Kanna no Kanna RAW novel - chapter (60)
第五十五話 なぜか食べたくなる卵かけ御飯
その日のうちに訪れたのは、以前にツノウサギの狩猟をした森だ。その後も幾度となく足を運んでいるので、屯所に駐在している兵士とは顔見知りになっていた。
「お、カンナ君。今日も狩りかい?」
「ええ。ベニハネ鳥の卵を取りに来ました」
「あれかぁ。あれは目玉焼きにしても絶品だからなあ。今の仕事に不満はないが、魔獣食材を自由にできる君たち冒険者がたまに羨ましくなるね」
「ははは。んで、通っても良いですか?」
「すまないが規則なので依頼の受註証の確認だけはさせてくれ。顔見知りだからといって素通りは流石に許されなくてね」
「いえいえ、当然です。どうぞ」
腰の携帯鞄に丸めて仕舞っていた受註証を駐在の兵士さんに渡した。内容を確認する兵士さんは目を通すと小さく驚く。依頼状にはギルドが発行した証の印と依頼の内容、冒険者のランクが記載されている。
「驚いたな。つい先日にEになったばかりと聞いていたが、もうDランクか」
「や、なんか成り行きで上がってました」
「そんな他人事みたいに」
愛想笑いを浮かべながら返却された依頼証を受け取り、兵士さんに一旦の別れを告げて森の中に入った。
ベニハネ鳥は、胴体は灰色、翼は赤い羽根で覆われた魔獣だ。単体の強さはEランクの最低ライン。それがDランクの依頼として発行されているのはその生息域が関係している。
この森の正式名称は『ユーリィ大森林』と呼ばれる広大な森だ。大森林の表層にはEランクの魔獣が出現する比較的安全な地域だが、中心に進むにつれて魔獣の危険度が跳ね上がる。何の知識も実力も持たない者が入り込むには余りに危険地域なのである。
実はベニハネ鳥自体は大森林の表層でもよく見かけられる。だが、食材としては『不味い』部類に入り、そうでなくても加工して扱うには不適切な魔獣だ。依頼を出すほどに求められてはいない。
が、その『卵』となると評価が一転、高級食材の仲間入りを果たすのだ。
卵を採るのならば巣を探す必要が出てくるが、ベニハネ鳥はDランクの魔獣が生息する、森林表層から一歩深みに進んだ地域に巣を作る。よって、この依頼のランクは魔獣の強さよりも、目的の卵に辿り着くまでの難易度なのだ。
「目玉焼きにするか卵焼きにするか」
捕らぬ狸ならぬ卵の黄身算用…………違うか。新たなる美味食材を求め、だが油断はせずに森の奥を目指す。
そうだ、卵かけご飯も…………しまった、米がない。そういえば最近白米を食ってないな。由緒正しき日本人なので、割と真剣な問題だ。や、近頃は魔獣食材のおかげで舌は肥えてきたが、やはり白米の味が恋しくなってくる。クロエに聞いてヒノイズルに米がないか確認せねば。あれだけ日本文化に似ているのだから米ぐらい置いてあるだろう。むしろ置いてなければ俺はヒノイズルは日本文化とは隔絶した文明だと判断するね。味噌汁があって米がないなどあり得ない。
何のかんのと思考している間に、どうやら表層から一歩深みに入り込んだようだ。Dランクの魔獣が生息する地域ーー言うなれば第二層か。僅かながら気配に鋭さが増した。ここからは俺にとって未知の領域、気を引き締めていこう。
周囲に気を配りながら森の中を進む。ベニハネ鳥は特定種類の樹木の上に巣を作る習性がある。言い換えれば、その特定種類の樹木さえ見つけられるのならば発見はたやすい。
ベニハネ鳥が巣を作る木は、魔獣図鑑と依頼を受註するときにシナディさんに確認している。幹に特徴があるらしく、実物を見ればほかの樹木とは容易に判断が付く。
「…………こいつか?」
第二層に入り込んで二十分ほどだ。
他の樹木よりも赤みが強く、肌触りもツルツルした幹。教わった樹木に間違いないな。上を見上げれば、地上五メートルほどの位置の幹と幹の間に木の枝が集められて作られた鳥の巣を発見だ。
