々と言い合っている時が旦那様は一番生き生きしているような気さえいたします。口の達者なマインをやりこめるのはリーゼ様に口喧嘩で勝った時のような爽快感があるのでしょう。リーゼ様には負けっぱなしでしたから。
「ルッツ、あの二人は後回しにして、先に前後の状況を説明いただいてもよろしいでしょうか? 何故、旦那様はいきなり菓子職人を育成するなどと言いだしたのでしょう?」
「あ、はい」
二人の言い争いを遠巻きに見ていたルッツがハッとしたように姿勢を正して、説明を始めてくれました。マインに振り回され慣れているルッツは意識の切り替えも早いのです。素直で何事に関しても良く吸収するし、真面目で忍耐強く、得難い人材だと言えるでしょう。元々頭も良いようで、順序良く本日の出来事を話してくれます。
ルッツの説明によると、商業ギルドでの会議の後、カトルカールの試食会があり、そこでギルド長の料理人と一戦交える展開となったようです。菓子職人がいないなら育てればいいだろうと旦那様が啖呵を切ったという話でした。
あの負けず嫌いの旦那様に我慢しろというのが無理な話でございますね。
「マインが言うには、お菓子を作るためにはオーブンを自在に使える職人が必要らしいです。あとは、レシピの研究やおいしくするために努力を厭わない研究熱心な人。旦那様はすでにオーブンの使い方をマスターしているパン工房から引き抜くことを考えているようだけど、パン以外の物を作るんだから、新しいものを作っていきたい熱意がある人じゃないとうまくいかないかもしれないって……」
ルッツから事情を聞いたことでようやく旦那様とマインの言い争いの中心が見えてきました。
「そのお菓子とやらは貴族に売れると旦那様が判断されたのですね?」
「はい。でも……」
「ルッツ、でも、は厳禁です。旦那様がやる気になった以上、やるしかないでしょう」
これは私が旦那様贔屓なだけかもしれませんが、旦那様は天性の商売勘を持っていらっしゃいます。これは売れる、と決めて、やる気になった旦那様が全力で取り組んだものが当たらなかったことがないのです。
パンパンと手を叩き、旦那様とマインの注意をこちらに向けました。
「旦那様、菓子職人を育成するとおっしゃいますが、それは一体どのくらいの期間で育つものなのですか? 採算は採れるのでしょうか?」
「……採れる。ある程度オーブンを使える奴をパン工房から引き抜いて、教師役にするつもりだから、それほど時間はかからないだろう」
私の質問に旦那様は静かに頷きます。その目は自信に満ちていて、失敗することなど欠片も考えていない顔でした。
「砂糖がなければ、お菓子が作れないとマインが言っていましたが、砂糖について目途は立っているのですか?」
「少し疎遠になっている親戚連中全てに声をかければ、多少の無理で手に入る。確かエーミール叔父は中央の方に少し伝手があっただろう? あとはオットーの昔馴染みの旅商人に声をかけてもらっている。職人にはしばらくの間パンを焼かせて、オーブンに慣れさせればいい」
「ふむ。全く目途が立っていないわけでもないのですね」
基本的に勝算もなく勝負を仕掛けることがないので、旦那様はマインから最初にお菓子の話を聞いた時から砂糖を手に入れる経路については検討されていたようです。
工房の買い取りやオーブンの手配は手続きが複雑で面倒ですが、それほど大変なことではありません。やはり、一番の問題は既得権益との軋轢や交渉でしょう。おそらく、またギルド長が文句を言ってくるに違いありません。
植物紙の流通について、羊皮紙協会との間で起こった揉め事を思い返して軽く目を細めました。本業ではない製紙業や菓子職人の育成について揉めるのは、業務上とても困ることです。
「マイン、以前に羊皮紙協会と紙の用途で利益を分けたように、既存のパン職人との軋轢を少なくする案はありませんか?」