ベニハネ鳥がこの木に巣を作るのは、卵を求めて襲いかかる他の魔獣から巣を守るためだ。この木の表面は、指で擦れば音がでるほどによく滑る。魔獣は木を登ろうにも、このツルツル感のせいでまともに登ることができないのだ。そして、爪を立てて登ろうとしても障害がまだ残る。幹の赤みは樹液の色であり、指の第一関節ぐらいの深さまで抉られるとそれが滲み出す。この樹液が曲者で、魔獣が嫌う臭いを発するのだ。表面のツルツルと内面の樹液により、ベニハネ鳥は安心して巣を作り産卵ができるのだ。
もちろん、魔獣除けの天然防犯装置は人間相手にも同じく。キツい臭いは我慢すれば何とかなるにしろ、表面のツルツルは人が登るにも大きな障害となる。冒険者が卵を採るには木に登るための策が必要になってくる。
他の樹木に登って飛び移る。石を投げて巣を落とす。枝にロープを引っかけて登る、などが一般的な方法らしいが、もちろん俺は俺らしい方法を取る。
「ほいっとな」
木の根本に立つと、しゃがんで地面に手をおく。軽く念じれば、足下が瞬時に凍り付き、そのまま『バキバキ』と音を立てて氷の円柱が俺を乗せたまま天へと伸びる。氷式自前のエレベーターだな。巣のある高さまで到達すれば、目的の卵を無事に発見した。
卵はそのまま狩猟袋に放り込まず、ギルドから支給された専用の保存箱に納める。スーパーの売場でよく見かけるプラスチック製の卵パックに近い形だな。激しい動きでも割れないように卵を納めるくぼみの周囲には、衝撃を吸収するクッションが敷き詰められ、その外側に木製の箱がくっついている感じだ。
今回の狩猟で必要なのは六つだ。今発見した巣には卵が四つあったので、そのうち二つだけを確保する。全部を取らないのは、そうするとベニハネ鳥が二度と卵を生まなくなる可能性があるかららしい。ギルドでも、巣の卵を取り付くしてはいけないと注意している。
俺はそれから幾つかの木を回り、順調に卵を確保していく。結果、合計で八個の卵をケースの中に納められた。もちろん、あまりの二つは俺が自分で食べる分だ。
ケースをしっかり閉めて軽く振り、中で音がしないかを確認。問題がなさそうなので狩猟袋の中に放り込んだ。
これであとはギルドで狩猟物を納品すれば依頼は完了だ。食堂の従業員さんの話では、ベニハネ鳥の卵料理はどのような調理法でも短時間で済むそうだ。とすれば、遅めの昼食か晩飯に卵料理が食べられる。
太陽はもう真昼の頃を過ぎているので、遅めの昼食にするか。それとも軽めの昼食にして晩ご飯を楽しみにするか迷うところだ。
なんて事を考えていたのだが、そんな気楽な思考は次の瞬間には霧散していた。
「…………ん?」
ヘドロのように暗い気配が肌に絡みつく。
草がガサリと揺れれば、その奥から見覚えのある人物が姿を現す。
ーーーーバンッ。
どこからか聞き慣れない破裂音に数瞬遅れて。
俺の胸当てを『球体の礫』が貫通していた。
衝撃に吹き飛ばされた俺はそのまま地面を滑り、付近の木の根本に激突したのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
ルキス・アーベルンは、大いに焦っていた。
一ヶ月前ほどまで、彼は大きな野望を抱いていた。
貴族の次男として生まれたものの、彼に公爵家を継ぐ可能性は低い。だいたいどこの家でも同じだが、貴族の次男以降とは長男が何かしらの問題で家を継承できなかった場合の予備軍でしかない。次男でありながら兄を大きく超越した才能を有しているなら下克上もあり得るし、またそれに及ばずとも補佐として兄の手助けをする者もいるにはいるので全てではないが。
だが、ルキスは頭は悪くなかったが、民を省みない傲慢な考え方が父や兄に認められず、領地の経営には一切触れることができなかった。せいぜい、地位の権力を笠に着て領内で偉ぶる程度が限度。そして領民からの評判の悪さがやがては父の目に留まり、ある程度の金を渡されて半ば追放気味に領地を追いやられた(ある程度、とは言うが平民なら大金である)。
幸いにも武に関しては天才的な能力を秘めていた彼は、己の才覚のみで成り上がろうと冒険者の道を選んだ。登録の際には少々のトラブルはあったが、どうにか無事にEランクの冒険者になることができた。