「へ!? わたしが考えるんですか!?」
正面突破というか、基本的に譲ろうとしない旦那様よりは、争い事が苦手で避けて通ろうとするマインの方が妥協案を考えるのは向いています。何より、私にとっても菓子職人の育成は専門外のことで、妥協点を見出すだけの知識がないのです。
「この中で菓子職人について一番詳しいのはマインでしょう? 落とし所を探るのは旦那様よりマインの方が上手いですから、ぜひ、どちらにとっても利益になるような意見がないかお伺いさせてください」
洗礼式を終えたばかりの幼子に無茶な要求をしていることはわかっていますが、旦那様と同じように、私もマインを普通の子供だとは考えておりません。
「ぅえ!? えーと、落とし所? 両方に利益って言われても、うーん……」
「そうですね……。今までのパンとは違うパンであるとか、パン以外でオーブンを使うものであるとか……」
考え込むマインに、紙の時の落とし所をパンに置き変えて提案してみました。私にはさっぱり思い浮かぶものがありませんが、妙なものを次々と持ちこむマインならば、思い当たることがあるのではないかと思ったのです。
私の予想は正しかったようで、マインはさらりと紺色の髪を揺らしながら私を振り返ると、金色の瞳を輝かせて、左手を真っ直ぐ上に上げました。
「ありますっ! わたし、『イタリアン』が食べたいです!」
「……イタリアン?」
聞き慣れない言葉が出てきました。旦那様もルッツも首を傾げていますが、マインは全く構わず、口を動かします。
「砂糖がなくてもオーブンを使う料理なら練習になりますよね?『ピッツァ』『グラタン』『ラザニア』辺りなら大丈夫です。……あ、それから、それから、肉のオーブン焼きや『キッシュ』『パイ』もできそうですね。うわぁ、楽しみ」
うきうきと弾んだ声でマインが次々と名前を上げていくのはいいのですが、肉のオーブン焼きが入っている以上、お菓子の名前が並んでいるとは思えません。
目をキラキラさせて、今にもよだれを垂らしそうなうっとりとした表情のマインを見ていたルッツは、私の隣で小さく呻いて頭を抱えてしまいました。
「ダメだ。マインが暴走し始めた」
「ルッツ?」
「自分が欲しいものを頭に思い描いているんです。目標を決めたら、まっしぐらだから……旦那様、勝てるかなぁ?」
ルッツの呻くような声から、普段からマインの暴走に振り回されている様子が容易に思い浮かべられます。
マインと旦那様はどうやら似た者同士のようです。目標を決めたらまっしぐら。おそらく周りの苦労なんて目に入っていないでしょう。
「ベンノさん、もうお菓子なんてやめて、『レストラン』……えっと、ちょっと高級な食事処にしちゃえばいいと思います」
「こら、待て! 勝手にやめるな!」
「砂糖があれば、『デザート』にお菓子も作れます。大丈夫。『イタリアン』にしましょう」
「何が大丈夫だ!?」
ルッツの心配通り、旦那様の方が劣勢のようです。
マインに振り回されるルッツの状況が、旦那様に振り回される自分の境遇と似ている気がして、私はそっと心の涙を拭いました。
「ルッツ、強い心を育てなさい。ただ振り回されるのではなく、暴走する先を予測して、振り回される先へ事前に回っておくことができれば、心労が激減します」
「マルクさん?」
「振り回され方にも多少のコツがあるのです」
私を尊敬するように緑の目を輝かせたルッツの純粋さを見て、私は心に誓いました。この二人のどんな無茶振りにも耐えられるよう、ルッツには私がしっかりと教育しましょう。
私達がひっそりとお互いの苦労を感じ合っている間も、マインの口は止まりません。旦那様を相手に次々に工房ではなく食事処にする利点を並べていきます。