いよいよ自分の栄光が始まるのだと、彼は思っていた。
ところが、である。
Eランクの一番最初に受けた依頼に、念のために護衛を雇った。こんなところで躓いてはいられない。高貴なる出自である自分に万が一があってはならないのだ。
その中に黒い髪の美しい獣人が目に留まった。登録試験の時、遅れてやってきた受験者の付き添いとして同行していた女性だ。黒い髪と狼の耳から彼女が黒狼族だとすぐに判明した。
黒狼族は遠くの辺境国に住まう獣人の一族。他の獣人族を凌駕する身体能力と、主には絶対服従の忠誠心を持っているとされ、一部貴族の中には黒狼の配下を持つだけでも名君に値するとまで言われている。
いずれは冒険者として名を上げる予定だ。黒狼の配下を持つことができれば箔が付く。そう思った彼は依頼が終わり次第、黒狼族の女性に自らの配下になる提案を持ちかけた。
だが、返ってきた返事は罵倒にも等しき拒絶。公爵家の次男である己の提案を、侮辱を混ぜて跳ね返したのだ。いかに黒狼の者とはいえ、公爵家の人間に対して余りにも不遜だ。
しかも、遅れてやってきた女の仲間も加わり、そろって小馬鹿にしてくる始末。頭に血が上り過ぎてその後の記憶が曖昧だ。後頭部がどうしてか痛んだが、気が付けばギルドの一室で寝込んでいた。
己を侮辱した下手人二人をどうにか刑に処したかったが、ギルドの中は治外法権であり、裁量はギルドマスターに委ねられている。あの元Sランク冒険者がトップなだけあり、公爵家の威光も届きにくい。
しかし、ギルドマスターは話が分かる人物であった。公爵家の一員たる自分の意志を酌み、名誉を懸けた決闘を取り付けることができた。
チャンスだった。己の力を示すことにより、黒狼の者に主に相応しき自分の力を認めさせ、もう一人の下手人には高貴なる者の血筋とはどのような力を持っているかを知らしめるのだ。
相手はEランクになりたての素人に、Cランクが一人。対してこちらはCランクの護衛者二人にC相当の実力を持った己だ。負ける道理がない。『正々堂々真正面』から粉砕し、身の程を教えてやる。
もちろん、実力だけではなく財力の面でも格差を示す必要がある。決闘の承諾を頂いた直後に町の防具屋に赴き、護衛者二人の装備を鉄製からミスリル合金製の鎧に買い換える。流石にミスリル合金の鎧ともなると所持金は足りず、金融業から『借金』をしてしまった。一個人が持つには『大金』ではあるが、『公爵家の力』を持ってすれば『小遣い程度』の金額だ。
万全の態勢を整え、いざ決闘に赴く。
ーーーーそこから先は思い出したくもなかった。
決闘が始まり、戦況が膠着したのは序盤のみ。下手人の片割れ、白髪の男は卑怯な手を使い護衛の一人を倒してしまう。こちらの異議を認められずに仕切り直し。『義憤に駆られる』彼はこの手で白髪の男を打ち倒そうとするも、罵詈雑言を並べてこちらを嘲笑い、またも卑怯な手を持ってして己を敗北に追いやる。
こんなはずではなかった。己の実力を十全に発揮できていたのならば歯牙にも掛けぬ下民だった。あんな結果は無効であるべきだ。しかし、その申し出を立会人となっていたギルドマスターやAランク冒険者は取り合わず、敗北の烙印は動かぬ称号となった。
…………話はそれだけでは終わらなかった。
決闘から数日後。敗北のショックから立ち直った彼を待ち受けていた事実は三つだ。
一つ。長期の契約で雇っていたはずの護衛が、その契約を破棄したいと申し出たのだ。これ以上彼について行けば、冒険者としての経歴に大きな傷が付くと言い出したのだ。公爵家次男に対してなんと無礼な。彼はその場で護衛の冒険者二人を解雇、契約の違約金も『何も』受け取らずに追い払った。
二つ。決闘の際に用意した『ミスリル合金』の鎧の代金を払う際に利用した金融業者からの催促だ。この時ばかりは彼も「しまった」と後悔した。追い払った際に元護衛たちはミスリル合金の鎧を着たままだ。その返却も申し出ていたのに、怒り任せに怒鳴って追い返してしまった。こうなってしまえば鎧の所有権は彼らにある。すぐさまドラクニルを出るとも言っていたし、後を追って取り返すこともできない。