「だって、お菓子だけじゃなく、料理もできた方が潰しは効きますよ? お客さんに提供すれば練習が無駄になることもなく、職人にやる気も出るじゃないですか。お菓子が作れるようになれば、貴族に出す前にお店でお客さんに試食してもらったり、意見をもらったりして改良もできますよ」
本当に子供とは思えない説得力と言い回しに感心していると、ルッツが困ったように眉を下げて私を見上げてきました。
「オレ、なんか……マインの熱のこもった言葉を聞いていると、何となくマインの言うとおりなのかもしれないと思ってしまうんです」
「客を買う気にさせるというのは、商売人にとって得難い才能ですね」
ふむ、と私が頷くと、ルッツは肩を竦めて小さく笑いました。
「……マインの場合、自分が欲しいもの以外のためには全く働かない才能だけど」
「どのように伝えれば相手がその気になるのか、よく観察しなさい。周り全てがお手本ですよ」
相手をその気にさせる説得力は大変魅力のある才能ですが、実際に店を運営することになるので、マインの熱意に引きずられて決めるわけにはいきません。
「それより、ルッツ。マインは大丈夫ですか? 興奮しすぎではないかと思うのですが」
「わぁ! マイン! ちょっと落ち着け!」
ルッツの声に口を止めたマインは、そのままへにょりとテーブルに顔を伏せてしまいました。やはり、興奮しすぎたようです。
それでも、まだ言い足りないのか、マインはテーブルに伏せたまま、もごもごと口を動かし続けます。
「ただのお金持ちと貴族の食事には雲泥の差があるんですよ。おいしい料理があれば、ちょっとくらい高くても食べに来る人はいますって、絶対」
「雲泥の差、だと? お前、どこで貴族の食事なんか……ギルド長か」
「ほーら、ベンノさんも興味持ったでしょ? ホントに違うんです。でも、勝ち目はありますよ。わたし、料理に関してはイルゼさんにまだ何も情報を渡してませんから」
うふふん、と笑うマインの言葉に、旦那様の心が大きく傾いたのがわかりましたが、この場で、勢いのまま決定してしまうわけにはいきません。一度冷静になって、マインの提案をよく吟味してみなければならないでしょう。物事には利点があれば、必ず欠点もあるのですから。
「マインの言うとおり、本当にお菓子職人を育成する必要があるか、じっくりと考えてみた方が良さそうですね。素敵な提案をありがとうございます、マイン。本当に助かりました。今日は帰って、体調を整えた方がいいのではありませんか? 旦那様に振り回されて、疲れたでしょう?」
「うぅ、マルクさんの優しさが心に染みます」
テーブルに突っ伏したままのマインを送るように、とルッツに指示を出し、私は二人を店から出しました。
子供達を見送った後、奥の部屋に戻ると、旦那様が執務机に先程のマインと同じような体勢で伏しています。
「旦那様?」
「ったく、マインには本当に驚かされるな」
「そうですね。まさかパン協会との摩擦を避けるための妥協案があのように方向を変えるとは予想外でした」
ぐしゃりと髪を掻きながら、旦那様がゆっくりと身体を起こしました。赤褐色の瞳を鋭く光らせて、私を見据えます。
「……マルク、どう思う?」
「菓子職人の育成よりは食事処の方が実現は簡単です。食事処ならば、パン協会との軋轢が生まれるはずもありません。むしろ、考えなければならないのは飲食店協会の方ですが、正当に手順を踏めば、店を出す事自体は難しくないでしょう」
「だよな」
マインが提案したのは、高級志向の食事処です。大店が安い市場を荒らしに行くわけではないので、飲食店協会からも目立った反対はないと思われます。
「食事処は悪くはない。料理女を雇っている富裕層は多いけれど、料理女は基本的に平民だ。使える金額が多くなっても、食事の量が多くなるだけで作る料理自体には、それほどの違いはない。貴族の食事は腕の良い料理人が貴族の家でしか作らないレシピを使うから、そもそも味が違うし、品数が違う。多少値段が高くても素材と味に気を配れば、客はつくだろう」
私自身は貴族の料理を口にしたことがないので、よくわかりませんが、旦那様は片手で数えられる程度ですが、貴族の食事に招かれたことがあります。その旦那様が言うのですから、貴族と富豪層の食事には大きな違いがあるのでしょう。
「だが、貴族のレシピをマインが知っているのは何故だ? アレがギルド長の家にいたのはほんの数日だ。何種類もの料理のレシピを何故知っている? オーブンを使う料理が何故あんなに出てくるんだ?」
「マインですから」
旦那様の口から出てくる疑問に私は溜息で答えました。旦那様は不満そうですが、それ以外に答えなどありません。
「マルク、お前な……」
「余計な事を考えるのは時間の無駄です。マインが何者だろうが、商人として利用できるなら問題ないとリンシャンの時に言ったのは旦那様でしょう? 今更考えたところで何も状況は変わりません。むしろ、マインが余所へ貴重な情報を漏らさないようにする方策を考える方がよほど建設的ですよ」
私がやれやれとこれ見よがしに肩を竦めて見せると、旦那様はバツが悪そうに視線を逸らした後、わざとらしく話を逸らそうとポンと手を打ちました。
「あぁ、それなんだが……ルッツを俺の養子にしようと思うんだが、マルク、お前はどう思う?」
「考え無しに思いつきを口にするところがマインに影響を受けているのではないかと思います」
「あぁん!? 失敬な! あんな考え無しと一緒にするな!」
旦那様は凄んで怒鳴りましたが、ルッツを養子にするなどという提案が考え無しでなければ一体何だというのでしょうか。
店を預かる旦那様が養子をとって養育すれば、周囲の目は跡取りとみなすでしょう。コリンナ様のお子様が生まれる前にそのような諍いの種をまかれては困ります。
「では、コリンナ様との無用な軋轢を生みそうな提案に至った理由について、旦那様の熟考した意見をお聞かせ願えますか?」
旦那様は軽く溜息を吐いて、「いちいち嫌味ったらしい」と文句を言いながらも、ルッツを養子にしたいと考えた理由を語り始めました。
「まず、マインとの繋がりを保つためにルッツの確保は絶対に必要だ。それはわかるだろう?」
「そうですね」
マイン工房で作った物はルッツを通して売るという契約魔術が交わされている以上、ルッツの確保が必要な事は私にもわかります。
そして、今、ルッツの立場はダルアであるため、雇用期間が終われば、本人の意思でどこにでも行くことができます。それを旦那様は阻止したいと考えているのでしょう。
「ダプラにすることも考えたが、どうせ店を任せることを考えるなら養子にして、強く意見できる俺の立場を作っておいた方が良いんじゃないかと思ってな」
「ダプラで十分かと思いますが? どうせなら、コリンナ様のお子様が女の子だった時には結婚相手にしてしまえばいいのではないでしょうか?」
養子として育てるよりは、ダプラとして修業させ、婿入りさせる方が周りの反感も少ないでしょう。
しかし、旦那様は肩を竦めてパタパタと手を振りました。
「ルッツはダメだ。マインしか見えていない。それに、ルッツの夢は元々旅商人で、この街から出る機会を伺っているんだ。だからこそ、この店に縛り付けておくのは難しいんじゃないかと俺は思っている」
「……旅商人ですか? それはまた……」
街で生まれ育った者にしてはずいぶんと珍しい夢に私が驚いていると、旦那様が軽く肩を竦めて唇の端を上げました。
「抑圧された生活環境が一番の理由だと思っているが、マインという鎖がなくなれば、ルッツがここにいる意味もなくなる。マインは近い将来、間違いなくどこかの貴族に取り込まれる。この街の貴族か、余所の貴族に丸めこまれるか、はたまた、中央から出張ってくる貴族がいるか……。今の段階ではわからないが、マインがこの街を出る可能性は高い」