そして三つ目。
取り立てにきた金融業者を一度追い返し、彼は実家に手紙を送った。内容は購入したミスリル合金の鎧二着分の立て替え。
だが、二日後に返ってきたのは金一封ではなく『離縁状』だった。
…………頭が真っ白になった。
何度も何度も何度も読み返しても『離縁状』の内容は『離縁状』に他なら無かった。立て替えの催促状よりも早くに、リーディアルのしたためた事の顛末の書状が公爵家に届いており、その内容を読んだ公爵家当主は大激怒。直後に届いた『催促状』を読んだ瞬間に破り捨てたのだ。
結果、手元には元々の金しか無い。
必要なのは鎧二着分の金額締めて金貨百枚。
対して所持金は、金貨二十枚。
思考が停止してから翌日、泊まっていた宿に踏み込んできたのは先日の金融業者ではなく、ある意味冒険者よりも荒事を生業にしている強面の巨漢たちだ。実は彼が借金した金融業者の方に、公爵家当主の方から手紙が届いたのだ。「次男は勘当し、こちらに彼の尻拭いをする義理はない」との内容で。
巨漢の男たちは、借金の踏み倒しを阻止し『いかなる方法』を使ってでも回収する取立屋。金融業者が彼らに依頼を出し、代金の回収を図ったのだ。金貨百枚ともなれば貸す方にとっても間違いなく大金だ。ただでくれてやるほどお人好しではない。ましてや相手は、もはや公爵家の人間ではなく勘当された一般市民だ。遠慮する理由はない。
この時初めて、彼ーールキスは己が『崖っぷち』にいることを自覚した。
正当な取引を経た借金の踏み倒しは立派な犯罪だ。もし期日までに借金を返済しなければ罪に問われる。借金の踏み倒しに対する刑罰は、一定期間の懲役に加え、借金の残額に二割を増した金額を過酷な強制労働によって返済しなければならない。
彼は必死になって借金返済に奔走した。
強制労働で稼げる賃金は非常に安く、金貨一枚を稼ぐのでさえ最低で二月は掛かる。金貨百枚ともなれば考えるのすら恐ろしい。逃亡を図ろうにもドラクニルから外に出る道には借金苦に逃げだそうとする者達を捕らえる為に取立屋が目を光らせており、もし捕まれば刑罰がさらに重さを増す。
まずは日に銀貨三枚の掛かる宿を引き払い、銅貨二枚の安い宿へと移った。まさに天から地へと落ちたかのような環境の急変に大きなストレスを溜めながら、だが無駄な出費ができない状況に涙を呑むしかなかった。装備も得物の二剣以外を全て売り払い借金返済の足しにした。凝った意匠と高価な素材が使われていたことが良かったのか、これで金貨三十枚を稼ぐことができた。
借金の残りは金貨五十枚。
支払期限は一ヶ月後。
死にもの狂いで働いた。
Eランクの仕事など、一件で銀貨二枚。稼げて四枚だ。数をこなさなければ借金返済は夢のまた夢。日に多ければ三件の依頼を受けた。
ルキスにとって幸運だったのは、Eランクの依頼はギルドの窓口で処理が完了する類がほとんどだった事だ。もし仮に平民や公爵未満の貴族らと直接顔を合わせれば、それまで身に染みていた厚顔無恥な態度によって依頼を取り上げられ、最悪の場合は冒険者資格の一時凍結もありえた。
その横柄だった態度も、日々の重労働と借金が返済できなかった場合の刑罰を想像すると徐々に削り取られていった。
依頼を受けているうちに様々な後悔が押し寄せてきた。
なぜたかがEランクの依頼を受けるのに護衛を雇ったのか。なぜ護衛が離れるとき違約金を貰わず、あまつさえ鎧までもくれてやったのか。なぜ黒狼の女を無理矢理配下に加えようとしたのか。
時系列もめちゃくちゃに、ぽつりぽつりと浮かび上がる己の後悔に、行き場のない怒りがわき上がる。だがそれを発散する暇もなく依頼を受け、借金返済の資金を稼いでいく。
そして、どうにか金貨四十枚を稼ぐことができた。
だが借金返済の期日は明日に迫っていた。もはや心身ともに限界に近く、だが残り金貨十枚を稼がなければならない。
得物の二剣は忙しさの余りに手入れを怠り、もはやぼろぼろだ。売ったところで二本合わせて金貨五枚だと質屋には宣言された。つまり、今日中にどうにか金貨五枚を工面しなければならない。
内心に大きな焦りを抱きながら、ルキスはギルドに足を運んだ。だが、この一ヶ月の経験で、たった一日と少しで金貨五枚を稼ぐのはEランクの依頼では不可能に近いと判断できてしまう。どうしても時間が足りないのだ。
はたと気が付けば、いつものEランクの掲示板ではなくDランクの掲示板にまで足を運んでいた。
大きな焦りに混乱してしまっている。一刻も時間が惜しい中、ルキスが即座にEランクの掲示板の方に向かおうとしたその時。
見つけてしまったのだ。
己をこんな状況に追いやった『元凶」が。
胸の内にくすぶっていた感情が、溢れ出しそうになった。だが、恨み辛みに時間を掛けている余裕はない。急いでEランクの依頼を受けられるだけ受けた。明らかに時間が足りないとは分かっていても動かざるを得なかった。
向かう先はユーリィ大森林。この一ヶ月で幾度と無く足を運んだ狩猟場だ。駐屯の兵士に叩きつけるように依頼の受註証を見せると、急いで森の中に入った。だが、焦りが焦りを生んだのか、獲物を前にしても取り逃しが多く、また必要以上に損傷させて納品できない様になってしまったり。
獲物を求めて森の奥へ進んでいく。いつの間にか表層から深い位置へ足を踏み入れてしまったようだ。依頼を受けた得物はEランクの魔獣なのでこの場に用はない。
表層に戻ろうとしたその時。
何の偶然か、あの白髪の男を森の奥に発見したのだ。
先ほどは耐えた筈の薄暗い感情を、今度は押さえきれなかった。おそらく、周囲に人気が無かったのも要因の一つだろう。
どうしてだろうか。息を殺して身を屈め、白髪の元へと忍び寄っていた。己はいったい何をするつもりなのか。何がしたいのか。ただ手元は、携帯袋に伸び、指先がその中に隠し持っていた『銃」に触れていた。
この銃は、幼少の頃に父親から送られた誕生日の品だ。金策苦であってもどうしてかこれだけは手放せなかった。これを売り払ってしまえば、本当の意味で公爵家ーー父親との繋がりが無くなってしまうと思ったからだ。
心臓の鼓動が痛いほどに高鳴り、耳にまで届く。震える指先でゆっくりと銃を引き抜く。射撃の練習は、実家に居たときに何度か試した。この距離なら外さない。
ーーーー外さない?
何を外さないと言うのだろうか。己は何を撃つつもりなのだろうか。
白髪の男がこちらを向いた。茂みの奥に隠れた己は見えないはず。なのに男の視線は一点、自分が隠れた位置を射抜いていた。
ーーーーバンッ!
気が付けば、ルキスは草陰から飛び出し、銃の引き金を引いていた。
白髪の男は、胸当てに小さな穴を空け、衝撃で吹き飛ぶ。
音を立てて地面に転がった白髪の男を目に、ルキスはようやく我に返った。
今自分は何をしたのか、最初は飲み込めなかった。
だが、銃の弾丸が放たれた証拠…………火薬の燃え尽きた臭いと倒れて動かなくなった白髪の男を目に現実が脳に染み込み始めた。
「あ…………あ…………」
銃が手からこぼれ落ちた。
ミスリル合金ならともかく、大量生産品の鉄の胸当て程度の強度と厚みなら、銃の弾丸は易々と貫通しその奥の生身を穿つ。
つまり、ルキスは今、人を撃ち殺したのだ。
ガチガチと歯が、がたがたと肩が震えた。
これまで何体もの魔獣を殺し、そこで得た素材を元に金を稼いできた。多少なりとも命のやりとりには触れてきた。
だが、これまでの人生でたったの一度も人を殺した経験は彼にはなかった。この時この瞬間、彼は生まれて初めて『殺人』を経験したのだ。
心の中には『いずれは」という覚悟はあった。だが、ほとんど我を失い、衝動的に殺人を犯すなどとは思ってもいなかった。
ところが、である。
彼が『殺人」という重みに耐えかねて絶叫を上げるよりも早く。
「ああ、ビックリした」
ーーーー胸の鎧に穴を空けた白髪の男が、何事もなかったかのようにむくりと起きあがったのだった。
数秒間の間を置き。
今度こそルキスは心の底から絶叫を発したのだった。