今は旦那様の庇護下にある見習いで、知識も何もありません。しかし、成人し、色々な知識を身に付ければ、ルッツは自分の価値に気付くでしょう。その時にマインがこの街から離れて、契約魔術に意味がなくなっていれば、余所の街の店に行くことも考えるでしょう。
「マインがこの街から動いた時に、ルッツを連れて動ける状態にしておきたいと思っている」
「何故、旦那様がそこまで?」
私が少しばかり目を細めると、旦那様は少し困ったようにクッと笑いました。
「ギルベルタ商会の後継ぎはコリンナで、俺は中継ぎだ。マインは本を作りたいと言っているが、本作りはウチの店とは方向が違う。すぐにではないが、店をコリンナとオットーに任せて、俺は独立して別の店を立ちあげても良いんじゃねぇかと思ったんだ」
ギルベルタ商会は女系の店なので、コリンナ様とオットー様が店を守っていくのが本来の形なので、旦那様の言葉に間違いはありません。
それでも、独立をほのめかすのとルッツに対する行動が私の中で上手く繋がらず、私が旦那様を見ていると、旦那様は軽く溜息を吐いた後、「マルクに隠し事はできなんな」と呟き、懐かしそうな笑みを浮かべました。
「最近、マインやルッツを見ていると、昔の自分を思い出すんだ。親父が生きていて、何不自由なく暮らしていた頃の……リーゼと一緒にいた自分を、だ」
ルッツとマインが二人で転げまわっている姿は、旦那様とリーゼ様が笑っていらした頃を彷彿とさせるので、私にも少し旦那様の気持ちはわかります。軽く目を伏せれば、店の裏で大人の真似事をしたり、こそこそと悪戯を企んだりしているのを横目で見ていた昔の情景が蘇ります。
「あの二人を見ていて思い出した。親父が死んでから店と家族を守ることに精一杯ですっかり忘れていた俺の夢のことまで……」
「世界中に影響力を持つような商人になりたいというものでしたね」
私が指摘すると、旦那様はぎょっとしたように目を見開いて、面白いほどに狼狽して私を指差しました。
「な、なんでお前が覚えているんだ!?」
「旦那様のことですから」
甘く見ないでいただきたい。私は旦那様を生まれた時から知っているのです。
私が胸を張ると、旦那様は頭を抱えて小さく呻きました。幼い頃を詳細に知っている相手は実にやりにくいですよね。わかります。
しばらく頭を抱えて唸っていた旦那様は恥ずかしさから脱却したようで、コホンと一度咳払いした。
「マインの頭にある物を次々と実現していけば、確実に俺の夢は叶うと思わないか?」
「……壮大すぎますが、マインの言うものを全て実現できれば、確かに世界中に影響力を持つでしょうね」
「手始めに、弟妹達がいる街に向かって、そこで植物紙の工房を作って、植物紙を広げてくる。……マルク、お前はどうする?」
胸の前で指を組んで、椅子の背もたれに体重を預け、少しばかり首を傾げるようにして、旦那様が私を見上げました。じっと答えを待っている旦那様の姿に思わず吹き出しそうになりました。
先代が亡くなり、私の修業期間が終わった時に店を移るのかどうか聞いてきた時と同じ恰好、同じ表情なのですから。
「私よりテオの方がオットー様と上手くやるでしょうからね。私は旦那様について行きますよ。ルッツの教育係も必要でしょう?」
「……そうか」
ホッとしたように息を吐く旦那様の姿に、私は懐かしく目を細めました。
家族と店を守ると頑なに決心し、自分の夢など忘れ去っていた旦那様を動かし、植物紙協会を作らせ、今また新しい事業へと旦那様を押し出そうとするマインは、オットー様の言うように、旦那様にとって長い冬に終わりをもたらす水の女神なのでしょう。
お陰で私も自分の夢を思い出すことができました。
マインが水の女神ならば、私は旦那様にとって、これから先も成長を助ける炎の神でありたいと思うのです。